Seasons-春- R



――もう・・・無理かな。

蓮が椿の枝を手に取ると、真赤な椿の花は、ぽとりと頭から落ちた。これが、嫌な想像をさせるのだという。芸能界だってあっという間に首切りはされる。生きていたってそんな事はいくらでもある。
蓮は落ちた椿の花を拾って、水を張ったガラスの器に浮かべた。
「・・・っ・・・」
花瓶から抜いた枝が指で滑って、刺が刺さる。少しだけ血が滲んだ。流れ出た血の方がよほど嫌な想像をさせる。

――迷信だな・・・椿の花の話なんて・・・

キョーコが渡した真っ赤な椿の花。キョーコは何も知らない。蓮の中で、椿が何の象徴か、知らない。
だから目の前の椿にも、意味は無い。これを飾る事にも、何の意味も無いのに。でも蓮はどうしても捨てられなかった。
でも、本当は気づいている。
今までずっとキョーコの気持ちを見ないフリをして、子ども扱いをして、綺麗になっていく彼女を見ないフリをして・・・自分の気持ちにも蓋をして鍵をかけて・・・。
「敦賀さん、ドラマでのキスの仕方、教えて下さい。初めてで・・・分からなくて」

半年以上前、ドラマでキスシーンがあるのだと相談された。共演 相手ではなく、どうして自分に相談をしたのか分かっているくせに。大人なフリをして、指導だと自分の心に言い訳をして、カメラ位 置と立ち位置を聞いた。そして、唇にほんの少し触れるだけの子供のキスを一度した。それでもキョーコは真っ赤になって大人しくなった。だから、初めてのキスを、自分にしたかったのだと・・・。それまで全然気づかなかった。子供なのだと思っていたから。そ
の離れたあとの憂いた大人びた表情に驚いた。

キョーコを見ていると、だんだん、女優だとか子供だとか、昔の思い出だとか自分の過去だとか・・・そんな事はどうでも良くなってしまう。

――あの子が大人になったら?

自分の気持ちを自覚してから、ずっと蓋をしたのに。もうその蓋が開きそうだった。キョーコが自分に向ける視線が、鍵を開けてしまいそうだった。キョーコに自分への気持ちが無かったから、何とか閉めていられたのに。
雪道で、転びそうになった彼女の腕を引いて抱きとめた。それだけで、抱き締め続けたいと、血が逆流する。
「リコさん、どうでしょう・・・?」
キョーコが自分の目の前で、うっとりとしながら、メイク直しに口紅を塗ってもらっているその姿にさえ、欲情した。

頭がおかしくなる。

あと一月で、キョーコはもう卒業をして、大人の階段を一気に昇り始める。大人になった彼女が、他の誰かのものになって、その誰かに、全て一直線の彼女が眼差しをむけ、恋をして愛して・・・そうしたらもうこの苦しさに慣れて、楽になってしまうのだろうか?

「蓮、あのマフラーあげたの~~~?」

社がキョーコのマフラーをこっそり指差して、にんまり囁いた。

「えぇ、風邪ひきそうだったので」

「へぇ~そう。蓮も風邪、引かないでよね。一人暮らしなんだから、ひいたらキョーコちゃんに世話、してもらうから。耐えられる?」

代マネの時のようには、もう、いかないだろう。

「大丈夫、ですよ」

「何が?風邪が?それとも耐えられるってこと?」

「もちろん風邪が、です」

「ほんっと、蓮って・・・。ま、いいけど。・・・あの真っ白なマフラー、蓮も似合ってたけど、キョーコちゃんも似合ってるね。・・・蓮、本当に早くしないと、・・・取られるよ?業界でも最近多いんだから「京子」ファン。男女共にね」

「・・・そうですね・・・」

社は昔からずっとそう言い続けているから、すぐに勝手に話がそちらの方向へ向かう。好意でそうしてくれている事が分かっているから、蓮も何も言わない。ただ随分昔に自分の気持ちはばれているらしいから、いつのまにかそれに慣れてしまって、こうやってたまに本心をもらしてしまう。

