十一
日がだいぶ傾いて、音楽室の中は薄暗くなっていた。
まるで動かずに、再度生人形になってしまった蓮のそばに、キョーコは立った。
蓮はきっと、先程の会話はもちろん、全て聞こえていただろう。でも、蓮を、大事な人だと言って何も悪い事はないはず、と、キョーコは思う。
「敦賀さん・・・私は挑戦状に負けてしまったのに・・・・でも、どうしても言いたいわがままがあるんです・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・後夜祭の間・・・私と一緒に、居て下さいませんか・・・?」
蓮は、何の感情も読み取れない表情で、一度だけキョーコを見た。そして、何も言わずに、キョーコをまた抱き上げると、ピアノに乗せた。
また、人形になれ、という意味なのだろうか・・・とキョーコは思って、視点を一点にぼんやりとさせ、多少くたり、と力を抜く。
蓮は、『西洋人形師』の台詞を、幾つかそらんじた。
そして、そっと、キョーコに触れる。
まるで愛玩している人形に触れるように・・・・
髪をすき、眉をなぞる。
鼻を指で撫でて、唇を撫でる。
耳たぶをつまんで、そして、首筋に指を這わせる・・・
キョーコの肌に薄く鳥肌が立ったのを、蓮は気づいていた。頚動脈に触れる。とても早い。どんなにコントロールしても、心臓の鼓動と、肌だけは、コントロールは出来ない。
映画の中では触れ、舌先を忍ばせるはずの唇を、蓮は寸前・・・一ミリの差で止めて、触れなかった。
触れられるだろうと心の奥底が構えていたから、思わず、ふっ・・・とキョーコから少しの息が漏れた。
蓮の指は、キョーコの体や服、肌を好きに撫でた。
足先から太ももにかけてスカートの中を蓮の指がゆっくりと、這う。首筋、胸のふくらみ、二の腕、脇腹を、人差し指でゆっくり、何度もクルクル指を這わせ、撫で下ろす。
キョーコの人形としての規則正しいはずの息が、少しずつ乱れている。
蓮はキョーコを、ただ、愛おしそうに見つめるばかり・・・。
キョーコは、蓮にただただ愛しく触れられることが、とても気持ちよかった。
きっと、人形も、そうなのだと思った。
そして、
――敦賀さんは、こういう風に、思う人、に、触れるんだ・・・
と、キョーコは思った。
蓮は、愛している女の子を、どんな風に抱くのだろう。
蓮は、キョーコの頬を包み、耳たぶを噛み、「愛してる」と囁きながら、まるで人形を本当に愛しているように、舌先でキョーコの唇を舐め、首筋に舌先を這わせた。
――台本どおりに・・・
でも蓮は・・・台本にはないのに・・・さらに続けた。
足先から口付けて、腿のきわ・・・おそらく撮影に入っても誰も気づかない場所に・・・蓮の唇がキョーコの肌を強く吸い上げて、人形なら付かない筈の赤い痕がついた。
――人形なんてイヤ
と、キョーコの心が言った。
――言えないなんて、イヤ。触りたいのに触れない・・・
――あなたは、どんな子を、愛しているの
――おねがい、私だけを、私を、愛して・・・・
蓮は、途中から気づいていた。
キョーコが、少しの乱れる呼吸の中、全く変えない表情のさらに奥で、何かとてつもなく深い恍惚感を得ている気がすることを・・・
そんな様子を見ながら、体中に、指を這わせて、ほんの少しの息が乱れる場所を見つけては、指を行ったり来たりさせて、クルクルと指を動かした。
――すき、って言いたい・・・愛してるって言いたい・・・もっと触ってって言いたい・・・愛してって言いたい・・・
いつしか、キョーコの目から、涙が流れ落ちていた。
心からの涙は、心に比例して、制御できない事に気づく。
話せず動けず、目を動かすことも出来ず、でも、心だけ持っている人形は、涙が出るだろうか。
