トリックオアトリート



テーブルの上に置いてあった携帯が震えた。

画面にはメールが届いた旨が知らされている。「彼」からのものだった。

タイトルも無く何かと思って本文を開いたら、たった三ワード、『Trick or Treat』。

その文言を見て、キョーコは一瞬視線をさまよわせた。

「どうかした?」と目の前にいた奏江がキョーコの様子に気づいて言った。

「ううん、メールが」

「何か緊張するような事でも書いてあるの?」

「え?うん、あのね。トリックオアトリート、と、だけ」

「ふうん?ハロウィンの誘いか何か?」

「うん、そういう訳じゃ、ないんだけど」

何度も随分あいまいで返事しずらそうな声を聞いて、奏江はキョーコをじっと見てしばらく押し黙った。

「・・・ああ。なんだ。そう。聞いて悪かったわ」

奏江はキョーコに聞くでもなく、自分で何かを納得したらしく、目の前の温かい紅茶に口にした。キョーコは返事をするでもなく、ただほんの少しはにかんで申し訳なさそうな顔をした。

目の前にはケーキスタンド。美しくエレガントな陶磁器のお皿の上に美しい一口サイズケーキが沢山並んでいる。中にはハロウィン用のカボチャの形をした一口ケーキがあって、キョーコがそれを皿に取り、食べる前にうっとり目を輝かせている。

有名な店で予約しても中々席が取れないと聞いた。キョーコが行きたいと言ったから、スケジュールを合わせて予約をした。

奏江の仕事の関係でたまたまこの店のパティシエと共演した縁で、個室の特別な席なら用意できるから来てくださいと言われていた。

芸能人的なコネを使うのは気が引けたけれども、キョーコが超有名店の一般非公開のシークレット個室を取ったとなったなら、「モー子さんすごい」と散々喜ぶであろう顔を想像してしまって、奏江はパティシエまで電話をかけた。

一切並ばず数カ月も予約を待つことなく、奏江はまるでファストパスでも受け取るような気持ちがした。非常に申し訳ない気持ちもしたけれども、先方はそんな事は関係なく予約の段階で非常に喜んでくれたから、行くだけで喜ばれるならそれはそれでいいかと思った。

奏江はお菓子の一つを口にした。普段そこまで食べない甘いものを、美味しくて結果二つ目を口にしてしまい、自己嫌悪で胃がキリキリしている。普段自制するだけしている。それでもさらに三つ目を食べたいと思ってしまうのだから、この店とパティシエの魔法にでもかかったかのようだった。ふたりで食べてもそこまで罪悪感の無い量にはなっている。キョーコが目の前で目を輝かせている様子を見ているだけで、十分な気がしたのだけれども、パティシエが挨拶に来て残っているのを見たら、「お口に会いませんでしたか」と聞くだろう。そう思うと、結果、今日だけは遠慮せずに食べる事にして、互いに半分ずつ口に入れた。ケーキといってもミニサイズだし野菜や果物がふんだんに使われていたから、そこまで気にするほど体に負担はかからなかった。

シークレットルームはキョーコが好きそうな豪華な装飾とゆったりとしたソファ、花が飾られ、何かのいい香りがほんのりとしていた。ティーカップもまるで王室で出されるような美しい佇まい。まるでキョーコが好きそうな、「お姫様ルーム」にでも来たかのようだ。キョーコは奏江が願ったとおりに「ずっと来たかったの。モー子さんありがとう!!!しかもモー子さんがいなかったらこんな素敵な部屋来られなかった!すごい!!」と満面の笑みで言った。奏江はその一言だけで、もう今日の全てを満足したつもりだった。でも、キョーコのプライベートを普段独占している「彼」が、どうやら帰国したらしい、と、先ほどのメールの文言を聞いて思った。キョーコのオフの日を「彼」はきっちり把握しているのだろうと奏江は思った。そしてデートをしていると知っていて、嫉妬か横やりかしら、とも。だから、こちらのデートを邪魔するなんて、と、「彼」の逢瀬の希望をふと邪魔してみたくなったのだった。

「もう帰る?」

「え!いや!モー子さんとこの後デートしたいもの。モー子さんもしかしてもう時間?」

必死のキョーコの顔を見て、ほんの少し、奏江にしか分からない程度にほんの少し頬が緩む。仕事をすればするほど会えない。最も近くにいていつでも会えると思っているからこそ、改めて会うのには時間がかかる。相手に「彼」がいようものなら尚更だ。

「どこ行きたいの」

「あのね」

キョーコは奏江と洋服を見にいきたいと言った。奏江の好きな店を一緒に見る、ただそれだけでキョーコは嬉しい様子だった。出演した番組でおススメと聞いた文具を二人で同じものを買う。嬉しそうなキョーコを見て、また奏江は嬉しい気持ちがして、不思議と、キョーコを帰してなるものか、というような気持ちになった。