「敦賀さん、このドラマ、台本貸してくださいねっ。主人公の子、好きなんですよ~」

最近放送が始まったばかりのドラマのポスターを指差して、遠くでキョーコが笑った。ポスターの前で立ち止まったままのキョーコに二人も近づいて、そのポスターに触れた。

「いいよ。今度もって来るよ。何なら、まだ最後の所撮っているから、見に来る?」

「ホントですか?行きますっ。勉強になるんですよねぇ、敦賀さんの演技。・・・あれ?」

「・・・何?」

キョーコはおもむろに蓮の手を取り、傷を指さした。

「あぁ・・昨日・・・少し切ったんだ」

「痛そうですね・・・バンソウコした方が・・・」

「舐めとけば治るよ」

「敦賀さん、手のモデルさんじゃないからいいですけど。でも見ているほうが痛そうなので、帰ったらバンソウコ付けてくださいね」キョーコは蓮の手のひらをぎゅっと握って、にっこり見上げた。 無表情になった蓮に気づいたのか、キョーコは先に歩いていった。

「蓮、大丈夫?」

「何がです?」

「キョーコちゃん・・・・最近・・・実は、そうでしょ?言う事が可愛いよねぇ、ホント。その傷だって・・・そんなに大きくないのに・・・・」

黙っている蓮に対して社は追い討ちをかける。

「まさかあれが、何も意識してない子の言う事だったらすごいよね。まぁ今までのキョーコちゃんを考えると、そういうこともあるかもしれないけど・・・。蓮だって我慢しないでもいいのに。オレはむしろ、お前のためにいいと思っているんだからさ」

「・・・・・・・・」

それでも蓮は何も答えなかった。

その日の帰りにまた、蓮は真赤な椿をキョーコから渡された。 何も知らない彼女にひどくじれったさを感じて、椿姫を示唆した

話を口にした。最近どうも自分の感情に合わせて口が勝手に動き出す。言うつもりが無いのに。それでも気付いて振り向いて欲しいと・・・・。

昔からメルヘン思考な彼女は、「姫」物語が大好きで、今でも「姫」だの「お嬢様」だのが大好きなようだ。自分の役だろうが他人の役だろうが、そんな設定を好んで、嬉しそうにする。根は昔と全く変わらない女の子らしい女の子で、「物語りのあと姫は幸せか?」との問いに、あっさりと「幸せのはず」なんて答えが返ってきたりする。

彼女の女の子らしいメルヘン思考は嫌いじゃないし、それを崩すつもりも全く無いから、その問いに戸惑った彼女に、何かを言うつもりも全くない。

しかし椿姫は、椿姫が先に亡くなってしまう話。キョーコが好きな、「王子様とめでたし」という夢物語ではない。

原作では、亡くなる女性、マルグリッドが、椿を渡す。夜を誘うために。蓮が昔演じたのは椿を渡される主人公ではなかったが、そ

れでもそのシーンを見ているのがとても好きだった。女として恥じらうどころか誇り高く男を誘う。その誇り高い表情を傍から見るのが好きだった。

もちろんキョーコが蓮に椿を渡した時の表情は、それとは全く異なっていた。だから「意味」をつけたがっているのは自分自身。

最近、そうやってぼんやり考え事をしながら蓮が歩くから、キョーコは退屈なのか、あっというまに目の前からいなくなる。

「あっ・・・」

本当にあっちこっち勝手に動く。あらぬ方向に歩いたり、何か気になれば、すぐにどこかへいってしまう。

「こら、最上さん、危ないからまっすぐ歩きなさい・・・・」

「あぁ・・・・・逃げたっ。あっ・・・・すみませんっ・・・いつも見かける猫がいたので、つい・・・」

君が猫みたいだ、と、蓮は言わなかった。真っ白い、猫。オレを惑わせたまま、好き勝手動いて、あっちへ行きこっちへ行き。たまに優しく甘えてみたり、去ってみたり。本当に何をしでかすか分からない。

事務所で初めて会った時は、傷だらけの手負いの猫だった気がする。あまりに真っ白すぎて、傷だらけになって・・・「男」と名の付くもの全てに牙と爪を向けていた。蓮も当然最初からひっかかれて、噛まれた。なのに、気まぐれに世話を始めたら、だんだん懐かれた。逆に、目が離せなくなった。

――小さいときはどちらかと言うと、子犬っぽい子だったんだけどな。ご主人様、一筋の・・・・ね。

そのせいで変わってしまったけれど。それとも、女の子というのはそういうものなのだろうか。

途中で待ったままキョーコは、蓮がそこにたどりついても動かず、見上げてきた。

「敦賀さん、最近元気、ないですね。大丈夫ですか?ちゃんとお休み、とれていますか?またご飯ぐらい、作りにいきますから。食事も、ちゃんとしてくださいね」

考え事をする蓮を、キョーコは元気が無いと思ったようだった。

「うん、大丈夫だよ、ごめんね、心配かけて・・・」

「いえ・・・。最近よく考え事、されているから・・・。何か大変な役につきあたっているのかな、と思っていたんですけど。今のドラマも、すごくいいですよね。敦賀さん、全体の中でもよく生きてますし。だから、大丈夫ですよっ」

――そうだよね、オレがする考え事なんて、仕事の事ぐらいしか、想像つかないよね・・・。

「ありがと。期待に応えられていてよかったよ」

「敦賀さんは、あの役みたいに・・・タバコ、吸わないんですか?」まぁ、体のために・・・?

