キョーコの事を思えばこれからの一週間は異常に長く感じた。すぐにでも連れ出して東京に帰りたい。でもスケジュールがそれを許さない。
蓮は女将からもらったパンフレットを広げた。あの上品な女性が旅館の女将だという事、旅館の歴史と設備内容が見て取れた。歴史も格式もある由緒正しい旅館らしい。
そしてあの不破はあの女性の息子。キョーコも何らかの理由であの場で育ち、育ててくれた恩を感じている。
ただ。不破の悪戯があるのだろう。成人に近い男女が一つ屋根の下にいたのだから。あの子がオレを最初に見た時少しおびえたから。キスをしようと顔を近づけた時、また少しおびえたから。あの子の事を好きな不破が、多分そういう「コト」をしたのだろうとは予想が付く。
が、理性ではそう理解はできても、気持ちが付いていかない。なぜすぐ言わなかった、なぜ自分を呼ばなかったと、やりきれない気持ちがどうしても、湧き起こってくる。
蓮がパンフレットをしまおうとすると、封筒の中から小さく折り畳まれた紙切れが落ちた。グラスを置き、それを拾う。その小さな紙は蓮に宛てた手紙だった。流れるような上品な字で書かれている。
『最初に会った時あなたの目が気に入りました。あの子の事、本気なのですね。私もあの子を実の娘のように育ててきましたからとても大事なのです。息子にはもう手に負えないでしょう、息子は貴方に横取りされた気分なのです。ですから息子が帰る日に合わせてお会い頂いた事、お許し下さい。三人とも芸能人という意味では同職、
もしあなた様の広い御心で許して頂けるなら、うちの不肖息子の事もよろしくお願い致します。貴方とキョーコちゃんの発展をお祈りします。またこちらへお寄りの際はどうぞお声をおかけ下さい。いつでも部屋をご用意しますから』
三年も連絡も無く家出をしていた彼らを、何も無かったかのように受け容れたあの女性も相当な広い心の持ち主なのだと、そう思った。不破尚の母親は全て分かっていたのだろう。不破尚が家を出た理由も、キョーコが一緒に出た理由も。戻ってきて、当然の事ながら、昔と変わらず不破尚を好いているのだと思っただろう。だからキョーコの不破尚に対する様子に何か違和感を持ったはずだ。
昔は「ショーちゃんが好き」、一辺倒だったのだから・・・。
「蓮」
蓮が顔を上げると、社が目の前に立っていた。
「帰ったんなら、一声かけてくれてもいいのに」珍しく静かに怒っていたようだった。
「・・・・すみません、気付かなくて・・・・」
社は、どさり、と蓮の横に座り、彼は水割りを頼んだ。
「珍しいですね、社さんが飲むなんて」
「怒らせる蓮がいけないんだからね。出かける前に一言ぐらい声をかけて行ってくれたっていいのに。もう緊急だとはいえ、打ち合わせの時に主役が理由も無しにいないじゃ、オレは言い訳の嵐だよ」
フォローを入れてくれているだろう彼の姿が思い浮かんだ。
「すみません・・・・」
「明日監督から打ち合わせの内容直接聞いてね。それから!今日社
長からオレにも連絡が入って、キョーコちゃんの事少し聞いたよ。京都にいるんだって?だから会いに行っていたんだろ?言ってくれてもいいじゃないか」
「・・・あの子のプライベートな事もあったので・・・」
「いいけどね、オレはキョーコちゃんに会いたいだけだし。早く連れてきてよね、食事、一緒にしたいんだから」
「・・・社さん、あの子の事好きですよね・・・・。現場一緒だといつも一緒にいるし。すぐ見つけては近寄るし」
「あぁ、好きだよ。だって可愛いもん。蓮くらいだよ、あんなにいじめるの」
「好きな割にオレに随分けしかけていましたけど」
水割りを持ったウェイターが近づき、社は一旦口をつぐんだ。グラスを置いたウェイターに社は会釈して、去るのを待った。
