バラの融点10

蓮が目覚めた時、それが、目が覚めたという事を理解するのに、少々時間が必要だった。いつ眠ったのだろう、なぜ、自分はベッドに上にいるのか・・・と思いながら、横を見て、キョーコがいた事にぎょっとして思わず一瞬我を失った。キョーコは寝息を立ててソファに横になっていた。薄い上掛け一枚で、少し寒そうだ。


時計を見ると、キョーコが来た時間からおよそ三時間たっていた。原稿はもう殆ど終わっていた事で、気が緩んだのだろう。キョーコの顔を見てホッとして、眠ってしまったに違いないと思った。


キョーコが来たのはうっすらとした記憶の中に覚えている。テーブルにマグカップが二つ並んでいる。確かにコーヒーも淹れたような気がする。が、何を会話したのかあまりよく覚えていない。思わず、さぁっと血が下がったような気がした。多分、眠気と疲れのピークでうつろなまま話をして、自分が眠ってしまったのだろう。それをベッドに運んで、キョーコ自身はそこに眠ったのだろう。それぐらいの過程は理解が出来た。


自分の衣服は起きていた時と何ら変わっていない。キョーコに何もしていない・・・・と、思いたい。何かしていたら、さすがにこの部屋にはいないだろう・・・・と、半分願いのような事を思った。理性のない自分の姿が一体どんなものなのかはさすがに想像がつかなかった。


ベッドを直して、キョーコに近づき、そっと、ゆっくりと、抱えた。熟睡している。少し冷たい。映画撮影中だというのに風邪でも引いたら大変だと思った。

キョーコの頭が、くるり、と勢いよく逆向きに動いた。起きたのかと思った。キョーコは、蓮の胸の体温を探るようにして頬を数度擦り寄せ、蓮の胸に顔を深く埋めた。


その様子が妙に可愛く思えて、蓮は、マズイ、と思った。この部屋にはベッドとソファしかない。自分が今、ありとあらゆる意味で飢餓の極限にいる事ぐらい分かっている。だから、あまり傍に置いておきたくなかったのに。何かのスイッチが入ってしまえば、キョーコを自分の手の内に入れてしまいそうな程の、ゆるい理性ぐらいしか残っていない。


ベッドにキョーコの柔らかな肢体を沈めて、半ば、自分の理性にも蓋をするかのように上掛けをキョーコにかけた。






*****





――カタ、カタカタカタ・・・・カタカタカタ・・・・・




軽快な音。聞き覚えのある音。目覚まし時計ではない。
ぼんやりとした頭は、すぐに冴え、そこがベッドの上であった事に気付いた。


「敦賀さんっ!」
「・・・・・・・・・あぁ、起きたね。おはよう。ソファで眠っていたから、ベッドに移したんだ」


机に向かっていた蓮は、振り返り、顔をキョーコに向けた。
キョーコはバツの悪そうな顔をしている。
蓮は、「気にする事ないよ」と言った。


「終電が無くなってしまって・・・・敦賀さんが眠ってしまわれたので・・・・」
「あぁ、うん・・・・」


蓮が想像した通りの事だったが、キョーコも蓮も、少し居心地悪そうに口ごもった。


――敦賀さんが私を運んでくださった時、一体どんなマヌケな顔をしていたかしら・・・・?それにっ・・・私を抱き締めながら眠ってしまった事を、覚えているのかしら・・・・?


――やはり、オレは彼女に何かしたんだろうか・・・・・。



「あのっ・・・・」
「・・・・なに・・・?」
「ご、ご飯・・・・お弁当を届けに来ただけだったのに・・・・こんな所でぐっすり眠ってしまってごめんなさい・・・・」
「いや」

キョーコは、ベッドの上だった事に気付いて、ぱっと起きて、「洗面台をお借りします」と言って、軽くベッドを直すと急いで洗面台に向かった。勢いよく顔を洗う。ぐっすりと眠ってしまった昨日の自分も綺麗に洗い流してしまいたかった。


洗面台を出ると、蓮がまた、コーヒーを淹れている。


「・・・私などにお気遣い無く、お仕事続けてください」
「コーヒーが飲みたいんだ。付き合ってくれる?」
「ええ・・・じゃあ、それなら・・・・」

蓮が淹れたコーヒーを、キョーコが机の上に運ぶ。
自分のせいで乱れたぬるい体温の残るベッドの上掛けを軽く直してから、ソファに座る。


「オレ、昨日、何か君に・・・言った?よく、覚えてないんだ・・・・」


と、蓮がキョーコに正直に切り出した。

「いえ、いつも通りでしたけど・・・・」


少々台詞が際どかった事と、おやすみのハグが強かったぐらいで・・・・。


「そう?それならいいんだけど・・・。おかしな事を口走らなかったかな、と思って」

蓮は少々ホッとしたような表情を浮かべて、キョーコに微笑みかけた。


「昨日、敦賀さんが眠ってしまわれた後、担当さんに連絡を取ったんです。今日、私、原稿を回収しなければいけない日だったみたいで・・・・。どちらにしても、今日は私オフなので、よかったら終わるまでここにいます。あ、集中するようでしたら、ホテルのロビーかラウンジにでも居ますので・・・・」

