バラの融点22

電話を切った蓮は、また深く息を吐き出した。
キョーコは工藤仁との時間が、本当に長くなっていた。
キョーコが蓮の部屋に寄らない事も多くなった。
キョーコが八時までに連絡をしない日は、蓮は一人で食事をする事になっている。
買いに行ってもコンビニ食の蓮の為に、キョーコは少し多めに食事を作っておいて、冷凍庫に綺麗に並べていた。
その日は食べる気にならなくて、八時を過ぎてもぼんやりとしていた。

キョーコの顔を見たら、自分はどうするだろう。
抱きしめ口付けて、嫌がるキョーコを無理やり寝室に連れ込み、明日からは彼女に彼女を傷つけた人物の一人として、犯罪者の烙印を押されるかもしれない。
そんな弱さを自覚しながら、携帯電話をソファに投げて、そこに深く腰をおろした。

最近キョーコがどこかよそよそしい。それが、蓮を苛立たせていた。
この部屋の中にいてもどこかうわの空で、台本を読み、時折蓮を見ては、目が合えば視線を逸らす。
前はもっと無防備で、笑い声がそこにあって、たとえ沈黙が続いたとしても嫌ではない、穏やかな空気が流れていた。


そのやわらかで穏やかな空気を壊したのは自分だという自覚はあった。
今はどちらかと言えば、映画の撮影があるから、という理由だけで、義務的に部屋に来てくれているような気がした。

おやすみ、と言いながら抱きしめるとき、頬に口付ける時も、キョーコはおとなしくそれを受けた。しかしそれも慣れたから、義務消化なのだろう。
何でも慣れてしまえば、挨拶や歯磨きと同じだ。


映画の撮影もあと少しもすれば終わる。
そうすれば、またキョーコとは関係の無い生活が始まるのだろう。

キョーコに無理やりといえば無理やり事務所へ原稿を運んでもらっていたが、それももう出来ないだろう。そもそも、彼女はあえて分かっていて気付かないフリをしていただけに違いない。なぜ宅配便などで送らないのか、と。今なら社内にも作家ごとに専用の転送サーバもある。一瞬で出来上がった原稿を送ることが出来る。

それを知ってもキョーコの性格からは、ずるい、人をだまして、とは責めないだろう。誰にも言えないこの仕事、どこからばれるか分からない。それを知っているから。


何も、キョーコを自分のそばに引き止めておく手段も無い。
「好きだ」と、ただ伝えてみればいいのに、それがうまく出来ない。
好きだと伝えて、少しは考えてくれる相手だったら、どんなに楽だろう。
キョーコの中に眠る、不意に現れる、熱の塊のような秘めた部分を知りたい、暴きたい、触れたい、しかしそれも、どちらかといえば、蓮のためなどには出来上がっていない。別の男や、演じる事に対するものだ。自分の為には出来ていない。

どうしてこんなに必死になっているんだろう、と蓮は少しだけ笑った。


幸せにしてあげたいとか、幸せになりたいとか、そういった恋のような気持ちももちろんない訳じゃないけれども、替えがきかない、逃したくない、という、ただ、ただ、自分の中のわがままに近いようなものでもあった。


何度かキョーコに触れた時、まるでキョーコが自分を好きでいてくれるかのような錯覚を覚えた。身体に流れ込み新たに覚えた、キョーコの見せた甘い表情の衝動は、蓮の中で小さな炎のようにくすぶり続けていた。


過去の恋愛を少し思い起こせば、恋といってももっとあまい砂糖菓子の中で、望んで得られない事なども無く、その相手を幸せにしてあげるのが男の役割なのだろうなどと思ってきたのに、今回は砂糖菓子などとはどう考えても呼べない。表面上は優しく、どこまでも待ってあげていたいのに、ただ奪いたくて、およそ彼女が望む甘い砂糖菓子のような童話の中の王子にはなれそうにも無い気がした。



「敦賀さん・・・」


と、キョーコが所在無げに、リビングの入り口に立っていた。


「おかえり。入っておいで。何もしないから」


キョーコは黙って頷き、蓮の横に座った。


「工藤先生からのご伝言です。今、私の話をもし久遠先生が書いていらっしゃらないなら、次の作品にしようと思っている、と・・・。もし、何か私を題材に書いていらっしゃるなら、書かないからと伝えて欲しいと。それから、映画が終わったら、その話を詰めるのに、少し工藤先生とのお仕事が続くようになるかもしれないそうです」

「・・・・書いてない、と、工藤先生には伝えて」

「はい」


沈黙が長く続いた。

工藤仁、という人物には、事務所で会ったことがある。
すらりと上背のある、清潔で、静かで聡明な人物に思えた。
笑った表情がどこか人懐こくて、蓮よりも一回り上と言われてもとても見えなかった。
女性ファンの多くがその容姿にも人柄にも思い入れがあると聞いた。


