バラの融点15

キョーコが着替えを終えて控え室を出て、蓮と共に歩いていると、前から一人の男の子が歩いてきて、「おはようございます」と言いながら会釈を二人にした。

「おはようございます」、と蓮が礼儀正しく返事をした中、キョーコはどこか気のないような声で「おはようございます・・・」と言って、その男の子が通り抜けてどこかへ行く姿を見守っていた。


「どうかした?」と蓮が声をかけると、キョーコは蓮の裾を引っ張り、「あの、ちょっと耳を貸してください・・・」と言って、蓮に少し屈むように言った。

蓮が少しかがんでキョーコに片方の耳を傾けると、キョーコは蓮の耳に、


「あの子、私の知ってるコーンにそっくりです!」

と囁いた。少し興奮気味のキョーコの声は、蓮の耳に少々くすぐったく届いた。

「え・・・?」

驚いたのは蓮である。そんな事を言われても、似ていただろうか、などと不思議な事を思っていると、さらにキョーコは続けて、

「コーンは髪は黒くなかったですけど・・・だから、あの子をもっと明るい金髪にしたら似ていると、思うんです」
「そうなんだ?」
「いえ、折角なので、覚えている記憶の映像をお伝えできるかな、と思ったので・・・もう、作品は作り終えてしまいましたけど。あの子、敦賀さん知っていらっしゃいますか?」
「知らないけど、この場にいるって事は、何かこの映画に参加しているのかな。監督に聞いておくね」
「はいっ♪そして、私に紹介してください!」


長い事内緒話を続けていて、蓮の耳には、うきうきドキドキしているのだろうキョーコの弾んだ声がしている。

きっと、本人じゃないにしても、似ている、というだけで彼女の中ではとても嬉しいことだったのだろうと蓮も思う。少しだけ、やわらかな微笑みが浮かんだ。


そんなヒソヒソ話を続けていた二人の近くに美玲が寄って、「おはようございまーす」と声をかけた。


「おはようございます」とキョーコが笑顔を向けると、美玲が、「敦賀さんと何の内緒話?」とからかう様に笑った。


「いえ、見た事が無い子がいまして、知っていらしたら今度紹介してください、とお願いしたんです」
「ふーん?」


美玲が、よく分からないけどまあいいか、といった風な返事をすると、蓮が少しだけフォローを入れるように、「美玲ちゃん、今日は一番に一緒になるけど、よろしくね」と声をかけた。

「はいっ、こちらこそお願いします」

と、美玲は今度は少し背筋を伸ばして頭を下げた。



*****




『Under The Rose』




夏休みは穏やかに過ぎ去り、秋も深まっていった。
時間がある日は彼女は泊まりこんで一緒にすごした。
彼女と一つの屋根の中で共に食事をして、夢を語った。

自分に夢という夢があるのかも定かではなかったけれども、バラを育てていたいと告げると、彼女は、あなたらしい、と笑った。


「私がそばにいたら、ダメ?」


と、彼女はうつむきながら言った。
その言葉の意味を、重く受け止めていいのかそうでないのか一瞬だけ迷って、


「いや」


と、一言だけ答えた。少しの間、何とも言いがたい沈黙が続いて、


「嬉しい」


と彼女はそっとはにかんだ。
頬を染めた彼女の顔を見ているうちに、一つ思いついて、


「ちょっと待っていて」


そう言って庭に出て、夜の、少し香りが穏やかなバラの花を何本も切った。


色とりどりのバラを束ねて、渡した。


「君以外にバラをプレゼントした女の子は、いないよ」

と言うと、


「うそばっかり、口がうまいのね」


と笑って、いいにおい、と言いながら花にその照れた表情を隠した。


「本当だよ」


そう言いながらその小さな肩を抱きしめて、バラの中に顔を隠した彼女の柔らかな唇をバラ越しに探し出し、初めて触れた。


夜のバラの、柔らかな香りがした。



*****




最後のオーケーが出た後、バラ越しにキョーコは目を回しながら「す、すみませんでした」と蓮に言った。本当に触れるだけの口付けを、様々な角度から何度も撮ることになった為、最後の最後には感覚が少しだけ麻痺したのか、何かいい表情をしたようで、監督に「いいね」と初めて言われた。


「緊張しすぎでしょ」と蓮が笑って、用を終えた色とりどりのバラの束をキョーコに渡す。


「貰っていいみたいだよ。記念にどうぞ」
「は、ハァ・・・ありがとうございます、すみません」


用意された水を飲みながら、蓮はにこやかに笑っている。


前半の山場(キョーコにとってではあるが)を撮り終えて、力が抜けたように椅子に座り込んだ。渡された水に口をつけて、キョーコは緊張で昂ぶった心を何とか抑えようと必死だった。

