いつくしむ 15

いつくしむ【英嗣】

髪の色が変わっても、学校の人間たちはまるで興味が無い位の様子で、おはよう、変ったね、と、言った位だった。造られたものには興味があってもそれを生み出す側にはさして興味がない。奇抜な人間ばかりだから全てが個性。

唯一、佐保だけが驚いた顔をして「どうして」と言った。

「何となく変えてみたくて」

そう答えた英嗣に、佐保は信じられないという顔をしばらくして、誰か彼女が出来たのではないかと疑った。

それからしばらくして、学園祭があった。佐保が来る手はずになっていた。向かってる、と、随分前に連絡があったのに、時間になっても待ち合わせの場所に来ない。だから英嗣は少し入口に向かって歩いていく。

木陰に佐保がいた。

声をかけようとして、佐保が誰かに手を引かれて嫌がる姿が目に入り、英嗣はそれを見てから後の事は今でもあまりよく覚えていない。

女子高生が一人制服を着て歩いていたら。しかもその形が有名な制服だったなら。

学外の男たちかもしれない。集団になった男の餌食になっているように見えた。勝手に制服の写真を撮っている輩もいた。

佐保の周りに、沢山の人があつまり、絵を描かせてほしいだの、写真を撮らせてほしいだの、絵のモデルになってくれないかだの、沢山の声をかける人間たちに囲まれて困っている。

英嗣はもう衝動的にそれらのライオンの群れの中に突進していき、佐保の手を引いた。

「佐保」

「英嗣さん」

英嗣は佐保の手を強く掴んで引いた。それから、佐保の腕を掴んでいた男の元へ行き、襟をつかんで持ち上げて、凄んだ。あとで、佐保は、見たことが無い怖い顔だったと英嗣に言った。佐保に群がっていたライオンのような男性たちはその勢いに気おされたのか、一歩引いた。

「ごめんなさい、なんか一人お話を聞いたら沢山の方に捕まってしまって」

英嗣は怒り心頭で佐保の事さえ忘れて夢中で手を引いた。

気づいたらいつも英嗣が一人休憩をする場まで来ていたらしい。人のいない場所までたどり着いた。

はあ、はあ、と、佐保は少し息を切らしていた。

「ごめん佐保・・・」

「大丈夫。ごめんなさい、断ったのになんかついてきて」

人でも殺しそうな顔をしている英嗣を見て佐保は、手をぎゅう、と、両手で握った。

「あの・・・私はもう大丈夫ですから。お祭り、見に行きたい。英嗣さんの描いた絵、見たい」

「うん、ごめん。オレが気づかなかったらと思うと腹が立って・・・。アイツら描きたい絵に飢えてるから。一つモチーフを見つけてしまったらすごい勢いなんだ。それで佐保の写真を勝手に撮って勝手に作品にするのかと思うと・・・。入口で待ち合わせればよかった。腕、平気?」

佐保が腕を見ると、赤くなっていて、英嗣はもっとひどい形相になった。だから、佐保は英嗣の腕を全身で掴んで止めた。

「英嗣さん!大丈夫、大丈夫ですから。少し赤くなっただけで」

まるで佐保が犯罪にでも巻き込まれたかのように憤る英嗣を見て、佐保は落ち着いてもらわなければ、と、ぎゅう、と、体を抱きしめた。

「お願い英嗣さん、私は大丈夫」

強く抱きしめられる体の感覚で少しずつ理性を取り戻したころ、英嗣の知人の、クルミ、が、目の前を通り過ぎた。

「英嗣、やるなら校外にして。絵でも彫刻でもなんか作るのなら構わないけどこんな幼気な女子高生の裸婦モデルは無いと思うな」

「・・・・・・・」

「ごめんなさい」

と、佐保は一気に赤面して英嗣から離れて、クルミに言った。

英嗣は無言で視線をそらした。

それを見てクルミが、「英嗣の彼女?」と佐保に言った。

佐保は驚きと羞恥でフルフル、と、強く首を振った。

「オレの。手を出すな。クルミ」

「もしかして、彼女が、佐保、なんだ?」

「そう」

「そっか、『佐保ちゃん』、初めまして。オレは一柳クルミという名前で仕事をしています。話は英嗣からよく聞いているよ」

「はじめまして、佐保です。オレって、あのクルミさん」

佐保が英嗣を見上げる。クルミはロングヘアで、リボンやフリルが沢山あしらわれた可愛らしい白のロングワンピースを着ていて、まるでモデルのような背の高さがある。英嗣が髪の色を変える理由になった、新しくできた彼女ではないかと一瞬疑った。