「・・・だって、あの子の事好きだけど、蓮と違って恋愛対象の好きじゃ、ないもん。可愛いし見ていて面白いし一生懸命だしね。オレはね、蓮のマネージャーだから、蓮の仕事が良ければそれでいいの。もし恋愛が絡んで蓮の仕事の精度が落ちるようならオレも即刻ダメだって言うと思うけどね。でも蓮、変わらずすごいペースで仕事こなしているし・・・それにあの子だってすごく綺麗になったし。蓮がそうしたんじゃ、ないの?」
「・・・・・どうですかね」
「なに、その歯切れの悪い返事。もしかしてまさか本当に卒業式の日、うまくいってたの?なんだ、そうなんだっ。オレは、蓮が良ければそれでいいんだから」
社は手にしていたグラスを、それは嬉しそうに口をつけた。
「あの子を東京へ連れて帰ります。だから帰りのチケット一枚多く・・・用意してもらえませんか?」
「分かったよ。それなら・・・今度抜ける時は絶対に声かけていってよね。言い訳、沢山してやるからさ」
蓮と社はその後もたわいない話を続けた。東京ではいつも蓮が車を運転して社を送るから、殆んど共に飲む事は無い。社と二人で飲んだのは久しぶりだった。
*****
それから蓮にとって長い長い一週間がようやく過ぎた。オールアップを果たし、蓮は社に打ち上げに出ない事を伝えると、足早に例の旅館へ向かった。
先日の手紙と夜中の訪問の礼に、あの女性のイメージだったカサブランカを腕いっぱいに買い求めた。それを女将に渡すと、「まぁ綺麗、ありがとう。玄関に飾るわ」、と言ってさっそく水切りを始めた。
「どうぞごゆっくり」としか言わず、気を利かせているのか自分を振り返らない所を横目で見て、先日案内された部屋へ向かった。
部屋の扉を叩いても反応は無かった。扉は開いていた。そのまま中へ入る。電気を点けたまま眠っているキョーコの横に蓮は座った。少しやつれたように見えるキョーコの頬にそっと指で触れると、くすぐったそうに顔を動かした。
――眠り姫にはキスしたら起きるかな?
蓮は伏せて、キョーコの唇にキスをした。 すると目には、見たくはないものが飛び込む。キョーコの肌に、赤い。
毒りんごの、痕。
自分が、キョーコを愛してしまったから。
キョーコが、自分を、好きになってしまったから。魔女に、囚われた。
蓮は、衝動的に何度もキョーコの唇に口付け、その柔らかな膨らみを吸い上げた。
きっと、泣いただろう。自分には知られたくなかっただろう。痛みが、沢山、キョーコの心の中に走っている事だろう。
キョーコの気持ちを思えば思うほど、蓮はキョーコの唇に口付けた。あまりに何度も蓮が口付けるから、起きたキョーコはうっすらと目を開けて、ん・・・と言った。キョーコの頭を腕で抱えているから、キョーコのすぐ目の前に蓮の顔がある。
キョーコは驚き、目を見開いた。
「・・・・おはよう」
「・・・・・おはよう・・・ございます・・・敦賀さん?」
「顔色、悪いね・・・そのまま横になっていてもいいから」
「だ、大丈夫です、すみませんっ・・・気付かなくて」そう言ってキョーコは体を起こした。
「今日で映画の撮影、終わったんだ。・・・・東京帰ろう?」
「・・・・・帰りたい・・・・ですけど・・・」
「帰れない理由・・・・・はそれ?」
蓮はキョーコについた赤い痕を指差した。
キョーコは両手で強く押さえつけてそれを隠し、真っ青になって、震えだした。
「ご、ごめんなさいっ・・私・・・も、もう敦賀さんの・・・横にいる資格ないんです・・・だから・・・・」
心から震えているのか、声も身体もぶるぶる震え、落ち着かせようと抱きしめて触れた手は、とても冷たかった。
「いいから・・・・・落ち着いて・・・・」
蓮はキョーコの身体を撫で続け、手をさすり続けた。
