大雨が降っていた。
昨晩から続く大雨は次の日も止むことも無く一日中降り続いた。
夜になってもその勢いは止まらなかった。
敦賀蓮の車のフロントガラスは、その雨を一身に受け、ワイパーが最大限往復してその狭い視界を何とか保っていた。ドアミラーも視界が薄暗く見えにくい。
敦賀蓮が自宅マンションが見えて、心なしかほっとしたその瞬間、何かの黒い物体が目の前に見えた気がして反射的に急ブレーキを踏んだ。少しだけスリップして、高い音が鳴る。幸い自分の前後に車は無かった。
目を凝らすと、その黒い物体は、傘もささず、ただそのマンションを睨むようにして佇んでいる女だった。
そもそもひどい雨であまり気分が良いとは言えないのに、何故このような車道に、しかも真冬に傘もささずコートも着ずに立っているのだと、ぶつけどころ無い怒りがこみ上げる。
よく見ると、烏のようでもあり、今は濡れネズミのような真っ黒なワンピースを着ている。
おかげで大雨の闇夜に溶け、蓮がその喪服のようなその姿を捉えるのがあと一瞬遅かったらひいていたかもしれなかった。女はそんな車に臆する事もなく、寧ろ、引いてでも欲しいかのように動かない。
蓮は仕方なく車窓を開けた。
「・・・危ないだろう。」
女は声がした方を一瞥したが、すぐにマンションに視線を戻した。
蓮は仕方なくその女を避けるように車を走らせ、車庫に車を入れた。そして地下駐車場から普通なら自分の自宅のある階まで昇る所を、傘を差して外に出て、その女の前に立った。
「こんな大雨に・・・傘もささずにどうした。」
よく見ると、その女は二十歳前後の様子の少女だった。少女は泣いていたのか、怒っているのか、見上げた目は血走ったように赤かった。雨が涙を隠しているのだろうか。
「こんな所に立っていたら、そのうち死ぬよ。」
蓮がそう言うと、少女は感情も無い様で、「どうしてひいてくれなかったの」と言った。
「君はオレを犯罪者にしたいのか。自殺願望があるなら一人でやってくれ。人を巻き込むな。」
「・・・・・・。」
背丈百九十センチはある蓮が傘をさしているおかげで、その後横を通る車は、雨を乱反射させたヘッドライトで見事に彼らを避けていく。
「オレがココにいたら君は死ねないな。」
「ほっておいて。」
「残念ながら君をそのままにして帰ったら明日の朝車が外に出るのに一苦労で、しかも最後に話したのがオレで、今日一日の行動をしらみつぶしに事情聴取だなんて時間が勿体無いから連れて帰る。とにかく着替えて帰るんだ。」
蓮は有無を言わさず、嫌がる少女の腕を引き、自宅へ押し込んだ。
「監禁罪で訴えるわ。」
「どうぞ?そもそもさっき死にたいと言った子の言う事じゃないな。そのびしょ濡れじゃ、タクシーすら乗せてくれない。電車にも乗れないだろう。どうやってこの雨の中帰る。」
蓮は、少女の強がりのような言い分を切って捨てた。
「歩いて帰る。」
「そう。」
蓮は何を言っても無駄だと思ったのか、濡れて水滴が滴る彼女を、軽々と腕に抱えた。
「何をするの!離して、降ろしてよ!!!」
少女は暴れ、蓮の身体を叩いた。
「全身濡れた君を家中歩かせるほどオレの許容量は広くない。」
しかし、蓮の着ているスーツは誰が見ても最高級の仕立てで、叩きながらそれに気付いた少女は、そのスーツを全面濡らしながら抱えている事に気付き、暴れるのをやめた。
「クリーニング代、出すわ。」
「妙な所には気が付くんだな。それならオレの車を避けて欲しかったよ。」
蓮は気にする様子も無く、少女をシャワールームの前まで連れると、「浴びて温まってきて」と言って、客人用のバスローブとタオルを出して置いた。
