Never Let Go

今目の前にいる相手が、過去、今までどんな人を恋人に選んできたのだろうかという想像を、まったく一度たりとも持たない恋愛はあるだろうか。少なくとも一度くらいは、何かの折には想像してみたりするに違いない。

未来も当然ながら二人の関係がうまくいくか、又はそうではないかのどちらかしかないのだから、一度くらいは明るい未来の想像や、逆に、相手がいなくなった未来も想像するに違いない。

キョーコも普段はそんな事を考え無いが、たまたま事務所で蓮と女優がそばに寄り添う姿を見かけたという、ありふれた単純な事で、そんな感情を呼び起こされた。

彼女は何か本を読む蓮に飲み物を手渡し、自然に横に座り、蓮の手元の本を覗き込む。そして紙面を指差し、その至近距離で蓮を見上げ、見つめている。女の子らしい可憐で可愛らしいしぐさ、時折冗談でも言っているらしい。手元を覆いながら笑う女優と、それを受け止め微笑む蓮は、遠くから見れば、まるで恋愛関係にあるような姿にさえ思える。


蓮もその女優もただ話しているだけなのに、胸の奥の劣等感や嫉妬、最も見たくない触れたくない部分が突如うずいた。

多分、自分がその相手をとても美しいと、尊敬しているからこそに違いなかった。
それ以上その風景も、自分の心の中も見ていたくなくて、蓮に声をかけようとしたのをやめてしまった。

自分が蓮と仕事をしていた時だって、誰かから見たらこのような雰囲気だったかもしれない。しかし何でもない彼女の蓮への視線は、キョーコがさらりと流すには重かった。

その姿を見てから、蓮から連絡がない限りは、キョーコからは連絡ができなくなっていた。携帯電話のボタンを押せばいいことなのに、蓮の名前を呼び出しても最後の一押しができない。

会いたいという気持ちはあったけれども、会ったら声を聞いたら、思わず蓮の過去に触れたくなってしまいそうだった。何かきっかけがある訳でもなく、本人が話をしないのに、そんな事を根掘り葉掘り聞く訳にはいかない。


そうして少しだけは蓮との恋愛に慣れ、一緒に過ごす時間が増え、余裕が出来た乙女心が、心の中の隙や不安の中に、すとん、と、一度落ちてしまうと、途端に何もかもが揺れ出し始める。

彼はどうして自分を選んでくれたのだろうか。これからもずっと一緒にいられるだろうか。そして、いつか自分に飽きる日が来るのだろうか。
もし自分と蓮の未来が繋がっていなかったら、将来のどこかに二人の分岐点があったなら。将来はこうして蓮を外側から眺める風景になるのだろうか・・・。

そんな事を思うと、単純に、いやだ、という思いが心の中に湧く。蓮を誰にも渡したくないという気持ちがいつの間にか育っていて、とても強くあることにも気付いた。


どこかで過去の自分の声も聞こえる。恋とか愛とかに心を許すことが、強烈な畏れの対象であったのをふと思い出す。

昔と同じように、蓮に対して全身全霊をかけた恋をしていても、その重みを悟られてはいけないと、どこかでセーブしてしまう。

せめて少しだけ冷静で、恋愛に対して自立した大人な自分を装いたいと、距離を置き、今の自分を確認してみたりする。

それでも、心の中の最も柔らかな部分を蓮に広げられてしまったのに、もし、彼が先に夢からさめたなら。その時、自分は、もう彼なしではいられなくなっていたなら・・・。その空間はどうして埋めたら良いだろう。

ただ想像を始めただけなのに、すっかり相手を信じている気持ちや、大丈夫だと思いたい自分の気持ちはどこかへ隠れてしまい、見事に想像は、未来の失恋少女の物語へと広がっていく。もういいよ、と、ふられる姿を想像して、惨めな気持ちが体中に広がる。

