Daydream20

20. Traumerei 《トロイメライ》

「キョーコちゃん、夏休みの間海外に行くんだって?」

オーナーは視線を上げずに持っていたグラスを丁寧に拭き、コトン、と軽い音を立ててグラスを置いた。

「折角ご好意でバイトさせていただいているのに本当にすみません・・・この間からお休み貰っていましたし、また随分と間が空いてしまうので、一度メンバーから外してもらおうと思いまして・・・」

「・・・その方がキョーコちゃんが納得いくならそうするけど、戻ってきたらまたおいで。言っておくけど雇ってあげるって意味じゃないからね。来て欲しい、の意味だよ」

「あ、ありがとうございますっ・・・」

キョーコはオーナーにカウンター越しに深々と頭を下げた。オーナーは「こちらこそ宜しくね」と言ってにこりと笑った。

「じゃあ、しばらくの弾き収めのピアノ、弾いておいでよ。皆楽しみにしているから。今日のメンツはもういつもの常連だけだから、気にしないで好きに弾いていいよ。白鳥の湖だって、クラッシックだっていい。キョーコちゃんの好きに弾いてきて」

「はいっ」

キョーコはオーナーが渡したグレープフルーツジュースを飲み干して、勢いよく背の高い椅子を降りた。

が。

「キョーコ、オレにも何か」

後ろに立っていたのは、不破尚だった。

「・・・・・?あっ・・・あん・・・・ん~~~・・・!!」

彼の大きな手は、叫びそうになったキョーコの口をふさいだ。

「まあいいから座れって」と彼は言いながら、キョーコが今勢いよく降りた高い椅子を指差した。

尚は帽子とサングラスは身に着けているものの、襟足から金髪が見え、銀色のアクセサリーは、チャリ、と、ぶつかり合って高い音を鳴らし、黒いサテンのシャツと細身のジーンズという、いかにも業界人かミュージシャンです、と主張している彼の服装に、「久しぶり。頭隠して何とか・・・ね」と思わずキョーコの口をついてそんな嫌味が出た。

「おや・・・」

オーナーは尚を見てにこりと笑うと、冷蔵庫から氷のように冷えたグラスに生ビールを注いで、尚の前に置いた。

「どうぞ、不破君。久しぶりだね。コレはおごりね。この間の受賞おめでとう」

「おっ、さすが話が早い。イタダキマス」

美味しそうにビールを喉に流し込んだ尚は、「うまい」とオーナーに向かって満足したのか一言そう言って、グラスを置いた。

「何しに来たの」

キョーコは、自分で発した声がとても冷たかった事に内心驚いた。でも、今一番見たくない顔。

「お前に会いに」

「・・・・・・」

「久しぶりに指慣らしの連弾でもしようぜ」

「は?」

「散々弾いていたからな。出来るだろ?」

「なんでアンタと連弾なんてっ!」

「身体が覚えてるだろ。オレの音を追ってくればいい」

 尚はキョーコの言い分などまるで気にしない様子で、当然のごとく言い切った。

「私、仕事中なの」

キョーコがそう言うとオーナーは横から「まぁまぁ・・・」と仲裁に入った。

「聞かせてよ。せっかくだからオレも不破君の音聞きたいな」

「コレでオーナーにドリンク代ぐらいは返せるかな」

笑った尚はキョーコに「いいからやろうぜ」と言った。キョーコは、オーナーの手前それ以上意地を張ることが出来なかった。

「曲はどんどん変えていくから、いつも通りについてくればいい。お前なら出来るだろ。オレが右側、お前が左側。懐かしいだろ?」

私なら・・・・出来るだろう。追って追って、負けないように追って・・・・。

あいかわらず有無を言わさない尚にキョーコは腕を引っ張られ、キョーコ用にピアノ椅子を左側に置き、尚は自分用に適当な椅子を運んで置いた。こういう無駄に気をきかせるところは変っていない。

