Pray

君の蕾がひらくように、願いをこめて。
その瞬間(とき)には君の隣に・・・。

Pray

とんとん、と蓮が軽くキョーコの肩を叩く。そして、
「最上さん」
と蓮がキョーコに耳打ちする。
蓮に呼びかけられて、
「はい」
と小さな声でキョーコは返事をした。

キョーコの視線はほんの一瞬だけ周囲に向けられて、つい周囲の様子を本能的に確認してしまう。
公衆の面前でそんなに近くに寄らないで欲しい。
まるで恋人のように優しい声で囁かないで欲しい。

――毎回すごく胸がぎゅっとするんだもの・・・

蓮の声と息が同時に耳に触れて、くすぐったい。
もしこの場が蓮の部屋などで、周りに誰も居なければ、多分遠慮無しに心の底からどきどきしてうろたえているだろう。周りに誰も居ないのに、囁く必要もないけれど・・・・。

要は他の人の視線が気になるのが、困ってしまう一番の原因。出来る限りの平静を保っているつもりで、表情は緊張しているかもしれない。

それならまだいい方で、もしかして自分でも気付かずに頬を染め、恥ずかしくて、少し困ったような表情を浮かべてしまってはいないだろうか。そんな自分を他の人が見たら、どう思うだろう。

まるで、自分は蓮を好きだと世に公言しているかのように見えないだろうか。恋をしているように見えないだろうか。蓮に・・・・。

蓮が毎度囁く時は、ただ普通の話をしているだけ。

個人的な質問とか、プライベートとかの話で、仕事に関係ないからそっと囁いているだけ。

自分には恐ろしく優しく聞こえる声も、彼にとってはただ声をひそめているだけに過ぎない。
にもかかわらず、自分はそれだけで動揺してしまう。

『今日、できればこの後、うちに寄ってほしい。渡したいものがあるんだけど。時間ある?』

と、蓮はキョーコだけが聞こえる程度の声の大きさで、ラフな英語を囁いた。
今は、カインとセツカではないのだから、まるで兄妹かのような親しい英語で囁く必要も、

――ていうか、そもそも、カインとセツカでない時に、囁く必要も無いんじゃないのかしら・・・?

「もちろん大丈夫です」

 と、キョーコは敢えて、日本語で返事をした。あくまで、仕事の話をするような雰囲気で。

英語で返事をしても良かったけれど、何かの拍子に誰かに蓮とキョーコがカインとセツカだったと気付かれてしまうかもしれないし、英語で返せば、本当に内緒話をしているかのように見える。

 それにもちろん、蓮の部屋に寄って欲しいという事を、関係の無い人間に少しでも聞こえたなら、蓮とキョーコがまるで付き合っているかのように勘違いする人間がほとんどに違いない。

 だから敢えて分かりにくいように英語で囁いたのね、と、キョーコは少しだけ蓮の行動を理解できた気がした。

でも。

蓮にラフな英語で囁かれると、一瞬にしてセツカのスイッチが入ってしまう。
大好きな兄さん。心から大事にしてもらえるような錯覚。少し心の奥が締め付けられるような、切なくなるような感覚。

 自分の丸ごと全てを受け止めてもらえると分かっている絶対的な安心感。
身体の中の記憶が、一瞬にして呼び起こされる。

――ダメ、兄さんだと思うと心のガードがきかなくて本当に胸がぎゅっとする・・

『どうした?』
と、蓮が再び英語で囁いた。
考え事にふけっていた自分を心配したようで、顔を覗き込まれて、じっと目を見つめられた。

はっとした。

 今は、セツカでもないし、蓮は兄でもなんでもない。

 急いで頭をセツカの感覚から、現実へと戻そうとする。

 セツカの感覚が体の奥に残ったまま蓮を見ると、強い兄への愛しさに引きずられ、夢と現実との間で気持ちが混同しそうだ。

「あ、いえいえ。すみません、考え事して」

――囁かれるのも困るけれど、覗き込まれるのもそれはそれで視線の逃げ場が無くて困ってしまう・・・・。

ちらちら、と、女性スタッフ関係者――恐らく蓮に深く興味のある人たちだろう――がキョーコを見て見ぬフリをしながら、横目で確認する。

蓮が何を話しているのか、そして、蓮が妙に親しげに話しかけているアレは誰、と・・・。
女にとって、女の視線ほど本能的に敏感になるものは無い。

――もう敦賀さんてば人の気持ちも知らずに・・・

キョーコは女の微妙な視線に「鈍感な」蓮を思って、一つ息を吐いた。

*****

「あ、いえいえ。すみません、考え事して」

そう言われて蓮は続けようと思っていた言葉を心の中にしまいこんだ。

そしてそのまま少しだけ気持ちが心の宙を彷徨う。

だいたいこんな言葉が返ってくる時は、キョーコは自分に言いたい事や本音を隠している。本当は、何か言いたい事があるけれども、それは後輩だから言えないのか、それとも。

気をつかっているフリをして、踏み込んで欲しくないと優しく拒絶されたように感じて、その度に、心を閉ざされた事に少しだけ傷つく事を知らずに。

たまにくすぐったくてほんの少しだけ肩をすぼめる素振りをしたり、少し耳を赤くしたりもするけれども、それでもあくまで返事はそっけなく、先輩と後輩の域を決して脱したりはしない。