「吸わないよ?何で?」

「・・・いえ、あの・・・手馴れた手つきに見えたので、実は吸っているのかと・・・」

「男だから勧められて付き合わなきゃならない事はあるけれどね。普段は吸わないよ」

「そ、そうですか・・・・」

「オレがこっそり子供みたいに隠れて、吸っていると思ったの?」蓮がくすくす笑って答えると、キョーコは慌て始めた。

「そ、そんな訳じゃなく。あの、・・・物思いに耽って・・・一人燻らして吸うシーン・・・あれ、シルエットだけでしたけど・・・・構図も映りも角度も良かったなと・・・思って」

微妙に照れた彼女が、とても可愛いらしく感じた。

「それはどうも。最上さんは、まだ吸っちゃダメだよ?」

「吸いませんよ!あんな煙いの」

「それは良かった。高校生は高校生らしくもう寝ないとね」

蓮が、しれっとした顔をして見下ろしたから、キョーコからは蓮の思い通りの反応が返ってきた。

「こ、子供扱いっ・・・。もういいです、送ってもらってありがとうございました。もう寝ますからっ。おやすみなさい・・・」

キョーコは勢いよく頭を下げると、バタバタと家に駆け込んで入って行った。丸め込まないと本当にまずいのは、蓮のほうだ。最近は本当にまずい。最近はこうやって子ども扱いをして、怒らせて、離して、全て演技でごまかして・・・。

――あぁ確かに今、タバコが・・・欲しい。

タバコ一本で、抱えている感情を誤魔化せたならば・・・。

次に蓮がキョーコに会った時、キョーコは事務所のロビーのソファに座った琴南奏江の横で、ぐっすりと眠っていた。

「敦賀さん、迎えに来て下さったんですよね?任せました!」

「えっ・・・こんなトコで・・・ずっと寝てるの?」

「この子、眠るの、得意ですよ。あっという間に寝ますから。あれ、知りませんでした?」

ニヤリ、と奏江は挑戦的に笑って、蓮を見上げた。

この子は、自分の事を試しているのだろうか。キョーコが眠る時、一緒にいたことがあるのかと、その表情で問うて来る。

「・・・起きたら呼んでくれないかな。あっちで待っているから」蓮は努めて笑顔で返したが、見抜かれているような気もする。

「この子、敦賀さんの方が懐いていますよ。親友にあるまじき行為ですよね」

「じゃあ・・・リコちゃんに頼むよ」

「なすりあい・・・・ですか?」

なぜ奏江からこんなにも挑戦状をもらわねばならないのだろうか。彼女に手を出すつもりが無いなら、近づくな・・・という、親友と しての牽制のつもりなのだろうか。

「・・・分かった、オレが待っているよ」

奏江が欲しかったであろう答えを蓮が返すと、なぜかにっこり笑って、あっという間に引き下がった。

「じゃあ、お願いしますね。私にはあいにく送ってくれる人なんて

いないですから。もう帰らないと」

「一緒に乗っていけば?送るよ?」

「いえ、いいです。その子起きるの、多分まだまだですから。待つの、嫌です。じゃ、お願いしますね。失礼します。」

あっという間に身を翻すと、入り口方面へ消えていった。

はっきりとした子だなあ、と思う。さすが彼女の親友、ともいうか。奏江の勢いに飲み込まれ、蓮は奏江が颯爽と去る姿を見送るばかり。

横を見れば、キョーコは本当にぐっすりと眠って起きない様子だった。キョーコに蓮は着ていたジャケットをかけると、する事も無く、台本を読み始めた。キョーコの身体が傾いて蓮にもたれ掛かった。蓮も気付いたがそのまま支えた。傾いた拍子にキョーコの身体から落ちたジャケットを拾うと、もう一度掛けなおした。