「工藤先生は、優しい?」
「・・・・とても穏やかで、紳士的な方です」
「そう」
「・・・・久遠先生に、劣らず」
「本当にそう思ってる?」
「ふふ・・・」

キョーコは少し笑った。

「敦賀さん、お食事は・・・食べられてないですよね?」
「うん」
「待っていてください、何か、用意しますから」
「うん・・・ごめん、帰って来てすぐに・・・」


居心地の悪さは互いに感じていたから、キョーコがこの空間から逃げ出したかったのはよく理解できた。その出て行く後姿を見守って、もう、そろそろ諦め時なのかな、とも思った。


そろそろ、離してあげなければ・・・・



食事を終えて、片づけが終わったあと、蓮は告げた。


「最上さん、明日からはここには来なくて大丈夫だよ。もう、撮影も終わるし・・・君も毎日忙しいだろう?これから工藤先生の方へ行くなら、なお更だ」


と、蓮は言った。


「・・・・・わかりました、もし、また手が足りなくなったら、呼んで下さい」


と、少しの笑顔を浮かべながらキョーコは言った。
そして、


「明後日の撮影、敦賀さんにご迷惑をおかけしてしまうかもしれません・・・・・何度も何度もキスしなければいけませんから、気持ち悪くなったら、ごめんなさい」

久しぶりにセージがカエデに会う。
本音を伝える。本当の意味で、二人は恋人になろうとする。

蓮は静かに首を振った。


「・・・・そうだ・・・・来て」


蓮は仕事用の部屋にキョーコを呼ぶと、机の上にあったものを手に取った。


「そこに座ってくれる?」


蓮はキョーコを椅子に座らせると、正面にひざをついてキョーコに正面から向き合った。
そして、耳に触れて、

「イヤリング、君のものを、作ったよ」


と、言った。耳に掛かる髪をよけると、キョーコが少しくすぐったそうに身を震わせた。一つずつ、蓮の手でそれをキョーコにつけて、できたよ、と言った。

キョーコは鏡の代わりに、窓際に寄って映し、それがどんな感じかを確かめた。

「・・・綺麗・・・」


小さな透明な石が耳で揺れている。
手で触れ、離すとまた上品に揺れた。

「似合う」

と、蓮が静かに言った。

「ありがとう、ございます。わがままを言ってしまったと思いました・・・。敦賀さんが、わたしとはいえ、誰か女の子にお願いされて、断れるはずが無いと分かっているのに・・・・」
「いや、君が来てオレのためにしてくれた時間へのお礼は、これぐらいでは足りないから」
「お礼が欲しくてやっているわけではないですから・・・」
「・・・・ラブミー部員として、とても、誇りある事、だね。今、ハンコを押してあげられればいいんだけど。今度社長に貰っておくね」

頷くキョーコに、蓮も少し微笑む。

「女の子は、花や宝石がそばにあると、とても華やぐね」
「そうですか?」


少し恥ずかしそうにキョーコは再び窓ガラスに自分の姿を映す。
後ろに立ってその様子を眺めている蓮の姿も横に一緒に映る。
蓮はどこか寂しそうに見えて、ガラス窓越しでも、キョーコは視線を逸らした。


「明後日は監督にお願いして、カエデには何も着けないでそのまま撮ってもらおうと思ってる」
「・・・・・・・?」
「だから、それはただのオレから君へのプレゼント。良かったら何かの時に使ってね」
「そんな・・・」


欲しいとねだってしまったから・・・、と、キョーコは恥ずかしさでイヤリングを外そうと耳に手をやり、蓮に止められ、後ろから抱きすくめられた。

「ダメ」

と、耳の中に優しく囁かれて、キョーコのひざは、かくかくして、そこに座り込みそうになった。蓮は力の抜けたキョーコの身体を両腕で支えた。


耳も頬も真っ赤に彩られたキョーコの表情が、正面の窓ガラスには、ただの蓮に恋する女の子の顔に見えて、腕の中のキョーコの肌からは物凄い早さで心臓がドキドキしているのが伝わってくる。だから、蓮もキョーコをぎゅう、と抱きしめた。


「すごく、かわいい」
「つ、つるがさんっ・・・・」
「ね、さっきのオレからの問い、どっちにしたかった?」
「問い・・・?」
「今夜オレは君に、何をするか分からないよ、と言った。君は何をオレに期待してここに来た・・・?」


耳に囁き続けていたら、ついにキョーコは脱力して、滑りながら蓮の腕から抜け落ちた。
それを追うように蓮もその場に座り込み、また、後ろから抱きすくめる。

「・・・・・・・・・」


うつむき、背中を丸め、答えも無く、蓮はただ、そんなキョーコを抱きしめていた。
ぽたり、と、涙が落ちて、蓮の腕を濡らした。
一度落ちた涙は止まらなかったのか、いく粒も落ちてくる。