それでも(一応)「帰らなくていいの、待ってるんじゃないの」と奏江が問うと、「え?今日はモー子さんと一緒の約束だもの」という答えを聞いて、奏江はまた満たされたような気持ちがした。夕食を共にする約束はしていなかったけれども、「夕食、よかったら、だるまやに連れて行ってくれない」と奏江に言われて、キョーコは嬉しそうに、うきうきと、だるまやへ寄った。

キョーコが嬉しそうに紹介すると、女将が嬉しそうに「久しぶりだねえ、キョーコちゃんがお友達を連れてきてくれるなんて嬉しいよ」と奏江に言った。大将からまた山ほど美味しい料理を出された。昼からずっと食べすぎている気もしたけれども、あまりに美味しい料理で、結局綺麗に食べ終えた。「魚料理を」綺麗に食べた奏江を見て、大将はさらに梨を剥いて置いた。嬉しそうにモグモグ食べるキョーコを見て、奏江も今日だけは良いかというような気がしてきた。また次回こうしてキョーコと出かけて美味しい時間を過ごす日がいつ取れるか分からないのだから。その日までの貯金とする事にした。

もし食事先をだるまやにしたならば、もしかしてキョーコはもうあえて出かける気も無くなり、今日は「彼」の元へ行かないのではないかと、少しだけ、意地悪く邪魔をしてみたい気もして選んだ。

食事が終わるとキョーコは苦笑いで「召集令状が来てしまったから」と言って、奏江と共に店を出て、電車に乗った。女将は全てを分かったように、「いってらっしゃい、気を付けるんだよ」とだけ言い、キョーコが少しだけすまなそうな顔をした。大将は無言だった。

「ずっと、行けなくて、帰ってきていても断りっぱなしだったから・・・」

「あら、帰ってきてたのに会ってなかったの?今日帰って来たのかと思ったわ。忙しかったの?」

「うん、それもあったし、私もあちこち移動していたから、お互いすれ違い続きで」

「・・・心配にならない?」

「うーん、そう、ね。仕事に集中していると恋愛は忘れるし、一人になると思い出すけど、また仕事が迫ってくるし、で・・・」

キョーコは、手を顎において思い出すように目を彷徨わせた。

「あの人がアンタに無理をさせてこうして呼んでいるなら怒ろうかと思ったんだけど」

そう奏江が言うと、キョーコは苦笑いを浮かべて、手を振った。

「無理強いと言うか、たぶん拗ねているだけというか」

「あの人が?拗ねる?」

「よく拗ねる。全然来ない会えないって子供みたいに拗ねてる」

キョーコは面白そうにニコニコ笑って言った。

「そう。でもあの人がアンタに無理させているんなら言って。いつでも私が言いに行くから。アンタあの人には遠慮して言わなそうだもの。仕事も忙しいの分かってくれないとか無い?ていうか、あの人、本当にちゃんとアンタを大事にしてくれてるの?」

奏江はまるで、キョーコの「彼」が何か普段からキョーコに無理難題や無茶を言って困らせているのではないかと、そんな態度で言った。

「会いたいから会いに行くよ?無理強いとは思っていないし、行けない時はきちんと伝えているんだけど。心配してくれてありがと、モー子さん」

「・・・」

奏江は何も言わなかった。キョーコは下を向いて顔を伏せた。近くにある奏江の肩にそっと話しかけた。

「あのね」

「うん」

「大丈夫、だと、思う。すごく、大事にされていると、思う」

「そう。ならいい。でも、思う、だけなの?」

「・・・うん。時々、そう、思うだけ。もちろん会えない日が続くと、もう終わるのかなって思う事もあるけど、でも、あの、うん。向こうが来てって言ってくれる間は続いているんだと思う」

「・・・アンタは、あの人に、「来て」とか「会いたい」って言ってる?」

「・・・・・」

少し考えて、苦笑いで無言のキョーコを見て、奏江は、大げさな溜息をついた。

「・・・今度文句言う」

「え?なんで?」

「なんか腹立つ。理由は分からないわ」

「え!」

奏江は訳の分からないイライラした気持ちがした。

本当に心から大事な女の子だったら、こんなに遠慮させるんじゃないわよ、と、文句が言いたい。キョーコを呼びたい時に呼び、来なければ文句を言い、遠慮させるだけさせるなんて、と。

「あのね、モー子さん。ごめんね。そうじゃなくて。いつでも来てって言われるから、来て欲しいって言わなくても、その、私が行きたいと思った時に行けばよくて。だからそうなるとかえって行きすぎて負担になったりしてはいけないかなとかいろいろ考えすぎて間をあけてしまいがちで・・・」

