LOVE PHANTOM

ジュースを音を立てて飲み干した社は、ふぅ・・・と一息ついた。

「蓮、もういい加減部屋に戻らないの?」

社がそう声をかけると、蓮は視線を一度だけ社の空いたグラスに向けた。そして「そうですね・・・」と全く気の無い返事をして、再び台本に視線を戻した。

なぜ気の無い返事を返すのかは目に見えている。目の前には穏やかな海が、そして「あの子」が、浜辺で相方の奏江とパラソルの下で楽しそうに談笑して寝転んでいる。

「気になる?」

「何がです?」

蓮はまた気の無い返事をする。蓮は一体何本仕事を抱えれば気がすむのか・・・このところ頼まれる仕事は一切断らず、睡眠三時間も取れないことなど珍しくない。どこからそのバイタリティが生まれるのか。蓮は「仕事」の文字に取り付かれたように働き続けている。

「・・・・ふふふ。心配でしょ?今日は男いっぱいだもんね。」

にやり、と目がなくなるまで細めて笑う社に、蓮は更に無表情になる。そして、ふぅ、と一つため息をついて、口を開いた。

「また変なのに付きまとわれたとき、誰が助けるんです。あの子にはマネージャーはいないんですよ。知名度上がってきたのに・・・。いつでも傍にいられる訳じゃない。もう誰かつけて欲しいものですね。」

「そうだよねぇ。」

「あの子に「絶対にそこにいて下さいね」と言われたのに・・・先に帰るわけに行かないでしょう。」

「嬉しいんでしょ?」

「・・・・・・・・・・・。」

「他の男なんかに頼んだら「本気で」怒るくせに。」

いつものように社は自ら最終ラインを踏んでから、にんまり笑って口を閉じた。蓮は怒っている訳ではないが、蓮の本音は口にして欲しくはないらしい。とにかく大事にしているくせに、どうしてそこまで自らの気持ちを認めないのかが社には分からない。蓮はいつでもキョーコのそばにいるけれども、実際付き合っているのかどうなのかは社には教えてくれない。社ももう無言で視線を海に戻した。

きらきらと輝くキョーコのオレンジ色の髪は、紅く夕陽色に変わっている。暑さが少し引いた秋口の海。夕陽はだいぶ傾いて、浜辺にいた多くの人も夜の支度のために自室に戻り始めている。

社長の持つ広大な別荘に、「社内交流」と称して各セクションから多くの社員と芸能人が招待された。他のセクションの人を引っ張り出すための「餌」として、蓮は否応なく選ばれていた。もちろん社長お気に入りのラブミーセクションからも全員招待されて、マリアも「蓮様監視係」として同行している。 ほかにも日差し厳禁の瑠璃子なども招待されていた。屋内のプールでも水着に長袖と帽子着用と完全防備で、「あのハイエナ部員が一緒に行こうなんて言うからっ」と嬉しそうに口を尖らせている姿が、何人にも目撃されていた。

海にも浜辺にも見渡す限り芸能人が溢れている。私有地だから一般人厳禁エリアとはいえ、この豪華で華やかな風景を撮影できるなら、後援・中継したいという会社は後を絶たないだろう。その豪華な面子を鶴の一声で揃えられるのはもちろんこの会社の社長。仕事で海外にでもいるか、仕事か、よほどの事がない限り、LMEの日曜日に欠席を許さなかった。それはLMEの社員である以上、芸能人であろうとなかろうと、たまには誰にも気兼ねせず、心から羽を伸ばすべきだと言った。

浜辺から引き上げる際、蓮に声をかけていく同僚や先輩後輩も後を絶たない。互いに多忙を極める芸能人同士。TVでは見かけても、社内や仕事場ですれ違う事は少ない。蓮は声をかけられるたびに、いつもの穏やかで紳士な笑顔で挨拶を返した。

それだけでモデルセクションの女の子は「来た甲斐があった」と口を揃える。マリアが傍にいる間は、ラブミー部員以外、誰も蓮に長時間は近寄れない。しかし夜ともなればまだ子供のマリア、当然パーティなどもすぐに退席すると見込んでいた。そして、彼女らはあわよくば夜、パーティ後・・・と、目論んでいるのだろう。そんな女性陣の色目に気づいているのかいないのか、蓮は無駄に誰かを喜ばせ期待させる笑顔を振りまいていた。