キョーコがどう思っていようと、尚にどんな事をされていようと、蓮はキョーコを手放す気などさらさらなかった。不破はキョーコを傷つけることでしかその存在を植えつけられない。
震えたキョーコは、抱き寄せた腕の中で声を殺して泣いていた。蓮は、きっとしばらくは、不破を見たら叩き殺してやりたくなる
だろうと思った。
広い心というのは一体どこにあるのだろう。
しばらくして泣き止んだキョーコは、すみません、と言って身体を離した。
「・・・大丈夫?」
「・・・はい。敦賀さん、もしかして気づいていたんですか・・・?」 「・・・大体はね。君の様子も不破の様子もおかしかったから。特
に君は分かりやすいから・・・ね。何かがあったんだろうって分かっていたのに・・・その時君の傍にいてあげられなくて・・・」
蓮はキョーコの身体をもう一度強く抱き寄せた。
「・・・・もう・・・・一人はいやです・・・・」
蓮はキョーコの頭を撫で、柔らかな髪に指を通した。何も言わず、ただ抱きしめたまま。かける言葉も見つからなかった。
「コーンに頼って、一生懸命・・・「一人でも大丈夫」って自分に言って聞かせていたんですけど・・・。この間敦賀さんに会ったら、声を聞いたら・・・そのおまじないも全然効きません・・・。・・・好きって言ってもらってすごく嬉しくて、それなのに・・・」
キョーコは強く蓮のシャツを握った。
蓮はその握った手を上から包み、耳に口付け、そのまま囁いた。
「・・・東京、戻ろう?戻ってオレの傍にいて欲しい・・・。それとね、社さんも会いたがっているよ。あの人、まだ君にホワイトデーのお返しの飴玉渡す気でいるんだから」
キョーコは涙を貯めた目で、ほんの少し笑った。
「良かった、笑ってくれて。ね、帰ろう・・・・?」
「・・・はい。・・・・敦賀さん、明日のスケジュールは?」
「明日は帰るだけ。ゆっくりしていけるよ。君も最後にやりたい事もあるだろう?ゆっくりやりたい事済ませて、また明日、夜に帰ればいい」
「はい・・・。用意しますね・・・」
まだ体調のすぐれないキョーコを蓮はそのまま寝かしつけてから、部屋を出た。キョーコは握った手を最後まで離さなかった。
部屋を出ると不破尚がいた。
――今一番見たくない顔・・・・・。
「連れて帰るのか・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「また無視?アンタ、口、ある?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「いい事教えてやるよ、アイツ、わき腹弱いよ」
蓮は無意識に不破尚を壁に叩きつけ、両腕を壁に貼り付け押さえつけていた。気づいた時には、尚が憎憎しげに蓮を見上げていた。
「いいね、その目。アンタのその目、いいよ。オレを喜ばせるには最適だな」
「二度と・・・彼女を傷つけるな・・・・」
「どうかな?オレのだし。アンタはアイツを捨てないとも限らない。オレは一生捨てないからな・・・」
睨んだ不破もその言葉は本気だったのだろう。でも。
「オレも離す気はさらさらないんだ。一生平行線だね。じゃあ。明日連れて帰るよ。この間オレが来たから・・・あの子に手を出したね・・・?もし、君がまたあの子を今夜どうこうしたら、そうだなぁ・・・話、売れるね。イメージ重視の不破君?芸能界は追われるだろうね・・・。オレの記事、出したいなら出しなよ。君が彼女の
事を売るはずも無いしね。オレの事だけ売るんだろう?・・・彼女はオレを気遣って君のそばにいただけだ」
掴んでいた手を離して不破から離れた。しばらくして不破の声がした。
「冗談に決まっているだろう。アンタを好きな女なんて抱けるか・・・」