監督の新開がキョーコのそばに寄り、「緊張したでしょ、がんばったね」と声をかけた。


「大丈夫だったでしょうか・・・?」
「うん。今はね」


及第点、といった所なのだろう。


ほんの少し触れるだけ、とはいえ、初めてなのに何度も蓮と、というのは、思い返さないことにしたいのだったが、顔を見て話そうとすると真っ赤になって、俯いてしまう。まるで話の中の女の子の気持ちそのままのようだった。


その表情を見た監督が「おや」と一言だけ口にして、蓮を振り返った。
蓮を振り返ると、そばに社がいたから、言いたい事は口にしなかったが、その冷めた視線だけで蓮は監督が何を言いたいと思っているのかはある程度理解できた。



『彼女に、手、出したの?』


それは社も横で思っていたらしく、そわそわしながら蓮のそばにいた。



――出してなんていませんよ。


そう心の中で返事をしながら、蓮は撮影よりも嫌なその雰囲気に、大きく一度息を吐き出した。



そんな休憩中に、美玲の通る声がした。
「このピアス素敵ですね」と言って、蓮が用意し、キョーコがつけるはずのピアスを自分の耳に着けた。鏡に映る自分の姿を見て、「これ終わったら欲しいな~」と言ってスタイリストと話をしていた。



皆の視線がちらりとその方へ向き、キョーコが思わず「あ・・・」と言って、蓮を見つめた。
蓮もキョーコの視線を受け止めるだけ受け止めて、その美玲の様子を見守る。



それだけで、新開は、キョーコが既にそのピアスの存在を蓮から知らされていたのだろう、と見抜き、そして、


――なんかおもしろそうだな


と思った。
新開はその美玲の様子を見て声をかけた。


「それ、気に入ったの?」
「ええ、すっごく綺麗なピアスですね」
「似合うね」
「そうですか?」
「・・・・そうだなあ・・・元々キョーコちゃん用にイヤリングに直す予定で持ってきたんだけど・・・・美玲ちゃんでもいいね。華やかな君にはよく似合う。キョーコちゃん用は別の物を用意しようか。もっと小ぶりで上品な物でもいいかもしれない」
「本当ですか?」


あえて新開は皆に聞こえるようにそう言った。
そう言う事で、蓮やキョーコはどう反応するだろう、と思いながら。


蓮は、監督の意図を分かっているのか、視線をそらした。
キョーコはじっとその様子を見ている。
その姿を鏡に映して揺れるピアスを楽しむ美玲は、監督の意図には全く気付いていなかった。

蓮は後で監督に、「なぜ、オレにこれ見よがしに変えたんです?」と言った。


「面白いかと思って。中々いい手ごたえがあったよ」
「そうですか・・・」
「お前にとっては朗報だと思うけど」
「何がです?」
「気付かなかったんならいいんだ」


蓮の答えに、新開は、意外と蓮も鈍いんだな、と思った。
キョーコは喜ぶ美玲をじっと見つめて、そして、目をそらした。
それがどういう意味なのか気付かない新開ではない。
折角だから、煽ってみたのだった。
キョーコの、少しだけ芽生えているのだろう独占欲を。



「キョーコちゃん、いいよね?」
「えっ?」
「イヤリング、別のに変えて」
「え、あ、えと、もちろんです!」
「ごめんね?」
「ぜんぜん!」
「もっといいものを、『スタイリストに』選んでもらうから」
「あ、はいっ、お願いします」



ちょっと意地悪だったかな、と新開は思って、蓮をちらりと見ると、また一つ小さく息を吐き出していた。




キョーコは、その胸の中に生まれた様々な不思議な気持ちを、どう表現していいのか分からなかった。

やっぱり思ったとおり、綺麗な女性の元にあのピアスはいったじゃない、と、かつて蓮の部屋で想像した光景が現実になったような気持ちで、どこと無く人事のようにそれを見ていた。

その時、それまでの緊張と高揚した気持ちはどこかに行ってしまった気がする。


そして、それは、私がつけたはずだったのに、と、思い、そんな事を思った自分を受け入れられずに、そのピアスをつける美玲から目をそらした。


甘い感覚と苦い感覚が、身体の中に残った。


まるで蓮の部屋で交わした秘密の会話を、盗み見られた気持ち。
それは、蓮が、書く段階から自分のために選んでくれたもの、と・・・。

自分と蓮しか知らない、という独占欲に、すっかり慣れきっている。



――私のイヤリング・・・



と、監督の意思決定に反して、つい思ってしまったこと。二人の間のバラの下での秘密に、入り込んで欲しくなかったこと。



強い独占欲のような気持ちがある事を思い、きっとこれが、蓮の持つ「共演者キラー」の力なのかもしれない、と、ようやく身をもって理解した気がした。










2010.02.10