「あぁ、そっか、君が持って行ってくれるんだっけ。君が来てくれる事を全く考えていなかったから、バイク便でも使おうと思っていたんだけど・・・それなら、お願いしようかな。・・・・オフなのに、オレの仕事に付き合せてごめん。オフにならなかったね」

「いえ・・・私が好きでやっている事ですから・・・・。あ、そうです。昨日のご担当さんのお話に寄れば、私があんまりに久遠先生の原稿を回収するのがうまいので、次は工藤先生の原稿も回収して来て欲しいなんて、仰ってましたよ」


キョーコは、けらけら、と、可笑しそうに笑って伝えていたが、蓮は、少々戸惑ったような顔をした。蓮にとってキョーコを呼んだ理由は、別にそんな回収作業などをキョーコの副業にさせるためではない。

かといって、工藤氏に付くのは少々荷が重すぎたかな、などと担当に言わせるが為に自分がこれから何度も原稿を遅らせるとか、そんな事も無駄な努力だ。誰も得をしない。


そんな事がほんの数秒のうちですっと体を駆け抜けた後、蓮は、


「そんな事、しなくていい」


と、強く言い、軽く左右に首を振った。キョーコは、蓮にしては珍しい口調だと思った。いつもならもっと穏やかな表情で柔らかな口調で話すのに。強くはっきりとそう言った蓮に、軽く笑っていたキョーコも、不思議そうな顔をして蓮を見つめた。


「敦賀さん?」
「ラブミー部を利用したオレももちろん悪かったけど・・・映画主演とオレと、工藤先生なんて、君の身が持たないよ・・・・断っていい」
「え、あぁ、えっと、そう、ですね・・・」


――彼女はオレにだけ付けばいい・・・


蓮の心の中にはハッキリとした自分の声が聞こえていた。そもそもキョーコを呼ぶのに社長が考えた事だったのだから、自分の担当の使い走りではない。社長にもう一言言っておけば済むのだろうが、言ったら言ったで、社長の事だから好きに自分とキョーコで話を勝手に想像して蓮に食いつくのは目に浮かぶような気がした。


「もしオレの担当が君にそう言ったなら、オレから言っておくよ、社長に・・・。君が他の人間についたら、オレは原稿書かないって、ね・・・・・・」


蓮が可笑しそうに笑ったから、ようやくキョーコも少し笑った。

蓮が自分をどこか自分の傍だけに置きたがっている事だけは、肌で分かる。いや、置きたがっている、というよりは、自分以外の他人へのそういった仕事はしなくていいと思っている、ような。


元々キョーコを蓮が呼んだ理由は、単に、映画のキャスティングの関係。自分で書いて、自分で主演、そして、せっかくだから、相手役も呼んでおこう・・・・そんな程度だ。


それならば。映画が終わり、もし、また、蓮が主演の作品をもう一度自分で書く事があったなら。次の主演の女の子もこうして自分のテリトリーに入れ、眠る前に「おやすみのハグだよ」などと、優しく甘い声で抱き締め、共に暮らすのだろうか・・・・?


いやだ、と、言う頭の声が聞こえてはいた。でも。たとえ好きになどなっても、その時だけの恋に終わると監督はハッキリと言ったじゃないか。好きになれない、かといって嫌いにもなれない。むしろ好き。どんな好きなのかは分からないが。傍にいるのが苦じゃない。大先輩なのに。尊敬しているのに。自分が自然にしていても受け入れてくれる人だ。何かの苦しさが心をぎゅっと掴んだ。言葉では表し切れない不思議な気持ち。


蓮を見つめたまま考え事をするキョーコに、蓮は、そっと空気を吐き出すように笑った。

その声でハッと我に返った。


「最上さん?」
「・・・・ッ・・・すみません・・・・・」


目の前のコーヒーを、慌てて飲み、少しむせた。


「・・・・大丈夫?」
「すみません・・・・・」


蓮は、キョーコに「大丈夫?」と問いかけて、蓮は、そういえば、キョーコが昨日会いに来て、開口一番そう言ったのを思い出した。


「そういえば・・・・なんか、昨日オレにも「大丈夫ですか?」って聞いたよね?何だったの・・・・?何か、オレ、変な噂でも、立ってる?」
「あ・・・・・・・・・いえ・・・・・・・・・」


尚更キョーコは口ごもってしまう。いい言葉が浮かばない。
蓮に隠し続けても仕方が無い。そのまま伝えた。


「敦賀さんの演技に引き込まれすぎて、台本に引き込まれすぎて・・・・久遠先生が敦賀さんだと知っているばっかりに、敦賀さんが本当にツライ思いをしていらっしゃるのではないかと、勝手に思えてしまって・・・・。だから会いに来てしまったりして、思わず「大丈夫ですか」って、言ってしまったんですけど・・・それだけ、迫真の演技だったって事ですからっ・・・!」