「こいつは男。この容姿に騙されて信頼して服脱いでモデルやらないで」

「オレは男だよ。アタシ綺麗?」

「はい」

「これも芸術の一環。毛穴が無いのが究極の美。声も女性の高さに変えてる。こんにちは、佐保さん、こっちが地声」

「えっ・・・」

急に男性のような低い声を聞いて、佐保は驚いてまた英嗣を見上げた。

「こいつは声楽科なんだ。こっちの声で歌は歌う。自在に喉を操れる。今はナレーションとか声優の仕事もしてる」

「オペラとかって愛を囁くものも多いから、相手を口説くのが学業、仕事みたいなもの。 口説くのが上手なの、アタシ」

クルミは楽しそうにまた声を途中から女の子に戻して佐保に言った。

佐保はその声の違いに目をパチパチさせてクルミを見つめている。

「佐保に近づくなよ、クルミ」

「英ちゃんが相手してくれるならいいよ~」

「ダメです、英嗣さんは私のです」

佐保が少し怒ったように英嗣をぎゅうと抱きしめて言った。

それを見たクルミは吹き出して笑った。

「英嗣、佐保ちゃん、本当に最高なのね」

「だからダメだと言ってる」

「佐保ちゃん、英嗣とさ、もしダメんなったら言って。オレ地声になって化粧もやめて男に戻るから。オレ、男になるとモテすぎて困るからこんな格好をしているだけ。だから安心してね。英嗣よりいい男よ?」

佐保は嫌だとばかりに、フルフルっと勢いよく首を振り、まだ英嗣を抱きしめた。

「英嗣やばいねこの子。お前が見せたくないの分かる。気を付けないとホントすぐに持ってかれるよ」

「さっきも落ち合う前に既に十人位に囲まれてて、助け出してここまで来た」

「なるほどね~。分かる~。変なヤツいっぱいいるし、学校外の変な奴も来るし・・・。仕方ないよね~」

クルミは軽口を叩いた。

「佐保ちゃん、英嗣と手を繋いで学内回ったほうがいい。絶対別れちゃだめよ?それから、学校で誰に何を言われても、英嗣の後ろに隠れていればいいから」

「クルミ。余計な事を言うな」

「だってえ~。学祭でお前を捕まえたい女の子もいっぱい知ってるんだもお~ん。アタシ女の子の恋の相談も受けちゃうからあ~」

「クルミ」

英嗣は強く止めるように名前を呼び、佐保は黙ってうつむいた。

「佐保ちゃん、でもね、英嗣は決して佐保ちゃんを悲しませるような事はしてないよ。アタシがそこは保証する。全部断っているから」

「クルミさん・・・」

「黙っていればひと時の恋の一度や二度なんて全然分からないのにさあ。学内も学外も女の子の告白全部断るんだもん。でもまあ英ちゃんと付き合った気分の女の子がお店に押しかけたりしても、ね。佐保ちゃんがお店に遊びに来ている時に来たら可哀想だもんね」

「クルミ」

「あ、英ちゃんが本気で怒った。良いもの見たけどそろそろ退散しようっと。じゃあね、佐保ちゃん。英嗣のお店また行くね。また会おうね~」

両手で投げキッスをしながらクルミはどこかへ向かって行った。

手が付けられない程怒っていた英嗣をなだめたのはクルミだった。

佐保は、「英嗣さん、クルミさんて、英嗣さんの事が好きなんですね」、と、言った。英嗣は、「違う。アイツはいつもああなんだ」とだけ答えた。だから「クルミさんでも英嗣さんはダメですけど」と笑った。

