ある日もまたLMEの事務所で椹に呼ばれた。用事は再度久遠レンの元に行って欲しいという願いだった。キョーコは、「近場なんですから、郵便でも宅配でも何でもあるでしょう」と言いたい所だったが、相手側からの要求だったらしい。メンツが割れて便利だとか思っているのなら迷惑だ。
「そんな訳で君、先生のお気に入りらしいから。しばらく久遠先生の担当のヤツのアシスタントとして、言葉は悪いけど使い走りのような仕事が入る事を覚悟しておいてくれないかな」
「・・・・・ハイ、ワカリマシタ・・・・」
不満である。至極不満。
何故私が、と、当初社長から指名されていた理由すらよく分かっていないのだから、ラブミー部というものを良い様に使い回されている気がする。ただ、原稿を取りに行くだけ、行くだけなのだけれど、どうしても内心に棘が残る。
「悪いねぇ、でも、届けるだけでハンコ、もらえるんだろう?美味しい仕事じゃあないか」
「そうですね」
にっこり愛想笑うも、心がこもらない。椹はそうだ、と言って、机の脇に置いてあった袋を渡した。
「コレ、久遠先生の処女作。この間の礼に久遠先生自ら君に渡して欲しいと言ってサインを入れて下さったそうだ。次の原稿と一緒に入っていたらしい。」
椹はキョーコに茶封筒に入れたまま、先日美玲に借りて少し読んだ「Under The Rose」を手渡した。「最上さんへ どうもありがとう 久遠レン」と書いてある。
「それから、まぁ・・・なんだ、バラの花付きだったそうで・・・」
椹は、もう一つの包みを渡す。
「枯れないバラ、らしい・・・ドライされているヤツ、あ、そうそう。プリザーブドフラワーだっけ?」
先日見た物にそっくりな、燃える様な真っ赤なバラが、美しいガラスの器に一つ、底がグリーンで敷き詰められた台座に収まっている。
――誰にも口外してないだろうね、って意味かしら?
ややひねくれた事を思う。「本のタイトルに合わせて下さったのだろうなぁ、素敵な方だ」、などと、椹は独りもらしながら、その美しい器の入った袋も、キョーコに手渡した。
「原稿取りに行くだけでこんなに良くして貰えるなんて、本当に良い仕事だろ?」
「・・・・ソウデスネ」
一蓮托生手数料か口止め料なんだわ、と、キョーコは思う。こうして受け取ったからには、自分は久遠レン側の人間になる、という事。つき返した所で彼に心理的ダメージなど幾らも与えられなさそうだ。寧ろ自分がこんなプレゼントなどという心理的負担を受けている。しかし花には罪が無いから、その美しい花が入った器は、しっかりと柔らかいタオルで包んでしまった。
*****
椹との面会の後、美玲に会ったキョーコは、久遠レンにサインを入れて貰った本を渡した。当然美玲には食いつかれるだけ食いつかれ、一体どんな容姿で、どんな声で、どんな背丈で、どんな雰囲気で、家はどんな感じか、など。
自分もトップの芸能人で、周りには何人もそうした芸能人と交流しているのにも拘らず、こうしてまるで一般人のような子供のような目をする美玲を再度可愛いな、と思った。が、美玲には、「先生とのお約束で、お話できないんです」と言うと、美玲も残念そうに、「キョーコちゃんでもダメなのね」と言った。そこを何とか、と、さらにゴリ押しをされるかと思っていたから、ほっとした。
ラブミー部の部室前で美玲と別れた後、ふと目を上げると、例の「カタマリ」がそこに座っていた。
やはり、目が合う気がする。サングラスの向こう側にある瞳は何を考えているのかはちっとも分からない。
目が会った気がしたから、ぺこり、と頭を下げ、また挨拶をしてしまった。彼は半分ほど首を傾け、挨拶のような仕草をし、彼の口元が、また、薄く笑った。
そして、彼はひどく緩慢な動きで、のそ、のそ、と、立ち上がる。物凄い猫背。深く被ったパーカーのフード。手は真っ黒で年季の入った革の手袋で覆われている。まるで強盗役か、擦れた男の役から抜け出してきたような人物が、そのままそこにいる。
