「社長。どうかしたんですか。」
秘書の社が、思わず声を掛けた。
「何がです?」
「いえ、思い出し笑いをされる社長なんて初めて見ましたので・・・。」
「笑っていましたか?それはいけないな。このあとの会議に響く。」
「何かいい事でもあったんですか?」
「いい事・・・?」
不思議少女との昨日の一連の事を考えていただけだ。まるで何かの夢か幻かとでも遊んでいたかのような、不思議な感覚。ひらひら舞う蝶とでも遊んでいたかのよう。
「・・・・そんなのじゃないですね。」
「新しい彼女でも出来ましたか。」
「いいえ?」
「そうですか、それならいいんです。社長のプライベートタイムを増やすよう、予定を組み直さねばならないかと思っただけです。」
社はわざとらしくかけている眼鏡の位置を直し、手帳を開いた。今日の予定を淡々と告げていく。
「・・・以上で、今日の夜は会長と会食後、八時にご帰宅です。」
昨晩と同じ帰宅時間。あの不思議少女は、何かをずっと見つめていた。その様子を自分が止めてしまったから、また今日もあの場に立っているかもしれない。もしかしたらあの場で、あんな様子だったとしても、誰かと待ち合わせていたのかもしれない・・・。
ふ・・・・と笑顔が浮かんだのを、社が再び捉えて、「思い出し笑い、今日で二度目です」、と告げた。
「・・・・・・・・。」
なぜこんなに自分でも引きずっているのだろう。珍しくプライベートを仕事時間に持ち込んでいる事に気付き、蓮も一度ふぅ、と息を吐く。
「昨晩は随分とおかしな夢を見たんですよ。」
そう言って、蓮は再び笑みを浮かべた。
*****
その日の晩も、雨が降った。
蓮は自宅近くまで来て、思わず徐行運転などしてみる。車の光が捉えるモノは何もなかった。やはり随分と実体感のある夢か幻でも見たのかと思って、駐車場から自宅階まで上がる。
エレベーターを降りると、そこに昨日の少女がまた足を抱えて座っていた。
今日は通っているだろう高校の制服を着ていた。
「君・・・・・・どうやってここまで入った・・・?」
蓮がエレベーターから降りてきたのに気付いた少女は、蓮を見るなり勢いよく立ち上がり、
「コレ。」
と言って右手を差し出した。手には茶封筒が握られている。
「・・・・・・・?」
「クリーニング代。一万円じゃ足りませんか。それともスーツ、もう着られない?」
「・・・要らないよ。君を抱き上げた時点で、濡れる事も当然承知の上だ。それにね、高校生にクリーニング代を恵んで貰わねばならない程、会社も社長業も落ちぶれてない。」
「タダより高いモノはないんです。私のキスじゃクリーニング屋さん、染み抜きも、お洗濯すらしてくれないから。」
相変わらず不思議な理論で、少女はその手にしていた封筒と、昨日蓮が渡した傘を蓮の手に押し込める。そして機嫌よく、閉じてある真ピンクの傘の柄をもって、くるり、と宙を一回転させた。
「敦賀蓮、サン。」
「・・・・・・・・?」
「ねぇ、貴方、一人で帰ってきましたけど、今、お付き合いをしている彼女とか、いないんですか?」
「・・・・・何?」
「いるの?いないの?」
「・・・・・君が言う「彼女」というのがどういうのを指しているのか分からないけど・・・所謂「互いに思いあっていて大事にしている恋人」だと定義するなら、いないけど。」
「ふぅん・・・。「思いあってない、恋人」はいるんだ?だから私のキスも平気だったんだ?」
少女は試すように蓮の目を覗きこんだ。蓮の表情は動かない。
「オレに恋人がいたら何かあるのか。まさか君がオレの事を好いていくれている、なんてオチは無いだろうしね。で。君は、どこの誰で、オレに何の用なんだ。」
「用なんて無い。街の通行人A。」
「・・・じゃあ君の中でオレは何の役なんだ。」
「貴方は、大会社の超有名社長。でも、元のお仕事の、役者だとかモデルの方が好きで、そのうち今の会社は誰かに預けて、それに戻るために海外に帰りたいと思ってる。どうでしょう、合ってますか?敦賀蓮の役、うまく演じられそう?」
「・・・・・・君は、誰だ。」
「ふふ・・・だから、通りすがりの、」
「そんな事を言ってるんじゃない。おいで。」
蓮が再び強く少女の腕を引き、扉を勢いよく開けて少女の背中を押して押し込めると、
「今日は本当に監禁罪かな。」