改めて手を繋いで校内を歩いた。

あの英嗣が誰かを連れている、しかも女子高生かよ、嘘だ、という声が方々から聞こえた。

見比べる視線を感じない事の方が少なかった。

「英嗣さん、制服着てきてしまってごめんなさい。私服にして大学生のフリをすればよかったです」

「いや?家族を連れて何が悪いの。所属や恰好で人が決まる訳じゃないだろ」

「でも」

「それに、これでオレは面倒事からしばらく離れられるし」

「え?」

「彼女がいる、そう宣伝しておけば、と前にクルミが言っていた。今日も大いに見せつけてやれって事だろ」

「そんな。家族、ですけどね」

「オレの最も大切にしている子。彼女とかそんな軽い言葉で括りたくない。誰にも譲らない」

「英嗣さん」

佐保は照れながら笑った。

英嗣が、あれがオレの絵、と、言った途端に、佐保は強く英嗣の手を握った。

描かれた佐保の絵。

「ずっと、帰ってこなかった理由はこれなんですね」

「最後泊りがけで描いていたから」

「彼女が出来たんだと、思っていました・・・」

「心配した?ごめん」

「いいえ。いいんです、約束まで時間があるから、もし他の方ができたら私は、」

と言った所で英嗣は佐保の唇にそっと唇を置いて、すぐに離れた。

佐保が驚いて目が大きく見開いた。

横で絵を眺めていた周りの人間も佐保と同じように驚いた。

佐保から出てくるであろう言葉を英嗣は止めた。

いきなりの事で、照れた佐保は顔を英嗣の腕に隠した。

「佐保しか描けない」

「本当にいつも私にそっくり」

しばらく見ていると、流れていく周りの人間も佐保に気づいて、「そっくり!」と言った。

佐保は言われた通り英嗣の後ろに隠れながら頭を下げて、にこり、と、笑うにとどめた。

英嗣が佐保を引き寄せて、腕の中に入れた。

周囲の視線がまた刺さるのを佐保は肌で感じた。

「英嗣さん?」

「出来て良かった。ありがとう佐保」

「私は何も」

今度は頭頂に唇を落とした英嗣に、佐保は赤面してまた腕に顔を隠した。

「佐保だから描ける」

「英嗣さん、私、これ欲しいです。部屋に飾りたい」

「うん、もちろん」

英嗣は佐保の手を再度握ると、他のブースに向かった。


******




蓮は自宅まであまり話をしなかった。蓮が何かを思う時、あまり話をしない。ハルに散々あれこれされた場面を見ている。蓮が何かを思っていても仕方がない。もう慣れたものだ。キョーコも黙っていた。車の中から見える風景をただぼんやりと眺めていた。

キョーコにお茶を入れて置いたところで、蓮は口を開いた。

「少し前くらいの佐保も描いておきたいんだけど・・・。ちょうど高校生ぐらいの君の絵。大学の学祭だっけ、展示用のやつ」

「はい。制服を着た写真は、スチール撮ってあります。・・・これです。いつか使うかもしれないと思って持っていました」

キョーコはバッグの中からもらった写真を蓮に渡した。

「制服姿、なんだか懐かしいね。髪が黒かったらこんな感じだったんだね、きっと」

「・・・もし芸能界に入っていなければ、こんな感じの高校生だったかもしれません。中学生の時こんな感じだったので。でもなんだか、五歳も下の役をやるのは申し訳なくて・・・。でも、これから何歳か上もやるので大丈夫ですよね?」

「そんな事言ったらオレ、これから、記憶用の学生時代撮るんだけど。もう十歳近く差がある。今度制服着て撮る予定。オレもスチール撮ったけど気にしてなかったから貰ってない。ごめんね」