珍しく蓮が人目の付く所で台本を読んでいるのが目立つのか、蓮が京子と一緒に並んで座っているのが気になるのか、遠巻きにコソコソ話し声が聞こえる。「京子」ファンらしき男達の視線も気になったが、無視した。

「敦賀さんっ・・・・うわー・・・なんかっ・・・」

「あれリコちゃん・・・久しぶりだね。座らない?」

「いいですか、横座って」

「もちろん?」

リコは、おもむろに蓮の横に座ると、内緒話体勢で、蓮に近づいた。ロビーは音が響くからだろう。

「あの、驚いたんです。この子の為に肩貸しているなんて。起きるまで待つんですか?」

「そのつもり・・・なんだけど。よく寝ているし」

「あれ、社さんは?」

「デスクで事務処理中。残念?」

「いえっ・・・・そんな事はっ・・・・・」急いで視線を逸らすあたり。

「私・・・この子とも敦賀さんとも社さんとも仲良くさせてもらっているのでいつも聞くだけ聞ける一番卑怯な立場にいるんですけど・・・。あのぅ・・・その、この子の事、実際は・・・。今見ていて思ったんですけど・・・その・・・ジャケットを掛け直した敦賀さんの表情があまりに穏やかだったのでびっくりして・・・」

「・・・そうかな・・・」

社もよくそんな事を口にする。   そんなに顔に出ているのだろうか?

「否定・・・しないんですか?」

「リコちゃんだからね。ずっと・・・この子の世話してくれているし。見なかった聞かなかったフリをするのは上手だろう?」

リコとのノロケ話は、キョーコから散々聞かされている。

どれだけキョーコが信用を置いているかも、よく分かっている。

「それって・・・・褒められてます?嫌な女だと思っています?」

「褒めてる褒めてる。信用を置いているってこと」

「それならいいんですけど。私も敦賀さんの事信用しているからこそ、今尋ねさせてもらいました。だから・・・この子の事任せたい

んです。琴南さんもきっと同じです。あの子も口には出さないけど、この子のこと、大好きですから。みんなに愛されているんですよね。まぁ、どちらかというと、素直すぎと言うか無防備すぎて、心配なんですけど。でも私が好きなんだから、しょうがないんです。敦賀さんも、ですよね?」

蓮は可笑しそうに笑ってごまかして、何も答えなかった。

「あぁ、それならもう、じれったいなぁ・・・本当に。どうしてそう、こんなトコで・・・ぐっすり眠れるかな、この子はっ。少しは今の状況と私の親心を知りなさいっ・・・」

「あぁっ・・・」

蓮が止めた時には遅く、リコはキョーコの頬をつねって、無理やり起こした。

「・・・たい・・・」

「痛いでしょうよ・・・。んもう、いつまで寝てるの」

「・・・・?リコさん・・・?」

「早く、起きなさい。キョーコちゃん、大先輩がお待ちよ?」はっと目を覚ました彼女はさぁっと青ざめた。

「おはようございます。ご、ごめんなさいっ・・・・。待っていたら逆に寝てしまいまして・・・。・・・・あれモー子さんは?」

「彼女は帰ったよ。随分遅い・・・おはようだね」

「あぁぁぁぁぁ・・・すみません・・・」

「いや?ぜんぜん。最上さん・・・思い切り歯軋りしてたよ。ストレスでも溜まってるの?」

「えぇぇっ・・・うそぉっ・・・・すみません・・・・」

「くっくっくっ・・・」

リコは、蓮がキョーコで遊んでいるのが分かったのか、おなかを抱えて笑い出した。だから、蓮もキョーコで遊ぶのを終わりにした。

そして少しだけ、付加えた

「ねぇ、リコちゃんも、一緒に乗ってく?社さんも呼びに行くけど」

「あぁっ・・・そうだっ・・・私は、まだあの・・・・仕事の途中だったんだ。キョーコちゃん、明日のメイク、十時集合ね。じゃっ・・・・失礼します!!」

慌てて帰ったリコの姿を、きょとんとした面持ちで見送っていたキョーコは、不意に蓮のジャケットに顔を埋めた。彼女もリコの気持ちを知っていて、笑いをこらえているのだろうか?