蓮は意地悪そうに笑ってそう言った。
「んもう、痛いですっ。全然、テレビで言うような紳士な社長じゃ無いっ。」
「君の中にオレの紳士なイメージなど無くて結構。今から無理やり君を抱いて全てを吐かせてもいいけど。」
「イヤ!」
「じゃあ答えるんだ。なぜオレの事をそんなに知ってる。」
「周りに貴方の知り合いがいるだけ。私にいつも貴方の話をしてる。「紳士」で、「器量良く」、「誰にでも優しく」、「すごい切れ者」で、「女にもモテる」・・・って。誰も貴方のこと、ほっとけないって。」
「誰だ?社さんか?君は社さんの妹か彼女なのか?」
「いいえ?社さんなんて知らない。」
「・・・・・・・。」
蓮が少女の背中を押す。
「あがって。話をしよう。何が目的だ。金か?それともオレの身体?」
「ふふ・・・・必要なら請求書でも切りましょうか?もしくは貴方に抱かれてもいいですけど・・・・。」
少女は、きゃらきゃらと、可笑しそうに笑った。
*****
蓮がキッチンでお湯を沸かしていると、そこに少女も立った。
「私、お茶を淹れるの上手なんですよ?」
「へぇ?」
「信じていないでしょ!」
「いや?」
「そういえば、ご飯、もう食べました?」
「いや。会食には出席したけど・・・今日は食欲が無くてね。君のおかげで風邪を引いたようだ。」
「じゃあ、尚更食べないと!私がご飯作る♪私もまだご飯食べてないの。どうせ話、長くなるんでしょ?」
「・・・君基準なら、別にオレが食べていてもいなくても関係ないんじゃないの?」
「うるさいなっ・・・って冷蔵庫、何にも入ってない!水ばっかり!!」
少女は、開いた冷蔵庫と蓮の顔を見比べて、げんなりした。
「一人暮らしの男の冷蔵庫なんてそんなものだろう?」
「ま、そんな事もあろうかと思って。買い物してきたのっ。」
少女はすたすたとキッチンを出て、袋を抱えて戻ってきた。
「作る。」
少女がそう言った頃、お湯が沸いた。用意してあったティーポットに茶葉を落とし、湯を注ぐ。
「敦賀サン、座ってて。」
「・・・・・・。」
蓮は、少女の言動の意味が全く理解できず、黙ってその様子を見ていた。そして、
「君はオレとままごとでもしたいの?」
と、思わず口を付いて出た。
「ママゴト?いいえ?貴方は私に用事がある。私の用事はもう終わったけど・・・。お腹すいたから帰して、と言ったって、今夜は私を監禁するんでしょ?」
「・・・・でも君はオレがこうする事を分かっていたかのようにもう食材を買い込んできただろう。」
「別に・・・いいじゃない。」
少女はぷい、と顔を背けた。そして、出来た茶を、ティーカップに注いだ。
「どうぞ。」
「・・・・・タダより高いものは無いんだろ?このお茶でオレは君に何をさせられるんだ。」
「じゃあキス一つでいい。」
「・・・キスしたら訴えるんだろう?」
「ふふっ。くすくす。」
「じゃあ、何なら許されるんだ。」
「私と、付き合わない?」
「・・・・・?」
「彼女、居ないんでしょう?」
「いないけど。」
「じゃあ、いいじゃないっ。私も、彼、いないもの。」
「断る。女子高生に手を出すなんて、」
「だから言ったでしょう!私をその括りの中に入れないでって。」
「大人のつもり?」
「そうよっ。」
「大人は責任も取れるんだ。道端で引いてもらおうなんていうのはまだまだ子供だよ。人の迷惑顧みず。」
「んもう!頭が固いっ。花の女子高生の誘いはヘリクツなんて言わずに素直に受けるべきよ。」
「女子高生の括りは嫌いなんだろ。それにオレは女子高生と言われてもなんの魅力も感じない。そもそも君の名前も素性も何も知らないのに。付き合うも何も。」
「私、キョーコ。」
「字は?」
「字なんてなんだっていいじゃない。みんなが私の事をキョーコって呼ぶから、キョーコ。それ以上に何が知りたいの?」
「じゃあ、オレも君をキョーコと呼ぶとしよう。で、キョーコ。君はどうしたい?テレビで見て、オレの情報仕入れて、誰かにウチまで調べさせて、会いに来た?」
「本当に、貴方の事を良く知ってる人が私に教えてくれるだけ。」
「一体誰なんだ・・・。」
蓮は思い当たる人物を思い浮かべてみるも、自分の心の内を知っている人物などそうもいない。
「誰だって良いじゃない。それよりも、私と付き合う?」
