Voice





「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません」


たった一言で、全ての終了を告げる宣告の場面。キョーコは声も無く、わなわなと身体を震わせる。携帯電話を力なく地面に落とし、一筋の涙が、地面に流れ落ちる。取り乱すでもなく、ただ、音も無く、電話会社が発する機械の声が、延々とリピートされている。

徐々に劇場内が、無音に近づき、キョーコの心に合わせる様にホワイトアウトしていくフィルム。観客がすすりあげる音だけが劇場内を占拠し、キョーコが演じたそれは見たものに賞賛された。


*****


撮影最終日、その場面の撮影を終え、涙目を冷やす為にキョーコは撮影所を出る。控え室に戻るとすぐに、あらかじめ冷やしておいた濡れタオルを冷蔵庫から取り出すと、ソファに座り、目の上に乗せる。涙に濡れて腫れた目にはとても心地よい。そして、手探りで右横のバッグを探して携帯を取り出し、手慣れたように着信履歴の一番上に電話を掛けた。もちろん応答の気配は無い。分かってはいたがそれでも掛けたかった。


この一ヶ月もの間、撮影場所から出る事が出来なかった。しかも、キョーコの恋愛事情など一切知らない女優との相部屋では、電話を掛けられるのもそう多くない。メールをやり取りする時間があれば、次の日の台詞を頭に叩き込まねばならなかったから、多くても、一日一往復。どちらかというと、蓮から「身体に気をつけて」「しっかり眠って」「食べてね」など、夜中に送ってくる一方通行的なキョーコの身を心配するメールが入るぐらいで、四・五日に一回、とりとめもないメールをやりとりできる。


演じていくたびにキョーコの心は役に入り込み、会いたくて寂しさに潰されそうで、せめて声が聞きたかっただけである。

「留守番電話にお繋ぎします」

先程とは違う機械音がしただけで、ほっとする。ピーという高い発信音の後、深く息を吸い込む。そして、言葉を発しようとしたところで、

「京子ちゃん?」

相手俳優が心配して、楽屋を訪ねてきた。名前を入れるのも、伝言すら入れられずに、思わずぶちっと通話を切ると、携帯をデフォルト画面に戻した。

「ゴメンね。電話中だったのかな」
「いえ、違いますっ。事務所からの伝言を確認しようと思って・・・。」
「そうなんだ?大丈夫?もう、迫真の演技だったね。見入っちゃったよ」
「あ、ありがとうございますっ」

少し照れながら、キョーコはその俳優の褒めてくれるコトバを黙って、つとめて笑顔で聞いていた。この俳優がキョーコに好意を寄せている事は、途中で「付き合って欲しい」と言われて知っていた。もちろんキョーコにとっての大先輩の好意に、理由無く、そして撮影中、現場の雰囲気や全てを勘案して、すぐには結論を出す事などできなかった。そして、こんな時、どうしても思い浮かんでしまうのは別の優しい顔。会いたい、傍に行きたい。そんな事を考えていたせいで、彼の賛辞などは、上の空だった。


*****


――あの子が仕事中に電話してくるなんて珍しいな・・・・。


蓮は届いていたメッセージの確認をしようと取り上げた携帯電話を耳に当てる。耳に入ってきたのは、彼女がすうと息を吸う音と共に、ぶちっ・・・と勢い良く途切れた音だった。思わず、リダイヤルをする。が、出る事は無かった。


「蓮、どうした?難しい顔して」
「いえ・・・・・」
「今掛けなおすって事は、あの子なんだろう?どうしたの?何かあったの?」
「わかりません」

掛けて来た理由、そしてすぐに切れた理由が、脳裏を駆け巡る。撮影で何かあったのだろうか、それとも、掛けている途中で何かあったのだろうか。

「今日・・・キョーコちゃんの撮影日最終日だっただろう?今日東京に戻ってくるって言っていたけど・・・・・。久々に会うんだろ?」

社は、固まったままの蓮の表情を心配して、キョーコに渡されて知っている彼女のスケジュールを口にした。

「はい」
「会えない・・・とでも言われた?」
「違うんです・・・何も入っていなかったから・・・。とりあえず事務所の待ち合わせの場所で帰りに待ってみます」

にこり、と苦笑いを浮かべた蓮に、社はそれ以上を言わなかった。


*****



新緑に囲まれた場所から、久しぶりの東京のビルに囲まれたやや濁った空気を吸って、キョーコはため息をつく。

「どうしたの?せっかく終わったっていうのに」
「いえ・・・あまりに空気が澱んでいるので・・・」
「あぁ・・・。でもこの喧騒が、何だか戻ってきたって気がするだろ?」
「そうですね」

