確かなものは闇の中

ぽつり、ぽつり、ぽつり・・・・。

一つずつの・・・・とても優しいオレンジ色・・・・・・



確かなものは闇の中



駅の階段を降りてすぐに坂を上る。見慣れた風景。途中でいつものお店によってお買い物をして、また歩く。

大きくて重そうなお買い物袋を小脇に抱えつつ、小さな子どもの手を引く「スーツ姿のお母さん」の帰路を急ぐ姿に、ちょっとした羨ましさを感じたり。楽しそうにアイスイクリームを食べ合う高校生のカップルとすれ違って、昔モー子さんと一緒に食べて楽しかったな、なんて懐かしく思ったりする。

真っ赤な夕焼けが目に眩しくて、明日も晴れだな、なんてそんな事を思って。

いつもの見慣れた道と風景をゆっくりとまた歩いていく。

あなたのマンションの前に着いてしまって、気が付いた。

――鍵・・・・持ってない・・・


今日は約束外。来るつもりじゃなかった。だから置いてきたのを忘れていた。


――ぼんやりしていたら、着いてしまった。


というのは言い訳。

「会いたかった」と、素直に口にできるだろうか。

マンション横のベンチに腰掛けて、今日の蓮のスケジュールは細かくわからないし、やはり帰るべきかと迷って一休み。

このマンションと同じぐらい背の高いマンションの隙間から、落ちていく夕日が目に差し込む。徐々に暗くなっていく空に比例して、向かいのマンションに夕日と同じ色のオレンジ色が灯っていく。

ぽつり、と一つオレンジがついた。

勢い良く開いた窓から、先ほど見た「スーツ姿のお母さん」が洗濯物を取り込んで、また忙しなく窓を閉め、やはり勢い良くカーテンを閉めている。

漏れるオレンジ色が柔和になり、そのお母さんの影が映って、奥に消えた。

――あのお母さんは、あの勢いでこれからご飯の支度をして・・・あの小さな子どもは「ママ、おなかすいたぁ~」とお母さんの周りをうろちょろするに違いない。お母さんは「もう少しだけ、待っていてね」と、フライパンを忙しなく振って、キッチンを右左。しばらくしてパパから電話があって・・・お風呂を入れなきゃ、なんてまた右往左往。

安易に想像ができる、オレンジ色の中の、ありきたりで優しく平和な像。

――増えていく一つひとつのオレンジ色の中に、私が明日以降演じるであろう色々な「ドラマ」が詰まっている


徐々に増えていくオレンジ色。暗くなってしまった周りの風景。
それでも夕方の暖かな風だけは残って、穏やかにビルの間を抜け、頬を撫でていく。

――早く蓮に、会いたい・・・



ぽつりぽつりと増えていくオレンジを見ていたら、あっという間に夕日が落ちた。真っ暗な空の中、今度は車のヘッドライトが行きかい、目に差し込んで眩しい。

「こら」

しばらくした後、そのヘッドライトの一つが、目の前で止まった。

「こんな所に一人でぼんやりじゃ、危ないだろう」
「蓮」

「今日は早かったの?」とは言えなかったし、やはり「会いたかった」と、口には出せなかった。

「部屋で待っててくれれば良かったのに。何のために鍵を渡したと思ってる?」

怒った声がして、厳しい顔をした蓮は、「ロビーで待ってて」と言って、車を走らせた。

――久々に、大魔王降臨、かしら・・・・

先ほどの厳しい顔を思い浮かべて、ふとそんな事を思ったり。ロビーに着いた蓮は、私のしょげた顔を見ると、「まったく」とだけ少し不満そうに口を開いて、そっと背中を押してくれた。

「どうした?」
「鍵、忘れちゃって」

問われた質問は、「どうして急に会いに来た?」とか「なぜしょげてる?」の意味だと分かったけれど、はぐらかした。顔もあげられず、俯いたまま蓮が鍵を出す仕草を眺めていた。