「申し訳ないがオレの家に女性用の服も無ければ下着も無い。自分でそこの洗濯機で洗って乾燥させて。一時間もあれば乾く。間はそのバスローブで過ごして。」
蓮はそう言って、出て行こうとした。
「ちょっと待ってよ!いきなり連れて来てシャワー浴びろなんて・・・一体どういう神経してるのよ!何が目的?お金?身体?」
「人の親切はケチなんてつけずに素直に受けておきなさい。」
「タダより高いものは無いもん。」
「じゃあ、金を要求して欲しいなら請求書でも切ろうか。君が欲しいと言ったら君が黙ってシャワーを浴びるなら、望む通り抱くけど。死ぬよりはオレに抱かれた方がよほどいいかもしれないよ。」
「・・・・・・・・!」
「じゃあね。いいから温まって。でもそのままでいれば風邪ひいて高熱出して死ねるかな。」
ふっと笑った蓮は、ひらひらと手を振ってその場を後にした。
取り残された少女が渋々シャワーを浴びている水音を確認して、蓮は自分の濡れたスーツのジャケットとネクタイを、面倒そうに椅子にほうり投げた。
*****
少女が中々部屋に戻ってこなかったから、蓮はその様子を見に部屋を出た。自分はまだ湿ったワイシャツを着ていた。徐々に喉が痛くなってきた気がする。
――おいおい・・・オレが風邪引いたら、助けておいていい笑いものだ・・・。
そんな事を思いながら、シャワールームのドアを叩くと、自然に開いた。少女は乾燥機の前でバスローブ姿できっちり両足を抱え、顔を足に埋めて座っていた。
「そんな所にいないで声を掛けてくれればよかったのに。」
「・・・・・。」
「悪いけど。オレが風邪引きそうなんだ。替わってくれないかな。シャワーを浴びたい。」
少女は初めて蓮を見据えて、ごめんなさい、と慌てて立ち上がった。
「おや、普通の良心は持ち合わせているんだ?オレを心配してくれるの?」
「・・・・・・。」
少女は目を見開き、急いで蓮の横をすり抜ける。
「リビングにいて。」
返事は無かったが、乾燥機の中に服も下着も入っている。いなくなることは無いだろう。蓮は冷えた身体を温めにシャワールームに入った。
******
蓮がリビングに戻った時、少女は相変わらず足を抱えてソファの上に小さくなっていた。明るい所でよく見ると、少女は思っていたよりも随分と幼く見えた。いや、化粧が落ちて、口調と歳相応になった、と言うべきか。
「乾燥機終わったよ。着替えてきて。送る。」
「・・・・・・・。」
「コレも親切だよ。素直に受けなさい。」
「・・・・・・・。」
彼女は人の親切を受ける事が苦手なのか、嫌いなのか、着替えて戻ってから、変わらず「何かあるのではないかと」疑いの眼差しを蓮に向けた。
「何?そんなにオレを犯罪者にしたいの?オレは初めて会った君を抱きたい程困ってない。そもそも君はいくつなんだ。名前は聞かないが歳ぐらいは教えてくれないか。」
「・・・・・十八。」
「は?まさか高校生?」
「・・・・・・。高校生なんて年齢なんて括りで人を馬鹿にしないで。あと一ヶ月で卒業だから。」
「・・・・・・・・。」
蓮は信じられない、と言って首を振った。
「何が信じられないの。」
「いや・・・・。」
最低でも二十は超えているだろうと思ったとは言わなかった。化粧を落とし、着替えたその少女を見ると、その表情はやはり普通の女子高生よりかは大人びて見える。
「その格好、似合うね。」
「何?やっぱり親切代わりに私を抱きたいの?」