LMEに堂々と出入りしているようだが、およそ芸能界にどんな関係のある人物なのか見当も付かない。今まで咎める人物がいないのだから、新人の自分たちが知らないだけで、よほどの大人物なのか、と、キョーコは思う。その男は、猫背とガニ股で、椅子の横に置いていた杖を取った。振り返ると、ゆっくりと、左右に揺れながら、こちらに歩いてくる。薄気味悪い笑みを浮かべたまま。
く、と鈍く、キョーコの喉は詰まった音がした。
それでもキョーコは歩く速度を変えては失礼かと、そのまま真っ直ぐ廊下を目的の角まで向かっている。しかし、どうしたってすれ違う。それならば。
「こんにちは」
キョーコは相手を全く知らなかったが、軽く頭を下げて挨拶をした。彼を事務所の大人物として扱ってしまえば、どうということも無い。横を通り過ぎたキョーコの背中から、それは低い声が聞こえてきた。キョーコにだけ聞こえるような、しゃがれた呟きだった。
「内心は、気持ち悪く、思っているのだろう・・・?善人、ぶりたいのか?」
低く、掠れた声で男はそう言った。恐る恐る、キョーコは振り返る。視線が合った気がする。
男の口元は、笑っていなかった。
のそ、のそ、と左右に大きく揺れながら歩き、こちらに戻ってくる。
キョーコの目の前に立った。
見下ろされる。キョーコも見上げる。
サングラスの向こう側の瞳は、ここまで近づいても見えない。
自分は彼に問われている、という事を理解するのに、ほんの少し間が必要だった。
その問いの答えは、単純で、すぐに出た。
――知らない人間とはいえ、二度も会釈を交わした手前、ムシも出来ず、挨拶をした。どこか重い雰囲気に、自分が耐えられなかった。
どれだけの間、絡んでいるような、絡んでいないような視線の中にいただろう。
しばらくして、ざわ、ざわ、ざわ、と、音が聞こえてきた。
沢山の囁く声が聞こえる。
『カタマリが、誰かに話しかけている』
――ツイニツカマッタヒトガイル、カワイソウニ
そんな声や無言の重い雰囲気が、空気を伝わり、伝わってくる。誰も、こちらに来ようともしないし、そんなキョーコに話しかけようとする人物も無い。通ろうとした人間は皆、廊下を迂回し、迂回した先で、
「ワタシジャナクテヨカッタァ」
と、漏らした囁き声が聞こえた。
やはり、廊下の声は、全てこの場まで聞こえてきている。この男は、毎度そうした声をしっかりと聞いてきたのではないだろうか。
キョーコの視線は目の前の薄気味悪い男から外れ、廊下の奥の人間たちに移っていった。自分を避けるようにして見る、憐みの瞳、同情の瞳、自分は関係ないという瞳、そして、視線が合えば逸らす瞳。
再度、キョーコの瞳は男に戻る。
絡んでいるような、絡んでいないような視線の中で、キョーコは、
「目があった気がしてご挨拶させて頂いただけなんです。善人ぶって・・・いるつもりはありません。二度程会釈させていただきましたから・・・。ただ・・・人づての先入観は頭をよぎりました。何かお気に触ったのでしたら、申し訳ありませんでした」
頭を深く下げ、視線の先は床板のスクエアの一マスに収まった。
男が自分に劣等感を持っているからこうして問うたのか、それとも、自分がどう見られているか知っていて、それでも恐れずに声をかけたキョーコに興味を持ったのか。そして、この人物が、わざわざその不気味としか言いようの無い格好や雰囲気を好んでそうしているのか、自分は『普通』だと思っていて、そうして周りに言われている事を嫌がっているのかは分からない。
しかし、今自分や彼に向けられている視線や態度の人間の空気を、自分もよく知っている。集団化した人間の共通心理は、とても大きい。
キョーコの視線が男ではなく、それを通り越して、奥の避けていく人間の山に向けられている事を、男も分かっていた。キョーコの瞳が、自分への恐れに近い感情から、他の人間の、この男に対する排他的な態度への嫌悪感と、同情に変わっている事も。
「・・・・人はそこにあるものを無いものとして平気で排除する。見えて、いるのに、見ていないか・・・見ないフリをする・・・。自分も、相手も、物も、自分の心すらも・・・」
再度、ゆっくりと話しかけられる。ハッとして、キョーコは視線を戻す。何も、言葉が続かない。
