Daydream29

29. Sonate fur Klavier Nr.26 ‘ Lebewohl, ‘ op.8la ピアノソナタ第二十六番 第二楽章「不在」

【レオ】

「レオ君。君、日本に残ったらどうだ。臨時ではなく正式にオレの所へ来いよ」

半年ぐらい経ちこの学校に慣れた頃、学長がそう言ってくれた。

正直迷った。いい学校。日本の住み心地も悪くない。

調律の仕事と、調子の悪いピアノさえあれば、オレは食べていける。

学校で調律の実践講義と語学を、臨時講師として教えていた。キョーコも調律を実践で学びたいと言ったが、実践は断った。手伝って下手に指を傷める必要はない。ただし、毎日音程を聞き分ける仕事だけは、傍で見て続けている。キョーコの耳はいい。それは、オレの話す言葉を覚えるのにも役立っているようだった。「これが聞き取れた」と言っては、紙に不思議な単語を綴り、「何と言っているの?」と繰り返す。

近い将来・・・イタリアで・・・じーさんにつく事が分かっているから、あえて全てイタリア語で話しかけてはまた英語で言いなおし、そしてキョーコに日本語で言い直してもらう、そんな会話を繰り返していた。

半年の間、彼女は、練習と大学の合間にテレビの仕事をしていた。ドラマでの挿入曲を弾いて欲しい、指だけの撮影に入って欲しい、そう言われてやることになったようだ。裏には学長の薦めがあったらしい。日本に戻ってきてしばらく、次に目指すコンクールに迷っていた彼女に、気晴らしにと、学長が手を回したようだった。

彼女について回り、まるでマネージャーのようにキョーコの傍にいた。撮影の為にテレビ局に一緒に電車で付き添いで行くと、「モデルをしませんか?」と路上で声を掛けられる。キョーコが、「もう所属していますから」と、日本語でまるでオレのマネージャーのように逆に断りを入れてくれる。そして、逆に現場で軽そうな俳優に、素人だと思って気安く話しかけられ付き合うよう口説かれていたキョーコに「彼女に触るな」と制した。オレの背はこんな時は役に立つようだ。上から見下ろし、サングラス越しに声を低くして、そして極め付けに英語ですごめばいい。彼女を護るのに苦労はしなかった。冷たい目をするオレに、オレの人格が違うと、キョーコは少し驚いたような顔をした。だから「きっとレンでも同じ事をするよ」と付け加えた。

そうして、最上キョーコとしてではなく、京子としてCDデビューを果たしていた。世界での目標を果たしてから世界に出たかったらしい彼女にとって、それは不本意だったかもしれなかった。でも彼女は、「いつか本名で出せる日を目指します」そう言っていた。そして見本版で来たCDに『あなたのキョーコより、あなたへ』とサインを入れて、「このCDを・・・イタリアで敦賀さんに会ったら渡してください」そう言って、モデルの仕事でイタリアへ一時帰国することになった日に、渡された。「喜ぶよ、きっと」と伝えた。

「・・・魅力的なお話ですが・・・・。イタリアにもオレが国を代表してやらなければならない仕事があるので、授業を数年続ける事は無理です」

「そうか、残念だな・・・」

「でも、彼らがイタリアに留学したいと言う時には、オレを指名してくださればいくらでもお教えします。オレ以外にもっといい教師はいます。それも紹介できる」

「そうだな。留学先の一つに君を加えよう。頼むよ」

「こちらこそ」

「・・・・・・・とりあえずまた日本に戻ってくるのは一ヵ月後だったな?秋まではいられるんだろ?」

「ええ。ただ・・・・レンに頼まれたキョーコ・・・を、一人置いていくのが心配なんです」

「大丈夫だろう。子供じゃねーんだ。あの子はもう、一人でも大丈夫だよ」

学長は、先生に任せておけ、と言っていた。

イタリアに戻り、レンにCDを渡すと、彼は珍しく表情を崩した。柔らかに微笑み、「ありがとう」と言った。普段表情をあまり変えない彼が、オレに――・・・というよりCDの向こうに向かってだろう・・・――微笑む。心の底から嬉しかったのだろう。「オレの公演のDVDを彼女に渡しておいて」と言って、今度は逆にレンがサインを入れたDVDを預かった。彼らは長い手紙を書くでもなく、名前と自分の作品だけで、全ての会話をしているようだった。

日本に戻り、キョーコを探すと、彼女は自分の部屋にはいなかった。隣のレンの部屋の明かりが、ついていた。彼が日本にいるわけは無い。キョーコだろう。

「ただいま」

「・・・・つっ・・・・・レオさん!お帰りなさいっ。イタリアは楽しかったですか?」

一瞬だけ見せた、心の底からの目の輝き。

彼女がオレを誰と勘違いをしたかなんて、目に見えている。

もちろん、オレが戻って来て嬉しそうな顔はしてくれたが、明らかに、オレではさせられない表情の一つだったのだろう。彼女は心から、待っている。「彼」が日本へ寄ることを。

「キョーコ!レンからプレゼント。デビューおめでとうっていってた」

久しぶりに使った日本語は、キョーコに通じただろうか?

