おでかけ

 「兄さん」、とキョーコが呼びかければ、蓮が振り向いて、キョーコの方へ視線を向ける。

 ヒール兄妹として生活する中で、まるで本当に仲の良い兄妹のようだった。

「ねえ、今日はお仕事早いんでしょ?」

「なんだ」

「ね、ね、久しぶりに、外に行きたい。ね!」

「何か欲しいものでもあるのか」

「無い!」

「じゃあなぜ・・・」

「特に意味は無いの。ただ、兄さんと一緒に街の中を歩きたいだけ」

「構わないが・・・」

「じゃ、決まりねっ。撮影終わったら、一緒におでかけするの。たまにはホテルの部屋と撮影所の往復から外れないと、兄さんの気分転換にもならないでしょう?」

 キョーコは、にこにこっ、と、満面の笑みを浮かべて蓮の着替えの服をベッドの上に置いた。

「じゃあ、アタシもあっちで着替えてくるから、終わったら呼んで」

 そう言ってキョーコも着替えを持ってシャワールームに入っていった。

*****

 容姿はどうやっても中身が敦賀蓮なのだから、違う人物になっているとはいえ、目立つ。その背丈だけでも。

それでも、誰も二人が敦賀蓮と京子である事に気付かない。そして、自分も蓮も誰も知らない普通の人になれる。そんな楽しみを得たかった。

 蓮が街中を歩く事など、何かの収録かこうして仮装でもしない限りできないだろう。だから、今こうして時間を与えてもらっている間だけでも、もっと連れ出してあげたかったし、少しぐらい遠回りして帰宅したって大丈夫だし、そして一緒に歩きたかった。

「で、どこに行くんだ」

 と、蓮はキョーコに言った。

「どこにしよっか」

 それすらも、わくわくした顔をしてキョーコが蓮に言う。

「お前が行きたい所でいい」

「じゃあ、じゃあ、じゃあね」

 にこにこっと、セツカであるキョーコは蓮にくったくのない笑顔を向ける。

それに対して蓮は目を逸らしたい衝動にかられる。役に徹したいのに、油断するとすぐに自我が入り込んでくる。

 ふぅ、と、思わず気持ちを切り替えたいが為の溜息が出て、一人ではしゃいでしまった事に呆れたのかと思ったキョーコを困らせた。

「・・・ごめんなさい」

「何が?」

「だって、ため息をついたから。アタシ一人ではしゃいでしまった事に呆れたんだと思ったの」

「違う、タバコを吸いたいだけだ。移動しよう」

「そうかしら・・・?じゃあ、どこでもいいの。そこの目の前のカフェでも、そこの本屋さんでも。何でもいいの、一緒に歩ければ」

「分かった、分かったよ。とりあえずそこの店でも行こう」

 蓮がキョーコの背中を押す。キョーコは当然のようにセツカとして、兄の腕を取った。

目の前の雑貨店に入る。「兄さん」、と何度か呼びかけながら、キョーコは店の中の雑貨を手に取る。およそカイン姿で入るのにはためらわれたけれども、キョーコが離さなかった。

店の雰囲気はセツカ好みというよりは、キョーコが好みそうな雰囲気。思わずじっと見てしまいそうになるのをこらえているのが蓮にも感じられて、思わず笑ってしまいそうになる。

キョーコが一つの物を手に取った。携帯ストラップ。とても小さく可愛らしいドレス姿の少女の飾りが付いている。メルヘン趣味は今でも健在のようで、でも、セツカの趣味としては外れているから、キョーコがそれを買えるはずがない。だから蓮が声をかけた。