その帰り道、キョーコは蓮に「椿姫」を読んだと言った。最初のさわりで諦めると思っていたのに。しかも、最期まで純粋に愛し愛された男がいたことで、「姫」は成り立つのだと言った。

「生きてさえいれば、別々になっても会えますから。だから・・・私が恋心を隠したまま、もし今もうすぐ死ぬとしたら、どう思うかなって・・・」

それもいいかもしれない。

この苦しみから解放されるなら。苦しくて・・・・苦しいまま・・・ずっといるぐらいなら。

だから蓮は世間一般の言いそうな、当たり障りのない返事を返した。あんなに純情に一人の女一筋になんて、なれるはずが・・・。

「敦賀さん、ちょっと待っていて下さい。すぐ戻りますから」   固まったままの蓮にキョーコは背を向けると、家へ入ってしまっ

た。蓮は大きなため息と共に、このやりきれない気持ちをどうしたものかと思った。本当にタバコが欲しい。口が寂しいわけではない。ただ気持ちに鍵をかけなおしたいだけ。正常に。

戻ってきたキョーコは、とても思いつめた顔をしていた。妙にかすれた声で、蓮に屈むように言った。

「これ・・・ずっと迷っていたんですけど。前に敦賀さんのマフラーを貰ってしまってからずっとしてなかったみたいでしたから。今日の帰りくらいは役立ちますから。・・・お誕生日、おめでとうございます」

――今、どんな表情でそれを言っているか分かってる?最上さん。生きてさえいえればまた会える。

――確かにそうだね、『キョーコちゃん』・・・君は知らないだろうけれど・・・ね。

もし、自分がこの気持ちをキョーコに伝えないまま死んだら。

――あぁ・・・タバコが、ほしい・・・

嬉しい、本当に嬉しかった。わざわざ自分の誕生日に合わせて作ってくれたことがどんなに嬉しかったか。ただ。これ以上刺激しないで欲しい・・・。

「最上さんのにおい、する」

なんとか笑みをもらしたものの、この場から逃げたい衝動にかられる。

すごく柔らかい、こんなに彼女の香りがしたものを身に着けていたら。かけてくれたマフラーの端に、また、椿の模様の入ったタグを見つけた。

頭の中で、鍵が壊れていく音がする。

「明日もし時間が合えばケーキ、食べましょう。あっ、あのっ・・・お祝い、してくれる彼女さんとかいるなら邪魔しませんからっ。また次の機会でいいんですけど・・・」

明日会わなければ、次に彼女に会うのは一ヶ月以上先。明日会わなければ。でも、ここで明日祝ってくれる誰かがいるかどうか、言い訳するのか。

明日の夜予定があると言えば、キョーコはきっと他に誰か彼女でもいると勘違いして、傷つくかもしれないのに・・・。

気持ちに応えてあげたい・・・応えたい・・・。

蓮は心にかけていた鍵を自ら壊す決心をして、キョーコを受け入れる覚悟を決めた。

「明日は夜、予定ないよ。お祝いしてくれる?もし時間があったら、明日ウチに寄っていかない?」

それでも明日自分はきっと後悔するのだろうと思った。手を出さないように帰すのが関の山、なのだろう。

次の日、キョーコが作った料理を、蓮は黙って食べていた。美味しいと思いながら。

「敦賀さんのドラマだ・・・。そっか、今日でしたね!うっかりしていました」

――テレビ番組・・・変えるの忘れた・・・。

「そういえば・・・、もう撮影終了しちゃいました?」

「あ、ごめん・・・終わっちゃったよ・・・」

「残念です。この女優さんの演技も生で見てみたかったです」

「誘っておいて・・・・ごめんね?」

「いえ、また今度誘って下さい。楽しみにしておきます」

「ねぇドラマさ・・・・番組変えない?」

「えっ、ダメですよっ。今日の分撮ってないんです。来週話が繋がらなくなっちゃいます」

――・・・だってその後見せたくないシーンなんだから・・・。

「敦賀さんて・・・・ホント、こういうシーンの見せ方もうまいですね・・・女優さんの肌も、敦賀さんも、綺麗・・・」

――・・・・・・・・・・・・・・・・。

「ありがとう、でも普通だよ。カメラ位置さえ把握していれば」努めて、俳優同士の会話にして流そうとしたのに。

「敦賀さん、こういう役も沢山されていますし・・・色々な人の相 手をしなきゃいけないからそれはそれで大変ですよね。相手の女優 さんも良く見せるために・・・それなりにその気になるでしょうし・・・。私にやれと言われたらきっと困ります。かといって、お仕事を続け るなら、いつまでもそういうのが無い仕事ばかりじゃいられないで しょうけれど・・・」

人のそういったシーンを冷静に分析しないで欲しいものである。純粋に仕事にはひたむきなんだろう。女優として、一視聴者として、そう判断する、それだけの事なのだろうけれど。