「まるでノーの答えは受け入れないかのようだ。」
「分かった?」
また少女はきゃらきゃら、と笑った。
「君がオレの事を好きで言っているなんて到底思えないな。オレの財産か会社目当てなら、残念。オレはもう結婚するんだ。」
「スクープいただきっ。ばらしていい?高く売れそう♪」
「どうぞ。どうせあと一週間後には好き勝手書かれる。」
「つまんないの!」
「ふ・・・・。だから、オレと付き合ったところで君は即、愛人決定。しかも女子高生だなんて、オレの今後の記事は一体どんなになるやら。考えただけで人間破綻しそうだから、やめておくよ。残念だったね。」
「でも、貴方の口ぶりを聞いていると・・・その結婚だってまるで仕事を一つこなすような口ぶりじゃない。」
「別に・・・結婚に夢など見てない。オレの立場上、沢山居るんだ。金目当ての女の子なんて。俺を見ているのか会社を見ているのか・・・そんな事いちいち判別して疑うのも面倒だから、紹介された結婚を受ける事にしたんだ。実際恋愛は別の所にあるし、オレの妻のポジションに納まる誰かが居るなら、それを愛すだけだ。相手もどうやらビジネスウーマンらしいしね。相当な切れ者だと聞いた。タッグを組むのか・・・もしくはオレを使いたいんだろう。最初から政略結婚だと思って恋愛した方がよほど楽だよ。」
「冷たいな~~~~~。」
「でも一週間だけなら君と付き合ってもいいけど。結婚してないし。」
「うわ~~~~手の内見せておいて、そんな事をヌケヌケと言うなんて、本当にイヤな男。」
「ね?オレと付き合うなんて興味なくなっただろ?」
「さぁ、くすくす。せっかくだから、貴方の情緒あるキスを受けてみてもいいかなって、ちょっとだけ思ってたところ。だって、今後その奥さんには義務でキスするんでしょ?私と一緒じゃない!支払いのキス~~~♪」
「・・・・・・・・ふむ。」
「?」
「いや、なるほどなって。確かにそうだね。意図も利害も何も全く分からない君になら久しぶりに情緒あるキスもできそうだな。」
蓮がじっ、とキョーコを見つめる。キョーコは冗談で言ったつもりだったのに、本当にそう言われるとは思わず多少びっくりして、見つめて無言になる。
「君がオレを誘ったんだろ。」
「そうね。あ、ご飯。」
「・・・・・ご飯でごまかすつもりなんだ?もしかして、口だけだった?」
立ち上がった蓮は、キョーコの横に立つ。キョーコは持っていた包丁の刃を蓮に向けると、
「私を犯罪者にさせたいなら、どうぞ。今はご飯を作るのよ。」
そう言って、すたすたすた、と見事な包丁捌きでねぎを刻んだ。
「へぇ・・・意外。上手いね。君はいい奥さんになれるじゃないか。」
蓮が軽くそう言うと、キョーコは何故か腹を立てた。
「何?」
「いいえ。いい奥さんになんてなりたくもないし、なれません。」
「そう?なろうと思ってなるもんじゃないだろ。周りが判断するんだから。君がどう思っていようと、ね。」
蓮はキョーコから包丁を取り上げると、くい、と昨晩のようにキョーコの顎を人差し指一本で持ち上げる。
「何するの。」
「情緒ある、キス、一週間だけ教えてあげようか。」
「刻みねぎの前で?ちっとも情緒なんて無いわ!!せめてもっとロマンチックにしてくれないと!!」
「なるほどね。・・・くすくす、それもそうだ。君の言い分に免じて今は許してあげよう。」
「貴方に許してもらわなくて結構よ!」
「くすくす、とんだワガママお嬢だな。口と気持ちと行動が全く別だ。」
蓮は可笑しそうに笑って、キョーコの髪をくしゃり、と撫でて、
「夕飯楽しみにしてる。オレはシャワーを浴びてくるから。」
そう言って出て行った。
キョーコが不思議そうに首をかしげて、撫でられた頭を、髪を、再度確かめるように撫で直したのを、蓮は気付かなかった。
*****
「ねぇ、社長業って大変?」
「いや?」
「へぇ~・・・すごいのね。」
「何が。」
「だって、貴方ぐらいの歳で一番上に立つって結構大変なんじゃないかと思っただけ。二十二でしょ?馬鹿にされない?」
「自分で自分が幾つだとか思って仕事なんてしてないから。」
「そうなんだ。」
「やる事をこなしてピラミッドの上に立ってる、それだけだ。」
「ピラミッドの上から見る風景は、眺め、いい?」
