Raining Day 5






「結婚を、断りたいんです。」

蓮は、会長と二人きりの部屋で、そう切り出した。

会長は、表情を変えない。蓮の次の言葉を待っていた。

「どうした。」

蓮が次の言葉を言わなかったから、仕方なく会長・・・蓮の父親の・・・は、言った。

「相手を愛せる自信が、無くなったんです。大丈夫だと、思ったのですが・・・。」
「最近、お前が毎晩、不思議な夢を、見ていて、とても柔和だというのは社君から報告を受けて聞いてはいるが・・・それかな。」
「・・・・えぇ・・・。」
「相手は?」
「・・・・さぁ・・・名前しか知らない。素性も連絡先も何も知らないんです。しかも、高校生だ。もうすぐ、卒業だと、言っていました。」
「・・・・・・・私が、何を言いたいかは、分かっているのだろう?」
「はい、恋の一時の感情など感傷に過ぎない、と仰りたいのでしょう?」
「私を何だと思ってる。いくら取引先とはいえ、お前が結婚を素直に受けると思っていなかったから、心配していたんだ。よく考えてみろ。お前が三十になればその子は二十六だろう。別におかしい事など少しもないし、今、高校生だからと言って、だからどう、とは言わんよ。例え感傷だったとして、その子とのちのち縁が無くなったとしても、それはそれだ。ただ素性だけは調べさせて貰うがね。」
「・・・素性を、知りたいのか、知りたくないのかも、自分でも分からないんです。いつもなら社さんに「調べておいて」と言えるのに、今回は、なぜ彼女が素性を全く話さないのか、聞きたいようで聞けないんです。いつかそれを彼女の口から直接聞きたいような気がして・・・。」
「ふ・・・。お前が恋わずらい中だなんて、思いもよらなかったよ。最近食欲が落ちているのはそのせいか?」
「いえ・・・雨に濡れて・・・単なる風邪です。」
「・・・雨?・・・まあ・・・しかし断る理由は何でも適当に繕えるがね・・・。」
「はい。」


*****


蓮自身が、自ら気付かないようにしていた事・・・気付いてはいけなかったのは、冷静になれない自分がいる事、だった。

自我など心の奥底にしまっておけば良い。寧ろ無い方が良い。その方がより良い判断が出来る。

が、それをキョーコがあっさりと突き崩し、気付かせた。

一度本当の自分の心に気付けば、結婚を受け入れるなど、到底信じがたい選択だった。心の奥底では結婚などまだしたくないと思っていたはずだ。しかし、親以外の他人が自分を分かってくれる事などあるはずがないのだと思ったし、大人になり利害が絡み、まるで子供のような純粋な恋など出来るはずもない、いや、しようとも思わなかったから・・・そう決め付けた。ある意味とても純粋な心を持っていたとも言えるだろう。

子供なら素直にそれが欲しいと望む。大人は望んでも手に入らないのならば、諦める事も知っている。そのうち望みもせずに最初から諦めるようになった。だから、結婚どころか恋愛などに興味は無かった(というよりかは無くなった)し、一生結婚しないならしないでもいいし、するならするで、別にいつしてもいいという選択に至った。彼女に自分のある意味での主体性の無さを責められた時、確かにそうだと納得した。

自分の感情を全て封印したのはいつだったのか・・・それすら思い出せない。

彼女は言った。「恋愛は、もうしないの?」と。

その言葉の意味が、じわり、じわり、と蓮の身体を侵食し、全身に彼女の蜜と毒が巡り始めている。

昨晩眠る前、キョーコが蓮に言った。

「敦賀サンて、優しいけど、紳士で物分りのいいフリしているだけなのね。社長業やりすぎて、感情の起伏、無くなっちゃったんじゃない?」
「そんなこと・・・ないよ。」
「だって、テレビでは紳士だっていうし・・・とっても穏やかだと思っていたから・・・。」

キョーコは照れながら、顔を勢いよく枕に押し付けた。

「そうかな・・・。君がそういうなら、そうなのかな。」
「そうよ。」
「・・・その・・・身体は大丈夫?」
「うん。大丈夫。本当は、というか本当に優しいんだ。」
「・・・君みたいな子、初めてだから・・・戸惑ってる。」
「大丈夫、貴方の情緒は心地いい。それにね、女は丈夫にできているのよ。」

蓮は、キョーコと話している時、今まで付き合ってきた子達とは、どこか違う、年下なのにも関わらず、彼女に、対等かそれ以上の不思議な感覚を覚える。精神年齢的には対等若しくは彼女の方が大人な部分もあるのだろう。

「そうかな。無理しないで。君もあの雨に当たっていたんだから・・・風邪引かないように・・・。」
「うん。ありがと、敦賀サン。でも貴方から・・・風邪、うつされて、もう貰ってしまったかもね。」

そう言ってキョーコは笑う。
蓮は、キョーコの髪を摘んだ。

「ねぇ。そろそろ君の素性を教えてくれてもいいと思うんだけど。」
「結婚しちゃう男の人になんて教えてあげないっ。」
「・・・・・・。」

キョーコは、本気ではなかったけれど、ぷい、と顔を背け、頬を膨らませた。

蓮は自分のずるさを責められているような気がして、何と言っていいか分からなかった。

キョーコは、蓮の反応が無いから、そろそろと視線を戻す。

「・・・もう、ずるいっ。そんな顔しないで。」
「・・・・・。」
「敦賀サンは・・・私が、どこの誰で、どんな学校に通っていて、どんな生活を送っていても・・・私を愛すといってくれたかしら?」
「何故?犯罪者だとか?」
「違うけど・・・。」
「君が身体に纏っている条件とやらを、オレが自由にしてあげようか?」
「どうやって?」
「それらを全部忘れて、オレと恋愛しよう。もう一生ただのキョーコと蓮でいいだろう?」
「それ、ずるいっ、私の言葉の受け売りじゃない!」