「敦賀さんの制服!」

キョーコは興味がわいたように目を輝かせた。蓮はそれを見て、しばらく何かを思い出すように視線を彷徨わせた。

「・・・制服の仕事をしたことがない訳じゃないけど」

「え、見たいです」

「確かその時の写真の雑誌も貰ったはずだよ。見てくるから少し待っていてくれる?」

蓮が少し探しに行き、戻ってきて、キョーコに一冊の雑誌を渡した。

「・・・・・」

キョーコは蓮の載ったページを見て、何も言葉にならなかった。

「それで描く?それとも実物を待つ?」

「・・・・・」

「どうかした?」

キョーコが何も言わないのを見て、蓮は声をかけた。

「・・・敦賀さん・・・」

キョーコはじっと蓮を見つめた。少し泣きそうな顔で。

「うん?」

「これは、等身大の、敦賀さんの十七歳の頃ですか?」

「そう。最上さんに会うより少し前じゃないかな」

「そう、ですか」

キョーコは何かが胸がいっぱいで、何も言う事が出来なかった。蓮の十七歳の頃。可愛いとかカッコいいとかそんな単純な言葉では当てはまらない何かが強烈に匂い立つような。

キョーコが蓮に会ったのは十六歳の時。その時にこんなエネルギーを持っていただろうかと考える。蓮の十七歳の頃は、人並外れたエネルギーの塊のようないで立ち。

物憂げな表情をする写真ばかり。一体どんな仕事を。

「これは、映画の内容での場面を抜いた写真だよ」

「はい、わかっています」

等身大の十七歳の蓮に会ってみたかった、と、キョーコは思った。この、誰も寄せ付けないような雰囲気の蓮に触れたら、どんな気持ちがしただろう。

「そういえば」

そう言って、蓮がキョーコの横に座る。近い距離に顔を寄せて、ページをめくる。キョーコは思わず近さにどきりとした。

「ハルの昔。この時も一緒に仕事したんだよ」

「あ・・・」

ハルが蓮と、有名な女優達と綺麗な笑顔で写っている。

「これも夜中にやっていたオムニバスドラマの延長で、映画だったんだけどね。オレはこの女優さんとの仕事で、ハルはこっちの子と。ドラマで描けなかった少し深い部分を映画でやったよ」

「そう、なんですね・・・」

蓮もハルも、十七歳とは思えない雰囲気で、気おされるような気さえする。

「これ、お借りしてもいいですか?」

「うん」

「雑誌、コピーしてもいいですか?」

「どうぞご自由に」

「描くのは、実際の敦賀さんを見てからにします。今の監督さんがどの敦賀さんの雰囲気を求めているのか分からないので・・・。でも体つきとか雰囲気は、こっちの方が年齢らしさが出ると思うので、お借りしたいです」

「うん」

しばらく二人は描き続けて、夜中になって蓮がシャワーを浴びに行き、その後キョーコがシャワーを浴びた。

*

もう、まるで共に暮らすかのように毎日描き続けた。

でも、それは本当に共同作業だった。

時々蓮がキョーコの絵を見て何かを言い、キョーコがそれを言う。それだけだった。何も、無かった。

でも、キョーコにとっては、それは深い救いだった。

仕事に集中したい。でも、蓮とも共にいたい。両方とも叶う優しい時間だった。

でも、ある日、蓮の手がキョーコの肌に触れて、キョーコの体が大きく硬直したから、蓮もさすがに気づいて、声をかけた。

「オレが、怖い?何かされそうで」

「いいえ。感謝しかないです。敦賀さん、最近は、本当に何もしないですし」

「・・・何も出来なくなったんだ。ハルのしたことを見ていて。オレも、同じことをした。本当にごめん。ハルの事は何も言えない」

「いいえ、あの」

蓮に何かをされても嫌ではない。

でもそれを伝える事は少しおかしな話だ。

好きだと言われている事への返事をしていない。

「ハル、本当に君が好きなんだね」

蓮は、にっこり、と、笑った。

「よかったね。ハルも確か今何かのランキングに入っていたと思ったよ。アイツより上だったかな、忘れてしまったけど。でもハルは公開で言うなんて勇気があるね。本当に好きなんだね」