男の声は相変わらず低く掠れ、ぼそぼそと話したが、わずかに人間らしい声だった気がする。先の問いへの答えが気に入られたとでも言うのだろうか。
キョーコは、男の目を、まっすぐに、見ていた。
今度は、しっかりと、目が合っている気がした。
恐れていた心は、どこかに飛んでいた。
そして、自分が仕事へ向かう途中だった事を、ようやく思い出し、時計を見た。既に、電車には乗っていなければならない時間だった。急に夢から現実に戻ったかのように、キョーコは背を伸ばし、足をそろえ、深々と床に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません、そろそろ次のお仕事に向かわねばなりませんので、失礼します。また今度、そのお話、改めてお伺いさせてください」
「・・・・・・・・・」
男は、何も言わない。キョーコが足早に横を通り過ぎようとすると、
「キョーコちゃん!探したのよ!!」
廊下にはびこっている物凄く重い空気を裂く様に、遠くの方から聞こえ、こだましたのは、美玲の高い声だった。
先ほど別れたのに、戻ってきたのだろうか。
カツカツカツ、と、ピンヒールの高い音を立てて、やってくる。
男はキョーコを振り返らずに、
「君は・・・・私に、同情してしまう程、やさしい、から、分かって・・・いるだろう・・・?窮境の状況で、あぁして声をかけてくれる人間は、信じていい・・・。私は君を、信じよう・・・じゃあ、また・・・」
黒いカタマリはぼそぼそとひどい掠れ声でそう言った。
再度動けなくなったキョーコをよそに、そのままもと来た廊下を、杖を突き、大きく左右にゆれ、のそのそと歩いて戻り、社長室の前に立った。
その社長室の扉をノックすると、まるでフリースペースのようにすぐにドアを開け、のそのそ、よろよろ、と、入っていった。やはり大人物だったのだろうか。それとも、実は派手な事が大好きな社長の悪戯だったのだろうか。
廊下で、次は、驚きとそのような心理がはびこっていた。
キョーコは、『カタマリ』が自分を自分で、窮境、と表現した心の寂しさや切なさを思いやりながら、キョーコの元まで来た美玲の、心配して青ざめた顔と、そして、社長室に入っていった『カタマリ』に驚いた顔をした両方の表情を、どこかひどくぐったりと疲れた頭で、見守っていた。
*****
「遅かったね」
久遠レンは、自宅を訪ねてきたキョーコにそう言った。
ようやくたどり着いた時には、既に約束の二十時を大幅に遅れ、半ばを過ぎていた。
「申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる。今日は一体何度、こうして頭を下げているだろう。言葉とは裏腹に、ぐったりと、それはぐったりと、キョーコの心はさらにしぼんでいった。
『カタマリ』に会い、巻き込まれている事を聞いた美玲はキョーコを心配して戻って来たのだと言った。「だから言ったのに!」と怒りながら、ついには泣き出してしまったから、美玲に礼を述べながら、泣き止むのを待った。当然予定時間に遅れるのが分かっていたから、携帯電話に留守電を残した。
「夜遅くに、女の子が中々来なかったから、ちょっと心配したんだ」
原稿を渡され、すぐに帰れるかと思いきや、久遠レンは、どこかぐったりと疲れきっているキョーコに、気分転換の為のハーブティを出した。
「先生、今日ご本とバラのプレゼントを受け取りました。どうもありがとうございました。大切にします」
「気持ち程度。黙っていてくれたみたいだったからね。お礼に。・・・でも、先生は・・・やめて欲しいな」
「え・・・・。じゃあ・・・久遠さんがいいですか?敦賀さん、がいいですか・・・?」
「そうだね・・・事務所で会って思わず久遠さんと呼ばれても困るから、敦賀の方がいいかな」
「わかりました。では・・・敦賀さん、そうです、何であの時言って下さらなかったんですか!!!私と同じ事務所だって・・・」