キョーコを優しく気づかう彼に一切はっきり答えを出せないのを、キョーコは申し訳なく思う。今後そのうち、「ごめんなさい。」と告げねばならない。

もしかしたら、あの場は物凄く特殊な場であるし、恋人同士を演じただけの単なる夢の場所だったのだから、もう少ししたら彼は目が覚めて、「あぁ、もういいよ、別に・・・。」と軽く返されるかもしれない。全くもって人として道徳的ではないし少々腹立たしくはあるが、それでも軽く扱われたであろう事をキョーコは一番望んだ。誰にだってその時の感情に流される事も、雰囲気に流される事もある。それならどんなにいいだろう。自分は軽く扱われながらも懸命に悩んだ分多少傷つくだろうが、少なくとも本気で好きだと言ってくれる他人を深く傷つける事は無い。

彼と共にLMEの事務所をくぐる。出会う先輩後輩に挨拶を続ける。そしてその目に飛び込んできたのは、フロントに大きく掲げられた蓮の新しいドラマのポスター。

キョーコは、思わず強く目を奪われる。ポスターと目が合う。写真家のフィルムを通して、視線で射るような、強い視線。普段生身でどんなに綺麗な女優も、モデルも、フィルムを、レンズと通してしまうと、外側だけでなく内側も全て映し出すという。感情の無いレンズに、ウソは一切つけない。ここに写されている彼は申し分なく視線から指の先まで、全てにスキが無い。ズルイ、と思う。滲み出る魂の色が違うとも。写真を写すとき、被写体の魂を抜き取ると言った先人の言葉は半分ウソで半分本当だと思う。そして、見る者の魂も心も、同時に奪う。


「敦賀君、相変わらず綺麗だよねえ」
「・・・・・あ・・・・」
「男が男に綺麗って言うのもなんだけどさ・・・ここまで綺麗に写る方法を教えて欲しいものだね」

ポスターを眺めているキョーコに気付いた彼は一言、同じポスターを目に入れてそう言った。このひと月、目にする事が出来なかったせいで、つい強く見つめてしまった事で、彼は何か気付いただろうかと、彼の目を覗き込む。彼は、にこり、と笑うだけで、キョーコの背中を押した。

キョーコは蓮との待ち合わせの場所に一人で行きたかった。が、この男は共に付いて来た。このままでは、はちあわせてしまう。どうやって今日の別れを告げようか、いや、もういっその事、「ゴメンなさい。」と言ってしまおうかと、相変わらず別の場所でも貼られていた蓮のポスターの前で、『ポスターの蓮』を見上げて無言で相談を持ちかける。

再び彼に「疲れただろ」と言われ、背中を押された時に、件の人物とそのマネージャーが、ついに待ち合わせの場所に現れた。

「・・・最上さん。久しぶり」
「・・・・敦賀さん・・・・お、お久しぶりですっ・・・」
「おや、敦賀君」
「こんにちは」

蓮は背中に置かれた彼の手に気付いていた。にっこりと微笑を浮かべた蓮の表情はそのまま維持されている。キョーコも社も、蓮が内心腹立たしく思っているだろうことはすぐに読み取れた。

「最上さん、帰ろう?」
「はい」

たった一言で、蓮はその場を切って捨てた。そして彼に苦笑いで「ゴメンなさい」と言った。キョーコがこの一ヶ月散々悩んだ答えを、あっさりと、しかし、少々申し訳無さそうな『演技』をして、告げてくれた。