「どうかな。ただ、ピラミッドの頂点に立っていると、ピラミッドの一番下にいる者の状況や気持ちを中々把握しにくいかな。現場主義とまでは言わないけど。」
「気持ち?」
「オレに色目や建前を使わない人間で固めていかないと砂上の楼閣になりかねない。いつ寝首をかかれるか、足元すくわれるか、と思いながら・・・ピラミッドの上から皆の動きを眺めているかな。」
「・・・・・・・・。」
キョーコは蓮の言う風景を想像して、
「思ったよりもあんまりいい眺めじゃないのね。社長って望めば何でもできる凄い人なのかと思ってた。」
と言った。
「別に・・・社内の風通しが悪いわけじゃないんだけれどね。そういう危惧もある、というだけだよ。君を怖がらせてしまったかな。でも・・・一言言っておくけれど、社長と言ったって、社から一歩外に出たらただの人だよ。他の人と違う何かすごい力を持っているわけじゃないし。」
「でも貴方はモデルも出来る。天は二物を与えないって言うけど、貴方は貰いすぎだわ。」
「・・・そうだ、モデルで思い出したよ。オレは君をこれから口説き落として、どうして色々知っているのかについて聞き出さねばならなかったんだ。」
「ふふ・・・・・・・・。」
そう蓮が言うと、キョーコは立ち上がり、蓮に一度キスをした。
「情緒は無いけど。送って。」
「帰るの?」
「うん。だって、もう十時よ?女子高生を連れ込んで、日付が変わるまで、なんて記事、貴方は欲しくないでしょう?」
「・・・まったく、そういう時だけ女子高生って言うんだから。」
「うふふ・・・・・・。」
機嫌良さそうにしているキョーコを、蓮はキョーコの身体を腕の中に入れて、唇に触れて、なぞる。最大限に目を見開くキョーコがいた。
「情緒のあるキスはね、キスするだけが全てじゃない。」
指で、端から端までなぞり、柔らかなそれを押した。少しだけ、歯列が覗く。
「・・・一週間だけオレと付き合う?」
「・・・・・・。」
「君が誘ったんだ。」
蓮は、キョーコの唇を甘く噛んだ。
昨晩とは逆で、今度はキョーコがその大きな目を零れそうなほどに見開きながら、蓮の唇を眺めている。
角度を変えては甘く唇を噛み続ける蓮に、キョーコはふっ、と吐息のような何とも言えない息を吐いた。
蓮が、ニッと笑う。
キョーコが視線を逸らしたのを確認して、蓮はキョーコの唇に舌を這わせた。
指でしたのと同じように舌先で端から端までその形を捉えて、濡らす。
蓮の舌先が離れて、蓮が自分の唇をぺろり、と舐めた時、キョーコの手が、蓮のシャツの裾を弱く掴んで、ギブアップの宣言をした。蓮はその手を上から握った。
「まだ、しっかりキスしてないんだけど。」
「・・・・ひ、ひ、ひ・・・卑怯だわ・・・・!!!!」
「・・・くすくす・・・お嬢さん、お支払いのキスはもっと情緒をプラスしてね。」
目をまん丸にしたキョーコを見て、蓮は笑いながらキョーコを離すと、送るよ、と言って玄関に向かった。
昨日と同じ駅前まで送り、キョーコがシートベルトを外すと、外に出ようとした蓮の手を引いて、
「貴方に借りなんて作らないし、いらないっ。」
キョーコは、逆サイドの蓮のシートに片手を置いて身体を支えると、下から蓮の唇を食み、舌先を差し入れた。
当然蓮の目が丸くなり、また蓮はそれをなすがまま受け入れる。
蓮が、目を閉じたキョーコに気づいた時にはもう、二人は互いの柔らかな舌先を、唇を、探ぐるように貪り合っていた。
車内の密度が濃くなり、蓮の腕がキョーコのシートに置かれ、蓮の指ががキョーコの太ももに触れたとき、蓮がキョーコの身体を離した。
制服が目に入った。
「君は女子高生だったんだ。忘れてたよ。」
「私を女子高生の括りから、外して見てくれてたの?」
「君と話をしていると、年齢だとか・・・時間だとかの感覚がどうも無くなる。不思議な・・・何か幻と遊んでいる気分・・・。」
「うふふ・・・。じゃあ、またね。」
キョーコはドアを開けると、持っていた真ピンクの傘をひろげた。
その明るい傘は、くるり、と蓮に背を向けたまま一回転した。
そして振り返ることも無く軽快な足取りで駅の階段を降りていった。
蓮は、一言、
「またって・・・また来るのか。」
と言いながらも、またその顔には可笑しそうな笑みが浮かんだ。
2007.11.01