彼女が見せたのも、柔らかな微笑だった。

レンとキョーコは、徐々に見せる表情が似てきたのではないだろうか?

すぐにレンの部屋のデッキにセットして、彼女は見始めた。

画面の中のレンの演奏を、目を閉じて聞いている。

レンをあまり見ようとはせずに、じっと耳を済ませていた。

「相変わらず・・・悔しいぐらいにリズムも解釈も綺麗に整っていますね・・・」

メイン演奏が終わった後に、一言だけ、そう言った。

そしてアンコールで弾いた「愛の夢」を、何回かリピートして見ていた。

DVDを取り出すと、「レオさん、おやすみなさい。何かあったら携帯で呼んで下さい」それだけオレに言い、無言で横をすり抜け、部屋を出て行った。

こちらに来てすぐに住む場所が無かったけれども、レンが居ていいと言うから、そのままレンの部屋に居候していた。ピアノがあるし、眠れる場所があるだけで十分。ベッドも不自然だけれどもリビングに置いてある。レンとキョーコの寝室へ入る気はしなかった。

キョーコがこの半年この部屋に一人で入る事は無かった。必ずオレと一緒に。

この部屋の合鍵を持っているからといって、今の彼女にこの部屋に入る理由は特に無い。この部屋で生活するオレがいなかった一月、彼女は何を思ってこの部屋に一人でいたのだろうか。

レンのピアノの置いてある部屋に入ると、譜面台に楽譜が乗っていた。

キョーコの部屋にだって、レンから貰ったピアノはある。

しかしそれでも、「ここで」弾きたかったのだろう。

譜面台に乗せられていたのは「キョーコちゃんが泣きやむ歌」の譜面。

この一ヶ月、一人でどれだけこの部屋で過ごしていたのだろうか。

ふと横を見ると、レンの譜面がしまわれた棚に違和感を覚えた。

明らかに普段のレンの仕分け方と違う。しかも棚の左右のバランスが悪い。左側が多く、右側が少ない。

開いていた扉から、楽譜の一つを手に取る。もう一つ。もう一つ・・・・。

ぱらぱらぱら・・・とページをめくると、最後のページに丸印がついている。ところどころ解釈や記号が丸で囲ってあるところもある。レンは譜面に必要以上の事を書き込むことはしない男だから、これはキョーコが書いたのだろう。棚の左側にしまわれたものには全て最後のページに丸がついていた。右側も同様に見てみた。丸印はない。

――たった一月でこれだけの楽譜を習得したのか・・・?

レンが「彼女に無理はさせるな」といった意味が少しだけ分かった気がした。オレは単に彼女を気遣った言葉なのだと思ったが、本当に彼女の指を壊さないように、の意味だったのだと・・・。

レンに追いつきたい、それだけなのだろう。コンクールで成績を収めたレンがこれらの楽譜を彼の歳で弾けるなら、自分も弾きたいと思っただろうことは、目に見えていた。

あるとき、賞を取る事をピアノを弾く目的にしてはいけないと、彼女に言った。それを言ったとき、彼女はオレを見ながら、「敦賀さんも同じ事を言っていました」と、苦笑いを浮かべながら、教えてくれた事がある。それでも、彼女は、「賞を取って・・・どうしても会いたい人がいるんです。取ったら会おうって約束をしているんです。・・・約束を果たしたくて・・・。その約束が最終目的ではないですけど・・・・」彼女は、途切れ途切れ、ゆっくりとそれだけオレに言っていた。

右側に並んだ楽譜は少ない。もちろん、今まで自分で弾いて習得してある楽譜もあるのだろうが、それにしたって左側が明らかに詰まりすぎで、ずいぶんバランスの悪い棚になっている。