近くで囁くことの建前は、非常に男の視線に「鈍感な」キョーコの事を思って、けん制のためにこうして公共の場でわざわざ近寄って話しかけている。

本音、つまりは敦賀蓮ではない素の中の自分は、ただキョーコの中に眠る女の子らしい気持ちを暖めたいと。

いつか恋をする時も、すぐそばに居るのが自分であればいいと思う。そしてそばにいる事に慣れてくれれば嬉しいし、そうして、すぐそばにいる事を、いつか、気付いてくれれば・・・・。

キョーコが過去を受け入れられず、自分で自分に強く反発拒否拒絶する気持ちは、蓮自身にもよく分かる。

受け入れられないのは、自分に関わった誰か他人ではなく、恐らく、過去の時間の中で、今の自分なら到底しないだろうという選択をした、自分自身だという事も。

憎んでいるのは、本当に不破尚だけなのだろうか。もちろん、彼がキョーコの気持ちに甘え、不誠実だった事は確かだけれども。

許せないのは彼でもあるし、自分自身も許してはいないのではないだろうか。

もう恋なんてしない、と、自分にも、他人にも公言し続けて、どこかで自分の心も守ろうとしているような。

蓮自身、キョーコを好きだという気持ちを受け入れるまでに幾度も、自分の心を過去の自分と照らし合わせて、キョーコ自身も、自分の恋心も、拒絶をした。

だからキョーコも過去の自分を自ら許さなければ、新しい恋を受け入れられないだろう事も理解できる。

過去を拒絶すればするほど、体は冷たくなり、思考は停止し、時間が止まる。省みる事と自己否定が異なる事に気付かず、自己否定が過ぎれば、延々と闇と寂しさと不幸しか生まない。

そこから救い出してくれたのはキョーコだった。過去に縛られたままだった心を解きほぐしてくれたのはキョーコだ。未来を生きるために、過去を本当の意味で――過ぎ去った時間――過去にしなければならないと、キョーコが教えてくれた。

だから、自分を許せるようになったし、キョーコを惜しみなく心の底から愛せる。

キョーコが、自分を受け入れるのにかかる時間がどれだけなのかも分からない。一生かかるのかもしれないけれど。

そばに居るのが自分でありたい。見守るのも、心を受け止めるのも、解きほぐすのも、自分でありたい。つらい冬の時期を越そうとしているキョーコの、固く閉じた心の蕾が綺麗に開くように・・・。

――自分を許せるのは、自分しかいないけれど、その助けが必要ならいつでも手を差し伸べてあげられる人間が一人いても悪くはないだろう?

――いつでも彼女が戻れる場でありたい・・・・ 

そんな事を思いながら、蓮は蓮の気持ちに「鈍感な」キョーコを思って、一言囁いた。

『空き時間とか、誰か男の人に、携帯番号教えてとか付き合ってとか声かけられたりしない?』

 少し考えて、キョーコも仕方なく英語で返事をした。

『・・・たまにありますけど・・・・』

 と、キョーコは記憶の蓋を開け、少し困ったような顔をして、蓮のそばでそっと囁き返した。

『けど?』

『仕事で関わる方とプライベートを深くご一緒する理由もあまりありませんし・・・それに、付き合おうと言われても、いまいちピンときませんから・・・といいますか、どうして、こんな所でずっと耳打ちで話を続けているんでしょう?』

『イヤだった?』

 そう言って蓮がにっこりと微笑む。
キョーコの正面から、ごく間近で。
キョーコの心の悲鳴が聞こえてきそうだ。

『い、いいいいや、そんな事は、決して・・・あの・・・ただ、他の方が見ていると、私たちが親しすぎるように見えないかと・・・・』

うろたえるキョーコを見て、可愛いなとか、面白いなとか思った蓮は少しだけからかってみたくなった。

『誤解をさせた責任はいつでも取るよ?』
『えええええっと、何のでしょうか・・・?』
『世間の皆様に、様々な誤解を与えてしまったかもしれない事の?』
『といいますと・・・?』
『先輩と後輩の、仕事上の付き合いの域を超えた付き合い、の意味だよね?親しすぎるように見えるって』

と、言った後すぐにキョーコの耳に片方の手を寄せ、くちびるを寄せて、本当に小声で囁いた。

「オレと付き合ってみる?」

日本語で囁かれて、キョーコは一瞬にして思考が停止する。
蓮はダメ押しに、囁いたあとキョーコの顔を覗き込んで間近でにっこりと微笑んだ。夜の帝王のような、神々しいような、まるで恋人同士のような甘く優しい笑顔で。
キョーコには視線の逃げ場も、心の逃げ場も、もちろん、体の逃げ場も無い。

――・・・・・・・・!