「それぐらい躊躇してないで買えばいいだろう」

 と言って、蓮がそれをキョーコの手から奪う。

「あ・・・」

 キョーコが止める暇も無く、カインである蓮は、かわいい妹のためなら、その姿で可愛らしいストラップの会計をしてしまう。

――似合わなすぎ・・・・

 想像するだけでちぐはぐな買い物姿に、戻ってきた蓮に思わず噴出しそうになってしまう。

「何を笑ってるんだ」

 くすくす、と、楽しそうに笑うキョーコの手に、買ったストラップの入った小さな紙袋を渡す。

「ありがと、兄さん」

 キョーコは正直に嬉しそうに言った。

 手をつなぎなおして、キョーコはただ意味も無くふらふらと店を歩く。

 欲しいものがある訳ではなかったけれども、ただそうして二人で歩くだけでよかった。

 寄り添って歩いて、意味無く店を覗き、疲れたらお茶でもする。ごく当然のデートの風景。普段の姿では絶対に出来ないそれを蓮と出来るのだから、楽しむなら今しかない。

「あ、兄さん、待ってて」

 キョーコは手を外して蓮を置いて何かの店に入り、そしてすぐに、新たな紙袋を提げて帰って来た。

「もういいのか」

「うん。兄さんの好きそうな手袋が目に留まったから。さっき買ってくれたお返しに」

 キョーコはひらひら、と、紙袋を蓮の前で揺らせて見せて、「部屋に帰ったら開けてみてね」、と言った。

 電車に乗り、歩いてホテルまで向かい、部屋まで何事も無く辿り着く。

 目立ちはしても、誰も二人の本当の姿には気付かない。それはそれでまるで遠い異国にいるかのように軽やかで、とても自由な気持ちがした。

 部屋に着き、ドアを閉めると、蓮の手を離したキョーコが言った。

「敦賀さん、ちょっとだけ、元に戻ってもいいですか?」

 不思議そうな顔をした表情は、カインのものではなく、蓮の表情だった。

「疲れた?」

「いえ、コレ・・・つい、私の目で見てしまって、選んでもらってしまいましたから・・・」

 蓮に貰ったストラップの紙袋をひらひら、と、キョーコは揺らす。

「本当はダメだししなければいけないのかもしれないけど、でもいいんじゃない?記念にね」

 にこり、と蓮が笑う。

「じゃあ、私が使わせてもらっていいですか?」

「もちろん」

 キョーコはためらいながら少し嬉しそうな顔をして、それをテーブルの上に置いた。

「あっ、じゃあ、もう、元に戻っていいんですけど」

「オーケー」

 蓮がじっとキョーコを見つめる。カインの顔に戻って。

「それでコレ、兄さんに渡したくて」

 蓮が渡された紙袋を開けると、中には黒のなめした革の手袋。カインらしい感じの。

「ありがとう」

「兄さん、本当はとても疲れているのに、今日はアタシのわがままに付き合ってくれてありがとう。楽しかった。あのね、アタシ、世界で一番、兄さんが好き。だからずっと傍にいさせて」

 キョーコは蓮をじっと見上げる。

――油断した、不意打ちだ

 と、敦賀蓮からカイン・ヒールに完全には戻りきれていなかった蓮は思った。

 キョーコは、兄を慕う妹として蓮を見上げているだけなのに。それはセツカとしての嘘偽りの無い言葉だから、兄としたら聞きなれた言葉のはずだけれども、素の蓮の心には、さくり、と刺さる。

「・・・・・・」

「な、なんで無言なの?アタシの事、嫌い?」

 セツカならそう言うだろう。

 白雪姫に出てくる魔女が、「この世で一番好きなのは誰」と、美しさや愛を確かめるように。

 それはただ、セツカが持つ唯一の強い独占欲とわがままからそう言うのだとは蓮にもよく分かっているけれど。

――きっとセツカを演じている中の最上さんは、セツの台詞とはいえ、そんな台詞、恥ずかしくて死んでしまいそうになっているに違いない。オレが反応しないから、余計に。

 そして蓮には、

「お前を愛していると何度言ったらわかる」

 としか答える事が出来ないのも当然で、そして、話の流れから言わされている感がしてしまって、拗ねるのも、目に見える。

―出来ればその台詞、互いに、役から外れて言ってみたいものだね。

「ウソばっかり。アタシがせめているからそう言ってるんだわ」

 ぷい、と顔を背ける。

 女の子らしい反応。男には理解できない面倒な。

セツカは唇を尖らせて拗ねて、あやして欲しいという態度で、さらに兄の愛情を確かめようとする。

 聞き分けのいい、そして、後輩のキョーコから、そんな台詞を聞けるようになるのはいつの日の事だろう。こうした対等な会話など、兄と妹、という枠がなければ、キョーコには一生越えられないのかもしれない。蓮もその関係を楽しんでいた。

「おいで、セツ」

 蓮はキョーコを手招いて、そして、腕の中に入れ、その手を頬に寄せる。不満そうで構って欲しそうな顔が、上を向く。

 これは兄妹で、恋人同士ではないのだと分かっているけれども、兄ならきっと、こうする。家族としての愛情を伝える、最もシンプルな方法。

――ちゅ・・・

 蓮はキョーコの頬に唇を寄せ、口付けて、そして大人しくなったキョーコの耳元に囁く。

「そう拗ねるな」

 キョーコは、蓮の胸に顔を寄せて、

「拗ねてないもの」

 と、言った。本当に言いたい事は、セツカは言わないのだろう。

蓮としては、今セツカとして兄に甘えたく思っている感情を、そのままキョーコが引き継いでくれたらいいのに、と、そんな事を思う。

 しばらく蓮はキョーコの髪を撫でてあやし、そして、離すべく、キョーコに仕事を与える事にした。

「セツ、喉が渇いた」

「あ、うん、お湯沸かす。お茶いれるからくつろいでいて」

 ようやくキョーコは、兄妹ごっこをしながらのキョーコ自身の仕事や義務を思い出すだろう。

 現実に戻してやらなければならないのは、どこか寂しい気がして、いつまでも兄役として、抱きしめていたい気がした。

 そして、キョーコは、湯を沸かしながら、役を終えるときの寂しさを想像して、先生、私また少し成長してしまったみたいです、と思った。

いつまでも、「兄さん」、「セツ」、と、呼び、呼ばれたい。絡めた腕を外したら、また、一人。

だからあと少しだけ、この優しいささやかな時間を二人きりで積み重ねたいと願った。



2010.12.03