バラの融点2

『毎日バラを送り、愛していると告げる。明日は、今日と同じとは限らないから』


『根拠の無い不安が居所が無いかのように身体の中をふわふわと舞い、身体の軸も、心の軸も、ゆらゆらと揺らぐ』


キョーコは美玲に渡された本を地下鉄の中で読んでいた。


「Under The Rose」という名のその本は、やや気弱な男の子が、明るく前向きでけなげな女の子に恋をし、見つめる話だった。家の庭中に様々なバラが咲き誇る家で育ったその男の子は、その女の子をバラに見立て、バラ姫と(やや狂気的な愛称をつけて)呼んでいた。


多分、「Under The Rose」は単純にバラの下で、という意味ではない。神話キューピッドの話によれば、秘密だとか内緒、だとかを意味する言葉なのだと、別の本を読んだときに出ていた。


今でも海外では密会の時に、その部屋の天井からバラを吊るして飾っておいたりするのだという。そういう意味ではバラの花の下でという意味にはなる。作者がそれに引っ掛けたとしてもおかしくない。


そんな事を思いながら読み進めていたが、ある章の最後が理解できずに読み止った。


『愛は、それ。それは、全て。それは、バラ。いつも、変わらずに目の前にある。だから僕は、それに、バラを贈る。見つめ続ける。そのままその世界に、飲み込まれたくなる。飲み込まれてしまいそうになる。』


唐突に収まっている詩的一文。『それ』とは、何なのだろう、そう思って止まった。一切「それ」と言うものに対する本文中のフォローや詳細は前後にない(気がする)。では一体何を比喩しているのか。自分が思いを寄せている女の子の事を指すのなら、『それ』とは言わない。むしろ『それ』は必要ないし、『それにバラを贈る』というのは、変だ。それはバラ、と言っておきながら、それにバラを贈る、というのも意味不明で、まるで作者に謎解きを投げかけられた気分だった。


そもそもこの部分だけではなく、この本はぱっと見では文章や全体の意味が分かりにくい。単純に、主人公の心の移り変わりや成長や風景を描いているようで、何か、心に疑問符やモヤモヤしたものが引掛かかる。


まだ読み終えてはいなかったが、そうして集中力が切れたから、ぱらぱらとあとがきの評論をめくった。それによれば、この本は、そういった幾重にも重なる「秘密」という名の主人公の心の暗喩を楽しむための本なのだと、『それ』の意味を深く理解しているだろう本文評論者はハッキリと述べている。


そしてその暗喩を理解するために、結局幾度と無く読み返す楽しみが詰まった本であり、暗喩や仕掛けそれ自体には正解も不正解も無く、作者が置いていった世界を自分の想像の世界に取り込み、自分の中の更なる心の世界と相互関係を持たせる力をも持った本だと評されている。評論の意味さえ分かりにくい。


地下鉄の轟音の中で読みすすめていても、その繊細さはキョーコにはさらりとは理解できなかった。特に、愛。この作者が愛というものを軽々しく扱っていない事は分かってはいるが、愛だの恋だのという『言葉』ほど、信じにくく、心や身体で理解しにくいものは無かった。



*****



キョーコは地下鉄を降りて地図どおりに歩く。閑静な高級住宅街に着く。歩く人は皆どこか雰囲気を持った人物に見えてくるし、空気のにおいも何か違うような気がする。

携帯電話に電話しても当然キョーコの番号は知らない番号なのだから、出るはずも無かった。地図と携帯とを握り締めているキョーコの横を、外国人の女性が軽快に自転車で通り過ぎていく。地図を握り締める自分がどこかオノボリサン的で場違いな気がしながら、その近くのコンビニエンスストアに立ち寄る。


久遠レンという人物を名前も顔も全く知らないのだから、寄った所で「あなたがそうですね?」などと声を掛けられるはずも無い。とりあえず寄れる所から地図の場所を確認しておこうと思った。当然コンビニのアルバイトの男の子にそんな人物は知らないと不審げに返事をされる。そして、誰も顔を知らない人物をなぜ自分が探しに行く事になったのだろうと、社長を恨めしく思う。


彼の自宅のマンションに着くと厳格にロックされた入り口に出あった。部屋番号を押すも、何も反応は無い。自動ドアのあけ方や入り方など分からない。仕方ないからマンションのフロント室に向かった。


管理人にこの部屋に行きたいと願い出ると、当然本人と面識があるならすんなり中に入っているはず。単なる営業や押し売りなどの迷惑な人間だと判断したのか、その男は冷たく、「誰が住んでいるのかお教えする事はできません。お通しする事はできません」とだけ言った。キョーコはLMEから支給されている名刺を渡し、「彼の原稿を取りに来ただけです」、と告げると、その男は少し表情が変わった。芸能界最大手のLMEの名前ぐらいは知っているのだろう。一つの光がさした様な、そんな気がした。