 すっかりうろたえ、浄化されて、キョーコの意識が幾分かまともに戻ってきた頃には、キョーコの頬は鮮やかに赤く染まっていた。

「遊び人の人の軽口なんて、信じないんです!女の子みんなにそう言うんですから!そう簡単には釣られませんよっ」

と、最大限に思考を巡らせて答えられたのが、そんな小さな抵抗だった。蓮のささやかな冗談だと頭では分かってはいるのに、すっかり動揺して英語で話す事さえも忘れている。

 顔を真っ赤に染め、頬を可愛らしく膨らませて蓮に文句を言う姿は、ちっとも怒ったようには見えなくて、蓮は吹き出して笑った。

「かわいいかわいい」

それは心の底から自然にわいてきた言葉。
あえてささやかなかった。

周りが見れば、きっとただの(バ)カップルにしか見えない事も承知で。
親しすぎると勘違いされようが書かれようが噂されようが、蓮の思う壺。書かれて噂されて、キョーコが自分を意識でもしてくれればいいのにとすら思う。

他の女の子なんていらない。他の男に、キョーコに寄るな触るな手を出すな、と伝われば、それでいいのだから・・・。

「それにしても、遊び人って何?ひどい言い草だ」
「過去の敦賀さんの言動からですっ。きっといっぱいいっぱい、」

とキョーコが必死に言ったところで、蓮の人差し指がそっとキョーコの唇に添えられて、

「そういう話こそ、こっちに囁くのがいいんじゃない?」

カモン、と、蓮の指が自分の耳を指差す。

「・・・・もう、いいですっ」

 キョーコは火照った頬を隠したくて、蓮と正面からもう顔を突き合わせていられなくなって、思い切り立ち上がる。

「そろそろ、行きませんか?社さん、少しだけ電話してくるって言っていただけなのに、どこまで行ったんでしょう?何か時間のかかるお話だったんでしょうか?」

「・・・・(恐らくあの人はそこら辺でこちらの様子を見てにやけているに違いない・・・・)
多分すぐ近くにいると思うけど・・・」

「?」

不思議そうな顔をするキョーコを見て蓮も立ち上がり、少し背をかがめて、キョーコの耳にまた囁いた。

「社さんに聞いてみて。俺達が、親しすぎるように見えたかどうか」
「え?あれ?どこかで待っていますか?」

キョーコはきょろきょろと周りを見回す。

「どうだろう、見ていたかもしれないし、見てなかったかもしれないし・・・見ていたとすればどう見えるのかなと思って」
「・・・ええ・・・?」
「・・・まあ、冗談は抜きにして、この世界出入りが多いから、何でも話せる親しい人が一人か二人いても悪くないよね。多分オレの事は、オレ以上に社さんと君が詳しい」
「私、代マネも妹もしましたからね!いつでも任せて下さい!」

小声で妙に胸を張るキョーコに蓮はふっと笑って、

「オレも、君の事は少し分かる」

と小声で囁いた。

「えへへ、嬉しいです」

にっこり、と、キョーコは蓮に向かって嬉しそうに笑った。
キョーコが心から嬉しいと思っている事はよく分かるけれども、かわいいな、と思うだけでは済まされない、蓮の心の奥の方。

『だから、やっぱり、オレと付き合ってみる?』

 と、蓮は囁いた。

「もうっ!だから、ノー、ですよっ!」

 顔を真っ赤に染めたキョーコは、蓮の背中を両腕で思い切り押した。

「はやく社さんに連絡とって下さいっ」
「はいはい、分かりました」



――もう少しで彼女の蕾も開くかな・・・

蓮はくすくす笑って、取り出した携帯に穏やかな息を吐き出した。





2013.6.7

この作品は差し上げた原稿です。シチュエーションお題がリクエストにあり好きなのを選ばせて頂いたので、そのお題がどんなだったか、引用致します。お題はきちんとクリアしていたでしょうか?

お題を使わせて頂いたM様、本の主催者S様に深く感謝いたします。

リクエストお題
[リード]君の蕾がひらくように、願いをこめて。
その瞬間(とき)には君の隣に・・・。 
[3]蓮がキョーコにやさしく耳打ちしている場面。キョーコは恥ずかしげに頬を赤くしている。
話している内容は日常会話なのに「どうしてこんな近くで話しかけるのだろう?」と会う度に耳打ちされて困惑している。蓮としては、近くに居ることに徐々に慣れてくれればという気持ちと、周囲への牽制です。 
[4]ずっと耳打ちしているのではないです。出会い頭に不意にとか、ふとした拍子に耳元に囁いています。仕事場でもプライベートでも、蓮は密かに頑張っている感じです。
いずれは慣れてきたキョーコがくすぐったそうにしながらも、普通に会話できるようになると可愛いなと思います。
微笑ましい雰囲気になるといいなと思っています