と呟いた。
――・・・・だろうね・・・・・。
そう心の中で蓮は返事をした。もし本当にキョーコに最後まで手を出していたなら、本気で記事を売っても良かった。
蓮の怒りが収まる事はなかったが、少しだけ救われた気分だった。
*****
次の日、約束の時間にキョーコを迎えに行くと、例の女将と共に立っていた。蓮もキョーコも、女将に対して礼を述べた。
立ち去ろうとするとまた、「待て」と言った。
「これ、二人で・・・お持ちなさい」
「これはっ・・・・」
キョーコは至極驚いて、渡された木箱から手を引いた。
「あと一ヶ月もしたら綺麗に咲きます。またいつでもおいでなさい。体には気をつけて。敦賀さん、これは私から貴方へのお礼です」
キョーコが受け取ろうとしなかったそれを女将はキョーコに無理やり押し付けた。女将はゆっくりと会釈をすると、二人を見送ること無く中に入っていった。キョーコはその渡された箱を黙って見つめていた。
社は久々に見たキョーコのやつれぶりに驚いて、栄養のあるものを食べなさい、とまるで父親のように心配した。
新幹線の中でキョーコは箱を大事そうに抱えじっと見つめていた。しばらくするとそのままキョーコは目を閉じ、眠り始めた。抱えた 箱の上から蓮は自分の羽織っていたジャケットを掛け、社の横へ移 動した。
「キョーコちゃん、あんなにやつれて・・・」
「そうですね・・・しばらく、オレのウチへ預けてもらえませんか?あぁ・・・手は出しませんから」
「いや、いいけどさ、手を出そうと出すまいと。仕事請けることが 掛かれば、社長もノーとは言わないだろうから。許可もらっとくね」しばらくキョーコが元気になるまで傍に置いておきたかった。眼 を覚ましたキョーコにそうしたいと伝えると、キョーコは少しだけ笑みを見せた。だから蓮はその大義名分を掲げてキョーコを自宅に
招き入れた。
「ご迷惑じゃ、ないですか?」
「オレがそうしたいんだから、いいんだ。部屋はいつも通りに好きに使って。夜、オレに何か用があるならリビングか寝室にいるから」
「・・・・私・・・・」 「でも、時間は多分ばらばらになると思う。迎えに行ける時は迎え
に行くけど」
「ご飯、用意しておきますね。だから食べないで帰ってきてください。敦賀さん少しやつれた気がします・・・」
「それはオレのセリフ。オレの事はいいから、自分のことしっかり見直して。また仕事も頑張ろう。せっかく高校も卒業したんだしね。ちょうど今時間があるだろうから、本を沢山読むといいよ。オレが昔出演した作品の台本なら、まとめてあるから。それを読んで、自分なりの役作りなんか考えてもいいし。それのDVDなんかももらってあるから。とにかく・・・オレは君が演じるトコ、また見たいんだ。ね?小さな女優さん?」
「はいっ・・・・」
キョーコは嬉しそうに頷いた。
久しぶりにキョーコの本当の笑顔を見た。
「敦賀さん、聞いてもらえますか?」
「何?」
「この箱の中身・・・・気になりませんか?」
「そうだね。教えてくれるの?」
キョーコはその風呂敷を解いて、大きな木箱を開けた。赤茶の鉢の中に、葉っぱ、のみ。
「これはあの旅館で、女将さんが心から大事に育てていた、「蓮」です。帰ってすぐの頃、私がアイツと、昔通り「結婚」するために帰ったのだと女将さんは思っていました。先日、じっと蓮池を見た女将さんは、何度か・・・独り言のように言っていました。「あの人を思い出させる」と。敦賀さんが来る数日前ぐらいから言っていまし
た。私、最初女将さんは違う人をさして言っているのだと思っていましたけれど、敦賀さんが一度来てくれた後も同じように言っていましたから。だから、敦賀さんの事を言っていたのだと・・・思います。蓮は、敦賀さんの下の名前と同じ字を、書きますから・・・」