蓮も、ついキョーコの目の中から、それ以上の感情を探り出そうとして、凝視してしまう。

自分のドラマなんて、どうでもよかった。

「最上さん、TVに見入ってて、箸・・・進んでない」

「こんな熱いシーンを見ながら、食が進む敦賀さんが異常なんです」

「まさか自分にも、ましてや相手に感情移入なんてしないし」君じゃなければ、誰を相手にしたって。

「・・・・・そうですか」

「さあ食べて。ケーキが遅くなったら・・・太るよ?」

「そうでした!困ります、それは。でもドラマが気になります・・・」蓮が何とか話題を変えようと努力した所で全く状況は変わらず、

キョーコは真剣に見入っていた。

だから、今週はそういうシーンの応酬で、なんてタイミングの悪い週だったのだと、蓮が横でぐったりしていた事にきっと気付いていなかっただろう。

あまりにキョーコが何も気付かないから、半分悔しさもあって、キッチンで子供のようにつけた頬のクリームを舐め取って、からかってみたら、予想以上の反応が返ってきて面白かったけれど。

珍しくプライベートのキョーコにうっすらついた化粧と、薄いピンクに彩られた唇が、蓮をひどく誘惑した。

それでも、我慢できていると、今日はもう、大丈夫だと思った矢先に。蓮はまた理性を飛ばしかけた。

キョーコが渡したチョコレートの箱の中に、小さな椿が入っていた。どうしてこんなに、キョーコは蓮の理性を飛ばす方向へ持っていくのだろう。最近話によく出ていたから、というだけで、選んだのは分かっている。

無意識とはいえ、誘われた気分の蓮は、どうすればいいのか。ここには蓮とキョーコしかいない。今まで何とも無かった自分の部屋でのただの「食事」。ここで手を出したら。彼女は・・・?

「甘い・・・・・」

赤い椿と白い椿。蓮は白い椿の方を口にした。

――どうして白い方なのか、気付かない?君へのオレの答え。誘われたオレの答え・・・・。

――ねぇ・・・・誘い返してくれない・・・・?

「・・・砂糖ですから」

――・・・・・・・・・だろうねぇ・・・・。

蓮も気が抜けたようにくすくすと笑って、コーヒーで、その「ただの砂糖の塊」を胃に流し込んだ。

そして、マフラーと今日の礼をした。仕事で貰い受けた椿のピン。

贈りあったものが同じ椿だったのは、たまたまだろう。

『オレを誘って』

キョーコがそれをバッグの外側につけようとするから、蓮はそれが嫌で、それはおかしな理由をつけて、内側につけさせた。外に椿をつけて歩く姿を見るなんて、絶対に嫌だった。

「私を誘って」、などと。

他の男なんかに、見せたくなかった。   彼女の「椿」には、何も意味がないのに。

意味をつけているのは自分だと分かっているのに。それでも。

――オレと君だけのお互いの誘いの印。誰にも見せないで。誰にも言わないで。オレは君に、ずっと誘われ続けてあげるから。

てください」

「うん。・・・でもあと一ヶ月したら・・・その制服姿も見られなくなるんだね。今日で見納めかな?入ったと思ったらもう卒業なんて・・・早いね」

「そうですね・・・。寂しいけど、楽しかったです。普通の女子高生が出来て。社長さんのおかげで・・・。このお礼は卒業したら、いっぱい働いてお返ししないと。式はちょうど来月の今日なんです。あと一ヶ月です、制服着られるの。もう少し着ていたかったです」

キョーコが寂しそうに俯いた。

蓮は思わず手を顔に添えそうになった手を、何とか止めた。キョーコが、ぱっと顔を上げ、自分を見つめた。

「敦賀さんっ・・・」

何か言いかけたキョーコは、そのまま何も言わず、「今日は楽しかったです」とだけ口にした。

「オレこそ・・・ありがとう。美味しかったよ。じゃあまた今度。チョコ、ちゃんと明日社さんに渡しておくね」

何か言いかけた言葉を待たずに、蓮はキョーコのもとを去った。次、会った時は・・・・。

「最上さん、オレね、これから京都の撮影所に篭るんだ。しばらく東京に戻らない。帰ってくるの、一ヶ月以上先になりそう。送れないから・・・夜道、気をつけて」

「そうですか、お気をつけて・・・。京都、これからが一番綺麗になりますから。撮影中、時間があったら色々見て・・・楽しんでき

「蓮~~。今日で前半の撮りは、もうおしまいだって。良かったね、随分早く終わって。やっぱり新開監督のダメ出し・・・蓮が少ないから順調だったんだな」

「・・・そうですか」

「久しぶりに東京に戻れるなぁ・・・早く帰りたい!・・・・キョ

ーコちゃんどうしてるかなぁ~。制服姿また見たいなぁ・・・・あれ、蓮!今日、キョーコちゃんの卒業式!いいから、早く東京帰ろう。もう、上がりでいいって言ってたんだから」