「お願いします、先生の原稿の締め切りが近いんですっ・・・」

「ハァ・・・・でも、ここに住んでいる方の名前はコーンなんていう名前では無いのですが・・・・」

「じゃあその時々の適当なペンネームなんでしょう。本人の名前なんて何でもいいので、通してもらえませんか?若しくは、私が行けなくても構いません。管理人さんが、先生がいるかいないか、確かめてもらってもいいんです。そこにいる事さえ確認できて、原稿が進んでいるかどうか、今日までに貰えるかどうかだけが知りたいんです、お願いします!!!」

「・・・・・・・」


キョーコの必死の様子に管理人はしばらく様子を伺い続けた。しかし必死の様子がウソをついているようには思わなかったから、しぶしぶデスクの上の電話の受話器を手に取り、頭をかきながら部屋の番号を押した。


「・・・・・あ、フロントです。どうも。あの~・・・LMEさんという所から、アナタに会いたいと押しかけられているんですが・・・エェ、そうです。コーンがどうとか、原稿がどうとか仰っていますが・・・。いえ、若い女の子です。えっ、お通しして大丈夫なんですか?・・・・ハァ、分かりました」


久遠レンは部屋にいるようだった。あちらこちら探す予定でいたから、ラッキーだと思った。そして、部屋にいるなら、事務所に連絡ぐらいしなさいよ、アンタのせいで私の予定が・・・・と、ホッとした途端に怒りがこみ上げてきた。


「こちらです」


管理人の男はフロント室に鍵をかけると、正面玄関に向かう。
ロックを解除して、自動ドアが開いた。


「部屋番号はお分かりになりますね。全ての部屋が一つずつそちらのエレベーターで通じておりますので、直接お伺いください。部屋以外の全ての場所で監視映像が撮られている事はお忘れなく」


彼は念のためキョーコを牽制してそう言って、フロントに戻って行った。


ワンフロアワンルームという、超高級マンションの一室の前に、キョーコは立った。売れっ子脚本家はこんな部屋に住めるのかと、しげしげと重厚なドアを眺める。ゆっくりと、インターホンを押した。内側から鍵を開ける音がする。ゆっくりと開いた扉の向こうには、背の高い男。


「こんにちは、いらっしゃい」


低く柔らかく、艶やかな声で、その出てきた人物はキョーコにそういった。久遠氏の息子だろう。育ちが良く、整った顔立ちで、見るからに美しい雰囲気を醸し出している。大人びてはいるが大学生と言っても通じるぐらいの年齢には見えた。


「あの、久遠先生にお会いしたくて・・・原稿、今日ぐらいまでには頂けると伺って・・・・あ、すみません、申し遅れました。ワタクシ、LMEの出版事業部主任からの言伝でこちらに伺うように申し付かった最上と申します、はじめまして」


キョーコは、出てきた男に深々と頭を下げた。


「うん、知ってる。君が来る事も、社長から聞いていたよ」
「そうですか、良かったです。・・・・?あの・・・あれ・・・・?すみません・・・どこかでお会いした事はありませんか・・・?」
「・・・そう?あったかもしれないね」


その男は、くすくす、と笑うと、玄関の中にキョーコを招き入れた。キョーコは、苦難するかと思っていた自宅には入れる、話は既に通っているで、あまりにストレートに仕事が進んでいるから、ある意味で拍子抜けしたようにポカン、としていた。


「どうぞ」と言われ、その背の高い男に中に入るように促された。その大きな手の長い指先を見ながら、促されるままに部屋の中に入った。


長い廊下を抜け、綺麗に整ったリビンクに通される。「そこに座って待っていて」と言われ、キョーコは荷物を横に置き、ソファの中ほどに腰掛ける。その男が部屋から出て行くと、キョーコはものめずらしそうに、ぐるり、と見渡す。シンプルでいて気品のある美しい家具が並び、どこもかしこも居心地の良い空間だった。


一点で、視線が止まった。
燃える様な真紅の大きなバラが、天井から麻紐で吊るされた一輪挿しに、刺さっていた。きっと、この風景を見ながら、久遠氏はあの本のイメージを膨らませたに違いなかった。


しばらくすると、また、あの背の高い男が、コーヒーを入れ、戻ってきた。「いただきます」、そう言いながら目の前のコーヒーを飲み、一息を付くと、本題である、


「あの・・・久遠先生は・・・・」


と、キョーコは再度目の前の男に尋ねる。実は久遠氏は雲隠れしていて、息子の彼に足止めを食らっているのではないか、そんな事も頭の片隅をよぎった。


「オレだけど」
「・・・・・?社長と仲がよろしくて、社長と同じぐらいのお歳で、大学生ぐらいのお子様がいらっしゃると伺ったのですけど・・・・・」


キョーコの、『大学生ぐらいに見えて実はもう四十、五十過ぎ、なのかしら、すごく若く見えるわ』、だとか、色々な事が脳裏を駆け巡っているだろうその様子を、その柔らかな雰囲気を持つ男は少し可笑しそうに眺めていた。


