「京子ちゃん、変な意味で捉えないで欲しいんだけど。君、彼氏は?いる?いない?」
新開がそう言ったのを、キョーコは、素直に、
「いません」
とだけ答えた。そう言った監督の目の奥に、特に男としての色が浮かんでいないのは、本能的に嗅ぎ取った。純粋にいるかいないか確認したいという目だった。
「そう、ならいいけど」
ふっと視線を逸らした新開の真意が汲み取れなかったから、キョーコは、
「なぜでしょうか」
と、その続きを聞こうとした。
監督の前でピシッと直立不動の姿で立っているキョーコを見ながら、新開もその表情を緩めた。
「いや。いたら、少し、可哀想かな、と思って。蓮は、役として、君を心から愛し尽くすと、思うから」
「・・・・・・?」
「今まで蓮に関わった人間で、蓮に落ちなかった女の子がいない、という事だよ。君の心の奥までそっと、入り込む。だから、君に彼がいたら、君の人生に別のドラマが生まれてしまうだろう、と、思って。確認をしておこうと思ったんだ。いないなら、心から蓮を好きになってくれていい。終われば、また、蓮は別の女の子に全てを注ぐ。その時になれば、それは、夢だったのだと、改めて気付く。そんな不思議な世界観を、彼は、描き出す。そんな夢に、心から囚われてもいいんだよ、と伝えようと思ってね・・・。一応、忠告しておくよ」
新開は少しだけ、「仕方が無い事」を伝えるように、「諦めてね」と、その目でアイコンタクトをした。
「好きに、ならなかったら・・・・?」
「なるよ」
にこり、と軽く笑い、そう言い切った新開は、当然の事だと言わんばかりだった。
「君の力は、もちろんそんな事を言わなくてもいいぐらいには信じてる。だけど、伝えておかなければと思って、ね。だから、心置きなく演技に集中してくれていい。心の動きを、そのまま、画面に出してくれていいから。でも、都度、そんな夢に浸る自分を振り返ることが出来る大人の余裕も、できれば用意しておいてくれると嬉しいんだけど。終わったあと、惚れた腫れたで修羅場、というのは、オレは好きじゃないんでね」
別れ際、新開は更に一言を加えた。
キョーコは、そういうものなのか、と、「はい」と答えるだけだった。
*****
「・・・・なんだか貴方が・・・・究極の詐欺師に思えます」
ふと、そんな言葉を口にしたキョーコに蓮は持っていた台本を、テーブルに伏せた。
「何の話?」
「俳優として、素晴らしい、と、褒めたんです」
「本当に?何かの嫌味に聞こえたんだけどな」
キョーコの真意を掴もうと、キョーコをじっ・・・と見つめた。
見つめられたキョーコは、そっと、微笑むだけ。
「監督が敦賀さんに絶対の信頼をされているという事を、今日監督から伺いました。日本で一度もお仕事をされた事が無いのに・・・」
「監督とは、社長を通して旧知の仲だからかな。オレの作品、結局全てが不明な以上、社長の息のかかっている人にしか、できないから」
キョーコは一つ頷き、膝を抱える。
頬を膝に付けて、少しだけ呟き気味に、話し出した。
「私、敦賀さんを・・・好きに、なるんですよね・・・・」
「・・・・役ではね」
「そうですね・・・・・」
「役に入りきれそうに無い?」
「いいえ・・・」
自分の意思で、蓮を、蓮自身を、好きになってしまう、でも、それは夢であって、現実の気持ちではない。でも、蓮を・・・。
それならば、自分が蓮を好きにならなければいい。
蓮を好きにならなかった初めての女優になればいい。
そんな例外が一件ぐらいあってもいいじゃない、そんな事を考えていた。
「敦賀さんは・・・・演技をしている時、相手の、女の人とか・・・恋人として本気で好きになったり、した事はありますか?」
「・・・・・・・・・?」