蓮が夢からさめる日。そんな事を思うと、手をつなぎ、抱きしめあって、好きと言える幸せが、まるで幻の中の事だったように思えてくる。

なんで、こんなに好きになってしまったのだろう、最後には、想像と妄想で混乱して、最も単純な疑問さえ頭に浮かんできた。

「・・・なんだか想像だけで泣けてきた・・・」

キョーコはずずっと鼻をすすりあげて、目元を手でこする。
今まで蓮との事を不安ポケットに落とすことなどなかったのに。その自信はどこにあったのかさえ、分からなくなってしまいそうだ。

このまま自然消滅でもして、「互いの仕事の忙しさからのすれ違いによる破局」と、ありそうな報道の様子まで、見事に想像してしまう。

携帯が震えた。蓮からの久しぶりの着信。声が聞きたい。今電話に出たら、無様に泣きながら、今すぐにでも会いたいと言い、そして抱きしめて欲しいとさえも言ってしまいそうだった。

ものすごく出たいのに、まだ少し目が潤んでいて、鼻をすすればすぐに蓮が心配でもしそうだったから、着信に気付かないフリをして、それに出る事はなかった。


*****


久々蓮に会う、トーク番組の収録前。蓮の控え室に挨拶に行ったキョーコは深々と頭を下げて、「おはようございます、よろしくおねがいします」とだけ告げて、すぐに扉を閉めた。

社は、扉が閉まってから「そこまで他人行儀にしなくてもいいのにねえ」、と言い、キョーコが部屋に寄らずに挨拶だけですぐに出て行ったのは気遣いなのだと思った。

蓮は無言を続けた。渡された進行用の台本を眺めて、今日のおよその質問内容などを頭に入れている。

「そろそろバレてもいいのに、誰も気付かないよね。蓮に張ってる人いないのかな」

「どうでしょう」

「キョーコちゃん、慌てていたのかな、蓮の顔、見ていかなかったね」

「・・・・・・・・・・」

蓮は視線を一瞬だけ台本から床にずらして、でも、再びすぐに台本へと戻した。

社はようやく蓮のぴりぴりとした雰囲気を読み取り、それ以上口を開くことをやめた。本番前にテンションが下がっては困る。

蓮は、もしかしたら自分はキョーコに避けられているのではないか、そんな事をふと思った。電話に出なかったのは、意図的だったのではないだろうか。キョーコはそれ以降電話をかけてはこなかった。避けられた理由が、蓮には分からなかった。それから数日、結局連絡をせずに、今日の日が来た。

時間だと呼びに来たスタッフに会釈をして蓮も立ち上がる。部屋を出ると、キョーコも歩いてきた。目が合えば、びくり、とあからさまに震えて、目を逸らした。避けられているのはどうやら正しかったらしい。会いたかったのは、自分だけだったらしい。

キョーコも社も、蓮が静かに気持ちを抑えた時の雰囲気を感じ取っていた。

*****


台本には、キョーコや蓮の出演映画の話題をしながら、様々プライベートの質問も軽くします、などと書かれていた。

蓮のプライベートを知りたい司会者は、さりげなく蓮の恋愛のことについて尋ねている。キョーコは出来るだけ微笑み、聞く側に徹したい。

しかし、好きなタイプや、特徴は、ずばりキョーコのことそのものを告げている。随分と迷いなくハッキリした答えを告げるものだから、司会者もついに、「ええと、やはり恋人、居るんですか?」とたずねた。

蓮は「そうですね」と、事も無げに随分さらりと答えた。驚く司会者、キョーコも内心大変な冷や汗をかいている。そんな事言って良いという許可をもらっていたのだろうかという疑問でキョーコの頭の中はいっぱいで、社もスタジオの隅で遠い目をしながら、プライベートは本人に任せていますというお決まりの文句を、今後あちらこちらで繰り返すだろう日々をすぐさま想像していた。

「いらっしゃるとは思っていましたが、ええ」

「隠していませんから」

ごく自然に言う蓮に、司会者は身を乗り出して質問を始めた。完全に映画のプロモーション用の話題などどこかへ飛んでいる。蓮は、いつからですか、という質問には答えなかったものの、大事にしている事、相手より自分の方がより好きである事などを告げた。