「じゃ・・・」

と言って弾き始めた曲は、いつもの入り。きらきら星・・・三歳の頃から変っていない。その次はベートーベンの・・・その次はバッハ、その次はシューベルト・・・覚えた曲を次々とパートを弾き、アレンジを変えられてはそれを追っていく。これは二人の指慣らしだった。ハノンや基礎メソッドを毎日同じだけ同じようにやる事と同じだった。右側左側交互に。新しく覚えた曲、覚えた運指、覚えた符号、それを忘れないように。

客が徐々にピアノの音に引き込まれているのが何となく二人には分かる。観客は「キョーコを」見慣れている。その「キョーコと同じ音」を弾く彼、視線はちゃらちゃらした身なりの男に一身に注がれている。

息が合う。合ってしまう。

だってコレは聞きなれた音、弾き慣れた指。

『身体が覚えてる』

だってこれは。

十五歳の時まで弾き続けた指慣らしの曲を全て、思い出すでもなく尚に合わせるようにキョーコも弾き終えた。

「相変わらず負けず嫌いだよな、お前」

「どっちが」

弾き終えた一言目に尚にそう言われ、キョーコは「いつもと同じ返事を」「思わず」返していた。

「じゃー折角拍手喝采もらったから、お前の変わりにオレがもう一曲弾いてやる」

「どうぞご勝手に」

ピアノ椅子を尚の前に置く。キョーコを見慣れた客が「あの彼は、この間キョーコちゃんの出たコンクールで優勝した「彼」だよね?」と分かったようにキョーコに話しかけた。

キョーコも、嫌な顔をする訳にもいかないし、そうなんです、と言って、苦笑いを浮かべた。

その間、尚はピアノの上に置いてあった楽譜に一通り目を通していた。

一冊譜面台に置くと、椅子を引き、そして高さをあわせた。ペダルに足を置く。

そして彼は、「愛の夢」を弾き出した。

「なんで・・・・・・・」

キョーコは驚き、言葉を失った。すぐに脳裏に浮かんだもう一人の人物は、傍にいない。ざわざわざわといやな胸騒ぎがする。何故彼はこの曲を弾くのか、どうして私に会いに来たのか、どうして、どうして。

今更幸せだった頃を思い出させないで。

どうしてその曲を選曲するの?

だって、この間「彼」が「パーティ」で弾いたのを見ていたはずなのに。

けれど、耳を塞ぎたいほど綺麗に澄んだ音がする。尚の紡ぎ出す音に、キョーコの記憶と懐古心が反応する。もう一人の人物がキョーコの為に弾いてみせる音は包み込むように限りなく優しい音。目の前にいる尚の音は、澄んだ水のような音。聞きなれた音。どう解釈しているのか、その後どう弾くのかも分かる。

キョーコは、今すぐこの場を逃げ出したかった。泣きそうだった。けれど、泣く事は思い出したもう一人の人物の前だけ、と「約束」した。

尚はそのままシューマンのある曲を弾き始めた。「謝肉祭」。流れるように続く。謝肉祭は二十二曲の短い曲の連続。指慣らしに彼が良く使っていた曲で、ショパンの為に書かれた「ショパン」とサブタイトルがついた十三番目。シューマンの譜面通りに直しなさいと先生に言われていたのに、変わらず少しショパンがかった弾き方に偏ったままの尚の運びにキョーコが内心笑ってしまったのは事実。懐かしいその音に気づいたら浸っていたけれど。第十八曲目を弾いて彼は弾くのを止めてしまった。そして、キョーコが子供の頃から大好きだった「トロイメライ」を彼は弾いた。