「くすくす・・・・気付いてもらえるかな?ってちょっと期待していたから、気付いてもらえなくて、こっちこそショックだったよ・・・。世間ではどうか分からないけれど、せめて事務所内ぐらいでは、それなりに名前売れていると思っていたから」
蓮はクスクス、と、可笑しそうに笑った。
その笑みが妙に優しいものだったから、様々な事があった今日の中で、急にほっとした。一番優しい時間な気がする。心なしか少し照れて、下を向いた。
「あ、あの・・・・」
「何?」
「敦賀さんは、社長さんと仲がよろしいのですよね?」
「仲がいいかは分からないけれど。それなりには話しているんじゃないかな?なんで?」
「・・・・・その・・・・今日こちらに伺うのが遅れた理由でもあるのですが、事務所で『カタマリ』さんと呼ばれている人とお話する機会があったんです。いつも、社長室の前に座っている、大きくて黒い格好をされた方なんですが・・・」
「あぁ・・・」
蓮は、ティーカップを持ち上げ、視線を逸らし、足を組みかえた。誰かの噂話が好きではないのかもしれないと思いながら、言葉を選び、伝えた。
「社長室に、スッと入っていかれたので・・・。でもまさかアレが社長さんという訳ではないと思いますし、もし、社長さんと仲のいい敦賀さんでしたら、どんな方なのかご存知なのかもしれない、と思いまして・・・・」
「でも・・・直接、話をしたんだろう?」
「はい」
「君は、その彼の事をどう思ったの?」
「・・・・最初は、皆が言う通り、どこか不気味な雰囲気を纏った方だと思いました。会釈を何度かした時に、口元だけが不敵な雰囲気で笑った姿が見えましたので・・・でも、あの場所・・・すごく廊下の声が聞こえてくるんです。きっと、悔しい思いとか寂しい思いも沢山したのじゃないかなって・・・。なぜあの姿であの場所にいつもいるのか、理由さえ分かればいいのに、どんな人物なのか分かればいいのに・・・って・・・・。それから、おいくつなのかは全然分かりませんでした」
ティーカップを置いて、蓮はにこり、と一つ笑んだ。
「答えは、出ているじゃないか。・・・例えばね、オレが、彼を良く知っていたとするだろう?「彼は社長の息子で、実はLMEの陰のナンバーツーなんだ。あそこで人を監視しているんだよ、だからすごく怖い人間なんだ」と言ったら、どう?彼を見る目が、少し変わるだろう?だから、あんなに不敵に口元だけが笑っているんだ、とね。そして、次に会った時は、どこか畏まるだろう。逆にね、「彼は家も財産も無いから社長に全てを与えられていて、社長の思うがままに生かされている人間なんだよ。だから精神的に追い詰められていて、何をするか分からない、すごく怖い人間なんだ」、と言ったとする。きっと君は、彼に同情するか、若しくは、蔑むか。あまりいい印象を受けない後者の方が、社内で噂される話に近いんじゃないかな。だから、余計に信じてしまう。どう?」
「・・・・・・・・」
「他人の言葉ではなく、自分が感じたことを優先させる方がいい、という事。ね?だから、オレが知っていようと知るまいと、彼に関して何も、言える事は無いんだ」
蓮が言う事をキョーコも黙って聞いていた。
「噂話は、どこまで尾ひれが付くか、分からないだろう?オレは社長と仲良しで、大学生ぐらいの子供がいる、とか・・・ね・・・くすくす・・・」
蓮は面白そうに笑う。
確かに蓮が言うように、最近噂話に振り回されてばっかりだ、と思った。
「自分の目で見て感じて確かめて、それが是か非かを見極める。それでいいんじゃないかな・・・?」
「だから、敦賀さんも、全く・・・久遠レンの詳細を世間に伝えないんですか・・・?」
キョーコは、恐る恐る、聞いてみた。
「そうだね、素性だとか色を付けるのは簡単でいて難しい。・・・インターネットとかマスコミとか・・・が求めているのは、強いキャラクター性だから。テレビですごくおかしな事をしている人間が、楽屋では物凄く静かだという事はよくあるし、すごく善人で通っている人間がスタッフには鬼悪魔呼ばわりされていることもある。自分という個人を思っているように確立するのはすごく難しいし、プライベートを守るのもまた難しい。それじゃなくても人は自分に自分でいい色を付けがちだし、若しくは、そんな人間を毛嫌いしてわざと自分に嫌な色を付けて冷めて冷静なつもりの自分を好きでいる、とかね。特に、オレの場合は、違う仕事で顔が売れてしまっていたから、顔を出したくなかったっていうのもあるけれどね。芸能人本も多いだろう?『敦賀蓮が書いたから』読まれるとか、脚本の仕事が来るというのは、イヤだったっていうのも当然あるよ。普通なら採用されないものが採用されたり、別の色で読まれるのは、いやだって・・・」