「・・・・・」

蓮の声はいつもと同じように優しい声なのに、全く優しくない気持ちがした。

どこか責められているような、まるで他人事のような。

キョーコがハルを選ぶならそれでいいとでもいうような。

「なんで怒っていらっしゃる・・・のですか」

「怒ってない。羨ましいだけ」

「えっと、何が、でしょう」

「なんだろうね。見せつけられることに腹が立つんじゃないかな。オレも好きだと言ったのを忘れている?」

「いいえ・・・」

「でも、確かに君が好きな相手に早くフラれてきてくれたら、オレが入る隙間も少しは空くのかもしれないけど」

「皆さん本当にひどいですね、フラれろフラれろって、もう。人の恋を何だと思っているんでしょう・・・」

キョーコは好きな人を前に、可愛らしくなく、ぷくう、と、頬を膨らませた。

「うまくいってしまったらオレはもう入る隙間が無いから。さすがにそうなったら諦めなきゃいけないね」

「・・・・」

「不破は元気」

「適当にやってるんじゃないでしょうか、もう、必要ない限り殆ど連絡しませんから。単なる共に育った幼馴染、というだけですし」

「いい思い出になった?」

「いい、思い出?」

「好きで、すごく愛して、そして、別れた」

「別れていません、付き合ってもいないので」

「そっか。そうだね。別れていないんだね。離れただけで。家族同然だったんだもんな」

蓮はとても可笑しそうに笑った。

でも、蓮にもキョーコとの幼馴染のような記憶がある。仕方なく離れただけで別れたわけではなく、また会う約束のあるほんの短い間の幼馴染と言えるかどうかも分からない「懐かしい女の子の記憶」がある。キョーコも会いたいと望んでくれている姿。別れる必要のない、愛おしい記憶。その話を、この姿ならもうしてもいいのではないかと、覚悟を決めてから時々思っていた。もう目を見つめて、口説き落としてしまいたい気持ちになる。

でも、キョーコには好きな相手がいる、という言葉が、蓮の勇気を一瞬怯ませた。

そして出て来る言葉はいつもの通り、もう一人の幼馴染への嫉妬心だけ。

「羨ましいね。どんなに行いが酷くても別れる必要が無いんだね。アイツとだけは」

言ってからざらりとする言葉。でも、キョーコは意に介せずにさらりと流した。

「でも、もう関係はありませんから。いい思い出だったかどうかは死ぬ時に分かる位で」

「そう」

さらりと流す程、キョーコは人生初めて沢山の相手から告白を受けて頭がいっぱいだった。最早不破尚の事はすっかり忘れている。ずっと勝手に生きてきたのだからこれからも適当に勝手に生きてくれればいいと思っている。

返事を待っている蓮が、あえて返事を聞かない事に甘えている間にさらに人が入ってくる。ここ数カ月、一体何人に言われただろう。全部、好きな人がいて、と、言って断った。それでもハルなどは全く受け入れずに保留になっている。そしてまだ返事を待っている人間が他にもまだ何人も目の前に並んでいる。

そんなおこがましい状況をどうしたらよいのだろう。

少なくとも自分よりは随分と言われ慣れているだろう蓮にどう断れば仕事に差し支えが出ないのか相談したかったけれども、その蓮も(一応)待ってくれているかもしれないのだから聞けなかった。

奏江なら「好きじゃないなら断ればいいじゃない(以上)。好きならイエスと言えば」位しか言わないだろう。

言われ慣れてしまえばいい事なのだろうか。

そうすれば、さらりと、ありがとうございます、とでも言えるのだろうか。

なぜ好きになってもらえたのか分からない。

自分とどうしたいのかも。

所謂恋人なるもの、手を繋ぐとか、デートをするとか、それから・・・。そういう事をしたいという意味なのだろうか。

――敦賀さんも?