トロイメライ。意味は「夢」。

キョーコが夜に泣いた時、慰めるでもなく尚はコレを弾いた。「寝ろよ」と無言で繰り返す彼の音に、何度も助けられた。

おねがい、もう、やめて。

音に引きずられる心に、目尻に涙が溢れる。

ダメ、約束があるのに。

拍手が続いた。が、キョーコの視線は、床下を見つめるばかり。しばらくして自分の傍に立った人の気配がした。

「キョーコ」

「お願い、もう帰って」

「悪いけど今日は話がある」

「いやよ、聞きたくない」

「一緒にオレの部屋へ行くぞ」

「いかないったら」

「オーナー、キョーコ連れて行っていい?」

オーナーには彼の強引な我侭を止めてほしかったのに、「仕方ないね」と言った。

「サンキュー。オレも時間が無いんだ。キョーコ」

「・・・・・・・オーナー、また戻ったら連絡します」

「気をつけて行っておいで。待っているからね」

仕方なくロッカーに荷物を取りに行く。下で待っていた不破尚のマネージャーが二人に向かって窓から手を挙げ、「後ろに乗って」と笑顔で言った。

「キョーコちゃん、久しぶりね」

「はい・・・お久しぶりです」

「三年ぶりぐらいかしら?」

「・・・・そうですね」

尚好みのその人は、相変わらず綺麗だった。キョーコの今のいっぱいいっぱいの精神状態ではまともに返事する事は困難だった。そんなキョーコの態度に、祥子はやや苦笑いで運転を続けた。ピアノを続ける限り、キョーコには一生出来ないだろう長く綺麗に整えられた爪と指先が、ハンドルを優雅に操る。

「祥子さん、学校へ」

「分かってるわ」

「学校・・・?」

「オレの部屋って言っただろ?」

「・・・・・・・」

何年ぶりの尚の部屋なのだろう。

しかし、久しぶりに入ったその部屋には、何も無かった。

「・・・・・・・?何?何なの・・・?この部屋」

「イギリスに留学する」

「は・・・・?仕事はどうするの」

何でこの期に及んで留学。仕事の心配を自分がする事でもないのに、思わず口をついて出た。

「休養に入ったよ。曲作りは向こうだって出来るしな」

「そうだけどっ・・・・」

「最後に、お前に会っておきたかったんだ」

「な・・・・・・」

「アイツ・・・・敦賀蓮のツアーしばらく付いて回るんだって?」

「・・・・・明日には私も空の上よ」

「キョーコ」

尚はごく真面目な顔でじっとキョーコを見つめていた。キョーコは、その強い視線を、逸らす事ができなかった。

「謝肉祭の第十八曲目。分かっているよな」

第十八曲目。『告白』。

「わ、分からないわっ・・・・」

「なら言おうか。好きだったよ」

「・・・・・・・・」

「お前とピアノを弾くのがな。オレはお前との「約束」を守りにオヤジと同じコンクールを受ける事に決めたんだ」

動けない。

何かを言ったらいいのか分からない。

何も無い部屋で、尚の声が反響して、そしてキョーコの詰めた息が吐き出された。

「イギリスで・・・敦賀蓮と同じ講師に付く。同じなのが少々癪に障るが、結局最良の選択がそうなったんだ・・・。しばらくお前とは会えない。もう、お前を護ってやる事はできないが・・・・「待ってろ」とは言う」

「ず、ずるいっ・・・いつも「待ってろ」って・・・」

「オレはずっとお前を「待ってた」。ようやく、コンクールに出ただろう?オレを追い抜こうとしただろう?次は、どうする・・・?オレはお前の少し先でまた「待ってる」。オレが居ないからって勝手にピアノ、辞めるなよ。まさか一介の講師になろうなんて絶対にダメだ」

「な、なんでアンタがそんな私の将来なんて・・・」

「お前の「本当の」ピアノの音、好きだったからな。お前の音も、おまえ自身も好きだったよ。もう、しばらく傍にいてやれないけど・・・お前もハタチ超えて大人になったから、もう大丈夫だろう・・・?」

