無意識に息を呑んで止めた。
しばらく止めたままだった事を、キョーコはようやく気付いた。
――何なの、この胸の痛みは。
蓮が制服を着た女の子を、その胸にぎゅうと抱しめていたのをうっかり見てしまい、思わず息を潜め、壁に隠れた。
そして、足早に元来た廊下を戻る。
――敦賀さんは、ようやく思いを遂げたのだ。
キョーコは、そう、理解した。
あんなに誰にも言わないと、言えないと言っていたけれど、蓮が望めば叶わない事など殆どないだろう。こと恋愛に関して、蓮が望んでも叶わない事の方が皆無だろうと、キョーコは思っていたからだ。言えば、叶う。だから、ついに口にしたのだと思った。
そして、自分この胸の痛みには覚えがあった。
――片思い暦十数年の経験はあるけど・・・片思い暦たったの一秒だなんて。
無意識下に眠らせていた所謂恋心、というものが、単に起きて表に出てきただけ。
今更自分の気持ちに気付き、そして、たったの一秒で玉砕した事を感じていた。
自分の気持ちなんてたったの一秒。
だから、きっとこれは気のせい、すぐに忘れられる。
・・・・そう自分に言い聞かせる。
今までもずっと「気のせい」で過ごしてきたのだ。
だから、これからもずっと「気のせいでいたい」と願ったのはある日の自分。
ぴたり、と廊下を進む足を止がとまってしまった。
これ以上廊下を進むと人に会う。
――足だけでなくて、無駄に膨らむ自分の心も止めてほしい。
新たに知った自分の心に戸惑う。
自分だって、蓮に抱しめられた経験は何度かある。
思い出して、胸が痛んだ。
あの大きな腕は自分を守るためには出来ていない。
あの子を守るためにあるのだ・・・と。
こんな時に限って、浮上しようにも浮上できなかった。
「・・・っ・・・・・・」
「・・・・・最上さん?」
蓮が同じ廊下を歩いて帰って来た。声を掛けたのを、キョーコは背中が凍る思いでいた。振り向く事なんて到底出来ない。
「どうした?泣いてる・・・?」
誰もいない廊下で一人泣いているキョーコに気付いた蓮は、それは心配して、屈みこんでキョーコの表情を伺った。
「ご、ゴメンなさいっ。よ、養成所で、泣くっ・・・宿題が出ていてっ・・・モーコさんみたいにうまく泣けないからっ・・・」
泣くという動作を思い出した時、思い出せたのは奏江の事だけだった。
「そう・・・なの?」
という傍から、キョーコはボロボロ涙をこぼし、「一度涙腺緩めたら、元に戻らなくて」と言って、「今度モー子さんには、美しく涙を止める方法を聞いてみます」と言って蓮に笑いかけ、平気である事をアピールしようとした。
蓮が以前キョーコが泣いた時のように抱しめようとして、キョーコは拒んだ。
「大丈夫です」
キョーコの心は、極限まで張り詰めていた。
蓮の心も、キョーコと同じかそれ以上に痛んだ。
うまく元気付けてあげる事すら自分に出来ないのかと。
まさかキョーコが勘違いをしているとは知らない。
涙が止まったキョーコと、無言の蓮が黙ったまま廊下を進む。
送るよ、といった蓮の車に乗り込むと、キョーコはおもむろに口を開いた。
「あ、あのっ・・・」
「何?」
「黙っているのは卑怯なので言います。ゴメンなさい・・・見てしまったんです。」
「何を?」
「さっき敦賀さんが女の子を抱しめている所を・・・。もし、あの、その・・・私、黙っておきますから安心してくださいっ」
「・・・・?あぁ、違うよ。抱しめた理由は君が思っているような理由じゃない。」
蓮はその事を詳しく言わなかったが、キョーコが何を言わんとしたのか、何故泣いていたのかを、ほんの少しだけ自分の期待したように理解したかった。
「そう、なんですか」
「もしかして、オレがあの子と付き合っていると思った?」
キョーコの顔が、意外そうに蓮を見上げたままだったから、蓮の思惑は当たらずも遠からずだったりかな、と、ほんの少しだけ嬉しく思った。
そしてキョーコのたった一秒の片思いは、もしかしてまた数年続くのか、否、そんなのは・・・・と、新たな葛藤でまた泣きたい気分のキョーコだった。
2008.2.7
キョーコさんの自覚を促したかった私の願望と思われます。
(もう本誌では素敵な自覚をしておりますが、これはこれで残しておきます)