Another Raining Day(Raining Epilogue)

とある雨の日。

「社長。」

 秘書の社が、コーヒーを持ちながら部屋に入ってきた。蓮が入り口へ視線を上げる。

「会長から、明日は家に寄るように、とメールが入っていました。」

「分かった。」

 蓮は受け取ったコーヒーを口にした。ふぅ、と一つ息を吐く。

 その様子を見て、社は蓮が普段吸わないタバコを吸っていたという噂を思い出した。

 蓮が喫煙ルームに行き、普段は吸わないタバコを一人物思いに耽り吸っている姿を見た社員たちが、少々の疑問と気遣い的な心配をさせたようで、最終的に社の耳にも届いた、という訳だ。

 社は、社内で上がってきていたそんな噂を確かめるべく、

「社長がタバコを吸っている姿を初めて見た社員達が不思議がっていましたよ。」

 と言った。

 蓮は、あぁ、と嘆息をもらし、

「考え事をずっとしていたので…気分転換にですよ。」

 と答えた。特に吸った事に意味は無い。

近場に自然がある憩いの場もないし、今日は雨だ。仕方なく社屋内で大きく息を吸い、大きく吐く、そんな動作をするのに喫煙ルームが最も適所だったというだけだ。ただそれで皆を不安にさせたなら、上に立つ者としてあまり歓迎される事ではない。

「最近はあまりいい夢を見られていないのですか?」

「ふ・・・どうでしょう。」

 蓮は笑みを浮かべ、その問いへの返答は避けた。

 キョーコと会っていない訳ではない。しかし三月も半ば、会社的なスケジュールが立て込んでいたから、ゆっくりした気分では会っていない。それでも、先日キョーコと会っている時、蓮がふと漏らしてしまった迷いの言葉に、キョーコが意見してくれたこともある。同じ目線で正直に答え、考えてくれる人物が傍にいる事がありがたかった。

「キョーコさん、お呼びしましょうか?」

「いや、結構です。」

 蓮は再度書類に目を落とした。

その晩社は本当にキョーコを呼んだようだった。
キョーコは自ら作った食事の前で、猫と戯れながらソファに座っていた。

「おかえりなさい。」

 キョーコはにっこり笑った。呼ばれた事を嬉しく思ったようで、機嫌が良かった。

「社さんだろう?君を呼んだのは。」

「敦賀さんの調子が悪いからって。勝手に食事なんて作ったりして、甲斐甲斐しいような事をする女は嫌いでしたか?」

「いや。嬉しいよ。」

 蓮が漏らした微笑みはそれは綺麗で、思わずキョーコは照れて下を向いた。

 気持ちを通わせて以来、どうも立場は逆転してしまったようで、蓮に勝てない。その微笑みと話術、そして情緒ある口付け。

「どうした?」

「いえ・・・。」

 何でも持っていて何でも自分で出来るこの男が、なぜ自分を選んだのかは分からないが、確かに食事面だけは自分の手が必要な気がした。全く自分の事には無頓着で、このまま大きな重圧のかかる仕事をし続けていたら、身を削り、蝕むだけのように思えた。

「敦賀さん、しっかり食べていますか?」

 なんだか恋人同士というよりは世話焼き係のようで、それに気付いて少しだけ寂しくなった。

 あの日以来、蓮はキョーコに口付けはするものの、手出しはしなかった。それは蓮の優しさと気遣いだった。けれどもキョーコにとっては、子供扱いされているようにしか思えなかった。 

「明日、学校を卒業するんです。」

 食事が終わり、のんびりと書類に目を通し続けている蓮にそう言った。

「おめでとう。」

 蓮はにっこりと笑ってそう言った。それ以上は何も言わなかった。キョーコはもう少し何か言って欲しかった。

「大学は、四月二日に始まります。」

「うん。」

 単純な会話のやり取りを続けている事に、キョーコは徐々に不満を覚えた。

「敦賀さん。」

「・・・・・?」

 少し声を大きくして呼んだキョーコに、ようやく蓮は書類から目を上げ、キョーコを見つめた。

「・・・・・・・・・。」

 しかし子供っぽいワガママを言いそうになっていたことに気付き、キョーコは口をつぐんだ。子供だと思われそう、そう思ったら、言えなくなった。

「どうした?」

 蓮は、言葉で一つ一つ確認するかのように、いつも、どうした、と聞く。

 口をつぐんでしまったキョーコの髪をそっと撫でて、

「何か、悩んでいるの?」

と優しく聞き返した。
キョーコは本当の事など言えなかった。
まさか、もう少しだけ私を見て、などと。
最初から分かっていた事だ。普段から多忙を極める蓮が、三月に入り、どれだけ忙しいか。自分が理解してあげなければ、誰も彼を理解する者などいないのに、それでも言ってしまいそうになる。

「いつものように可愛いワガママを、言ってくれなくなったね。」

蓮は少しだけ寂しそうに言った。

「・・・・・・・・・。」

 ワガママを言いたい、言いたくない。言いたい、言いたくない・・・。

 本音と建前を全てかみ殺しながらじっと蓮を見つめるキョーコを、そっと蓮は抱きしめて言った。

「早く、卒業しておいで。」

「・・・はい。」

卒業をしたら、永久就職をしにおいで、と言ったのは蓮だった。話の流れで半ば強引にそう言った事を分かっていた。だから蓮はそれ以来、そのことに触れる事は無かった。

キョーコも、結婚についてナイーブにならないようにと気遣う蓮の優しさに気付いている。だから、蓮を受け入れる、という意味で、今「はい」と答えた。

蓮はキョーコの唇に、その言葉と真意を確かめるようにそっと口付ける。キョーコの目は、すぐに涙で溢れた。目を伏せたキョーコの頭を、蓮はその手で抱え、自分の胸にキョーコを入れた。