「敦賀さんにそんなに愛されていたらケンカなんかもないでしょう?」

「いえ、そんな事ないですよ。大事にしているつもりなんですけど・・・自分に足りない事は沢山あるみたいで」

本当の言葉を言っているようにキョーコには思えた。キョーコは本番中だというのに、視線を上げられなくて、それでも精一杯微笑み、テーブルを見つめ続けていた。

「京子さんは、どうなんですか?」

「えっ?」

「恋愛とか」

随分と素に戻っていた時にふられたものだから、キョーコは詰まってしまって、変にあわてた。

「え、えっと、そうですね、はい、普通に」

「タイプとか、あるんですか?今の人が、タイプって感じ?」

「タイプですか?いえ、特には・・・」

笑み混じりに曖昧に答えると、司会者はキョーコの触れて欲しくない雰囲気を肌で感じ取ったのか、それ以上を聞く事は無かった。

番組収録が終わり、挨拶をしながらスタジオをあとにする。蓮とキョーコは並んで廊下を歩き、控え室に向かう。不自然な無言が続く。キョーコは、ずっと会いたかった素直な気持ちを思い出して、そして蓮に触れたくなり、蓮を見上げて、

「照れます」

ぽつりと一言だけ、精一杯の気持ちを蓮に言うと、蓮はキョーコを横目でちらりと見るだけで、返事はしなかった。

怒ってる!と、キョーコは背筋に冷や汗を覚えた。


*****


蓮は自宅マンションに着くと、無言でキョーコの手を引いた。自宅の玄関の扉を開けると、キョーコを中に勢いよく引き入れて、後ろ手で扉を閉めた。抱きしめたキョーコをドアに押し付けて、唇を塞いだ。

強引に強く吸われて、キョーコは反射的に強く目を閉じる。

蓮は固く閉じられたキョーコの唇を何度もついばみ、「キョーコ」と何度もささやく。互いに少しだけ上がった息づかいだけが聞こえる。

二人とも、今すぐにでも、どうにかなってしまいたかった。でも蓮がそれを我慢した。
キョーコの靴を脱がせ、蓮は抱えてそのまま寝室へ連れた。上着を脱いで床に投げ、すぐさまキョーコを腕の中に入れる。

蓮の目の奥は、静かに、深く、キョーコをとらえている。
無言が続き、ただ暗闇の中、二人は見つめ合っていた。
こんなに長く、人と見つめ合えるものだっただろうか。

蓮は、熱くなっていく感情と共に、蓮の中に棲む獣と対峙していた。

どこかの意識で、紳士的でありたい自分と、またどこかの意識で、激しく奪い、自分以外の事など考える余裕などもたせぬよう、キョーコを滅茶苦茶にしてみたい欲望と。キョーコの服を思いきり引き裂いてしまいたいような。

そんな自分をキョーコに悟られないように、蓮はできるだけ静かにキョーコにそっと口付けた。くちびるが離れる瞬間に、キョーコの詰めていた息が苦しげに細々と吐き出されて、蓮にかすかに触れた。

「なぜ連絡をくれなかったの?」

「・・・こわくなって」

「オレを?」

「自分を・・・」

「どうして」

「・・・敦賀さんを、好きに、なりすぎて・・・」

キョーコは、目をのぞきこむ蓮の目を見つめながら、そっと、そう言うのが精一杯だった。
詰めた息で胸も苦しくて、声が、震えた。

「きめた。今日は一切手加減しない」

キョーコの中の本当を見るために。そして自らの身体の中に飼う獣も見せるために。
蓮はキョーコの唇を、今度は荒々しく塞いだ。


*****


キョーコが懸命に身体の中にひそませてきた蓮への熱は、全て暴かれて、蓮の中の獣に飲み込まれた。

蓮の中の獣が眠ると、二人は穏やかに寄り添った。

ぼんやりとしながら、キョーコは蓮の腕の中で様々な気持ちがゆらゆらと泳いでいた。

キョーコも自分の中の本当のことを多く蓮に伝えられる方ではないけれども、蓮もキョーコに言わない事はたくさんある。全てを聞きたい訳ではないけれども、少しずつでもいいから過去はどうだったのかな、とか、未来は、どうしていたいのかな、とか、もっと蓮の事を深く知りたい。自分の事も、もう少しうまく伝えられたらいいのにと思う。