二度ともうこのような甘い時間もない、次はまた誰か別の人物がこの部屋の中に収まるだけだ、と、ただそれが、キョーコの頭の中で繰り返していた事だった。


「ごめん。かわいかったから、言いすぎた。泣かせるつもりは、なかった」
「・・・・・・つるがさん・・・・」
「何?」
「・・・・・わたしを、抱きしめたりこうしてまるで女の子のように・・・・口説く事を気持ち悪いと、少しぐらいは思わないのであれば・・・・」

そこで言葉を切って、キョーコは身体を正面に向けて、蓮を抱きしめて、


「・・・この間のキスの続き・・・一度で・・・いいので・・・敦賀さんがどうしたかったのか知りたい・・・・」


少し枯れた声をしたキョーコの声が、伝わる。

蓮の身体が一瞬驚いて硬直したのが、キョーコにも伝わった。



「・・・・わたしが後悔を、すると、敦賀さんは言いました・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・知って後悔するのと、知らなくて、後悔するの・・・どっちも、同じ、と思って・・・・」
「・・・・・明後日の、撮影があるから、だね・・・もし無かったら、そんな事、言わなかっただろう・・・?」

蓮は、何とか声を振り絞って告げた。
心は全く逆の事を思っていた。
今を逃したら、蓮がキョーコを抱きしめる時間は二度とないかもしれないのに。

「ね、もし、今度演じる役が、お酒に溺れる子だったら、お酒を沢山飲む?ドラッグに溺れる子なら、それに実際手を出してみる?・・・オレから知りたい、というのは、・・・・そういう、事、だろう・・・?」
「・・・・し、失礼な事を、お願いして、ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・・・」

キョーコは震えて、何度も焦点が定まらない目で、ごめんなさい、と言った。
ぼろぼろ涙がこぼれてくる。
そしてもがき、蓮の腕の中から逃げ出そうとした。
でも、後ろには窓ガラスがあって、動けなかった。
その頭に手を置いた蓮は、キョーコの頬に流れる涙をぬぐいながら、


「いつか、本当に、心から愛し合いたいと思った相手に、お願いしてごらん。本当に幸せな気持ちになれるから」
「・・・・・ふっ・・・うっ・・・・わたしは、つるがさんが、いい・・・・」
「・・・・わかった・・・・」


キョーコを、蓮は抱えて、寝室まで連れると、言った。
少しだけ時間を置いて、逃げられる時間を作ったほうがいいだろう、と蓮は思った。

「とても申し訳ないんだけど、今すぐに君を抱いてあげられない。何かあったらいやだから、避妊具を新しいものにしてあげたいんだ。買いに行きたいから、少しここで待っているか、怖くなったら、帰ってもいい。もし冷めたなら、君の部屋に戻ってしまってもいいよ」
「シャ、シャワーとか・・・したいです・・・」
「そのままでいいのに」
「やっ・・・」
「いいよ、好きにしてて」

蓮は面白そうに軽く笑いながら出て行った。
一人にされ、蓮が出て行くと、キョーコは勢いで蓮を落としてしまった事がじわりじわりと理解できた。時間を与えてもらえた事で、恥ずかしさが逆に募る。

蓮は、同情で抱きしめてくれるのだろうか。
それでも、蓮を知らないより知りたかった。
きっと知らないで離れたら、いつか、知っておけばよかったと思う日がある。


シャワーを浴びる間、自分の身体が、妙に他人の身体のように思えた。
いつもより、妙に肌の具合も気になる。
髪を乾かして、大きなバスタオルだけを身体に巻きつけた。
もう一枚、大きなバスタオルを取って、肩からかけた。
耳に、貰ったばかりのイヤリングをつけなおした。
今、身体を彩るのは、それだけ。


一つ一つの動作がまるで儀式のようで、コマ送りされていく風景のように、鮮やかに目の奥に焼きついた。


帰宅した蓮を見て、キョーコは真っ赤になってうつむいた。なぜか一人で蓮のベッドの上で静かに待っている光景が、自分でも、本当に蓮と『したい』だけの女の一人に思えて、滑稽になった。
蓮は、紙袋をサイドボードに置くと、自分もシャワーを浴びてくると言って出て行った。また時間が出来た。

