ある日セツカは突然兄に告げた。
「アタシ、しばらく家を出る」
そう言われてカインは内心とても驚きはしたが、兄はそれに対し、涼しげにセツカに視線を流し、随分と静かな口調で、
「好きにしろ」
とだけ言った。
「しばらく兄さんの世話、できないけど」
「適当にやる。別に手足が無いわけじゃない。それにお前だってやりたい事もあれば、オレ以外の事にも時間を使いたいだろう。・・・それにもう・・・外の世界にも出たいのだろう?その代わり連絡は毎日入れる事。それから、必要な時は戻ってきてくれれば、オレはそれでいい」
兄はそれだけ言って立ち上がり、「じゃあな、体と男には気をつけるんだ」と付け加えて、自室に入っていった。
随分とあっけない見送り方じゃない?と、セツカは内心不満に思った。
せめてもう少し動揺してくれるとか、又は、お前が居ないと困るとか、若しくは、お前一人で何が出来るとかの身内らしい言葉を連ねて、何か引き止めるための言葉を貰いたかったのに。
そんな淡い期待はすっかり外れて、セツカは「もう」、と短い言葉を吐き出した。用意してあった海外渡航用の大きなトランクを玄関まで引く。
最後にまだ後ろ髪ひかれる思いがして、一度兄の部屋へ寄り、ドア越しに声をかけた。
「兄さん」
しばらく待っても返事が無いから、そのまま外から声をかけた。
「兄さんも、やりたい事もあると思うし、それにもう私から離れたい時もあるでしょう?でも、一つだけ約束して。私がいない間に、・・・・」
知らない女のヒトをこの部屋に入れないで、と、言いたく思ったものの、それを言うのはやめた。
首を左右に振って涙目を振り切ると、今度は寂しさでじわりじわりと喉の奥が熱くなってくる。声が涙声になりそうなのをこらえて、
「風邪、ひかないでね」
とだけ言って、玄関へと足を向けた。ぽたり、と、涙が床に落ちた。
*****
ふとした時に、兄から離れてみようと思った。
傍にいれば、望むだけ愛してくれるし、望むだけの希望を叶えてくれる。仕事で家を空ける事も多いから、帰ってくればどうしたって甘えてしまうし、世話を焼きたいし、夜も独占したくて兄の部屋で夜を明かす事もある。
こんなに好きで、まるで愛し合うように傍にいて、戯れでキスをして抱き合い、体をつなげて、でも、最も「女性」という枠組みには遠く、なる事ができない。結婚も出来なければ、粘膜すら触れ合う事が出来ない。それなのに、強く愛しく抱き合う。それはただの快楽を共有しているだけに過ぎず、同じ血が流れていて、最も濃いつながりのはずが、最も男女の性別を意識する事を許さない。
兄妹なのだから当然とはいえ、何のためにこんなに愛し合っているのかを考える余地が無い程、傍にいた。
だから、もう少し外側から、自分の事も、兄の事も、見てみようと思った。
兄だって、いくら自分を溺愛してくれているからと言って、健全で正常な男性の一人なのだから、ましてや芸能界、俳優業ともなれば、身近に結婚を前提に恋愛をしたいと望む女性がいてもおかしくない。
わざわざ妹に自分の恋愛事情などを詳細に話すはずも無いし、女の感でそれまでの兄の時々の恋愛を感じる事もあったけれども、それでも妹の事を思ってなのか、その相手とは長い時間は過ごさないのか過ごせなかったのか、セツカを寂しがらせるような恋愛はしてこなかった。
一歩外に出て、滲む涙を手で拭く。暖かな陽気なのに、外の世界がまるでとても冷たく見えて、怖くて、鈍りそうな気持ちを振り切ろうと、歩き出した。
*****
しばらく、と告げたけれども、一体いつまで外にいようか、とは具体的には決めていなかった。ただ、自分の考えがまとまるまで、納得が行くまで、外にいるつもりだった。
そんな家出少女を受け入れる場所は、ウィークリー契約で借りたワンルームの部屋で、まずは一人になってゆっくりと自分を見つめようと思った。
窓を開けて空気を入れ替え、少し掃除をして、備え付けの湯沸かし器で湯を沸かす。持ってきたマグカップに、インスタントのコーヒーをいれて、湯を注いだ。
ぼんやりと椅子に座り、ただ、流れていく雲を眺めてみる。
心に流れていく自分を縛っている言葉も、気持ちも、素直に見つめるつもりで、ただ、座っていた。
兄さんは、私が居なくなったら、どうするのだろう。一人になったと、誰かと食事に出かけてみたり、家の事が手に負えなくて誰かを雇うか、気のきく女の子でも連れてくるだろうか。
そもそも、もし、それまで自分が傍にいなかったら、もっと自由に時間を過ごしたのかもしれない。
というか、もし、本当に本当の彼女が出来て、結婚したら。自分は?