知っている。最後に会った時、今日だと言っていた。

「・・・いいんです?本当に帰って・・・。」

「新開監督だから大丈夫だよ。頼まれ事よく聞いてるし。ダメって言われたら、後半時に貸し一つでOKだって。いいから、帰ろう。昼過ぎには東京着けるからっ」

「な、なんで社さんがそんなに急ぐんです・・・」

「何でって・・・キョーコちゃん、今日で制服最後だよ?見なくていいの?」

「別に・・・制服が見たいなんて・・・思いませんけど・・・」 蓮は、冷静を装ったまま、自分の気持ちを探っていた。そもそも

仕事の時に、自分の感情を優先する気にはならなかっただけだった。

「ちがうよ!!いい?女の子が制服じゃなくなったら・・・もう大人だよ?蓮は、どうするの?絶対キョーコちゃんだって蓮に・・・会いたいに決まってる。もう一ヶ月も会ってないんだから。どうして、気付いてやらないの」

「・・・・分かりました。帰りましょう・・・・」

思わず無表情で答えた蓮の言葉に、怒ったのだと思った社は、我に返って肩を丸めた。

「れ、蓮・・・。ごめん、言い過ぎた。お前の事情も気持ちも、あるんだよな・・・」

「いえ・・・帰りましょう?きっと、あの子のことだから、学校で

一人でいるはずですよ。まだ制服が着たいって言って・・・」蓮はキョーコの様子を思い描いて、少し微笑んだ。

「蓮・・・お前、そこまでキョーコちゃんのこと分かっていて・・・」

「さぁ・・・行きましょう?帰るんでしょう?社さんもあの子の制服姿、好きでしたよね。見納め、しに行きましょうか」

学校の裏側に車を止めて、社を残したまま校舎に足を踏み入れた。卒業式が済んで、忙しい芸能課らしく人はいなかった。

「敦賀さん」

「・・・?」

声をかけられるとは思わなかったから、知らない顔だったけれど立ち止まった。自分のファンという訳でもなさそうだ。

「あの子、あの教室にいますよ」

「・・・・・あの子?」

「最上キョーコ・・・・探しに来たんじゃ、ないんですか?」

「・・・・・・・なぜ?」

「・・・・・あなたといる所をよく見かけただけです。敦賀さん、お願いだから、あの子の手を離さないでくださいね。そうじゃないと、私が困ります」

「・・・・?ごめん、知り合いだったっけ・・・オレと君・・・」

「いえ全然。失礼します」

誰なのかも分からないまま、なぜ、自分にキョーコの居場所を教えてくれるのか、自分とキョーコの関係性を強く望む事に疑問に思いながら、彼女に指を指された教室を覗くと、キョーコは本当に一人で眠っていた。どこでもよく眠る。机に伏せて、すやすや寝ていた。どこでも寝れるっていい特技だとは思うけれど。危ないからあまりして欲しくはない。

春前とはいえ、まだ寒かったから、蓮はキョーコにコートをかけた。蓮はキョーコの後ろの席で、キョーコの背中を眺めていた。彼女の手に握られているのは、かつて蓮が渡した、あの石。

『いい?女の子が制服じゃなくなったらもう大人だよ?蓮は、どうするの?』

社が言った言葉を思い出す。ずっと、子供だと思っていたのだけれど。寝顔は子供そのものの、可愛い寝顔。でも、もう。

「ん・・・」

起きたキョーコはまだ夢うつつで、ぼんやり外を眺めていた。

「・・・・おはよう」

声をかけたら、キョーコはいつもの反応をした。たった一ヶ月会わなかっただけなのに、そんな事もとても懐かしく愛しく思えた。

「間に合ってよかった。君の制服姿、見ておきたかったんだ」   蓮は昔キョーコが入学した頃に言った言葉と全く同じ言葉を口に

した。キョーコは、少しだけ大人びた表情で口を開いた。

「お久しぶり・・・ですね。京都、きれいだったでしょう?」

「うん、沢山花が咲いて、少し時間があった時には寺も見られたよ。そんなに有名な所へはいけなかったけれど、逆に誰も来ない寺はゆっくりと時間を過ごすには良かった。セリフを覚えたり考え事をするのにはもってこいだね」