「それでもウチの部屋の階までは入れるだろう?」
「やっぱり帰ろうかと思って、迷っていたから。ごめんなさい」

蓮は、そのまま無言で鍵を開けて、家のオレンジを灯そうとして、私は口を開いた。

「それ、私が点けて、いい?」
「・・・?いいけど。何?」
「さっきね、帰るに帰れずにずっと見てたの。オレンジ色」
「ふーん?」

蓮は私が何をしていたのかは良く分からなかったみたいだった。

パチリ、とオレンジを灯すと、いつものように真っ白い大きな猫のアリーのお迎えに、頬ずりで応えた。

そして私は先ほど見た「スーツ姿のお母さん」のように、勢い良く家の中に飛び込んで、家じゅうのカーテンを勢い良く閉める。忙しく料理を作って、蓮に「もう少しだから待っててね」と言ってみたり。

――妄想に影響されすぎ、ね。


ありきたりの生活を、望んでいる訳ではないけれど。
優しく平和な像・・・・は、自分自身が小さな頃、欲しかったから。

「もう少しだから待っててね」と、蓮に言ってみたかった。

本当は、それを誰に言って欲しかったのかなんて、明白・・・。

*****


「心配する、オレの身にもなって欲しいよね」

食後、アリーと蓮の腕の中で戯れていた私に、ぼそりと、背中から呟きが降って来た。
アリーを床に降ろして、くるり、と身体を向けて私は蓮の正面に座りなおした。

「あそこで君を見つけたとき、どれだけ驚いたか。いくら住宅街とはいえ、夜に芸能人が隠しもせず一人ぼんやり。ウチの近くだし週刊誌に撮られるのはもう仕方ないにしてもね、一人の女の子だって自覚、ある?」

「うん、ごめんなさい」

蓮は完全に怒っている。心から心配してくれているから、だとは分かっているけれど。ここで、「会いたかった」と、口にすべきなのかどうなのか。それも言い訳になってしまうのだろうか。

「オレがいつ帰ってくるか、社さんに確認の電話一本すらない。鍵を忘れたからって、君のウチはここから近いじゃないか。一体君は・・・」
「蓮、言い訳して、いい?」
「だめ」
「じゃあいいもん」


――どうしても会いたかったの。


それだけじゃ、私に「万が一」の事があったときには、全然理由にならない。

「キョーコちゃん。お願いだから、もう一緒に、住もう?」
「・・・」

鍵を貰った時に言われたそれ。

――どれだけ、どれだけ、嬉しかったか。
――鍵なんかよりもずっと欲しかった「モノ」。

真面目で紳士で、自分のプライベートには一切踏み込ませない蓮が「中途半端な」気持ちで言っていない事がわかるから。私との事を、本当に真剣に考えてくれてるって・・・。

でも、いまだに私は答えていない。

あれだけ好きで、あれだけ思ってきて、あれだけ会いたいと思ってきたのに。

「なんで、そんなに迷う?なんで、そんなに困る?近くにいるとはいえ一人暮らしだし。オレは心配で仕方が無い。今日みたいに早ければすぐに落ちあえるからいいよ?でもね、もし今日オレが真夜中まで仕事だったら君の事だから・・・バカみたいにあそこで待っていただろう?」

「バカって。ヒドイ」

「違う。だからね、君と喧嘩をしたいわけじゃない。バカというのはバカ正直すぎるって意味だよ。心配なんだってば。鍵を忘れても無くしてもね、一緒に住んでさえいれば、中に入れてくれるから。」

蓮は私の頭をそっと撫でて、「お願いだから」と、呟いた。

蓮は、ずるい。私があなたに勝てない事も、私がどれだけあなたを好きかも、すべて見透かしているから。

「私まだ、忘れようと思っても、忘れられなくて・・・」
「アイツの、事?」
「うん」

「ずっと答えをくれなかったのは、オレとの事を前向きに考えたくないということ?それとも今日は別れ話がしたくて、珍しく急に来たの?」

「違う!!!!会いたかったの!!!!!」

また私の言葉が足りなかったばかりに、蓮に苦しそうな顔をさせてしまった。そしてそのあまりに哀しそうな顔を見て「会いたかった」と、ついに本音を口にしてしまった事に自分で驚いて、また俯いた。

「じゃあどうして、答えをくれない?オレを、好きでいてくれているんだろ?」
「忘れようと思ってるのに・・・」

一緒に住む事は、とても嬉しくて、とても不安だった。
蓮とも同じ結末になるのが、ただ、怖いだけで、いまだに返事が出来なかった。

「アイツと一緒に住んだ一年と、その結末が、忘れられなくて。同じように蓮を失うのが怖かったの・・・」

『恋なんてしない』

そう心に決めたものの、私はおちた。でも昔は・・・・「会えれば幸せ」。見ているだけでよかったのに、一度その優しさを手にしたら、今度は失うのが怖い。そうしてまるで過去を忘れる為だけに蓮を口実にしているような気がした。昔みたいに可愛く「蓮が好き」と言って、触れ合えればいいはずなのに。