「いえ、違うんです、ただ、あの」
「仕事、だからね」
蓮は一言、そういった。仕事だから、特に、そういう事はない、と言いたかったのだろう。はっきり言わなかったのは、相手の女の子たちへの配慮なのか。まさか自分への配慮なのか。
キョーコはやはり蓮を詐欺師だと思ってしまう。蓮は相手を好きにならないのに、相手は深く蓮を愛してしまう。こうして傍にいるのも、その一環なのかもしれない。
確かに自分の中に、仕事なのだと言い聞かせる余裕を作っておいて欲しいという新開の忠告は正しく思えた。
蓮は涼やかに微笑みながら、キョーコが膝を抱えて何やら考え込んでいるのを眺めていた。おおかた、新開に自分の仕事と恋愛について何かを聞かされたか、若しくは、キョーコ自身の恋愛と比較しているのか、そんな事だろうと、思って見つめていた。
「最上さん」
「・・・・?」
「しばらくこの部屋を出るから、ご飯を作りに来なくても大丈夫だよ」
「え?どこか、モデルのお仕事で行かれるのですか?」
「違うんだ、もう一個の仕事、書く作業を集中したいから、ホテルに篭る。いつも使う場所は、椹さんから最初に地図貰っただろう?このすぐ近くだから」
「・・・・ゴメンナサイ、もう、今から帰ります」
キョーコは、自分がいるから集中できず、書けないのだと言われたのだと思って、すぐさま立ち上がった。そして優しい蓮のことだから、「違うんだ」という言葉を言ってくれる事を、暗に期待している自分にも気付きながら。
「違うよ、そうじゃなくて」
蓮は、そう言った。予想通りに。
そして蓮は、立ち上がったキョーコを手で制し、もう一度座るように言った。
「本当に集中しているとき・・・は、自分が君が思うような、自分ではないから、あまり見せたくない、が正しい、かな。眠ってないし、自分の中に深く入り込んでいるから、感情が鋭くなっていて・・・。食べ物はフロントに頼めば持ってきてくれるし、それでもあまり頭が鈍っても困るからロクに食べないけど・・・。あ、それから、少し無精ひげが生えるかな。来週明け、撮影に入る前に君に怒られるのは覚悟しとくよ」
蓮はわざと冗談めかして言い、可笑しそうに笑った。
キョーコが少し曇った顔をしたからだった。
「身体、壊さないで下さい・・・」
そこに、自分の居場所は無いし、口を挟める場所でもない。
キョーコは一言、そう言うのが精一杯だった。
今、蓮を、心から心配しているこの感情は一体何のだろう。
何か、苦しい、気持ち。
ずっと一緒にいたせい。情が湧いてしまう。
蓮は「もう寝ようか」と言って、キョーコを一度抱き締めて、抱き締め返さないキョーコに、
「しばらく、会えないね」
と言った。キョーコは俯いたまま、コクリ、と、一つ頷いた。まるで、しばらく抱き締められないね、と言われたような気がして、耳が赤くなってしまった事に、蓮は気付いただろうか。
この仕事が終われば、別の女の子がこの部屋に来るのかもしれない。このまま、恋だとか友だとか、そんなモヤモヤした気持ちを全て曖昧にしてしまいたい。これを恋という名に決めてしまえば、必ず後で苦しくなる。だから蓮に恋をしない唯一の女優になると決めたばかりではないか。
「どこかで、ご飯の差し入れ持って顔見に行きますね」
キョーコはようやく、蓮を、抱き締め返した。
「不精ヒゲで、仏頂面だよ?」
と言って笑った蓮の声が、キョーコの身体に直接、響いた。
キョーコが抱き締め返すのが遅かったせいで、いつもり、抱き締めあった時間が長かった。
「別に、そんな事で驚きません」
キョーコが笑った柔らかさも、蓮の身体に直接、響いた。
離れた二人の心の中だけは、まるでコイビト同士のようだった。
2009.2.15