蓮がキョーコに会いに行った数日前、一度会っているからだろう。しかし。結婚?ハス?一体何の話なのか要領を得ない。
キョーコは続けた。
「十二ヶ月、季節ごとに咲く花の苗を選ぶのも植えられるのは女将だけなんです。今の時期だとあの庭は・・・立葵と双葉葵が綺麗で・・・京都で葵といったら、あのお祭りには欠かせません。そして夏には蓮池の脇で蓮が、池の真ん中には睡蓮が咲き乱れます。小さい頃、女将について植え付けたり、栽培方法を習ったり、その散った花を池から掬うのが私の仕事でした。掬えるのも、女将だけでしたから・・・。私は女将さんにずっとついていましたから、そのままいけば将来はあの旅館の女将になるはずだったのでしょう。そしてその季節の花々は、女将が本当に気を許したお馴染みさんにだけ、咲いた花を株分けしていたんです。またこの花が咲く頃来て下さい、そういう意味です。だから、この蓮を分けてくれたのも・・・そういう、意味です」
キョーコはひとつふぅ、と息をついた。 蓮はキョーコの昔語りを黙って聞いていた。
「けれど特に蓮は京都ではお寺が多いですから、大事にされているんです。花びらさえ掬うほど。だから馴染みの人に季節の花を渡すと言っても夏は他の花を渡します。あそこで夏の蓮や睡蓮は、『最も
大事な人』にしか渡しません。桐の箱に入れて渡すのも、蓮だけなんです。普通の人から考えれば変だと思われるかもしれませんが、それだけ心から大事にしているから。私が知っている限りでは、今まで渡してきた人を、三人しか見たことがないんです。だから桐の箱を見た時に私は断りました・・・。また行けるなんて・・・図々しくも思えませんでしたから・・・」
蓮はその桐の箱のふたを取り上げて、中にその花の絵と旅館名の焼印を見つけた。それを横に置き、キョーコを抱き寄せた。
「女将さんはね、君をとても大事だと、そうオレに伝えたよ。だから、顔、また見せに行こう。今度は・・・・二人でね」
キョーコは蓮をじっと見上げると、うっすらと涙を浮かべて、はい、と言って頷いた。そして、その蓮の鉢を大事そうに抱えると、
「日当たりのいい所」と言って、蓮の寝室のサイドボードに置いた。
「君の寝室に置けばいいのに」
「だって、この蓮は、敦賀さんへのお礼だって言っていました」
「でも・・・」
「女将の粋なシャレだと、思ってあげて下さい。水遣りは私がやりますから。あと一ヶ月もすれば・・・・綺麗に咲きます」
それから本当に一ヶ月ほど過ぎた朝、何かうっすらと香りがして、目が覚めた。その蓮は真っ白な花を一つ、つけた。
その日、もう既に起きたキョーコは、キッチンに立っていた。
「おはよう・・・あの花、咲いたよ」
「あとで、見に行きますね」
キョーコは、身体を半分だけ蓮に向けて話半分に聞き、食事を作
り続けた。
――毎日心底大事にしている・・・・蓮の花が咲いたのに。
キョーコは蓮を避けはしなかったが、やはり尚とのことがあって以来、蓮の傍にも必要以上には寄らなかった。だから蓮もキョーコには触れなかった。しかも互いに仕事が立て込み、同じ屋根の下にいるといえども会う時間はそんなに無かった。
キョーコは時間があれば台本を読みふけり、その映像を見漁り、日を追うごとに元気になっていった。社長が「もうしばらくお前のうちへ置いとけ」と言い、キョーコはまだ蓮の部屋にいる。
キョーコは社長が待っていたドラマ出演の返事をすぐにして、現場復帰した。ドラマも順調に撮影が進んでいるようで、たまにその台本で練習を一緒にした。