想像しただけで、照れて体が熱くなった。

ハルの言葉ではどこか他人事で、体には起きなかった反応が起こる。体は全てを知っている。全ての答えは出ている事を改めて知る。

そして、その後、どうしたいのかをさらに考えて、いつか終わりが来る事も想像した。

涙が出る程悲しい。喉が焼き付くようだ。

何のきっかけかは分からないけれども、ケンカするのか、他に好きな子が出来るのか、飽きたのか、自然の流れか。

蓮が別れたいと切り出す場面を想像して、また体が冷たくなった。涙が浮かぶ。その場面がドラマではなく現実に目の前に出てきたとき、耐えられるだろうか。

笑って、笑顔で、蓮が望むならば仕方ないと送り出せるだろうか。恐らくいつかの別れを切り出すのは自分ではないだろうと思う。

「最上さん?」

まるで置物か彫像のよう。真っ青な顔で呆然と立ち尽くすキョーコに、蓮は思わず声をかけた。

蓮は小さく首を左右に振った。

「最上さん、もう、休もうか」

「すみません」

まるで何かの呪いの呪縛から解けたかのようにキョーコは蓮を見た。

「敦賀さん・・・」

キョーコは、蓮の背中側に立つと、一度、ぎゅう、と、抱きしめた。

「ごめんなさい」

「それは、断られたという意味?」

「いいえ」

「じゃあ」

「お返事もしていないのに、ごめんなさい。私に今できる最大限の事は、これが精いっぱいなのと・・・」

そう言ってから、蓮の体の正面に入り込み、一度ぎゅう、と、抱きしめた。蓮の体が硬直するのが分かる。でも、そっと、とてもそっと、蓮はキョーコを腕の中に入れた。

「ハルさんにキスをされた時には何も感じなかったんです。でも、あの、敦賀さん、止めて下さって、なんだかとても怒って下さって、嬉しかったです。ハルさんは、あえて敦賀さんのいる所でした事は分かっているんです。そして。あの。そのあと、なぜか、英嗣さんに触り直して欲しいなって思って・・・」

キョーコはじっと蓮を見た。

蓮もキョーコを見つめる。

「見ていて嫌だった。誰かのものになる姿なんて見たくない。でも、オレも外から見ればああしているのかと思ったら、怖くなって触れられなくなった」

「・・・敦賀さん。ハルさんにされて嫌だったので・・・少しだけ、英嗣さんとしてで構いませんので、キスしてくださいませんか・・・」

キョーコにとってはなぜそんな言葉が出たのか分からなかった。

ハルにキスされてから、蓮に触れたいと思っていたのは確かだった。だから、蓮とキスをし直したい、そう思ったのだろうか、と、後で思った。言ってから自分でも驚いた。蓮の心を利用して・・・。

蓮は迷う事なく聞き終わるとすぐにキョーコの唇を覆った。

ハルと同じように、ハルがしたように、蓮もした。少しだけ、私情が混ざった。蓮にとっては少しだけ、キョーコにとっては大いに混ざったように感じたけれども・・・。

キョーコが苦しくて、ドキドキしすぎて、目を回した。蓮の腕がキョーコを支えた。蓮の唇も舌先も、甘く恋しく動いた。まるで、恋人にするように・・・。今までと全然違う。甘い声がキョーコから漏れた。蓮が唇を離すと、キョーコは息を詰めすぎて苦しくて、肩で息をした。

「これでいい?」

キョーコは何度もカクカク首を動かして頷いた。

「英嗣さんとは、ドラマでも何度もしましたけど・・・やっぱり大丈夫みたいです」

キョーコはそれだけ、言った。

「なんか生き地獄を味わう気持ち。もっとしたい英嗣の気持ちがすごくよく分かる」

「佐保ですから」

「答え、欲しいな」

「まだまだです」

キョーコは上目遣いで恐る恐る言った。

「恋愛上手だね。ハルのはすぐに断ったのに。オレは二番目になれた?永遠に相手には言わないなら、オレは一番目にいつかなれる?」

蓮はキョーコの頬に手を置いた。

蓮はもっとキスがしたくて、好きだという視線だけ、キョーコに注ぎ続けた。

まるでまたキスでもされそう、そんな事を思って少し身を固くしたキョーコの体の動きがそのまま蓮に伝わる。

蓮は、可笑しそうに笑って、「そんなに緊張しなくても」と言いながら、キョーコをくるり、と、後ろ向きにして、背中から思いきり抱き締めた。

「後ろからなら、いいんだろ?」

「・・・・」

耳まで真っ赤になったキョーコの、とても速い胸の鼓動が蓮の指先にも伝わる。

「好きだよ。・・・ねえ、オレの言葉は、本当の意味できちんと伝わっている?」

と、改めて蓮は言った。

キョーコはゆっくりと、とてもゆっくりと、一度頷いた。
蓮が「今は」本当に好きでいてくれるかもしれないと思う。

蓮が、キョーコの首筋に唇を置く。舌先を這わせると、キョーコが思い切り身を固くした。キョーコの唇とは出来ない蓮のしたかったキスを、蓮はキョーコの首筋にした。何度も何度も蓮の唇はキョーコの首筋を甘く優しく吸った。濡れた首筋を蓮は自分の腕のシャツで拭い、蓮に愛されて少し赤くなった首筋に、ごめん、と言って抱きしめた。