蓮は可愛く膨れたキョーコの髪を撫でる。
撫でながら、この強がりで大きな目を、とても可愛いと、思う。そして今の彼女が本当の彼女だとも思う。まるで愛猫のように甘えてずっと蓮の手をさすり、握り続けていた。

こんなに、誰かと本音で話をしたのは、いつぶりだっただろう、と蓮は思った。誰も自分にこうして踏み込まないかわりに、否定もされない。他人に興味が無かった分、自分も他人との係わりを拒絶していたのだろうか。それとも立場がそうさせるのだろうか。

記憶を探るも思い出せない自分に少しだけ寂しさを感じて、今の時間がとてもとても大事な事のように思えた。


「ふ・・・。君は、どこまでも前向きで、元気だね。」


蓮が静かに言うと、キョーコはしばらくの間、蓮を見つめた。何を言おうと考えているようだった。


「・・・前向きかな・・・よくわかんない。ただ、思った通りに行動するだけ。」
「オレに最良の選択を迫る割には君も自分の事に無頓着だよね・・・。どうして道の真ん中になんていたの。」
「そうね、急すぎたみたい、大人になることに・・・。気の迷いではないの。思う事があっただけ。でも今は、ちょっとだけ幸せ。貴方に引かれなくて良かったと思ってる。」
「ちょっとだけ?」
「・・・どうしてそういう事を。」

キョーコは蓮の耳たぶを摘み、ぎゅうと横に引いてみる。
蓮は目を伏せて穏やかに「やめなさい」と言って笑う。

「男は確認をしたい生き物なんだ。言葉にして・・・聞いて、確認をして・・・。」
「ねえ、じゃあ、教えて。」
「うん?」
「どうして、結婚するのに、私にこういうことできるの?それが、貴方の最良の選択だったの?」
「・・・・・分からない。」
「・・・わ・・・さすがね・・・。」
「違うって。分からないのは、自分の心の中。珍しく決断を迷った。君を大事にしてあげるなら、こうしない方が良いと思った。それは善意のオレ。」

蓮はキョーコの頬を撫でる。
撫でられたキョーコはじっと蓮の続く言葉を待っている。表情は動かない。次にくる言葉はいい事では無い事は分かっているが、蓮が言っていいのかどうなのか迷っている風だったから、キョーコから先を促した。

「・・・悪意の貴方は?」
「君が目の前でオレを求めているなら、いいじゃないか・・・って・・・。」
「・・・・・・・。」
「どちらの選択肢を取るか迷って・・・君の「本気だもん」の一言で、どちらも選択しないことを選択する事にしたんだ。」
「どういう、意味・・・?」
「オレが、君だけを大事にするなら、どちらも選ばずに済む。」
「・・・・・・・・え?」
「明日・・・結婚の断りを入れようかなって思って・・・。」
「・・・私を、思い合ってない恋人から思い合っている恋人の地位に・・・上げてくれるってこと・・・?」
「初めて誰かを、この手に入れてみたいと思ったんだ・・・。」
「ふふ・・・。嬉しい。嬉しいから、もう、眠って?」


キョーコが、蓮の唇にゆっくりと心を確かめるように情緒ある口付けを繰り返す。蓮もゆるゆると、力の抜けた身体でそれを受け止める。


キョーコは、「ワガママな子供の相手をして疲れたでしょう?眠って下さい。」と、蓮を愛しそうに見つめて、髪を優しく撫で続けた。


そして、蓮が眠りに落ちるまで髪を撫で続けていた感覚が、その日の蓮の最後の記憶になった。


*****


朝目覚めた時には、もうキョーコの姿は横に無かった。

蓮は、多分そうだろうとは思っていたから、何ら焦りもせず、彼女らしい、とだけ思った。猫が朝ごはんを食べさせて貰ったようで満足したのだろう、もうソファでのんびりしていた。だから彼女が夢でも幻でもなかったと思えただけ良かったと、独りよがりな満足の仕方をした。

キョーコは、恋愛と、結婚が一緒になるときまで自分を恋人に見立てればいいじゃない、と言った。が、蓮は当初数日傍にいて、とだけ言った。どうして、数日だけなどと言ったのだろう、彼女を試していたのかもしれない、とは思う。彼女の自分への本気の様を、引き出したかった言葉の「あや」だったのだと思う。


そして次々と彼女との不思議なやりとりが思い浮かぶ。眠る前に見えた、まるで聖母のような穏やかで静かな顔、出会ったときのあの血走るかのような強い目。それが脳裏を交差して、一体どれが彼女の本当なのだろうと思う。そして、彼女への愛しさだけが、最後に身体の中に残った。


次に会えるなら、ずっと傍にいてと伝えたい。


しかし彼女はいつ来るのか、どこからやってくるのかも分からない。

素性や住まいを調べておいてと、どうして言えないのだろう、こんな時まで紳士なフリをしなくてもいいのにと思って、ふと笑いがこみ上げて、再び社から、「不思議な夢、また見られたのですね」という一言が添えられた。


そして、朝、父親に、断りの意思を伝えた。
夜八時、その日も蓮は愛猫と戯れた。


彼女が昨晩、猫の入っていた箱を見つけて、雨に滲んだ字で書かれた「可愛がってあげてください」の文字に気付くと、自分の顔の前に持ってきて、「ねぇねぇ♪」と無邪気そうにそう言って笑ったのを思い出していた。


誰の声もしない風景が、妙に寂しく感じたのは、気のせいではなかった。










2007.11.10