すぐに、携帯でキョーコに電話をかけた。

――ルルルルルル・・・・・

「キョーコ?オレだよ。起きてる?」

「レオさん?どうしたんですか???」

「無理をしたら、ダメだよ」

「していませんよ?」

「指を壊したら、約束は、果たせない」

「・・・・・・・・・・」

「オレがいないところで、相当練習をしただろう?楽譜のしまってある棚を見たよ。左側・・・いくらなんでも弾きすぎだよ。レンでも怒る。だから代わりにオレが怒る」

「はい・・・・」

「数をこなしたから上手くなるわけではない。もちろんコンクールに持っていける数はある程度無ければならないだろう。だけど・・・レンも一時期そうだったから君にも言うけどね。その曲への解釈と感情が籠らなければ何を弾いてもただの音の並びだよ。音符の一つ一つ、作曲者解釈、教える先生の解釈、そして君の解釈、全てが交わって溶けて、君だけの音に変わる」

「・・・・私の、音」

「この作曲家の曲を弾かせたら右に出るものはいない、そんなのがあってもいい。君が好きな愛の夢、それだけでもね」

「はい・・・・」

「今度聞かせて・・・愛の夢」

「はい、もちろん」

――トントン・・・

何か違和感を覚える音がした。防音の部屋は、それじゃなくても外の音が聞き取りにくい。開いていたはずの扉を叩く音。軽く身構えて、部屋の入り口を振り返る。「やあ」と言ったのは。

「レ・・・・・・・・・・」

「レオさん?もしもし??どうしたんです?電話が遠いみたいで・・・・」

「あ、あぁ・・・ごめん・・・。キョーコ。今から君への土産・・・・もう一つあるんだけど・・・・渡し忘れていたから・・・・今からそっち行っていいかな?」

「えぇ?どうぞ・・・?」

「じゃあ少ししたら行くよ。おやすみ・・・キョーコ」

「おやすみなさい????」

プツリ、と急いで切った携帯を耳から離すと、その声の主は、つかつかと、棚の前に立ち、オレの会話を聞いていたのか、「確かにオレでも怒るね。コレからお仕置きかな・・・」と棚の、変わった配置を見てそう言った。

「何で帰って来るんだ」

「オレの部屋だもん」

「こないだ向こうでそんな事言ってなかっただろ」

「お願いして・・・少しだけ時間がとれたから。また少ししたら別の国だよ」

――たった少し取れた時間を、彼女のために・・・・・。

羨ましかった。

待って待って、心から待っていてくれる彼女と、会いに来る彼。

オレにもいつか、現れるだろうか・・・・この自らに課したゲームの終わりを告げてくれる誰かが・・・・。

「・・・・・・ソレ」

「・・・・・・・?」

譜面台の上を指差した。

「お前のフランスの部屋から貰ったのを・・・キョーコに渡した。お前の小さい頃の字のようだったから・・・それをキョーコに見せてあげようと思って・・・・たまたま手にしたのがそれだった」

「・・・・・・・・」

「唯一、この半年で・・・・彼女を泣かせた。あとは泣いてない・・・・オレの見ている範囲では、だけどね」

「まったく・・・お前は・・・・・」

このあと、彼女は心の底から目を輝かせ、きっと久しぶりに泣くだろう。

目に浮かぶようだった。

そしてまた一晩じゅうウサギ目になっているだろう。

レンは、ふぅ・・・と息を吐いて、懐かしそうに、その楽譜に目を通す。

「これの話は、聞いた?」

「あぁ。少しだけ。お前と彼女の思い出の曲なんだろ?」

彼はふっと笑うと、「なんだかこの家はこの譜面棚以外・・・ちっとも変わってないみたいだね。お前好みの部屋にしていいのに」、そう言って、その譜面台に置かれていた色褪せた楽譜を持って、出て行った。

今はまだ春休み。学生の時間は、たっぷりある。この一ヶ月・・・・いや、この半年、すっかりピアノ漬けになっていたキョーコにとって、「彼」程効く薬は無いだろう。

たまにはピアノを心の小脇に置いて、「普通の」時間を送るのも「恋愛」をするのも、必要な事だろう。

そしてオレは、キョーコが奏でる甘い甘い「愛の夢」が聞きたい。

――ぽーん・・・・

開いた目の前のピアノの、鍵盤の一つの音を押してみる。

微かに音がずれている。

――お前・・・ずいぶん可愛がって貰ったな、キョーコに・・・・。

――主人もお前を大事にしていたけど・・・キョーコにも大事にされて良かったな。

そんな事を思った。

キョーコの部屋に自ら歩いていった「土産」が残したいつもの香水の香りが、主人の帰りを待つピアノの置いてある部屋で、にわかに香っていた。




2007.06.03