一本のねじが欠けただけで全く動かない機械。
一人が欠けただけで、全く動かない世界。
イロトリドリ ノ セカイ
「でもあなたが居らっしゃらなかったら、この世界の完成はないの。それにわたくし自身の存在も完成もないのよ」
と、たおやかな女優はキョーコに言った。
柔らかな風がカーテン越しに吹き抜け、暖かい日差しが差し込む春の日差しの午後三時。
「わたくしのお茶会にぜひ来てね」と、たまたま会い、それとなく挨拶を交わしたその日に誘われた。もちろん二つ返事でOKをした。会というのだから当然たくさんの人間が来るのだろうと思っていたら、その日呼ばれていたのはキョーコ一人だった。
しばらく促されるまま質問されるがままたわいも無い会話を続けている。なぜ自分だけがここに座っているのか分からず、少しだけ居心地の悪いような気がするキョーコは、先ほどの不思議な言葉の続きを促すべく、無言でその女優を見つめ続けた。先程の言葉は、キョーコが相手に長年第一線で女優を続けている事について心からの尊敬の念を伝えた後、相手が返したものだ。
キョーコを茶会に誘ったその女優は、そんなキョーコの少しだけ戸惑ったような様子を感じ取り、微笑ましく思いながらゆったりと椅子に腰掛け、まるで一つの絵のように美しい微笑を浮かべている。しばらくその女優は、木漏れ日が醸し出す影や、風に吹かれて木々が揺れる様を眺めていた。
どこか時間がゆっくりと流れていく雰囲気。言葉も無く、揺れる木々の枝やさえずる鳥の声だけが今の音の全てだった。キョーコも目の前の人物と同じように木々の枝の動きを眺める。しばらくすると緊張して聞こえていなかった小鳥の声が、今度は妙に耳に入ってくる。ざわざわと、木々のさえずる声も聞こえる。
そのキョーコの視線を見て、自分と同じ時間が流れ出した事を感じたその女優は、ようやく言葉を続けた。
「京子さんがいらっしゃらなかったら、また、違う世界になってしまうの。」
その話し方、声、動き、指先、全てが尊敬すべき女王のようで、キョーコはその雰囲気に全て飲み込まれてしまった。女優という世界で四十年以上生き続けてきた女性の物腰は、あまりにも上品で優雅だった。ティーカップ、鳥のさえずる声、美しい家具、柔らかい日差し、そして、その女優。今、目にしているもの全てが優雅で、まるで自分まで優雅な世界の一員になった気分だった。
「そんなに緊張されなくてもいいのよ・・・ホホ・・・」
決してキョーコを笑って言っているのでは無い。キョーコが確かに緊張しているから、それを正しく描写し、本当に緊張をほぐそうとして、にこやかに笑っているのだ。もちろんキョーコもそんな言葉を言われても一つも嫌な気分はしない。むしろ自分の態度が相手を気遣わせたのかもしれないと少々恐縮した。それでもどうしたって同じようににこやかに笑い返すことなど出来ずに、
「あの・・・」
と、返事としては随分と戸惑ったものを返した。
「そうね、遠まわし過ぎたわね。わたくしのお茶会にいらっしゃい、とお伝えすれば、誰にでも通じるお話だと思い込んでしまっていたから・・・。わたくし、あなたと一緒にお仕事がしたいの、と、お伝えしたほうが、いいかしらね・・・?」
ふふ、と笑いながら、その女優は紅茶を口に含んでティーカップを静かに置いた。驚いた顔を続けるキョーコに、全く減らない紅茶を飲むよう勧めた。
キョーコは、その女優のティーカップを上下させる優雅な動作だけで、うっとりと見惚れている。清楚な美しさを極めたその先にある何かの美の真髄を目の当たりにした。真の美しさはその動きだけで全てを物語るのだと思った。仕事で尊敬はもちろんしていたが、さらに人間として見惚れてしまったから、もう、完全に相手のペースだった。
言われたとおり一口紅茶を口にした。カップの上下さえこの人物の前では妙に緊張した。
「もちろん、京子さん以外に代役は誰でもいるのよ。でもね、全く同じ台詞を言ったとしても、京子さんがつくり上げる世界は、京子さん以外の誰にも演じられない事も、確かなの。だから京子さんの世界でぜひ見たいと思って・・・・」
「・・・・・・・・」