キョーコは慌ててフォローを入れた。奏江が勘違いして蓮の前に乗り込んでいかれても困ってしまう。

「毎日言ってくるの?」

「まあ、うん、毎日連絡は取ってるよ?もう、断られるの前提で毎日そう言っているんじゃないかと思うけど・・・。私がどこにいようと言うのが日課というか。スケジュールは共有しているから、どこにいるのか、何時まで仕事かとか、全部知っているのにあえてそう言っているというか・・・」

「そう。それは鬱陶しいとか、負担にはなってないのね?」

「うん、大丈夫」

キョーコは俯いていた顔を上げて、しっかりと奏江を見て頷いた。

奏江は散々、キョーコが大事にされているかをきっちり確認した。なぜそんなに大事にされているかが気になったのかは分からない。キョーコが仕事の上下関係を引きずっているとか、時間を管理されすぎているとか、いつも我慢して尽くしているのはキョーコとか、言いたい事があるのに何も言えないでいるとか、いいように利用されているのではないかとか、聞きたい事は色々ある。それは相手が相手だからで、だからそういう事はないと、なぜかキョーコの口から聞きたかった。

「しあわせ?」

「うん、なんだか怖いくらい」

「じゃあ、いい。でも何かあったら電話して。すぐに殴り込みに行くから。愛想つかしたら一緒に女子旅でも行きましょ。」

奏江は少し笑って言った。別に嘘でも冗談でもない。本当にそう思っているだけだ。

「愛想つかさなくても一緒に女子旅に行こう?」

キョーコは嬉しそうに笑った。

「そうね、たまにはアンタはあの人の世話を休んで少し本当に休まないと」

「世話、なんて思ってないけど・・・でも女子旅は行きたい。今度の夢にしておくね?絶対ね?モー子さん。お願い」

「わかった。どこ行きたいか教えてくれれば計画立てて出かけましょ。海外でもいいわよ」

キョーコは嬉しそうに何度も頷いた。

「今日は本当は夕飯は行かないかもと思っていたんだけど。あの人にメールで邪魔されて、少し当てつけみたいに無理言って悪かったわ」

「え?どういう意味?」

「夕飯、あの人と行きたかったんじゃない?」

「いいえ?モー子さんとだるまやに行けてすごく嬉しかった」

「そう?悪かったわね、長時間連れまわして」

「全然!少しでも長くモー子さんと一緒にいたかったんだもの」

奏江が乗り換える駅について、奏江はキョーコに「じゃあまたね」と言った。

「モー子さん、今日はありがとね。すごい楽しかった」

「あの店季節ごとに別メニューみたいだから。アンタの予定がよければいつでも予約するわよ」

そう言って奏江は手を振って、振り返るでもなく電車を降りて行った。

一人になって、奏江が色々言ってくれたことが嬉しくて、女子旅の夢が増えて、顔を伏せたままキョーコは、ふふ、と少しだけ楽しそうに笑った。


*****






「トリックオアトリート」

インターホン先で、キョーコは言った。

「やっと来たね。甘いものは持っていないからいたずらしていいよ」

蓮が出て来てそう言った。

「もう、急に変な暗号メッセージをくれるから、モー子さんすごく心配してた」

第一声が文句だったから、蓮はキョーコが靴を脱ぐとすぐに腕の中に入れて言った。

「今度彼女に会ったらまた小言言われるのかな、オレ」

「もちろん、大丈夫って伝えておいた」

「来てくれないから。彼女とは街中を堂々とデートできるのに。なんて羨ましい」

「もう・・・。今度女子旅に行こうねって約束してくれたの。嬉しくて」

「オレも君と旅行に行きたい。一週間でも二週間でも海外に行ってのんびりしたい。なんとどうやらオレは寂しがり屋だったらしい。君にかまわれないと死んでしまうウサギ」

「ええ、嘘でしょ・・・」

こんな大きなガタイの綺麗な笑みを浮かべたウサギがいたらそれは恐怖映画です、と、言おうと思ったけれど、にっこり、と、綺麗な笑顔を浮かべた蓮の顔を見て、キョーコは体をくるりと反転させた。靴を脱いだだけで玄関先で話し込んでいて、ようやく屈んで靴を揃えた。

再度立つとすぐにぶつかるように蓮の腕の中だった。蓮は「おかえり」と言った。蓮のにおいがする。何週間ぶりかの抱擁で、キョーコは「うん、ただいま」と、答えて、蓮の胸に額を置いた。