蓮がわざわざ時間を置くのは、およそ、逃げ出す時間を作ってくれているのは、キョーコにも少し理解できるぐらい、冷静になれた。

ただ、滑稽でも、恥ずかしくても、その場に何とか座っていられたのは、覚悟があったからだった。


「待たせたね」

バスローブ姿で現れた蓮は、シャワーを浴びて少しほてった身体のまま、キョーコの横に座った。キョーコは視線を逸らす。

「逃げなかったね」、と、蓮は言って、キョーコは、「はい」とだけ答えた。


「冷えてる」

蓮はキョーコの指先に触れて言った。
それだけで、キョーコの身体が緊張で、びくり、と、震えた。


「抱きしめて、いい?」


と、蓮が聞き、キョーコが頷く。
蓮は自分が座っている前にキョーコを引き寄せて、自分の身体の中に入れた。
キョーコの冷えた身体に、蓮の肌の温かさが伝わる。
首筋に唇を寄せた。んっ・・・と、短い声をキョーコは漏らした。
蓮もすこし息が浅く繰り返す。

「できれば、甘く求め合うように君としたい」
「はい・・・」
「君は初めてで、そんな余裕は無いと思うけど・・・。でも、せっかく抱き合うなら、深い所で愛し合いたい・・・だから、オレの好きな所、五個言って・・・オレは君の好きなところもっと言うから」
「・・・・・・・」

蓮はキョーコの耳たぶに何度もキスをしてイヤリングを揺らし、そして、ベッドに横たえると、唇を塞いだ。キョーコが蓮の好きな所を幾つも言えないぐらいに。
離して、息継ぎをする間に、キョーコは、必死で蓮の好きな所を伝えた。
一つキョーコが伝えると、蓮は二つも三つもキョーコに囁く。

いつしか、蓮の好きな所は、五個を越えていた。
愛し合うようにしてするキスが、こんなにも甘くて、切ないものだとは思いもしなかった。
もっと、欲しいと思って、キョーコから蓮の首に腕を寄せた。
キョーコは、まるで、心から愛し合っている錯覚を覚えた。


キョーコは涙目になりながら必死で抵抗して、蓮がそれを押さえつける。
もっとしておかないと君が辛いだけだよ、と、肌に囁いて、キョーコを余すところ無く探り、舌先を寄せた。


買ってきた避妊具を蓮がつける様子を眺めるのさえも、まどろっこしかった。
早く、と、キョーコは蓮に言って急かしたらしい。
蓮が愛しそうにキョーコを見て、力を抜いて、と、優しく囁いた。


それから先は、甘い恋愛というより、互いがただの獣みたいだったと、キョーコは後で思った。映画で見るように、静かで甘く囁きあう感じだと思っていた。だから、そんな余裕も無いほど蓮に流され、言葉にならない声ばかりしか声にならず、蓮を呼び、言われるがまま言われる言葉を繰り返す事ぐらいしかできなかった。

ちっとも可愛くなくてごめんなさい・・・とキョーコは蓮に言って、蓮は、びっくりしたように目を丸めて、キョーコをあやすようにして抱きしめた。君が本当に可愛くて、オレも最後はあまり覚えてない、と、一緒に浴びた浴室の中で互いの熱を流しながら、笑った。


「きっと、買いに出て帰る間に、帰ってしまうだろうと思ってた」

と、蓮はうつろうキョーコに言った。

「どうして、逃げなかったの?」
「まるで・・・わたしがすごくしたかったみたいで恥ずかしいので、聞かないで下さい・・・」
「ね、どうして?」
「・・・・知りたかった、から」
「うん・・・。正直でよろしい」
「・・・怒らないんですか?」
「最初から分かってた。だから・・・帰ってくるまで持たないと思った。興味でセックスを知るって、オレも君も大人だし、悪いことじゃないけど、やめるべきだって思うかなって・・・。誰としてもプロセスはそんなに変わらないから、知るだけならオレでも誰でもいいけど・・・。最初は、やっぱり・・・ね。君は女の子、だから・・・」
「・・・・敦賀さんが、良かったんです・・・・ごめんなさい、私が知りたいがために利用してしまって・・・すごく優しくしてくださって、ありがとうございます・・・・」
「いや・・・」


蓮はキョーコを抱きすくめると、深く深く優しく、口付け始めた。
キョーコはその唇を受け止めながら、蓮が本当に愛しくて、恋しくて、涙を流した。
もう二度とこの部屋には来られないと、知っていたから。
忘れなければならないと、知っていたから。


一緒に寝てみたいと思ったけれども、もう、部屋に帰ります、と告げ、蓮にいつもどおり「おやすみ、キョーコ」と囁かれて頬に口付けを受けて、「おやすみなさい」と笑顔で告げた。蓮に背を向け、足早に部屋に戻ったキョーコは、また静かに一人で涙を流した。


蓮の身体の中に隠し持つ熱。甘さ、優しさ、声、指先、クマを抱いて眠る姿・・・もちろん、演じる姿・・・。

五個でも十個でも、互いを好きな所をさっきは素直に言い合えたのに。


――好き


ただ、それだけの事が、二人とも、今は、言葉に出来なかった。














2010.03.22