だから一人で歩いて行かなければならない日がいつか来るなら、もうそろそろ練習をしておかなければと決心したのは、つい最近ではないの。だから外に出てきたのに。
――やっぱりまだ傍にいたいなあ・・・
――結局、頭の中の芯の芯まで兄さんに甘えたいんだわ・・・
ただぼんやりとしてみても、やはり兄のことばかりに気が行き、結局自分の事には目が向かないな、と、セツカは一人で寂しく笑う。仕事の時以外は、片時も離れずに過ごしてきたのだから、仕方の無い事だろう。
――もし今まで兄さんがいなかったら?
自分は自由に時間を使っただろうか?そんな事は無く、もっと空しく時間を使ったかもしれない。
兄さえいれば何も無くても良かった。望むだけの物を兄はくれたけれども、何も無くてよかった。兄の傍にいられれば、世界がどんなに広くて、ひどくて、苦しくても、怖くなかった。
兄の作る優しいテリトリーの中で、過ごしていられれば、寂しくなかった。
――兄さんも、少しは寂しくなってくれてるかしら?
一人で夕飯を食べながら、セツカは、ふふ、と笑った。部屋で響くテレビの音が空しさを埋めるただのBGMにすぎなかった。
もしかしたらそのうち兄の姿がテレビ画面を通して見られるかもしれない。
――本当に兄さん以外の事、何も考えてこなかったのね・・・
その日、ただ一人の一晩を、殆んど兄のことだけ考えてすごした。
*****
毎日電話しろといわれたのに、結局数日連絡をしなかった。携帯電話の発信画面までは何度も行ったけれども、押してしまえば、まだ甘えたい気持ちも流れ出してしまいそうな気がした。
兄さんを我慢しなさい、なんて、まるでダイエットでもしている女の子の気持ちだった。甘いものを食べたくて食べたくて、でも、明日の事を思って我慢するような。
気晴らしに、女友達でも誘って食事と買い物でもしようと思った日に限って誰も捕まらない。
仕方が無いから一人でいつもの買い物場所へ向かい、服やバッグを眺める。
これなら兄さんも可愛く思ってくれるかな、と思って笑ってしまう。無意識にそんな事を思った自分に気付いてハッとして、結局選ぶ基準にさえも、兄が絡んでくるのだから、どんなに一人になってみたって、そこに兄がいるのと変わりない。
ハァ・・・と長いため息をついて、セツカは服を元の場所に戻した。
少し休もうと外に出ると、見たことのある車。思わず一歩下がってしまう。フロントから見えた姿は、当然兄の姿。
一体何日ぶりだろう。仕事以外でこんなに離れたのは初めてではないだろうか。
そしてすぐに助手席を確認してしまう。誰も乗っていないことに安堵してみたりする。
全然当初の目的は達成できていない。
普通の恋愛なら、さよならがある。しかし、兄妹ともなれば、さよならだけはしなくていい。世界で唯一永遠に繋がっていられる権利だけは持っている。
数日沢山自分を見つめ直したし、もう少し冷静になったかと思ったのに。
兄の姿を見て、去っていく車の姿が小さくなっていくと共に、セツカは強い寂しさを感じていた。
*****
その日の夜、ベッドでぼんやりと横になっているセツカの携帯が鳴った。カイン兄だった。二コール程鳴っているのを見てみぬフリをしたけれども、結局は通話ボタンを押した。
「はい」
「連絡しろと言ったのに」
「・・・うん・・・」
「元気が無いな?熱か?」
「ううん、元気。眠いだけ」
「そうか」
「兄さんは?元気?」
「ああ」
「今日ね、外で兄さんの車、見かけた。中に乗ってたの、見えた」
「・・・知ってた」
「居たの分かったの?」
「お前は目立つからな」
「じゃあ何で声かけてくれなかったの」
「オレが出て行ったら邪魔かと思って」
「そんな事ない!」
セツカは電話越しに、自分でも驚くぐらい強く断言していた。
「あ、ゴメンなさい、大きな声出して・・・」
「・・・セツ」
セツ、と、兄が自分を呼んだ声を聞いたのはどれぐらいぶりだろう。