「なるほどね・・・京子ちゃんの演技は・・・ずっと君を思った演技だったのか」

彼はすぐにその意図を理解して、改めてキョーコの背中を押した蓮の手を少し羨ましく思った。そして、急な状況にアタフタする社に、「オレは最初から振られていたみたいですよ。メンツに掛けて誰にも言いません」と告げた。すると社が、「すみません・・・」と、なぜかすまなそうに彼に返事をした。

男が去り、誰もいない地下駐車場に降りて、そっと柔らかに包まれた手に、キョーコは深い安堵感を覚えていた。


*****


一月分の逢瀬を楽しむように、言葉も無く、ベッドの上で腕の中のキョーコの髪を梳き、無作為に体中を撫で回し、蓮が望むがままに、望む場所に口付ける。

一月、一切彼の話を出さなかったキョーコの気持ちは蓮にはもちろん分かっていた。蓮に余計な心配を掛けないように、そして、できる事なら、そんな事があったことも悟らせないように・・・と。もちろん秘密裏に交際している二人にとって、異性に口説かれる事も多々ある。互いしか目に入っていないとはいえ、毎度報告していては互いに気疲れするから、何も言わない事は、いつか二人の暗黙のルールとなっていった。

ただし、キョーコは言わないまでも、そういう時は蓮に無意識に甘えるから、とても分かりやすかった、が。

「ねぇ、今日の・・・伝言は何だったの・・・?一月・・・一度も伝言なんて残さなかったのに・・・」
「ゴメンなさい。話そうとした瞬間にあの人が楽屋に入ってきて・・・思わず切りました」
「そう・・・・で・・・言いたかった事は、何?」
「声が、ただ、聞きたかっただけです・・・。多分聞けないだろうなって思っていましたけど・・・」
「彼に、何か、された?恋人役、だったんだろう・・・?」
「いえ、役柄以外には特に・・・」
「・・・好きだと言われた・・・・?」

キョーコはこくり、と一度だけ頷いた。蓮の頬を引き寄せると、目蓋を閉じて、互いの睫毛が付く程に彼の額に自らの額をつける。殆ど空気を震わせるだけの小さな囁きだけで、二人は会話を続ける。

「・・・付き合って欲しいとは、言われました・・・。一ヶ月、どうやってお断りをしようかと・・・考えていたのは事実です・・・・言わなくてごめんなさい・・・言ったら多分、心配してくれるだろうとは思っていました」
「うん・・・」
「だけど・・・ずっと彼を・・・敦賀さんに置き換えてやっていたから・・・最後、辛くて辛くて、涙が止まらなくなって、思わず電話を掛けました」


額をつけたまま、思い出したように、キョーコは蓮の腰を強く引き寄せ抱き締める。
しばらくキョーコの髪を撫でて甘えさせていた蓮が、口を開いた。


「どんな役だったの」
「すごく、幸せで、愛し合っていたんです。でも、互いに求めているものの方向性の違いから、すれ違うようになって・・・私は、彼にすがるしか知らない純粋な女の子の役なんです。彼は最後、私の携帯に、「好きな子が出来た。さよなら。」と伝言を残して、携帯を変えます・・・。携帯番号を変えることと、彼女を変える事が、まるで同じ事のようにいとも簡単に・・・。その後の、彼女の成長ぶりが描かれて終わります。けど・・・」
「けど・・・?」
「つ、辛かったです・・・。急に、携帯が繋がらなくなるのが・・・。どんなさよならよりも、強く「拒絶」された気がして・・・。この間まであんなに愛し合っていたのに、簡単に人間の関係なんて切れるんだなって・・・。だから・・・寂しくて、思わず携帯に電話しました。留守番電話に繋がったときは、ほっとしました・・・」
「なるほどね・・・・」


役者は、自分が望むと望まないとに関わらず、誰かに言いたくもないココロナイコトバを投げかけなければならない事がある。役者は、全く愛していない人間を、心底愛さねばならない事がある。その時々で心の形が変化して、キズツキ、キズツケられ、アイしアイされ削られて役に丸みを帯びていく。


