結婚前にかかる不安という名の心の状態を、マリッジブルーと言うらしい。
「ねえ、敦賀さん」
「何?」
「これまでどの位の女の人とお付き合いしたの?」
「さあ?」
「分からないくらい?」
「そうだね」
「ふうん」
キョーコは唇を尖らせた。
「君は?」
「知っているでしょう?」
キョーコはさらに唇を前に突き出し、むっとした顔をした。
蓮がその唇を元に戻すために、自らの唇でキョーコの唇を押した。
あっという間に可愛らしいキョーコの元通りの唇の形に戻った。
そして、顔から湯気が出て、シュウ、と音がしそうな程真っ赤になった。
「キョーコ」
蓮は優しくそう呼んで、もう一度唇を寄せようとした。
キョーコは蓮の唇をそっと両手で押さえて戻す。
「やです」
「なんで?久しぶりに会った恋人に触れたいだけ。もう嫌になった?」
「・・・いいえ」
「よかった」
にっこり、と、至近距離で笑った蓮に、キョーコは照れて少し俯いた。
恋人、と言われて、そういえばそんな感じの関係だった、と、思った。
慣れない。困ってしまう。結婚を予定する相手とはいえ。
蓮はキョーコにキスする事を諦めて、目の前の水の入ったグラスに口を付けた。
その様子をキョーコがじっと見つめる。
「何?」
蓮はグラスをテーブルに置きながらキョーコに言った。
「なんでそんなにたくさんの人と・・・」
キョーコは問おうと思い、途中でやめた。
聞いたところで嫉妬しかしない気がする。
「たくさん数を打てば当たると思っていたわけではないし毎回大事にしたんだよ」
「・・・」
「一人一人、それぞれタイプが違ったし」
「でも別れた。敦賀さんは毎回大事にしたけど」
「そうだね」
「私も・・・いつかその中に、入る可能性があると言う事ですよね?」
蓮は眉毛を少しだけ動かして、面白そうに顔だけ笑った。
「笑った!ヒドイ」
「オレは彼女たちに結婚しようとは言った事無いよ?」
「私は無理やり親が決めただけで。毎回こうして来るもの拒まずなんですね」
「そういう訳ではないけど。数に当たりたかった訳でも、大事にしたくなかったわけでもない。いつかどこかで、共に進みたいと思う理想に会えるだろうと思っていただけ。その人がどこにいてどこに住んでいるかなんて、分からないじゃないか。だから会ってみるしかない。そして君に会った」
蓮はキョーコの髪にそっと触れた。
キョーコは蓮から視線を外した。
「嘘ばっかり。私の顔どころか名前さえ見もしないで結婚しようとしたのに」
「はは、そうだったね」
「恋愛を、諦めてたの? 」
「いいや?いつもうまくいけばいいと思ってた」
「敦賀さんは・・・そうして沢山の人の中から完璧な人を求めてきたの?」
「完璧な人なんてどこにもいないよ」
「そう?」
「オレに出来ない事だらけなのに。相手と共に進む方向と距離が同じなら進めるかなと思ってた。でも中々うまくいかないものだね。次はうまくいくかもしれない。そう思っていたら数が重なっただけで。でも君との恋愛が一番好き。そんな事想う前に好きだった。こんなに誰かを好きになれるとは思ってなかった」
「・・・」
――私にはその蓮の思う何かの方向性が同じだと思ったのかしら・・・
「恋愛から結婚に変わっただけで、これから結婚も方向性が違えば何度もバツをつけるの?」
「それは嫌だな。君が他の誰かを好きになるとか、うまくいかなくなるなんて想像したくない。君との恋愛は今までと全然違う。なんていうか欲ばかり」
蓮は思わずキョーコの感じている不安を全て振り切るべくキョーコの唇を食んだ。
キョーコが蓮との恋にこんなに疑いを持つ。愛が足りないと感じているのかもしれないと蓮は思った。
逃げるキョーコの体を腕を回して引き寄せた。
苦しそうに息を吐きだし、 唇を離したキョーコは、またしばらく目を伏せたまま黙っていた。蓮のシャツの裾の一部を表にしたり、裏にしたりして遊んでいた。
「ねえ、敦賀さんは昔の人、引きずったりしてないの?」
「残念ながらないね」
「私と別れても引きずらないね」
蓮はキョーコの頬を手で数度撫でた。
キョーコがくすぐったそうに首をすくめた。
「オレへの愛の告白か口説き文句にしか聞こえないけど。どうもありがとう」
「・・・・。前向き」
「そうかな。君は初恋のヤツ、まだ引きずってる?」
キョーコは何かを言おうとしたけれども、蓮はその答えを聞かずに口づけた。