「オレ、なんだけどね。世間でのオレの実態は、適当に憶測されているだけで・・・・大学生の子持ちになった事は、無いかな」
「ハァ・・・。あの、それで、では、久遠先生。原稿は・・・」
「ここに、出来ているよ。悪いけれど事務所まで持って行ってくれる?」
「あ、ハイっ、ありがとうございましたっ!」


キョーコは、まるで宝物を発見したかのように目を輝かせた。当初の目的が全て叶ったのだから。コレで、ラブミー部の仕事の成果である、ハンコはいい点数がもらえるはずだ。もう一刻も早く事務所に帰って、原稿を渡したかった。


「では先生、お忙しい中突然お邪魔して申し訳ありませんでした。次回も、宜しくお願いいたします」


キョーコはソファを立ち上がると、久遠氏に向かって再度深々と頭を下げた。


「あぁ、そうだ。あのね、オレの事は、社長と、オレのマネージャーと、今日会った君しか、知らない。だから、オレの事は、一切誰にも他言無用に願いたいんだ。いいね?」
「・・・・わ、分かりました」


キョーコは、そこにバラが飾ってあった事を思い出していた。


今日の事も「Under The Rose」、という意味なのだろうか。彼の実態を誰にも話してはいけない、そんな秘密は自分には重過ぎる、と思いながら、美玲には何と説明すべきかを思い、預かっていた本の事を思い出した。


「そうだ・・・あ、あのっ・・・先生、もし、もしよろしければこの本にサインを・・・・お願いしたくて・・・先生の大ファンという事務所のあるタレントさんから預かってきたんです」
「君の、君が買ってくれた本では無いんだ?」
「すみません、違います・・・」
「・・・・・いいよ、書くよ。貸して?相手の名前は?」
「美しいという字と、王ヘンに命令の令と書いて、美玲さんなんですが・・・」
「あぁ・・・」


彼はにっこり、とそれは綺麗にキョーコに微笑むと、ペンを探しに行き、「美玲さんへ 久遠レン」と書き、日付を入れた。


「ありがとうございます、すごく、すごく喜んでくれると思いますっ・・・」


レンは、ハイ、と言ってキョーコに本を渡した。キョーコは、心から目を輝かせた。


しかし、誰にも話してはいけない、そんな秘密を抱えるのなら、今ココで写メをお願いするのは確実に無理だわ、と思った。


*****



LME社屋に戻ったキョーコは、出版部に顔を出し、原稿を渡した。


「いやー本当に助かったよ。先生はやっぱり締め切り一週間前厳守破ったことが無いんだよねえ・・・連絡付かなかったのも、きっと原稿に追われていらしたのだろう。あ、そうそう。先生ってどんな感じの方だった?」


担当は、一番良いハンコを押しながら、キョーコに尋ねた。キョーコは、心の中で「ヒッ」と小さく悲鳴をあげながら、


「すごく優しそうな、素敵な方でした(にっこり)」


と、適当に無難な事を言って流した。


そして。


養成所での練習が終わり、帰りがけ、その時に目に飛び込んできたのは、とあるブランドのポスター。急に足を止めたキョーコに、隣を歩く養成所の同級生は声をかけた。


「最上さん?・・・あ、敦賀さん?このポスターも綺麗よね」


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・!!!!!あ、あぁぁぁぁ、あのあの、あのヒト・・・・・敦賀蓮・・・・・・・・!!!!!」


わなわな、と打ち震えるキョーコを横で見ていた隣の彼女は、どこか半歩引いて、離れた。


「ど、どうしたの・・・?敦賀さんに、会ったの?」


先ほど原稿を取りに行った時に見た人物そのものではないか。どこかで会っていて当然だ。この社屋にいて、ポスターで目にしない日は無い。



『世界のトップモデル、敦賀蓮』


さして彼に興味が無かったから、気付かなかっただけだ。


「つ、つ、つ・・・・敦賀蓮のアホ~~~~~~!!!」


――言ってくれればよかったのに!!!!
――ていうか自分の所属事務所なら連絡ぐらい入れなさいよっ!!
――アナタのおかげで、今日の私のモー子さんとのデートが無くなったのよ!!!!!
――今度会ったら「似非作家」って言ってやるんだからぁぁぁぁぁぁ!!!!


恨みがましい声がLMEの社屋内に響き渡ったのは、言うまでも無かった。






2008.10.12