蓮はキョーコの相手役を練習でやれば、実際の相手役をテレビで見る目がつい、厳しくなる。その演技はどうだろう、そこはこの方がと、つい頭の中で分析を入れてしまう。そしてキョーコに触れる男に嫉妬して、こんなに自分は独占欲が強かっただろうかと、また意外な自分にも気付く。
毎日、キョーコが作り出すたわいない出来事が楽しかった。それでもキョーコはまだ蓮の中の「男」の部分を避けている。ドラマのキスシーン撮りは、「怖いから」いやだと言っていた。だから蓮は、以前と同じような関係に戻した。時間をかけてでも、キョーコの自発的な気持ちを尊重したかった。
「敦賀さん、今日の夜は、できれば早く帰ってきて下さい」
「あぁ、六時過ぎには終わるよ」
「蓮の花、白でしたね。あの白いの、私一番好きなんです。女将さんも、「敦賀さん」とははっきりいいませんでしたけど、「あの人には白いのが似合う」って言っていました。私もそう、思います。だから無事に咲いたから・・・・お祝いしようと思いまして」
「ん?うん。いいよ」
「じゃあ、約束です」
キョーコはそっと、笑顔を見せた。
夜帰ると、キョーコはリビングで台本を枕にうたたねをしていた。
「最上さん・・?」
「ん・・・・?」
「ただいま・・・」
「敦賀さん・・・?お、おかえりなさいっ・・・。ご飯、作ってありますから。ちょっと、待っていて下さいね」
蓮が久しぶりにキョーコの顔に近づき覗き込んでいると、目を覚ましたキョーコは真っ赤に照れた。その様子が可愛くて、蓮の表情も緩んだ。
しかし、いつものキョーコならもっと話すのに、食事中も静かに考え事に耽っていた。食事が終わった後も、一人台本を読み、静かだった。
だから蓮は寝室で一人、閉じた蓮の花を見ていた。夜は花を閉じるのだと知らなかったから、もう枯れたのだと思った。
次の日の朝、また、開いた蓮の花の香りで目を覚ました。
――変わった咲き方、するんだな・・・
真っ白い幾重も重なった花が、綺麗だった。
次の日の夜も、キョーコはソファで静かに台本を読んでいた。さすがに心配になった蓮が、横に座って声をかけた。
「最上さん、どうした?また何か・・・あった?」
「な、何でも・・・ないです・・・」
「じゃぁなんでそんなに慌てる?」
「・・・・・・・・・だって・・・」
「だって?」
「敦賀さん・・・昔と変わらないから・・・」
「・・・・・」
「もう、私は、ここ、出ないと、と思って・・・」
「そうじゃない。君は・・・オレでも『男』はダメだっただろう・・・?」
「・・・ごめんなさい・・・」
「だからオレは君に触れなかった。君が触れて欲しくなったら触れようと思って・・・」
「あの・・・敦賀さん・・・キスしても、いいですか?」
「どうぞ?」
初めてキョーコが自ら求めたのが珍しくて、蓮はキョーコが近づこうとする様子を見つめていた。
しかしキョーコは蓮の顔の前で固まったまま、一向に動かない。じりじりと視線を横に逸らしていく。
「だ、大丈夫?」
「いえ、あの・・・やっぱり私から・・・するんでしょうか・・・?」
「ぶっ・・・・・・・」蓮は吹いた。
――自ら誘ったくせに。その面白い顔、久々に見た。
蓮はひとしきり笑い、笑いながら腕に抱き締め、背中を撫でた。キョーコは「笑うなんてひどいです」と言いながら腕から出ると、部屋に戻ってしまった。それだけでも蓮にとっては十分だった。
その夜蓮の寝室ではまた蓮の花が閉じて、その香りだけが部屋に残っていた。
翌朝、再度花の香りがして蓮が目覚めると、目の前にはキョーコがいた。床に座り、ベッドに両腕を乗せ、頬を乗せていた。
「おはよう・・・・。どうした・・・?」
「敦賀さんを見ようと思って・・・。あと・・・お花が咲いて三日目なので・・・・今日で咲くのも最後ですから、見納めに・・・」
蓮も身体を起こして、ベッドの淵に腰掛ける。そして朝の光に照らされた白い花を見た。