蓮は、割と素直に自分の気持ちを語った。
世界的モデル、という印象は、今この場ではあまり無い。
キョーコは黙って頷き、蓮から視線を逸らす。
持っていたティーカップを口に運ぶ。
視線の先には新たな紅いバラ。
先日と違い、二つほど蕾がつき、一つ咲いたバラが一輪、天井から釣り下がったシンプルなガラスの一輪挿しに、刺さっている。
――この場での事は、全て内緒、って事なのね・・・
プレゼントといい、蓮から約束という名の無言の重圧を掛けられている気がする。自分が約束を破り、口外すれば、世間は敦賀蓮の事を違う色を付けて見るようになるだろう。
なぜ初対面の自分を百二十パーセント信じているのかが分からない。あまり人に裏切られたことが無いか、もしくは、その容姿から女の子は自分を嫌いになることが無いと分かっていて、当然口外しないでいてくれるとでも思っているのだろうか。
「・・・・先日こちらにお伺いする前に、少しだけ、本を読みました。面白かったです。でも・・・少し難解で、すぐには理解できない部分がありました。帰りがけ、久遠先生が敦賀さんと同じ人物だと気付きました。その日は色々とムシャクシャしていたから、敦賀さんの事を「似非作家」、と心の中で思いました。もう一度、しっかり頂いた本を読んで出直します・・・」
「くすくす・・・ね?オレのイメージだとか名前だけで、全然違う色が付いただろう?もしかしたら、今君がオレに感じてくれている「色」も、本当かどうかは分からないけれどね。だから、今、自分で感じている事、本質を、良く見極めて掴み取ること・・・それで、いいと、思う・・・」
蓮は、キョーコの正直な感想を、笑いながら受け入れた。
「でも逆に、今度は、頂いた本を読むの、少しだけ照れます。だって、純愛風だったから・・・」
「純愛、じゃないよ」
蓮は、キョーコの言葉を否定するように、きっぱりとそう言い切った。怒っている訳では無かったが、そういう『色』は、作者は全く望んでいないのだろう。
「純愛って・・・一体どんな『色』をさしたカテゴリーなんだろうね・・・?それを、君に聞いてみたい。本を読んでくれたら、ぜひもう一度感想を教えて」
キョーコは空っぽになったマグカップを置くと、立ち上がった。夜中とはいえ、原稿を今日中には事務所まで持って帰らねばならない。
「ごちそうさまでした。長居をしてしまってすみません。また次回も、宜しくお願いします」
「送るよ」
「え?事務所まで戻るんです」
「さっき社長に呼び出されたんだ。でも、原稿はオレが持って行く訳にいかないから」
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・・」
キョーコは蓮の車で事務所に戻った。車内で、意外にも会話がテンポよく弾んだ。会って二度目とは思えないぐらいに。今まで自分が蓮に付けていた色味とは、全く違うように思えた。
本も軽く読んだだけでは読み取れなかった事が、沢山ある。蓮の描き出した『色』、置いていった『色』が何色だったのか、それを読み取り、目の前にいるのだから、共有してみたいと思った。読んで、理解しようとする事が、評論家が言う難しい話に繋がるに違いない。
そして久遠レンが心底好きだといった美玲は、一体どんな色を見ているのだろう。もちろん、自分と同じ色にはならないだろう。
今日自分が蓮に呼ばれた理由は、良く分からなかった。イヤだと思って来たのに、呼んで貰えたおかげで少しだけ気が晴れた。
その日の晩は、自分の部屋に着き、シャワーを浴びると、倒れこむように眠った。
2008.10.14