「・・・・・そうなんだ。ありがとう・・・・」


蓮は、どこか少し自嘲気味に笑って、組んでいた手のひらを、こすり合わせた。自分が思っている以上にキョーコが何かを心配しているのだろうと思って、ついつい安心させようと笑みが漏れたが、それが逆にキョーコの何かにひっかかったようだった。


「昨日・・・眠る前に、敦賀さんはやっぱり私を抱きしめて、おやすみって言ってから眠られたんですけど・・・・。同情だとか、愛情だとか・・・そんな気持ちだとは思わないで下さい」

キョーコはそう言って蓮の前に立つと、蓮の肩を自ら抱きしめた。
キョーコの発するとても柔らかな声が耳にかかる。


「食べ無い眠らない・・・で、人の極限の位置に立って、その中でいつも岸辺に立ちながらたくさんの重責に苛まれて・・・どこかで心のバランスを取るためにぬくもりが欲しいと思っているのだと思うんです・・・」


――だから、神様、この一見華やかに見えているこの人の心に巻きつくバラの棘を・・・抜いてあげてください・・・・


キョーコが蓮の背中をそっとさすると、蓮は黙ったまま目を伏せ、「ありがとう」と言いながら、ほんの少しだけ、キョーコの肩に自らの頭を寄せた。この時だけは、蓮は自らキョーコを抱きしめる事をしなかった。


なぜ自分が自ら蓮を抱きしめたのかの感情については、よく分からない。ただ、抱きしめてあげたかった、それだけ。蓮が望む「ぬくもり」というのが抱きしめる事だとするならば、それで少しは気持ちも楽になるのではないかとだけ思った。


「・・・・・だから君には叶わないんだ、オレは・・・・・」
「・・・・・・?」
「いや・・・ありがとう・・・・」


蓮が少し寂しそうにそう言ったのは、少しだけ蓮の本当の気持ちなのだろうと思った。
蓮は立ち上がるとやはりキョーコを抱きしめて、


「後ろにはベッド・・・オレは君に抱きしめてもらって・・・って、すごくいいシチュエーションだと思うけど・・・?」


そう言って蓮がにっこり、と笑うと、キョーコは急いで蓮から離れて、


「だから!!同情だとか、愛情だとか、そういうのじゃないんです!!」


と、照れながら無理やりの理由をつけて怒った。蓮もわざと怒らせなければ、今すぐにでも服を剥ぎ取り口付けて、自らの腕の中に入れてしまいそうな強い切なさが身体に巡ってしまったから、そう促すしかなかった。


「まあ・・・オレは作家だから・・・言葉はいらないんだけどね・・・」


蓮はキョーコに背を向けながらそれだけ言って、自らのパソコンの前に立った。

「コレ、原稿だから」

データの入っているらしいCDをキョーコに渡す。
蓮のペースにすっかり巻き込まれていたキョーコは、仕事を思い出し、自らの立場を思い出すと急に我に返ったのか、

「急いで帰ります!」

自らの腕時計で時間を確認して慌てたように荷物を纏め出した。
最低限の身だしなみを整え、携帯画面を確認しているキョーコに、蓮は言った。

「その原稿、次の春のドラマの原稿なんだ」
「ええ」
「・・・・オレも君も、一応リストに入ってる。互いに主役じゃないけどね・・・。そのテレビ局が今の映画の協賛ていう事で、二時間ドラマだけど・・・宣伝も兼ねるそうだよ」
「わ、分かりました!なんだか分かりませんが、よろしくお願いします!!!」


ペコリ、と深々と頭を下げたキョーコは、


「また次の撮影日以降、お世話になります!食べて眠ってください」


そう言ってあわただしく出て行った。


蓮は、一人残った後、この数日久し振りに自らベッドに腰掛けた。少しだけ皺の残るシーツが、そこにキョーコが眠っていた事を思い出させた。無意識にその皺を撫でてしまった時、蓮は、自らの行動に一つ深く溜息を吐いた。




――・・・・キョーコが傍にいると、心の中に風が吹く。


色々な風が・・・暖かく強く・・・・。
飛ぼう、羽ばたこうとしなくても、すっと、風に乗せてくれる。
そんな、風をそっと運んでくれる。


――彼女が・・・・そばに、欲しい・・・・



自らがキョーコに甘えきっているのは、理解していた。
このままでいいはずが無いと理性は言ったが、本能ではキョーコを眠る前に抱きしめていたらしい。どんな事を考えていようと、真実を告げる行為。いつか理性がない時、嫌がるキョーコを手の内にいれてしまうかもしれない。

仕事に来ているキョーコ。立場が自分よりも弱いキョーコ。
自分はそこに付け込んでいるだけ。

もしキョーコが工藤について、工藤がキョーコを気に入り、抱きしめなどしても、キョーコは黙って抱きしめられてしまうのだろうか・・・・。



――やっぱり、柔らかい抱き枕・・・買おうかな・・・・・・・・。



そう思って、少しだけ鈍い頭痛の残る疲れを癒すために、自らもベッドのシーツの皺の波の中に、キョーコの残したシーツの温度の中に・・・・・深く埋もれた。




2009.04.04