穏やかな風が吹き抜けて、少し、ふるり、とキョーコが身体を振るわせたのに気づいて、蓮は立ち上がった。

「帰りましょう。呼んできます。」

「・・・・・・」

・・・・分かりやすすぎ、と社は口にしなかった。

「最上さん、帰ろう?もうみんな夜のパーティの支度を始めているよ。」

「あ、はい。モー子さんっ・・・・帰ろう?」

蓮の声にキョーコは寝そべっていた体勢から慌てて身体を起こして返事をした。奏江は、じっと見ていた台本から視線を上げて一言「そうね」と口にした。

「モー子さん。社長、私たちにどんな衣装を用意してくれたんだろうね?」

夜用の衣装は、衣装担当の社員を総動員の上、社長自ら各人用にセレクトしたらしい。

「そうね。でもあまり期待しないほうがいいんじゃない?どうせペアのドピンクドレスよ。」

「そ、そうかな?やっぱり?」

キョーコは少しがっかりした表情を見せたものの、「モー子さんとペアならいいや」と、にっこりと笑った。

その様子をにこやかに見守っていた蓮は、もう一度キョーコに「さぁ、戻ろう。」と声をかけた。

二度も声をかけられて勢いよく立ち上がったキョーコは、パラソルの骨組に、ごつんっ・・・と派手な音とともに頭をぶつけた。

「・・・・っつぅ・・・・・いったあっ~~~~・・・。」

「っ・・・」

とっさにキョーコの髪に触れて、ぶつけた箇所に傷が無いかを確かめた蓮に、奏江はふっとほんの少しの笑みを浮かべた。そして互いを労り合う彼らから、奏江が海へ視線を逸らしたのを、社は見逃さなかった。

*****

その夜の贅を尽くしたパーティは、社長の趣味だろう、まるで十七世紀のとある国の王宮に紛れ込んだかのようで、キョーコが、この装飾が、このドレスが、この食器が、と奏江に大興奮で語りかけたのは言うまでもない。

キョーコには真っ黒なシルク生地に長いスリットの入ったタイトでシンプルな大人びたドレスが与えられた。薄い化粧をして、小さな髪留めをつけて出席している。

蓮の居場所はその背の高さですぐに分かる。周りには、モデル、女優、俳優・・・。マリアはもう居ない。蓮とキョーコがある程度仲がいいとはいえ、蓮とのキャリアの違いから、ラブミー部の二人が、蓮の周りに自然にできていくキャリア陣の輪に近づけるはずも無い。

社も蓮の当たり障り無い人間付き合いが少しでも改善すれば・・・と、あえて蓮から離れてキョーコと共にその様子を見守っていた。奏江は、しばらく付き合ったものの、疲れて眠いし美容に悪いからもう寝るわ、と言ってさっさと会場を後にした。既にベッドの中にいるだろう。

そんな様子が続いた少し後。社がキョーコに声をかけた。

「キョーコちゃん、あのさ、蓮を助けてきてくれない?」

「え?」

「人に捕まりすぎで疲れているみたいだからさ。」

なぜ社さんではなく私が?と、きょとん、とした表情をキョーコはした。

「キョーコちゃんが蓮に「社さんが呼んでます」って言ってくれれば、すぐにこっちに戻ってきてくれるよ。」

「社さんが言いに行けば・・・・。」

そんな飛んで火にいる夏の虫にはなりたくないと、キョーコは社を恨めしげな目で見つめた。

「いいから、いいから。それでさ、蓮を廊下にでも連れ出して、もう一緒に部屋に帰っていいよ。」

「えぇっ・・・・。」

社の押しに、キョーコは言われるがまま、しぶしぶ蓮に近づいて「敦賀さん・・・」と申し訳なさそうに声をかけた。

「どうした?」

蓮はすぐにキョーコに気がついて心配そうに口を開いた。社が傍にいるから少しは安心だろうと目を放した隙に、好きに楽しんでいる俳優やタレントに何かされたのかと一瞬不安がよぎったからだ。

周りにいたモデル陣すら、蓮の様子が一瞬にして険しくなったのを感じた。そしてそのあと限りなく優しい雰囲気になった事も感じ取った。

そして「なぜ邪魔するの」と言わんばかりの彼女らのきつい視線に、続きを言いにくそうにしたキョーコを見て、蓮は「あっちで話を聞くから」と部屋の外を指差して告げた。

そして蓮が「また今度ね?」と、モデル陣にキラキラした厭味な ―― 彼女らには極上の笑顔に見える―― 眼差しを向けると、そっとキョーコの背中を押した。

キョーコは、やはり飛んで火にいる夏の虫になってしまったと、背中に感じる彼女らの放つブラック周波と周囲の同様の視線を感じながら、蓮に背中を押されて誰もいない廊下に出た。そして一言、本当に社に言われたとおり「社さんが呼んでます」と口にした。