付き合いだしてから、本当に幸せで、幸せで、心から愛してくれているのが分かっていて。でもあまりに幸せで私は怖かった。これ以上好きになって、愛してしまう事が、怖くて怖くて仕方が無い。この腕の中にいる間は、頭がまともに働かなくて・・・。恋をしたくないと思っていたことなんて、一切忘れてしまうから。蓮は、私が欲しかったすべての幸せをくれるから。

髪を梳いてくれる手が好きで、その指先が、抱き寄せてくれる腕があまりに優しくて、その自然さや横にいる事が当たり前になっていく。一緒に笑いあって、お互いの好きなもの、嫌いなもの、お互いしか知らないクセやヒミツが日々増えていく。

そしてふとした瞬間に思い出す。

――これ以上を望んではいけない

――これ以上好きになったら、愛したら

――いつか、また「その日」が来たら

――もう、立ち直れない

それが私の、最後の開かずの鍵だった。
自分の中の防御線、といってもいいのかもしれない。

――別れても平気、大丈夫にしておかなければ、という逃げ道

――まだ最後まで「愛」を信じ切れていない私の弱さかもしれない

この人はこんなにも嘘偽り無く愛してくれている。私は卑怯だ。いつか「その日」が来るかもしれないという怖さだけで、「逃げ道」を用意している。蓮は「逃げ道」なんて後ろ向きな事は一切考えない。いつも前しか見ていない。

一緒に住みたいというのは、蓮の心からの思いだし、私の本音でもある。それなのに近くで一人暮らしを続けているのは、いつも「会いたい」くせに、「自立」と銘打った「逃げ道」の為だと分かっている。

プロポーズが無ければ一緒に住まないと決めている訳ではない。
お互いがお互いを信じていると分かっている。
この限りなく優しい人に、すべてが許されていると、分かっているのに・・・。

――闇を彷徨うような、そこはかとない嬉しさと幸せと不安のすべてが一緒になって、迷っているだけ・・・・。

「愛されている」という「確かなもの」が欲しかったのは事実だった。それが「家の鍵」や「指輪」という「有形のモノ」なのか、「愛」とか「言葉」という、「無形のモノ」なのか。何度でも確かめて、すぐに閉じてしまう心の鍵を、強引にでも開けて欲しいというわがまま。

――「私」という存在だけで、愛されることがこんなにも幸せだとは知らなかったから。ただの「蓮」と「キョーコ」になる時、こんなにも幸せだとは、知らなかったから。

――もう引き返せないほど蓮を愛してしまっている事に、気付いてしまったから。

――ただ、ただ、自分が怖かっただけ・・・。

蓮は何も言わず、そっと抱き寄せて、その腕の中に抱えてくれた。
私も口は開けず、蓮の穏やかな呼吸と心臓の音を聞いていた。

「オレは、一生君の手を離したくないのに・・・」

吐き出すように彼は口にした。

温かいぬくもり。欲しい言葉。

蓮は、それらをすべてくれる。

「忘れようなんてしなくていいから。彼との事を思ったままでもいいと、思ってる・・・。無理強いを言って悪かったよ。いつかオレを彼以上に見られるようになったら、一緒に住みに来て。鍵は渡したままに、しておくから。でも一つだけは絶対に忘れないで。オレは君に何かあってね、いなくなったら、生きていないも同然。それぐらい思っているから。君が不破にすべてを捧げて来たのと同じぐらいには、ね」

「・・・」

苦笑いをした蓮に、言葉が続かなかった。

私が「今まで完全に心を許したのはアイツだけ」、そして「アイツとの過去と結末」を忘れられない卑怯な私に、蓮は気が付いてる。それなのに、それすらまるごと受け入れてくれて、それでもいいと言って愛してくれている。すべてを許してくれている。

でもね、蓮が苦笑いなんて。相当無理をして、言ってくれたのだろう。本心は別の所にある。「ずっと一緒にいて」と、その苦笑いが私を責める。こんなに真っすぐ愛してくれているのに、私がまだアイツを吹っ切れていない事が悔しいと、思う。もし私が蓮なら嫉妬で頭がおかしくなるに違いないのに。