キョーコはとても強がりで、子供な姿を自分に見せたくないのだと、蓮は思う。

そんなキョーコに、蓮は少しだけじれったさを感じる。自分を思いやるが故に、本音を言わないキョーコに。

 胸の中で、動かない彼女を腕に抱しめると、尚更動かなくなった。その短い髪に指を入れて、撫で続けた。

 キョーコは、しばらくの間、蓮のシャツのボタンを指で摘んでは離し、クルクル回しては離した。

「会えない間、君以外の子と、なんて事はないよ。」

 問われていないのに、蓮は口にした。 

キョーコは、
「違います、そんな事疑っていません」
ぽつりと言った。そして、

「敦賀さん、このボタン、私に下さい。」

 そう言って、キョーコは蓮の白シャツのボタンを引っ張った。

「いいけど・・・」

 蓮はキョーコが言った真意を正確には分かっていなかった。シャツ一枚なんてどうにでもなる、そう思っただけだ。

「第二ボタン・・・女子校だから、もらえる人いないです・・・。お祝いに下さい・・・。」

強く引っ張る。

・・・プツン、と糸が切れた。

キョーコの手の中にそれは落ちた。

「ふふ・・・。代えのボタン、あとで付けますね。」

「・・・・・。」

「でも・・・初めて、誰かの第二ボタンを貰いました。」

 ボタン一つに、大事な意味が詰まっているらしい。

キョーコはそんな千切れたボタン一つをとても大事そうに見つめている。何かとても大事な事を自分は知らないのだと思った。

「ボタンにどういう意味があるの?」

「うふふ。」

 キョーコは、嬉しそうに微笑んだだけで、答えなかった。

蓮は、今その意味を正しく理解できない事がとても残念だった。

 もともと外されていた第一ボタン。無くなった第二ボタン。蓮の肌が広く覗いていて、どこからか香水の柔らかい香りがする。キョーコは一ヶ月前のある晩を思い出し、恥ずかしくて蓮から身体を離した。

「キョーコ。」

 しかし蓮は離れたキョーコを抱き戻して、再度口付ける。割った唇は、どうやっても本音を語らない。

 じれったさで、蓮はキョーコの唇を深く探った。キョーコにとって、願ったような、熱く余裕の無い蓮の感情と唇。キョーコもそれに応えた。

 そしてしばらく本気で口付けていた蓮が、キョーコの唇を離し、身体をそっと押し返した。

「ごめん・・・。」

「・・・・・・・・・。」

「今は抱くつもりは、ないんだ・・・・。」

「・・・・・・。」

「前に抱いて、後悔したから。もっとゆっくり待ってあげればよかった。もっと、優しくしてあげられたかもしれない。もっと・・・」

「あの・・・敦賀さんは子ども扱いしなくて・・・嘘偽り無く本気で私を大事にしてくれました。すごく嬉しかった・・・。私を、単なるキョーコとして、とても愛してくれました・・・。今もこうして、とても大事にしてくれて・・・あの、その・・・・。」

「キョーコ・・・。」

「あと、一日だけ、待っていてください。明日の夜は、先生がお祝いを開いてくれるって言ってくださったので・・・あの・・・・。」

 キョーコが言いにくそうにしたから、蓮はしばらくの間、ぽかん、と、キョーコを見つめた。そしてその後、その真意を汲み取って、心から愛しそうに微笑んで、もう一度優しく抱しめた。

「・・・本当はこんなに大人ぶった事を言わないで、君と今すぐ恋愛をしたいんだ。こんな雨の日は、ね。」

 キョーコの滑らかな肌に指を滑らせて、喉元に唇を寄せた。

「あ、雨の日だけ・・・?」

「晴れた日でも何でも、ね・・・。」

「じゃあ・・・じゃあ・・・許してあげる・・・。」

「・・・ご機嫌斜めはもう直ったかな・・・お嬢さん。」

キョーコは、甘えたように蓮の胸もう一度顔を寄せて、「子供じゃないもん。」と、自分でも驚くような、まるで子供のような甘い声が出て、それでも強情にそう言い張った。

「はいはい、そうだね、お嬢さん・・・。」

 自然でいられるその腕の中、抱しめてくれる腕の中だけは、絶えず陽だまりのようだ。とても優しく、温かい。 キョーコは優しく愛される喜びを覚えた。

 蓮は次の日、「第二ボタン」の本当の意味を社に教わった。そして蓮は、クーが開いた祝いの席に、以前キョーコを抱えて濡れた覚えのあるスーツを着た。そして部屋に帰り、その第二ボタンを惜しげもなく引きちぎると、

「君に出会ったときのスーツのボタンだよ」

と言って渡した。キョーコは「すごくいいスーツなのに!」と驚いて言った。
思い出と共に一生大事に取っておくだろうと思った。

「でも・・・スーツの第二ボタンじゃ、ハートに近くないね。」

 そんな事を言う蓮の唇を、久しぶりにキョーコは強引に塞いだ。

その晩互いの腕の中で、大事に大事に、心から愛し合い、触れ合ったのは、二人にとって当然のことだった。

(FIN)





2007年11月頃作 
2019.6.8改稿 



本のための書き下ろしです。初めて載せておきます。だいぶ直しました。