キョーコの唇が逃げるから、もっと深くキョーコの唇に口づける。
自らの問いにも答えられないくらいに。
答えなんて聞きたくない。答えがイエスでもノーでも嫉妬する。
キョーコの心に残された誰かの恋の楔がつけた傷はあまりに深い。
だからこんなに愛し合っていても蓮との恋に随分と疑いを抱くのだ。
「私、すごく、大事にされているって感じがするけど」
「もちろん。誰よりも大事にしてる」
「本当に結婚するの?私と」
「急いでは無いよ。形にこだわっているわけじゃない。恋人でもいいよ。きちんとした形の方が良ければ結婚でもいいし、婚約でもいい」
「結婚するまでずっとハラハラするんだわ、私」
「そうかなあ?それはオレのような気もするけど。どこにもいかないで」
「・・・くすくす、ありがと」
今度はキョーコが蓮に口づけた。
長く、長く、長く・・・互いを引き寄せて。
「キョーコ。早く結婚しよう?」
「形にこだわらないと言いながら、会うと毎回言うのね」
「毎回言わないと君はアメリカで他の男の元へ行ってしまいそうだから。いつオレが見限られるか分からない」
蓮は、ああ嫌だ、と言いたげな息を吐きだした。
「ふふ、敦賀さんでも心配になる?」
「もちろん」
「ホントに?」
「キョーコ、こんなに質問攻めにしなくても、キスして抱き合って、好きと言えば、オレの事も気持ちも、全部分かると思うよ」
蓮はキョーコの顔に手を添える。
「他の人とは途中で変だと思ったの?」
「・・・どちらかというと相手の方がそう思ったみたいだね、残念だけど」
「ふうん?敦賀さん、実は何か変なクセとか変な好みがあるとか?」
「え?」
「そうじゃないならいいけど。どうしてそんなにたくさん見限られたのかと思って」
「普通だと思うけど。自分ではね。女の子から見て変なクセがあるなら見限る前に言って。見限られる前に直すから」
蓮は苦笑いでそう言った。
「違うと思うな。多分」
キョーコは、目を伏せて、ふふ、と、笑った。
その理由はわかる気がする。
「敦賀さんは、いつも大事にしていたんだと思う。でも、きっと・・・・その・・・みんな、敦賀さんがいつも夢中で見つめている仕事の女神には勝てないと思ったんだと思う」
「・・・仕事の女神、ねえ?そんなのいる?やる事やっているだけだけど」
「だけど優先だもの。・・・私より」
蓮は目を細めて、優しく笑った。
「オレに言いたかった事はそれ?」
「違うけど」
「じゃあ何?」
「一生大事にしてくれる?」
「もちろん」
「仕事の女神より?」
「はは」
「ホラ。ね?仕事の女神は本当に魅力的なんだわ」
キョーコは言いながら、ぷくう、と、頬を膨らませた。こんな面倒な事を言った歴代の彼女たちとはうまくいかなかったに違いないと思う。それでも、長い間共にするなら一度は言っておかないと。
「オレ、君にすごく愛されてるんだね」
「なんでそうなるの?」
「仕事の女神なんて架空のものにまで嫉妬してくれるんだろ?」
「・・・・本当に前向き」
「オレは君が好きだよ」
「・・・アリガト」
「君は?」
「・・・・好きよ」
「じゃ、それでいいだろう?」
「うん」
すっかり大人しくなったキョーコを見て蓮は面白そうに笑う。
そして、腕の中に入れて、再度、「結婚しよう」と言った。
うなづいたキョーコの額が、蓮の胸で擦れた。
まるで犬を撫でるように、蓮はキョーコの髪を両手で撫で、わしゃわしゃ、と、崩した。そしてそれを直すように、また両手で頭を撫で続けた。
キョーコは、顔を上げずに、ぎゅ、と、蓮の体を両腕で抱きしめた。
「アメリカに時々来て」
と、キョーコが言った。
「うん」
と蓮が言って、キョーコの顔を手で触れた。
「寂しい?」
「寂しくなんてない」
「意地っ張りだね」
「他の男が入ってきていないか抜き打ちで見に来て」
「そうだね・・・もし君の部屋に他の男がいたらオレ、本当に何するか分からないな」
蓮は笑いながら言った。
「勉強し続けているからそんな時間無いけど」
「だといいけどね。でもやっぱり何かに打ち込む女の子は魅力的だと思うよ」
「惚れ直しに来てね」
「分かったよ。ねえ、さっきからオレは君に口説かれ続けていると思うんだけど。そろそろもっとしてもいい?もっとストレートに好きと言って欲しいかな」
「・・・」
キョーコは真顔で蓮を見上げた。
情緒の欠片もない顔。
蓮は笑いながらキョーコの唇をまた食み始めた。
2019.6.9