「それだけ?」

「え、はい。言ってきてって。ゴメンなさい、楽しそうにしていたのに・・・。」

「いや、オレが目を離した隙に何かあったのかと思ったから。」

「そういうことではないんです。」

しばらく黙った蓮は、そのまま「もうここから逃げようよ」と、少しいたずらっぽく笑った。「え、でも社さんが。」とキョーコが口にすると、「いいよ、ホラ、あそこで手を振ってる。」と部屋の隅を指差した。

「え?」

「帰っていいってさ。」

「でも。」

「パーティもっといたい?」

「いえ、モー子さんも帰ってしまいましたし・・・敦賀さんが帰られるなら私も帰ります。こういう所では敦賀さんが傍に居ないと怖いですし。あ、私にはマネージャーさんもいないですから・・・いつも傍にいていただいて、ごめんなさい。」

「マネージャーが付くまでは見ていてあげるけど。」

敦賀さんが傍に居ないと、の言葉に、くらり、と蜃気楼の中に溶け込むように蓮の視界は歪む。そんな蜃気楼の中で自らの気持ちも剥いでみたくなった。ただ見つめる事しか出来ないのが辛くて、綺麗に着飾った彼女の肩紐を自ら解いて崩してみたい、と。

「海に・・・行こう。今ならきっと誰もいない。一番ゆっくりできるよ。」

「いいですけど・・・お洋服汚れちゃいます。」

「大丈夫だよ。汚したところで誰も何も言わないよ。」

「・・・・はい。」

*****


昼間の喧騒が嘘のような静寂の中、真っ暗な闇を広げる海の前で、蓮はただキョーコを傍らにおいて黙っていた。

遠くの建物の明るすぎるほど明るい光がほんの少しだけ届いて、 闇の海の波打ち際をぼやりと映し出している。

「敦賀さん、最近お休みできてますか?」

「そうだね、忙しいね。」

「いつもいつも、敦賀さんは「ノー」を言わないから・・・。」

「そういう最上さんもだろう?仕事も多くなってきたのに・・・学校の行事にはしっかり参加する、テストは毎回かなりの上位入り、足りない分の補習だってしっかり出ているだろう?完璧にこなしすぎて、また無理してない?」

「学校は、社長さんがせっかく入れて下さったから。それにあの時敦賀さんが、無理しすぎるなって言ってくれたら・・・私の今までの気持ちを百八十度変えて下さったから。学校は楽しいです。普通の人には当たり前の事が、全部・・・・。」

ふふ、と優しく笑って蓮を見上げるキョーコに、蓮もつられて笑みが漏れる。

「大学へは、行くの?」

「学校にこだわっている訳ではないんです。」

「君があの時みたいにまた寝る間も惜しんで勉強してしまうのかと想像しただけでね、心配。」

「この世界にいたら学歴なんて。本当に、個性と実力と維持する気持ちだけ。」

「うん・・・。」

「あ、リフレッシュの為にココに来たのにまた仕事の話しちゃいましたね。ゴメンなさい。」

「いや・・・。」

「仕事も沢山している女優さんやモデルさんなら、同じお仕事の話だって絶対的な引き出しが多いですもんね。きっと敦賀さんが楽しめるお話、沢山して下さるのに・・・。」

「そんな事ないよ。」

蓮が海に視線を流したのを見て、キョーコは蓮がもうつまらなくなったのかと思った。何を話したらいいのか急に分からなくなって、その場にかがんだ。砂を手にすくい、指の間からさらさらと零してはまたすくい、それを何度も繰り返す。

蓮も何も言わない。涼しい夜風が二人の間を通り抜け、蓮は、着ていたジャケットを脱いでキョーコの背中にかけた。ふわりと蓮の香水の香りがキョーコの鼻先をくすぐり、それがキョーコの本当の心も揺さぶる。

「身体、冷えた?」

「大丈夫です。」

「最上さん、リフレッシュできた?」

「はい、もちろん。敦賀さんは?」

「もちろん、オレもね。社長が一番リフレッシュしているだろうけどね。」

「そうですね、ふふ。」

蓮はキョーコが砂に足を取られて転ばないようにとそっと腕を取り、立ち上がらせると、二人は無言のまま暗闇の中を歩いた。闇に慣れた目が少しだけ景色を見る事を可能にした。