「あのメールの意味は、おやつくれないといたずらするよって意味ですよね?だから、おやつをもって来ないと怒るよ、だから、一刻も早く来て、の意味なのかと思ったの」

「うん。そう。今日はオフだって分かって、もう限界だと思った。早く会いたいって意味。素晴らしいね。名探偵になれるよ」

「あなたの考える事は少しだけ分かる。ずっと一緒にいるから」

そうキョーコが言うと、蓮はもっとぎゅう、と、抱きしめて、

「オレはおやつを持ってないから、オレにいたずらしていいよ」

と面白そうな声で言った。

「・・・なんのです」

「さあ」

蓮が笑いながらそういうから、キョーコは蓮の脇腹の肉を思い切りぎゅうと掴んで、腕をほどき、部屋の奥に小走りで逃げた。


***


「ね、味見して。熱いから気を付けてね」

キョーコはスープの乗ったスプーンを蓮に渡す。

「うん、美味しいよ」

「塩加減いい?もう少し?」

「いや、十分美味しい」

「じゃあ、これで出来上がり。今日ね、すごく有名なパティシエのいる美味しいお店に行ってね。帰りにそのお店のパンを買ってきたの。このパンすごく美味しいらしくて。お店の一番人気のパン。明日の朝と夜のパンプキンスープ、できたから。カップに分けておくから温めてよかったらパンと一緒に食べてね」

「ありがと」

明日はハロウィン、キョーコは気持ちだけ、スープを作った。

出来立ても美味しいから、ほんの少しだけカップに取り分けた。

「ねえ、キョーコちゃん。明日も来て」

「えっと、うん、来られたら」

「え~。明日も来て。このスープ夜一人で食べるのヤダ。来るまで食べないで待ってる。来ない間はもう何も食べない」

「・・・(また極端な事を)・・・」

「君が来るまでオレは断食だ。最近断食が流行ってるらしいからいいけど。でもオレが餓死しないためにも来て。早くもうここに一緒に住もう?」

「うーん・・・そう、ね」

「答えが一歩進んだ」

「ふふ」

ぎゅう、と、蓮がキョーコを抱きしめて、「明日はハロウィンだから、仮装して?」と言った。「仮装?」とキョーコが聞き返した。

「魔女でも、お姫様でも、妖精でも・・・もちろん、何でもいいけど」

「お姫様・・・」

ぽわん、と、何かを想像したらしいキョーコは、しばらく夢の世界に出かけた。その間に蓮は片手にスープカップを乗せたプレートを持ち、空いた片手でキョーコの背中を押して、リビングのソファまで連れた。

「蓮も仮装する?」

「オレ?」

「うん。見たい」

「どんなの?」

と問いかえされて、キョーコは「蓮てばやるとなったら徹底しちゃうから、ゾンビとお化けと・・・あとああそう!ピエロとか白いお面の人とか怖いもの以外なら何でも・・・」と、笑いながら答えた。

「じゃあ妖精の格好にでもなろうか?」

「・・・ふふ」

キョーコは面白そうに笑って、目の前のスープを口にした。

「ね、美味しいよ?食べて?」

「ありがと。キョーコちゃんがいるなら食べるよ」

おいしいね、と、言いながら、蓮はスープをきっちり食べ終えた。

「おいしかった。ありがとう」

「どういたしまして、ね、蓮。それなら明日何かお店でハロウィン用の衣装買ってくる。アリスの衣装がいいかな?蓮はウサギの格好でもする?だから、蓮も何か仮装して?それで、ハロウィンパーティしよう?一緒に見たい映画のDVDが出たの」

「うん。会えるならなんでもいいよ。仮装した姿を見たら可愛くてDVDどころじゃなくなるかもしれないけど」

「・・・・」

キョーコは食べ終えたカップをプレートに乗せて、立ち上がった。

そのプレートを蓮が取り上げて、運ぶ。

「琴南さんと楽しい時間だったみたいだね。顔に描いてある」

「うん、楽しかった。すごく楽しかったよ」

蓮がプレートを置くのを見てから、キョーコは蓮の背中をぎゅうと抱きしめた。

「でも、モー子さんはモー子さん。蓮は蓮。どちらといてもすごく楽しいからね?」

「うん」

蓮はくるりと後ろを向いて、またキョーコを腕に入れる。

キョーコは蓮の腕の中でまるで独り言のように言った。

「本当は、もっと、来たいし会いたいと思ってる。ずっと一緒にいたい。でも、その。蓮といると楽しくてまるで夢のようで、自分の事全部忘れてしまうから・・・」

蓮はキョーコの髪を混ぜて、

「・・・三週間我慢したから、もう少しだけ我慢して、パンプキン味のキスはやめておこう」

そう言いながら笑った。

「ふふ、たしかに」

「パンプキン味がいい?」

「いいえ?記憶には残るかもしれないけど」

「でもキスはしたい気分」

蓮はキョーコの額に唇を置いて、

「明日も早く来てね」

と言った。

キョーコも、うん、と、言った。

ふたりは家の中で手を繋いで、またリビングの方へ戻っていった。








2019.10.30