ヤバイ、とセツカは思った。今、声を出したら、確実に涙声で、震える。嬉しくて、会いたくて・・・。
「だから久しぶりに声を聞こうと思った」
うん、と言った声がもう涙声で、しばらく声を出す事が出来なかった。
「セツ、明日は帰ってこい。一日家にいるから」
もう一度、うん、と言った声もまた涙声で、電話越しに優しく笑ったカインの声が聞こえた。
「なんだ、もうホームシックなのか。自分から出て行ったクセに」
「・・・ち、ちがうもん・・・」
兄離れをする決心なんてすっかりグラグラで、兄の腕の中を想像しただけで、その幸福感を思い出す。
「そうか?」
どうせ電話越しに不敵な笑みでも浮かべているのだろう。セツカは精一杯の強がりで、
「兄さんのバカ・・・」
と言った。
*****
「兄さん」
リビングでくつろぐ兄を見つけて、セツカは恐る恐る近寄る。何でこんなに緊張をしているのだろう。
「おかえり」
あまり表情を変える方ではない兄が、たまに見せる優しい微笑み。どきりとした。久しぶりに見た兄は少しだけ他人のように思えた。冴えた美しさは世の女性がほっとくはずが無いのに、今はまだ自分の傍にある。
「・・・ただいま、兄さん」
「どうだ、オレの世話が無い生活は快適か?」
「快適・・・?」
自分の時間をどう過ごすか、それを日々思案して過ごしているのだから、まだ快適と言うには程遠い。
セツカはカインの横に静かに座る。
ソファに浅く腰掛けて、体は兄の方へ向けた。
「兄さんの事ばかり、考えてた」
「・・・・・・・」
「もう、兄さんから離れなきゃって思って出て行ったはずなのに、まだ全然ダメ。むしろもっと考えてた。兄さん、私が居ない間は、どうしてたの?」
「仕事だよ、当然。あとはこの部屋でぼんやりしてた。仕事と家事の両方をやるのは面倒だから、本当は帰ってきて欲しいけど、それだけの為にお前を呼び戻すのも、と思って、何とかやり過ごしてたけど」
「私が必要なのは、家事だけ?」
その質問というか誘導尋問は、「そんな事は無い」、と言って欲しいだけの会話で、その事を分かっているセツカもそう言ってから視線を逸らした。
カインはそっとセツカの手に触れて、握る。
「泣いてたな、昨日」
「本当は、もっと自立して、自分の事だけ考えて、兄さんに自由になって貰おうって思って出て行ったんだけど」
「まだまだだろう?」
「・・・出て行く時にそう言って欲しかった」
「お前を自由にしてやろうと、オレも思ってた。その時が来たのかと、思ったんだよ」
カインは優しくそう言って、聞いて泣き出しそうなセツカを腕の中に入れた。
「本当は、こうするのも良くないと分かってる」
「うん。私も」
「あと少し、もう少しだけ、オレの妹でいてくれたらと、思ってる」
「何言ってんの、ずっと、一生、兄さんがいやと言っても、アタシは、兄さんの妹なんだよ」
少しだけ、涙ぐんだ声がした。
セツ、と、優しく呼んだ兄は、腕の力を強めて、甘えたセツカの体を包み込んだ。
「妹にしか、なれないけど・・・ね。だからもう少し・・・もう少しだけ、甘えさせて・・・」
「いつかオレよりいい男が現れたら、お役御免になるよ」
「兄さんよりいい男?どうやって出会うのかしらね・・・」
「いるよ、必ず」
「いなかったら、ずっと、こうしててくれるの?・・・でも、アタシより大事にしたい人が現れたら、言って。そしたら、アタシも、もう本当に家を出るから・・・」
「・・・ああ、いたらな・・・」
互いに答えの出ない日々をもう少しだけ続ける決意をして、二人は久しぶりに同じベッドで眠った。
セツカが少しもカインから離れようとしなくて、兄は、「本当にオレから離れるつもりがあったのか」、と、優しく笑った。
――馴染んだ体温。息づかい。
――どんな広い世界も、二人でいたら無敵なのだろう。
そう思ったのは、どちらだっただろう。
セツカは兄の腕の中で、久しぶりにゆっくりと眠った。
2019.6.22
作成 2010.12.05
本「ADDICTED」 書き下ろし分の再録です。