過去、蓮がどう過ごしてきたかの全てを知る由もないが、蓮の周りにいただろう彼女たちは、蓮の中にひっそりと深く横たわる痛みを、やわらげてきたのだろうか。自分は、少しはやわらげる事ができているだろうか。

蓮が何かの未来を想像するとき、そこに自分の姿も一緒に立っているだろうか。

蓮にゆっくりと優しく愛され、心の底から幸せを覚えて、愛しくて嬉しくて・・・蓮と対等になりたいと望みながら、それでも甘えたくなるし、守られたくなるし、弱いひとりの女の子でありたくなる。

キョーコは身体の中でふわふわと舞うそうした愛しいような甘い気持ちをどう表したらいいのか分からずに、意味も無くゆっくりと何度も蓮の名を呼んだ。

蓮は微笑み、指でキョーコのへその辺りを親指でくるりくるり、と何度も撫でて返事をして、くすぐったそうにキョーコが身をよじり、笑った。

「・・・こうして理由もなく心から愛されて優しくされると、たまに、本当なのかなって不安になります・・・」

とキョーコはぽつりと蓮に言うと、蓮は意外そうな顔をして軽くキョーコの額に唇を落とす。

「それを簡単に言うと・・・オレは君にとても愛されてるって解釈していいんだろう?」

蓮は穏やかに笑う。

「あの・・・できれば、もう少しだけ会いたいと言っても、いいですか?がまんできる所まではしますから・・・」

「どうして。がまんなんて必要ないのに・・・もしかして、言うのをためらっていたの?」

「はい」

「なぜ?待っていたのに」

「あの、敦賀さんに比べて私の好きな気持ちは重過ぎてしまうような気がして・・・」

「ん・・・その言葉の本当の意味を教えて。まさかオレはこのあと君にふられるとか・・・?」

蓮は意外な程まじめなとても大きな目でキョーコを見つめて、キョーコは不思議そうな顔をして答えた。

「え・・・あの、どういう事でしょう・・・?よくお分かりかと思いますが、私の場合、好きになりすぎて重いんじゃ、とか、そういう意味で・・・私ばっかりいつも寂しくて、会いたくて、声が聞きたくて・・・。頼りすぎたり求めてばかりの関係じゃ、嫌われてしまいますから・・・・」

キョーコがそう言うと、蓮は少しほっとした顔をして、キョーコの指に自らの指を絡ませる。

「うーん・・・(それならオレの方がずっと好きで重いと思うんだけど・・・)。あぁまだよく分からないな・・・もっと意味を深く知りたい。教えて」

蓮がキョーコを愛しそうに見つめる。

キョーコは目が合ってしまって少し困ったようにはにかみ、蓮の唇を何度かついばんだ。

蓮の、もっとしたそうな唇。でもそれ以上をすると、また、蓮は腕の中から離してくれなくなるような気もする。

「これが好きの重み?もっと重くてもいいよ」

「・・・・じゅ、十分重いです・・・」

「そうかな」

と言った所で、蓮はキョーコの身体の上に覆いかぶさり、キョーコを腕の中に入れ、至近距離で見つめる。

「オレの腕の中に入ってしまえば、さっきまではあんなに君は、」

キョーコはあわてて蓮の口を両手で塞いで、

「あの、十分、ドキドキしてます・・・また次に、ちょっとずつ、あの・・・」

そして、言っておきますが、と付け加えた。

「私が、好きって言いだすと、鬱陶しいですよ?重いですよ?いつかもういいって、面倒になりますよ・・・?」

「じゃあオレは君よりもっと言うから、もっと重くなるな。逃げたくても逃げられないよ?覚悟はいい?」

そう言われてキョーコは蓮の耳にそっと囁いた。

「負けません。だから離さないでください・・・」

言ってからキョーコは照れて真っ赤な顔でうつむき、蓮の身体に顔を伏せてその表情を隠した。

「・・・オレにはそう簡単に勝てないよ」

蓮は面白そうに笑って、キョーコの肌に唇を落とした。




2013.12.22

この作品は2011年5月頃の献上原稿でした。