「好きだよ。もっとキスしたいけどできないからこっちにした。ごめん。ダメなんだ、本当に好きで、誰にも言わない恋の次に好きでいてくれるならと思うと、早くオレのものにしたくて腕の中にいたらどうにもならない」

キョーコの最大限に早くなっている鼓動が蓮にも伝わっている。これは、好きだという意味ではないのだろうか?そんな事を蓮は思う。

「大丈夫、キスの痕はつけてないよ」

「・・・キスして欲しいなんて軽々しく言ってごめんなさい・・・」

「どんなに好きでも、どんなに愛していても、誰かの一番にはなれない悲しみを知るのもまた、仕事にとっては大事な事なのかな・・・神様に本当の愛情を試されているのかな・・・。でも、好きで、愛してる。ハルには嫉妬するし、嫌がられてもキスしたい。もっと、もっと、純粋に愛せたらいいと思うのに。愛するってもっとやさしい気持ちになれたらいいのにね。全然なれない。抱きしめたいしキスしたい」

蓮はぽつぽつ話して、一度強く抱きしめて、もう一度、首筋にキスをして、耳元に直接「好き、その永遠に言わない相手から奪いたい」と言ってから、キョーコを離した。

キョーコは、体が崩れ落ちるかと思った。あまりに強く抱きしめられ、愛おしく触れられ、優しく囁かれると全てがもうどうでもよくなって、そのまま蓮に全てを委ね、蓮のあまりに強く伝わる気持ち流されてしまいたいような気持になった。

でも、蓮が、恋愛体勢を解くと同時に、いつもの蓮のように冷静に戻った。

「ハルを好きになるなら、それはそれでいいよ」

「・・・敦賀さん?」

「嫌だよ、もちろん。もしそうなったとしても、オレは君がハルと別れるのを待ってる気がするけど、もし君がハルと結婚したい程彼を愛するなら、その時は諦めて祝福するよ」

キョーコは、言葉にならずに、ふるふる、と、首を振った。
今、甘く激しく恋を告げた蓮の言葉は一体どこへ行ってしまったというのだろう。
どうしてそんな事を言うのだろう。
蓮の、キョーコの気持ちを優先すると言いながら、ハルへの嫉妬しか感じない言葉。
どうにもならない気持ちが、蓮の中で渦巻いているのだろうか。
キョーコの、苦しげな表情を見た蓮は、キョーコの手を取って、蓮の胸に置いた。
とても、心臓の鼓動が早い。蓮が緊張している。
キョーコもどきりとして蓮を見つめた。
見つめられて蓮も首を振った。

蓮は、キスをするのかと思った。
でも、無言で、キョーコを見つめ続けた。
何を話すでもなく、二人は三分は見つめ合っていた。
その沈黙をキョーコが先に破った。

「これから、私は、年末年始の別のドラマの撮影のためにしばらく別の所へ行きます。しばらく、ここへは来られません・・・」

「・・・そう。がんばってね。何かあったら連絡くれれば」

「はい・・・。あの」

「うん?」

「ハルさんが、何か昔のお仕事の映像を下さるそうなんです。一緒に、見て頂けませんか?私の下宿先の部屋にテレビがなくて・・・内容が分からないので、女将さんの前で見るのは少し気が引ける気がして・・・」

「うん、いいよ。持ってきてくれれば」

蓮は即答した。
蓮の胸に置かれていた手は解かれて、蓮はいつもの「穏やかな」蓮の顔に戻った。まるで嘘のように、綺麗に感情を隠されている感じがした。全て拒絶されたような気持がして、今、あんなに激しく抱きしめられていたことがまるで嘘のようだった。

「ありがとう、ございます。なぜハルさんが私にそれを渡したいと思ったのか、一緒に見て頂けたらと思うんです・・・私に理解しきれるでしょうか・・・?ホラー映画だったらすみません・・・一人で見るのはもっと怖いです・・・」