「蓮が好き。でもね、怖かったの」
「いいよ、わかってる。一緒に住む事は急いでも気持ちはついて来ないよね。オレはいつでもここにいるから」

またいつものようにそっと微笑むと、抱きしめて髪を梳いてくれて・・・その後交わす言葉は少なかったけれど、穏やかな声と心臓の音が降ってくる。無言の中、心臓の音が「待ってる」と、繰り返し言ってくれているような気がした。

蓮が私をどれだけ愛してくれているのか、痛いほどわかる。
私に開いてしまった心の隙間を、無言で埋めてくれる。

――確かなものは・・・?

「蓮、そのネックレス、もう外していい?」

――ただの「蓮」になって。私もただの「キョーコ」になって、まるごとさらけだすから。

私もどれだけ蓮を思っているのかを、伝えたかった。

蓮のネックレスを外して、寝室の手許のオレンジ色を、私は自ら消した。

濃厚な闇の中、闇がさらに増長する。

夜は恋がしたくなる。

私の激しい恋心が、真っ直ぐ蓮だけに向かって溢れる。

互いの囁く声だけが空間のすべてを占めて、蓮の温かな肌の感触と、気づかう指先が愛しかった。

いつもと同じなのに。涙が、出た。

そこに何か「確かなもの」が、あったような気がした。


*****



再び薄暗くオレンジ色がついた時、私は口を開いた。

「蓮、さっきの返事、していい?」
「無理はしなくていいよ」

「もうしばらく一人暮らし、続けてみる」
「だろうね・・・」

再びそっと苦笑いをした蓮の頬を撫でて、その笑みを止めた。

「アイツの事があるから、じゃなくて」
「・・・」

「会いたいと思ったりするのも、まるで蓮に恋をしているみたいで・・・いいと思って」
「まるで恋をしているよう?君は完全にオレを好きだろ?不破以上かはわからないけど」

「ふふ、アイツと比べるなんてできないけど。その自信が私にもあれば明日にでも一緒に住むと言うんだけどな」

「オレに愛されている自信が、無い?」

蓮の目の奥が、鈍く光った気がした。そっと降りてきた唇が優しく私の唇を食んで、「無いとは言わせない」とその目の奥が言っていた。

「・・ん・・・っ、分かった、分かってるから。じゃあ、あるって、言っていい?アイツを好きだった時はね、ずっと一緒に住んでいたから。前は出来なかった、一緒に住まない恋愛もね、してみたくて」

「守りきれなかったらなんて心配する身にもなって欲しいよね。まぁこれも・・・恋愛の内、なのかな。確かにそれもいいのかもしれないけど、オレはいつでも会いたいんだよ?」

「私もね、いつでも会いたいし、声が聴きたい。でもね・・・恋をしたくないなんて思っていたのにしたんだもの。せっかく恋が出来たから、恋愛、楽しむのもいいかなって。さっき蓮に触れてたとき、そう思ったの」

「じゃあ毎日会いに来て。毎日オレと恋愛を楽しみに、来て。もう鍵は忘れちゃダメだよ?」

「うん。本当は毎日私がここのオレンジ色を点けていたいかもしれない。毎日来て、ここを点けて、消して・・・。もう別々に住むのが面倒って言う日まで、もう少しだから待っててね・・・」

蓮は私の身体の上に圧し掛かると、再び、オレンジ色を消した。

蓮の手許の向こうに見えるあのマンションも、ほとんどオレンジ色が消えている。

あのオレンジ色の中に、昔の私と同じ「ドラマ」が無いといいなと、祈る。すでにオレンジ色が消えている中に、今の私と同じだけ、幸せが詰まっているといいなと、思う。

「キョーコちゃん。どうしたの?」
「蓮」

視線を戻して見上げると、すぐ間近に穏やかな顔。
蓮の微笑みの中に、淡く優しいオレンジ色が、見えた気がした。

幸せのオレンジ色。

明日も明後日も、闇の中を手探りで。

蓮と二人で幸せのオレンジ色を灯していたい。






2006.02.08

2020.07.17 改稿


旧サイト時のリクエストです。ご希望は、「過去を思い出したキョーコちゃんを思い切り甘やかせて」「アリーを出して下さい。(←ここが重要です!!)」というリクエストでした。どうもありがとうございます。