「敦賀さん。」

「何?」

「敦賀さんが最近仕事しすぎなの、私心配です・・・。少し痩せちゃいましたね。今日本当に久しぶりにお会いした時、私、驚いて・・・。」

キョーコは自分の顎の辺りを少しだけさすって見せた。

蓮が仕事に没頭している理由をキョーコは知らない。もし仕事に没頭していなかったなら。夜一人の時間などできたなら。蓮はすぐにでもキョーコに電話でもかけ、気持ちを告げ、自分のものにして、部屋に連れてしまいそうだった。

疲れすぎてそんな事も考える余裕がなくなればいいと、ありとあらゆる仕事をこなした。そして仕事をすればするほど、疲れれば疲れるほど、ふとした瞬間にキョーコの蓮を労る声が思い浮かび、それだけで癒されてしまう。余計に深く、キョーコが心に刻み込まれていく。

「何でも完璧にこなしてしまうのは敦賀さんのほうで、疲れたところを絶対に見せないし誰にも気づかせないですし。敦賀さん自身も見ないふりをしてしまうから、すごく心配です。痩せた分、栄養のあるもの取らないと・・・。」

「うん・・・ありがとう・・・。」

支えていたキョーコの腕を、 するすると 蓮の手が這って、キョーコの細い指先にたどり着く。手を重ね合わせると、反射的に、きゅ、とキョーコが逃げるように指を丸めて握り、追った蓮の手がそれをふわりと覆った。

夜の闇が全てを覆う時、真実も少しだけ顔を見せる。蓮が仕事で見せる演技と言う名の幻影は、キョーコの中で深く刻み込まれ、そして、ごく限られたプライベートな時間で見せる蓮の穏やかな表情は、キョーコを再び恋の幻影に巻き込んだ。

そっと重ね合わせた肌と肌は、いつまでも互いを労るようにして、傍にいた。誰も邪魔などしない限られた空間に、蓮の指先は、言葉よりも饒舌に全てを語った。

煌びやかな光もドレスも闇に溶けて、二人は誰にも見えない。静かな波の音と、自分の心臓の音と、互いのとくりとくりと脈打つ温かな肌の感触が鋭くリアルなものになっていく。真っ暗な闇の中では、互いの触れた肌だけが確かにその存在をつなぐもので、自分の気持ちを示し合う、一番確かな物だっただろう。

「敦賀さんの手は、すごく安心します・・・。」

キョーコの指先が、ゆっくりと開いて、蓮の指先に絡んだ。

夜に現れる恋の幻影は、ゆるやかに愛の幻影をも見せはじめる。

もっと蓮の肌に触れていたいと、キョーコに新たな気持ちがもたげる。そしてそんな自分に驚いて、甘い心臓のうずきに、息がますます苦しくなる。

蓮のもう一方の指先は、蓮が着せたジャケットの間から忍び込んだ。キョーコの身体のラインを這い、肌を捜し出し、触れる。

「・・・ふ・・・ぅっ・・・。」

ジャケットが、肩から滑り落ちた。

不意にほんの少しキョーコから漏れた吐息は、二人の間に高くそびえていた最後の理性と現実の幻影を突き崩した。

激しく口付けだした蓮の腕は強く、互いに漏れだす吐息と共に、キョーコを確かめるように肌を探り出す。キョーコは被さる重みを支え、一歩下がると岩肌に触れた。蓮はキョーコの腕を弱く岩肌に押さえつけた。更に激しさを増す指先と唇と共に、蓮は激しい自分の気持ちを口にした。

徐々にずるずるずる・・・・とその岩肌を伝うようにキョーコは砂浜に座り込んだ。ドレスの裾など夜の闇に溶けて見えない。キョーコの髪留めが落ちて、闇に溶けた。

――明日の朝になったら、私も、私の気持ちも、敦賀さんの気持ちも・・・・全てが泡となって消えてしまうのかしら・・・・?

「敦賀さん・・・。」

キョーコは幻影などではなく、その絶対的存在を確かめるように名前を口に出し、そして蓮の腕に頬をすり寄せた。

たとえ泡となって消えようと、たった一夜の事だとしても、蓮の見せる一瞬の恋の幻影だったとしても・・・その絶対的存在と、今そこにある確かな肌の温かさと、そして、蓮の狂おしいほどの唇が愛おしかった。

キョーコの身体を抱えて支えるように、蓮が砂浜に座る。

キョーコは蓮の胸にそっとほほをうずめる。それを蓮が後ろから柔らかく抱きしめて、耳元で睦言を囁く。

恋の幻影は、まるで照らし出す丸い月のように、丸く柔らかい光を放ちだした。





2006.10.05

2019.06.24 改稿