尚がそっとキョーコの頬を撫でた。

その指先に、キョーコの涙が伝っていた。

キョーコは蓮とした、一番大事な約束を破った。

泣いてはいけないと思うのに、急すぎる「何か」の大きな喪失感に、涙が出ていた。

尚は十六歳の時には既に海外へ留学するはずだった。それをとりやめて芸能活動を続けていた。

なぜ留学を辞めたのかを尚はキョーコに言わなかった。

尚は、無言でキョーコの傍にいたのだと・・・。

尚が居なくなったら、キョーコは「一人ぼっち」だった。

ピアノを追いかける相手も、恋する相手も、傍に居る存在も、家族も、彼が全て一人で担っていたから。

「綺麗になったな・・・」

目を細めた彼から、キョーコは目を逸らした。

逸らした隙に、口付けられた。

「っ・・・・・・・ふっ・・・・・・・・・・」

荒い口付け。

逃げようとするのに、その腕も首元も、何もかもが高校生の時と違う。

細いその身体の何処にこんな力があるのかと思うぐらいに強く、身体を引き寄せられた。

「つぅ・・・余計なコトを教えやがって・・・」

尚の舌先を少しだけキョーコが噛んだ。

尚が先に離れた。

「敦賀蓮が好きなんだな」

「・・・や、優しいものっ・・・」

「最初で最後のキスにしちゃ・・・随分だよな・・・」

「む、無断でっ・・・するからっ・・・・」

「好きだ」

――なんでそんなに近づいて言うの・・・・・。

尚にそっと身体を抱えられて、腰に腕が回った。

「は、離して・・・」

「少しだけ黙ってろ。明日にはお互い、日本ではない国だろ。婚約者の言う事は聞くもんだ」

 尚は自分の額をキョーコの額にあわせて目をつぶると、無言のまま、しばらくじっとしていた。

キョーコも、何も言わなかった。動かなかった。

「こうして抱きしめてやれば良かったんだよな・・・それだけで良かったんだ・・・」

尚は、今までで一度も聞いた事が無い程優しい声でそう言い、一度強くキョーコの腰を引いた。

そして、その大きな腕の中にキョーコを強く抱くと、離した。

「待っててやったんだぜ?お前が大人になるの。一人で勝手に大人になりやがって」

そう言った尚は、「婚約は解消する。婚約者とはもう呼ばない。親なんて関係ない。まあ今更だけどな・・・。でもお前を愛してるヤツはもう一人ここにもいるんだって覚えとけ・・・」

「・・・・・・・・・」

「お前ホント昔から泣いてばっかりだったよな。そこは変らねぇな・・・」

愛されていたのだと、愛していたのだと、改めてキョーコは感じた。

キョーコの頬に伝った止め処も無い静かな涙は、尚が求めていた全てを含んでいて、尚にはどこか切なく思えた。

キョーコの涙を拭った尚は、「身体だけは気をつけろよな。それから、ピアノやめるなよ」ともう一度念を押した。

「それから・・・・もし敦賀蓮がお前に何かひどい事をしたら、いつでもオレに言え。敦賀蓮が好きならアイツを選べ。オレに遠慮する必要は無い。オレはオレ、お前はお前だ。でもお前は絶対に一人じゃない。ずっと一緒だっただろ」

キョーコの言葉にならない嗚咽が、何も無い部屋に何度も響いた。

「ふっ・・・うぅ・・・・」

「ほれ、泣き止め。別に今生の別れじゃねぇんだ。また会える」

「ん・・・。ピアノ、負けないから。もうアンタになんて負けてやらない」

「そうそう、その調子でな」

ぽん、とキョーコの頭に手を置いた尚は、「この部屋お前に行くぜ。ありがたく使え」と言って、部屋のキーをキョーコの手の中に落とした。

そして、「じゃあ元気でな。何かあったら言えよな。向こうから電話かメールぐらい送ってやる」、尚はそう明るく言って、祥子を引き連れて車に乗り、そして居なくなった。

ぽつん、と広い空間に取り残されたキョーコから出た強がりに近い言葉は、「なんでアンタの部屋が私のになるのよ」、ただ、それだけだった。

涙声と嗚咽が、部屋中に響いた。

空っぽの部屋。

尚のお気に入りのピアノも、もう無かった。

楽譜を置いていた棚も空っぽで、けれど、そこに一つだけCDが置いてあった。

――「トロイメライ」。

キョーコが自分の部屋に帰って聞いたそれは、尚らしい先程聞いたような、昔から全く変わらない、懐かしい澄んだ音だった。

CDケースに挟んであった五線譜に、「寝る子は育つ。しっかり寝て、お前の夢、叶えろ。尚」と尚の字で書いてあった。

泣いてはダメと蓮と強く約束したけれど。

今日は、今日だけは、二十一年分の「夢」と共に、ベッドに入った。




2006.11.19