映画では血の涙が流れる事になっている。
人形が心から愛されて、人形の魂が救われる瞬間の感覚は、きっとこんな感じなのだろう、と思った。
涙が流れているのに、表情も、呼吸も、殆ど変わらない。
でも、時々、蓮の指先の動きに、呼吸が甘く乱れる。
外から音がする。消灯タイム、と。
校内中の全ての電気が消される。
外に、たった一つだけの星の電球がついて、さっと流れる様子が見えた。外の歓声と拍手が聞こえてくる。
流れ星を見た瞬間、キョーコは心の中で、願った。
――敦賀さんが好き、本当に、好き・・・
――だからずっと、ずっと一緒にいて・・・
そして更に聞こえる。「告白タイム」と・・・・。
だから、この後夜祭に来たくて沢山の人が集まる。
ファンが、芸能人に、触れたくて。
自分の恋人と一緒にいたくて。
好きな人に、伝えたくて。
「君が好きだよ」
と蓮が言った。
「・・・敦賀さんが好き、本当に好き・・・」
とキョーコが言った。声が震える。
蓮がキョーコの頬に手を添える。
蓮が、「キスして、いい?」と言った。
暗闇の中、『二人の人形』は、互いを求めて同時に腕を伸ばし、互いの唇を探した。
蓮の舌先がキョーコに忍び込む。
とうとう我慢できずに、「ぅんっ・・・」とキョーコが甘い声を漏らした。
蓮の激しい舌先が、何度も角度を変えて、キョーコの唇を塞ぐ。
「っ・・・はっ・・・んっ・・・」
蓮が何度もキョーコの唇を吸いあげて、離す。また、キョーコの舌先を絡める。遠慮する舌先に、蓮は我慢できなくて、再度深くキョーコの唇を塞いだ。
再度明かりが全点灯したとき、キョーコから唇を離した蓮は、キョーコをピアノから降ろした。
キョーコは目を伏せたまま、言った。
「・・・・敦賀さん・・・このあと、ワルツがあるんです」
「うん・・・」
「一緒に、踊って下さいませんか?」
「もちろん・・・」
蓮も、キョーコも手を取り合い、黙って踊った。キョーコはワルツなんて全然分からなかったけれど、蓮のするようにただ体を合わせた。
「・・・・・・・」
――後夜祭でね、キスをして、ワルツを踊った男女はね、とても幸せになれるんだって
クラスメートの友人が言った言葉。
そんな恥ずかしいジンクス、ウソウソ、信じられない、と、思った。みんなそんなものを信じるなんて不思議、と。
本当はそんな可愛らしい事を信じて、叶えて喜ぶ事ができる人が羨ましかったのだろうし、蓮とは絶対に叶えられない事を知っていて、その痛みに向き合いたくは無かっただけだ。
キョーコはそれをかなえてみて、「やっぱり、そのジンクスなんてウソだ」、と、伏せた目からは、切なくて寂しくて悲しくて、涙がこぼれ落ちた。
絶対に蓮への気持ちを我慢すると決めたのに、蓮の優しい声に、思わずひと時の感情に負けて口に出してしまった事。
あれは蓮の言葉ではなくて、人形師の台詞としての言葉だったかもしれないのに・・・。
口に出してしまったからにはもう元には戻れない。
二度と、蓮とは、元の状態には戻らない。
ずっと、そばに、いたかったのに。
「・・・・なぜ、泣くの?」
と蓮が言ったから、
「・・・お人形の気持ちが本当に良くわかるからです」
と答えた。
「どんな風に・・・?」
「・・・・・私を愛して・・・って」
「・・・・・・おいで。もう、帰ってもいいんだろ?」
蓮は言った。
「はい・・・」
キョーコは言う。
後夜祭は自由参加だ。
「うちへいこう」
今この状況で、それが何を意味するか分からないキョーコでは無い。
でも、蓮に触れられた体が、蓮を求めた。
腕があって、触れられる。
声があって、気持ちを口に出せる。
今だけでいい、たったひとつの願い事を、選んだ。
2014.12月作成
2019.1.29掲載