「そんな軽蔑した目を向けないでくれないかな。別にオレはまだ何も言ってないだろう。何かオレに恨みでもあるのかな?」
「監禁罪。」
「まぁ確かに腕を引っ張ったのは悪かったよ。もう君があの道に立っていたとしても、声は掛けない。好きに死ぬでも生きるでもすればいい。ただし遺書やダイイングメッセージにオレの事を書くのだけは勘弁して欲しいね。」
蓮もさすがに少女の強情に諦めがついたのか、両手を軽く上げた。
少女は何も言わず、強い瞳でじっと蓮を見つめていた。
「ねぇ。」
「何?」
少女がそう声を掛けるとすぐに、蓮の首はぐい、と少女の両腕で強く引っ張られた。気付くと口付けられていた。蓮の方が驚いて、ただされるがまま眺めていた。目を伏せて唇を合わせるだけの口付けを、少女が蓮の首筋を撫でた仕草を、どうするでもなく受け入れていた。
その感触が、意外と柔らかい、と観察した頃に、その唇は離れて言った。
「タダより高いものはないって言ったでしょ。親切報酬はコレで払ったわ。」
「・・・抱いて欲しいならベッドルームはあっちだけど。」
蓮が無表情で部屋の外を指差してそう言うと、少女は、
「もう報酬支払ったでしょ。」
と言った。
すたすたすた、と玄関に向かって歩く。
「・・・・・・・送る。」
「いらない。帰る。傘、貸して。」
「・・・・・・・・タダより高いものはないんだろ?」
「分かったわよ。」
少女は振り返ると、再び蓮の唇に勢い良くその唇を重ねた。
「傘代。」
「・・・情緒も何もあったもんじゃないな。」
「私の唇は高いの。」
「はいはい。・・・あぁ、傘はそこ。いいから、送る。」
「・・・・・・・・・。」
「分かったよ、最寄り駅まで送る。君を詮索したいわけじゃない。」
「それも唇が必要?」
「もういいよ。そんなね、義務的な支払いの為のキスなんて要らない。夜のキスはもっと情緒あるものが欲しいな。」
蓮は首を振った。
「情緒情緒って・・・私のどんなキスが欲しいわけ?」
「教えて欲しい?オレの情緒、教えてあげようか?」
「いいえ。結構よ。」
ふぅ、と長く息を吐いた蓮は、一体どんな高校生だと独り言を言った。少女はふふっと笑った。
蓮は自らを隠すことも無く、自分の名を述べた。
「オレは敦賀蓮だ。」
「・・・知ってるわ。」
「何?オレを知ってる?」
「・・・有名な社長、でしょ。よく貴方の特集を組んでるじゃない、テレビで。」
「勝手に取り上げられているだけだ。本業に関係ない。」
「ふーん・・・・ネタに売ろうかしら。監禁罪。」
「どうぞ?オレの会社には広報部もあるし担当弁護士もいる。君がオレと戦う気があるならね。」
「じゃあキスして。それで許してあげる。」
少女がそう言うと、蓮は無表情のまま、すっと少女の顎を指で持ち上げた。少女の視線をそらせないようにして、じっと目を覗きこむ。少女も負けなかった。少女がニッ、と強く笑った。
「ふ・・・。いい目だ。」
蓮はそれだけ言って、手を離した。
「君には許してもらわなくて結構。訴えていいよ。聞かなくても君の名前と素性を知れる。」
逆に蓮がそう言うと、少女は言った。
「キスしたら、本当に訴えてやろうと思ったのに。」
「だろうと思ったよ。タダより高いキスは無い。」
蓮は、可笑しそうに笑った。
そして少女を近くの駅前まで送って、ドアを開けると、少女は、
「そんな事まで完璧なの?」
と言った後、再び蓮に口付けて、
「借りなんていらない。」
と言って、スタスタ駅の階段を降りていった。
「・・・・くすくす・・・・。」
蓮は思わず笑みを顔に浮かべて、不思議少女との不思議な一夜を終えた。
2007.10.31