キョーコは、天井の一点を凝視しながら、視線を動かすことなく、語った。蓮は背中に回されていた彼女の手を取る。話ながら、徐々に冷えてまるで氷のようになった手をさすり温めて、どれだけ彼女が深く役に入り込んでいたのかを肌に感じた。この愛情深い子に心底愛された彼が、一瞬の恋の幻覚を見てしまうのは、仕方の無い事だろう。そして、彼女が自分の声を探してくれた事に、男としてある種の欲が満たされ、ひどく愛しさが増していく。


「もちろん、敦賀さんがそうするとは思っていません。・・・でも・・・この先、どんな事があるか分からないですし・・・恋愛には色んな形があるから・・・」
「キョーコちゃん・・・」
「でも、今は、ずっとずっと昔から繋がっていた、赤いイト、だと思っていたいんです・・・」

するり、とキョーコの小指が、蓮の小指を攫う。

「こんなにイトが繋がるの・・・・大変だったのに・・・解くのはいとも簡単で、そんなに脆いなら、もう、解けないように・・・。解きたくないって・・・敦賀さんにすがっているのは私かもしれません・・・・ゴメンなさい」
「いや・・・」
「一度、解けてしまった赤い糸を・・・もう一度結ぶのは・・・とっても難しいですから・・・。でも・・・未練がましく、どこまでも思い続けるのは、性には合いませんけどっ・・・ふふ・・・」

恋は盲目、周りが見えなくなるような恋でいい、その方が、別れた時後、自分が成長するから、とキョーコは言う。誰を指してそれを言ったのかはもちろん明らかだったが、蓮も、キョーコに溺れるように抱き締めあう感覚は、何にも増して愛しく、自らの感情に溺れ散ると、不思議と今までの記憶と世界が落ち着いたセピア色に変わり、今が、色鮮やかに彩られていく。それはキョーコも全く同じ事。蓮に深く恋をすればするほど、感情が研ぎ澄まされていく。


こんなに気を許せる人間など初めてで、戸惑う。どこまで見せても受け入れられる事に、戸惑う。その戸惑いは、すぐに満ち足りた愛に変化する。そしてそのものすごく狭い空間・・・――互いの腕の中の――・・・だけは、生まれた姿のまま、その心をそのまま出していいと分かっている。無言でもどんなに我侭でもいい、どんなに短く不器用でもいい、本当の「コエ」さえあれば。



『・・・望んでいるのはどんなコト・・・?』



蓮はキョーコのカラダを、ココロを、全て壊すようにその腕に強く抱き、傾けた唇は、ゆっくりとキョーコの唇を食む。再び、自身が望むように身体を探る。


「・・・ん・・・っぁ・・・」
「君が・・・・オレの手の中の赤い糸を手繰り寄せてくれるなら・・・オレはどんな言葉も、どんなモノも、望むだけ君に差し出そう・・・。だから、君の望みを、気持ちを、声に出して言って欲しい」

キョーコの小指に強く自分のそれを絡めて、蓮は心の声を告げる。そして切なげに睫毛を震わせ小さく頷くキョーコの目元に、そっと口づけを落とす。彼女のその透明な心を保つのに自分が必要とされるのなら、どこまでも強くなれると思う。そして、この二人の行き着く先を創り出せる自分の腕がある事さえも、幸せに思う。

「今この部屋にね・・・カメラは無いから・・・だからオレには本当の君の声を、きかせてね・・・甘えてもいいし泣いてもいい・・・。オレの腕だけに、すがっていて・・・愛してあげるから」
「はい・・・」

甘い甘い声が部屋に響く。蓮とキョーコは、互いの耳だけでしか残すことの出来ない、互いの激しくも甘い声に深く溺れる。抱き締める蓮と抱き締め返す柔らかなキョーコの腕。囁く声はやはり甘く、二人の心が柔らかく包まれていく。


一生カットされることが無い色鮮やかな愛を綴ったフィルムは、互いの目の奥だけに刻み込まれる。そして二人の心の中でいつまでも褪せないまま色鮮やかになる。キョーコと蓮の二人は、そんな愛の軌跡を、日々、手探りで綴り続けている。









2007.07.08