「また見たい。これを見ているのは好きだったよ」
キョーコは床に座ったまま、ベッドの上に置いた腕に顎を乗せ、視線を蓮の鉢から動かさなかった。
しばらくして、キョーコは言った。
「朝だけ咲いて・・・夜閉じて・・・まるで私みたい」悲しそうに笑ったキョーコに蓮は驚いた。
「・・・最上さん?夜、オレから逃げてるって事?それはいいんだって、昨日の夜も言ったじゃないか」
「だから。敦賀さんの寝顔、見に来たんです。今日ここ、出ます」
「なっ・・・」
「「なんで?」ですか?・・・・もうそろそろ一人でも大丈夫です。もともと蓮の花が咲き終わったらここを出るつもりでした。水遣り、もうできなくなっちゃいますけど。良かったら、お願いします。育て方書いておきますから」
キョーコの冷めた物言いに、蓮も驚いた。まるで全てを諦めるかのような。
「オレに「別れよう」とでも言いに来たみたいだね」
「そうです」
「・・・・・・・・・・・・」
キョーコは、きっぱりと言い切ったが、蓮の目は見なかった。
――その目が、嘘をついている時の目だって、分かってる・・・
「・・・君は嘘つきだ。昨日の夜、オレに言った言葉は嘘じゃないし、現に行動が伴ってない。別れたい男に前日迫らないだろう?その男の寝室に・・・寝顔を見になんて来ないだろう?」
蓮は目を逸らしたキョーコの腕を引いて、目を合わせようとした。が、蓮の言葉が強かったのに怯え、それから逃げた。
「・・・もう・・・いいんです。ごめんなさい・・・」涙声が、した。
一体、どれだけ、自分を責めたのだろう。
別れを切り出すのに、どれだけ一人で言葉を抱え込んだのだろう。
「君が良くても、オレは良くない。逃げている理由をオレは全部分かっているだろう?・・・・オレは待ってる」
キョーコは蓮の腕を振り解き、無言で部屋を出ていった。そのまま部屋から出て来る事は無かった。
予定を聞いていなかったから、蓮は外から一声かけて、部屋を後にした。今日の夜にはもう部屋にいないのだろう、そんな事を思いながら。
様々自分の至らなさを責めながら、蓮はその日一日、仕事に集中するのにひどく苦労した。
「蓮、ひどい顔だな」
帰りの車中で、社が声をかけてきた。
「そうですか?」
「他のヤツは騙せても、オレは騙せないね。何か、キョーコちゃんとあったんだろう?それ位しか思いつかないね。」
――この人も相変わらず、するどいな・・・・
「これのせい?」
運転をしているから横は見られない。何かの雑誌のようだった。
「なんです?」
「不破の記事。相手の名前は伏せてあるけど、付き合ってるってさ。明らかにキョーコちゃんだろうな、この文章」
社が珍しく声のトーンを荒げた。
「は・・・?」
「違うんだろう?そうだと思ったよ。そんなにキョーコちゃんのこと、好きだったなら捨てなきゃ良かったのに。今更って気もするけど。ただ・・・なんで今この時期にそんな話がもれるんだ?」
社は、冷たく言い放った。蓮はそれに何も返事をしなかった。た
だ、その雑誌を下さい、とだけ言った。 だから急に別れを切り出したのだろうか。
本当に不破と付き合っているとは思えない。それとも不破がこの記事をしかけて、彼女を脅したのだろうか。どちらにしても、何か関係があるのだろう。だから、今朝、あんな事を・・・。
蓮は社を降ろすと、繋がらないキョーコ宛への電話を諦め、下宿先であるだるまやへ向かった。
「夜分遅くに・・・すみません」
「まぁ・・・まぁ・・・」
「彼女・・・帰っていますか?」
「いいえ?貴方の所に行っているのでしょう?」
「携帯が・・・たまたま繋がらなかったので、寄ったのかと思って一応迎えに来てみたんです。多分先に帰っているのでしょう。すみません、失礼しました」