誰も来ないから、セリフも役作りもとても集中できてはかどった

せいか、撮影もあっという間に撮り上がった。無意識に卒業式までに帰ろうと思っていたのだろうか。

キョーコをもう一度、教師役として見てみようとして、蓮は教壇の上まで歩いていって、立った。

「昔、君と共演した時オレは教師で・・・君は生徒だったけれど・・・本当に君はもう卒業するんだな・・・」

もし、今自分が教師で、この子が生徒だったら。耐えられるだろうか。キョーコと初めて共演したドラマで、キョーコへの気持ちに気付いてから、もう随分経ったな、と、蓮はその頃の事を懐かしく思い出していた。

蓮が教壇を降りてキョーコの許へ近寄ると、机の上に、碧い石と、椿の花。赤と白と置いてある。なぜ、今日に限ってまた椿を持っているのだろう。あまりに突然目の前に現れた椿に、蓮が心に張っていた糸が、ぷつり、と切れた。

「その白い椿、オレにくれない?」

――いい加減気付いて。ねぇ。気付いてよ・・・。

「これはだるまやの大将から貰った卒業式のお祝いなんです・・・」苦しい。この苦しさから開放されたい。

蓮はキョーコに、来る途中で買った薔薇の花束を渡した。さすがに椿の花束など、選べなかった。

蓮はもうあまりに自分が馬鹿馬鹿しく、帰ろうと思ってコートを

羽織り、キョーコに貰ったマフラーを捲いた。

マフラーからもうキョーコの香りはしない。しばらく黙っていたキョーコは、バラの花束に顔を寄せて、言った。

「やっぱりこの椿あげます。来てくれて嬉しかったから。敦賀さんならこの椿も大事にしてくれると思いますし」

白い椿の花が手渡されたから、蓮は、椿姫に出てくる主人公の男のように、ボタンの穴に椿の枝をさした。それは、男が、椿姫を受け入れた時の仕草。貴方を受け入れるという意味。といっても、キョーコは椿の意味もしぐさも何も、ちっとも気付いていなかったけれど。

今までもらっていた赤い椿が、白に変わる。大事にしたいのは椿じゃない。

蓮はバレンタインのお返しにキョーコの口に飴を入れ、ずっと口にしたかったことを口にした。

「本当の実物の「椿姫」であるマルグリッドはね、夜、遊びに出る時、トレードマークとして赤い椿と白の椿を好んで付けていた。でもね、白い椿は一ヶ月のうちたった一日だけしか付けなかったんだ。その椿をね、一緒になりたい人に渡した。だから白い椿は、特別の証。誘いの印。あなたのものになりたい、っていう意味で渡したんだ。ね、オレが君に、その白い椿が欲しい、と言った意味、分かる?それとも、もっと説明が、欲しい?」

蓮はキョーコを上を向かせて目を合わせた。照れたキョーコの表情は、もう、子供ではなかった。蓮は身体を傾けて、その震える赤

い唇に・・・口付けた。優しく優しく。ずっと焦がれた唇。とても柔らかくて、何度もその柔らかさを楽しんだ。

逃げるように座り込んだキョーコを追って、さらに自分のテリトリーの内側に追い詰める。息を呑んだままのキョーコを抱き寄せ、唇を割って、大人の口付けを繰り返した。初めてだろうキョーコの震えた優しい舌の反応がする。そっとそれを吸い上げた。

甘い甘い味がした。

「甘い・・・・」

唇を離した後の、照れたキョーコの反応がとても可愛かった。

「卒業おめでとう。大人の仲間入り、少し、しただろう?」

キョーコが怒るのが目に見えていたから、蓮は、さっさと廊下へ足を向けた。

「さぁ帰ろう・・・白い椿ももらった事だし?夜は・・・長いよね、まだ春前だし。大人の仲間入り、しっかり教えてあげようか?」

冗談を言ったつもりだったんだけれど。キョーコはまた固まって、動かなくなった。そんなに一気に手を出したら、止まれなくなる。

これからゆっくり時間をかけて、いつか真っ白で綺麗なオレだけの姫に・・・。








2005年春頃作成

2020.12.05