キョーコの心の中では即イエスの返事をしていた。それでもすぐに言葉が出てこなかったのは、自分の身の丈を思ったからだった。このような大人物と対等に並べる自信など全く無い。精一杯生きてきただけのまだひよこの自分に声をかけてくれただけでもありがたいと思う。しかもこの女優は生半可に誘ったわけではなく、キョーコの仕事を全て見たと言った。そして声をかけたのだと。「まだまだ魅力が眠っているわ。いいスタッフを紹介するから、一緒に仕事をしましょう」、と付け加えた。殆どはじめましてに近い人物がキョーコ自身を深く理解しようとしてくれていた事に、思わずキョーコの目は感激で潤んだ。
だからこの女優の望む世界を作る一つねじの為になら喜んでなろう、自分の時間を差し出そうと素直に思った。自分のどこを信じて、どこに期待して声をかけてくれたのかは分からないが、その言葉を素直に信じてみようと思った。
撮影に入り、いいものを作り上げるという一目標だけに向かっているスタッフの雰囲気は今までに無く熱く厳しかったし、実際体力的にもきつかった。が、自分がその仕事に携われる誇りと充実感の方が勝っていたから、殆ど不満は感じなかった。あるとすれば自分の技に対するものぐらい。
撮影中、キョーコを誘ったその女優は、その優雅さからは信じられないような発声量でキョーコに言葉を投げかけてくる。役柄上とはいえ、人の本気の声というのはそれほどに怖いものかと思った。何かを伝える手段としての声、それだけでもその存在感に圧倒された。胸を借りるつもりで精一杯投げかけ返した。
しかしカメラが止まるとまたいつもの穏やかさに戻り、「あなたの演技は、思ったとおり、素敵ね」と、にこりと笑った。その一言で場が和む。緊張している空気が清涼の弧を描く。そんな、自分の仕事の目標と質を引き上げてくれたその女優を、心から尊敬した。
そしてその仕事が終わった後、キョーコはなぜ自分が声をかけられたのかを改めて振り返っていた。あの日、その女優はキョーコに「あなたが居らっしゃらなかったら、この世界の完成はないの。」と言った。自分がこの世界に居ない風景を想像した。そして、今までの仕事を振り返りながら、代役は誰でもいる中で、自分を選んでくれた事を思った。
『この台詞を言わせるのは誰でもいい、でも、京子を』
感激で、涙が出そうになった。
*****
そんな事を思ってキョーコは今回の仕事の顛末を蓮にした。蓮もその女優と仕事をした事があるようだった。飲み込まれるような優雅な物腰と、蓮を主演の人間でも、随分と年下の仕事相手としてでもなく、一人の人間として接してくれた事をよく覚えていた。
「あの方の『お茶会』は有名らしいね。聞いた事があるよ。でも、うわべの優しさだけではない本当に大きな方だよね」
「四十年後、もし自分が同じ歳になった時、そう言って誰かに接しられるかしら・・・」
キョーコは一度俯いて、かの女優を思い出すようにそっと微笑み、顔をあげて蓮の目を見つめると、手を取った。
「・・・蓮が居なくてもね、私の今の世界は存在も完成もしないの」
キョーコは蓮を真っ直ぐ見ながらそう言った。
「そうだね・・・。君が居なかったら今のオレも無いかな・・・」
キョーコは微笑んだ。
蓮はキョーコをそっと抱き寄せて、その髪に優しく唇を寄せた。
「たまにあんまりだわって神様を疑ってしまう事だってあるけど、今の私がこの世界に存在するために、誰一人としていなくていい人なんていないのかも。いい人も悪い人も・・・」
「・・・・そうかもね」
「でも、神様に感謝しなきゃ・・・蓮にぶつかれた偶然も与えてくれた事に、ね。」
「あの時、神様にラッキーだと返事した?それとも、アンラッキーだと返事した?」
「ふふ・・・アンラッキーだと返事した」
「だろうね・・・くすくす・・・・」
「でも過去の記憶は、未来になれば自由にどんな色にも変えられるのよ?」
「じゃあ、どんな色にしてくれるわけ?」
「うーん、じゃあ、ピンク色、って言っておくわ・・・」
「ピンク、ねぇ・・・本当かな・・・」
キョーコは楽しげに笑い、蓮の手を取ると、指を絡めた。蓮も、キョーコの手を握り返す。
キョーコは蓮を見つめた。
「本当なんだから」
「うん、ありがとう」
互いの額が、正面からキスをした。
今二人の世界の中で、主演の二人はとてもあたたかい光を放っていた。
2008.08.08