本当にこの女性は何も知らないのだろう。 むやみに心配をさせない様に言葉を選んだ。
「いつも、ごめんなさいねぇ。送り迎えしてもらって。キョーコちゃんは元気?たまには顔を出すように伝えてちょうだいな。うちの大将も会いたがっているって、伝えてくれる?」
「はい。すみません、ではまた」
いつもの帰り道の公園を探しても、そこにもいなかった。思い当たる所は全て探した。が、どこにもいない。
部屋に帰りると、もう彼女が使っていたものは一切無かった。ゲストルームにも何も無い。
蓮は何度もキョーコに連絡を入れた。それでも出なかった。
無事を祈って、諦めた。
そしてシャワーを浴びに行き、妙な違和感に気付いた。床が、濡れていた。
蓮は、汗を流すと、確信と共に自分の寝室へ向かった。やはりそこに、いた。
キョーコは閉じた蓮の花の前で、一人立っていた。
「最上さん・・・」
「おかえりなさい」
「いるならいるって・・・探したんだ。・・・心配で、心配で・・・」
「・・・・・・・帰れなかったんです・・・・・!!」
キョーコの搾り出すようにして発せられた悲痛な声が耳に届く。心臓の奥が捕まれたように痛い。
「うん・・・・」
キョーコの泣き出しそうな声に、蓮は今すぐ抱きしめたかった。
「敦賀さんの傍は居心地が良くて、暖かくて・・・私がずっと逃げていたのに、ずっとそれを見ないフリをしてくれて・・・。朝、ひどい事を言ったのに、それでも優しくて・・・」
「記事、見たよ。あれのせいだね?」
「・・・先週くらいからアイツから言われていました。どんな記事が出ようと構わないと言って・・・断りました。どんな記事にせよ、敦賀さんにご迷惑が掛かるので・・・今日、部屋を出なければ、と、思いました。でも・・・」
「でも・・・?」
「・・・本当は敦賀さんに触れたくて・・・敦賀さん、大好きです」キョーコは蓮の鉢の横に置いてあったものを取って、蓮の傍まで
歩いてきた。手渡されたのは真っ白い花の付いた枝。
「これは?」
「これは・・・今の時期・・・椿が無かったから替わりに・・・・夏椿です・・・」
白い椿は・・・誘いの印。
あなたのものになりたいという意味。
――オレと君との、誘いの印。
「それは・・・・」
「卑怯だって分かっています。ご迷惑が掛かる事も分かっていて、でも、あの日に戻りたい。卒業式のあの幸せな日に戻りたい。・・・敦賀さんが好きです。・・・たった一度の、お願いがあるんです・・・一瞬だけ、私を・・・好きになってください・・・たった一度でいいんです。腕に、抱きしめて欲しくて・・・・」
下を向いて、そう言い、蓮の身体に額を付けた。蓮はそっと、キョーコを抱き締めた。
「お願いだから一瞬だけなんて言わないで。好きだよ・・・」 蓮がキョーコの顔をあげさせると、キョーコは昨日しなかったキスを自ら蓮にした。
蓮も止まらなかった。キョーコの唇を、何度も優しく吸った。
互いの切なく吐き出した息が混じり合う。余計に切なくなる。 絡めて深く口付けた唇をさらに貪って、蓮はキョーコをベッドに
沈めた。
・・・・君らしい可愛い夢を見て、おやすみ・・・・。
蓮が震えたキョーコに優しくキスを繰り返す。キョーコが自ら腕を伸ばすまで、蓮は待った。伸ばした腕を自分の首に巻きつけた。
時折キョーコの震えが蓮に伝わって、蓮は身体を撫で続けた。
蓮は、尚がキョーコに一切手を出してない事を告げた。
キョーコは、「本当に?」と言いながら、ほっとした表情を浮かべ、安心したように、心から蓮に身体を預けた。
すやすや眠るキョーコの横で、蓮も目を閉じた。
朝、気が付くと蓮の花びらが、確かに床に散っていた。
2005年春作成
2020.12.19 掲載