「さあ、どういう意味だろうね。分からないけど、何でもいいよ」

キョーコはまた会える約束を取り付けるために、無理やり理由をつけた。

次の仕事の後はもう年末に近いし、蓮も忙しい時期。

少し重い仕事を終えたご褒美に、年内にもう一度会いたい、ただそれだけの理由のために。ある意味でハルを利用した。

「もう撮り終えたし、次会う時にはこの髪の色も元に戻してしまうけど」

蓮は自分の髪に触れながらキョーコに言った。

「はい・・・残念です・・・綺麗なのに」

「描けそう?」

「多分・・・でも最後に一枚だけ写真を下さい。次の仕事はしばらく一人住まいなので、その間に描いてみます」

キョーコはまた理由をつけて、蓮の写真を携帯電話の中のカメラに収めた。

もう、見る事が出来ない姿の見納めに。

蓮はさすがに携帯電話のカメラでも綺麗に撮られる術を心得ていて、キョーコに何枚も撮るように言い、色々な英嗣らしい表情とポーズを取った。

そのたびにシャッターを切った。

撮れた写真を二人で見て、意見が一致した写真。

「これだね」

「はい」

「英嗣さんらしいです」

「じゃあこれで」

蓮はキョーコに自然に英嗣の顔でにこり、と、笑った。

キョーコはどきり、として、うつむいた。

互いに同じものを好きだと意見が合ったで、喜んでしまう。

蓮に笑顔で拒絶されるだけで、心は悲しくなってしまう。

蓮が笑うだけで、どきりとして、緊張してしまう。

本当に単純だと思う。

この笑顔は本当に自分を好きなのだろうか。

どうしてあんなに激しく恋を吐露してくれるのに、すぐにまるで他人のようになるのだろう。佐保だから好きなのではないかと、相変わらず疑ってしまう。

描く絵は決まったけれど、残りの写真を消さないでおきたくて、キョーコはこっそりと携帯電話の画面を閉じた。

「今度はどこへ行くの」

「京都です」

「地元だね」

「ええ、絵にも仕事にも集中したいので、短期の賃貸マンションなんですけど、お部屋を借りる事にしました」

「そっか。どんな仕事?」

「・・・京都の女将さん役です。主役じゃないですけど。京言葉が話せるのでお気に召して頂けたのと、やっぱり型を知っているせいか、監督さんが所作を気に入って下さって。抜擢頂きました。やっぱりこの型から逃れられないというか助けられている運命みたいで・・・でも、型を教えて頂けたのは、一朝一夕ではできないので、ありがたいですね・・・」

「そっか・・・。でも少し複雑?」

「最初はそう思いましたけど、でも頂いたからには全力で頑張ります!!」

「そうだね。最上さんの京言葉をテレビで聞くの楽しみにしてる」

「はい」

「オレも京都会いに行こうかな。行っていい?」

「へ?二週間くらいですよ?」

「・・・うん。大阪での仕事もあるから寄れたら寄りたいなって。一人暮らしの最上さんの所に行ったらいけないかな、やっぱり。会いたいと思ったらいけないかな。それとも、最上さんが好きな人が部屋に来る予定なのかな」

蓮はまっすぐにキョーコを見て言った。

「いえ・・・誰も来ません・・・敦賀さんに来て頂けるのは嬉しいですけど・・・。誰か他の人は来ませんよ・・・?」

キョーコは蓮の目を見ながら、ぽつりぽつりと話した。

蓮が自分に他の男性の影があるのかと探りを入れてくるのが不思議な気持ちがした。

「初めてじゃない?外で一人で暮らすの」

「はい。少し、一人暮らしの練習をしてみようと思ってます」

蓮はキョーコをだるまやまで送り、そして、帰り際、キョーコが礼を言い、出ようとした所を腕を引き、そっと唇を重ねるだけのキスをした。

「好き」

と蓮は言い、

「オレも好きだという事を忘れないで。そのうち行く」

と、加えた。蓮が見たことが無い程あまりに真剣な目で言うから、キョーコも真っ赤になって何も言えず、ただ、ぺこり、と、に、キョーコは慌ててドアを開けた。

「ありがとうございました」

と深々挨拶をする位で、蓮のおやすみという声を聞いて車のドアを閉めた。






2019.8.8