夜九時。
「・・・時間通りだね」
と、玄関の扉を開けた社が言った。
帽子を被りサングラスをかけた蓮が、パンダの絵が描かれた、東京らしいバナナのおやつを持って現れて、社はそのギャップに吹き出しそうになった。
「遅くにすみません。せっかくのお休みの日に」
「いや・・・いいけど・・・」
そのオヤツのパンダの可愛らしい絵と蓮の表情の暗さと真剣さは、全くかみ合っていない。
「どうしたのこれ」
「今日、上野にある動物園で写生したりしてきたので。帰りに話をしたら、彼女が、社さんに、と」
「大丈夫?ばれなかった?」
「全然そっちは平気です」
「そっか」
改めて蓮が自分の部屋に来ると、社は妙に落ち着かない気持ちがした。
男二人で座ると、部屋がとても狭く感じた。
改まって蓮に茶を出すのもなんだか変な気分がする。
「・・・で、どうしたの、改まって。社長がオレに聞けって何なの」
「・・・・社内とか、この業界の恋愛の様子と結果とその後を社さんに聞いて来いと。マネージャーがどんな対処をしているか、とか」
「は?え?」
しばらく仕事を休みたいとか、そういう話なのかと思っていたから、まさかそんな話とは思っていなくて、蓮らしくない話の内容に社は思わず聞き返してしまった。
「ウチの会社の中の人で、誰か芸能人と恋愛して、うまくいったケースと、そうでなかったケース、最悪、共倒れになったりとかした人がいる、んですよね?商品としても潰れてしまうこともあるとか・・・」
「・・・・ああ、まあ、色々あるよね」
「マネージャーだとそういう話も入ってきますか?」
「まあ、基本的にプライベートは本人に任せているというスタンスの事務所だけど、それでも、ある程度マネージャーたちは、誰と誰がというのは上に報告してる。万が一の事もあるから」
「万が一?」
「まあ、そうだね、付き合う相手が犯罪がらみの噂があるとかだと困るから。それから・・・芸能人同士だけでなくて、一般の人だとトラブルが無いように、とか、色々?それから、女の子だと、妊娠してしまうと仕事にならないから、相手にも、商品として傷つけられたら困ると相当厳しく言うマネージャーもいるよね。事務所によっては万が一の時のための書類を交わしておく場合もあるね。決まっている仕事について、場合によっては放映できなかったりお蔵入りすると損害賠償請求とかある時もあるから。幸いウチは大手だから、相手が芸能人なら、言えば聞いてもらえる事の方が多いけど」
蓮が話の趣旨をきちんとしないから、社は聞かれるがまま答えた。
でも、多分、聞きたいのはキョーコとの恋愛について、もし、蓮がキョーコと付き合ったら、潰れてしまうかどうか、潰されてしまうかどうかなのだろうと思った。
「今日、キョーコちゃんと、何か、あったの?でも、今日一緒にデートできたんだから、いい方に、なのかな」
「・・・・・」
蓮は、何も答えなかった。
帰りの車に戻ると、蓮はキョーコに、昨日の事を改めて謝罪した。
キョーコに、触ってしまったこと、口づけてしまったこと。
それから、社長に言われた通り、好きな相手がいるかどうかを、訊ねた。
キョーコは、とても悲しそうに、小さく、頷いた。
蓮は、ごめん、としか、言えなかった。
キョーコは、
「でも、一生、本人には言うつもりも無いですから」と付け加えた。
なぜ一生言わないのか、その相手を思い続けるのか、言わなかった。
だから、
「幸せになるつもりが、ないの?」
と問うと、キョーコは、最大限に目を見開いて丸くして蓮の目を見つめた。なんてことを聞くのだろう、というようなまなざし。
自分が昔思っていた事。
「そうではない、です、けど・・・」
視線をさまよわせたキョーコに、蓮は何も言わなかった。
「・・・好きな人がいたのに、ごめんね」
キョーコは首を振った。
キョーコの目からは、涙がぽろぽろと零れていた。
社長への報告時も、キョーコは涙声だったと、言った。
その涙の意味を知りたかった。
「私、昨日、社長さんにお電話して、許可を頂きました」
「何の?」
「・・・ある程度、敦賀さんと、その、色々、あるかもしれない、と。そうしたら社長さんは、成り行きに流されて子供が出来るとかがなければいいと言っていました・・・その、本当の愛情が無い恋愛で子供が出来たら私が傷つくって・・・」
「・・・オレが、怖かった、よね。本当に、ごめん。でも、役柄上触るけど・・・だから、今日、できるだけ触らないように気を付けたんだけど」
「敦賀さん、ほとんど、触らないでいてくださいましたもんね・・・唇も。英嗣だったら絶対本当は我慢できないはずなのに・・・」
「英嗣ではなくて、オレ自身の方が、触れるのをためらったんだ」
「あの」
「・・・本当は、触れたかったよ。愛しくて、好きで、仕方ないんだ、英嗣は。触れた瞬間の絵が描きたくて、ほんの少し触らせてもらったけど・・・。本来ならそれを我慢できないのも英嗣なんだけど・・・。英嗣とオレとの境目が今、ほとんどない」
蓮はキョーコの頬に手を添えた。
蓮の瞳はまるでキョーコを心底愛しているように、切羽詰まった目で見つめた。
だからキョーコは目を伏せた。
「いつまでもこうして、幾らでも見つめて、触っていたい」
「敦賀さん・・・」
蓮は、キョーコに
「好きだよ。幸せになる気がないなら、オレを好きになって。オレが幸せにするから」
と付け加えて、そして、頬から手を離した。
キョーコからは、返事の代わりに、目から大粒の涙が零れるだけだった。どうして泣くの、と、聞いていいのかどうなのかわからなくて、だから蓮はまた、手を添えて涙を指で拭った。
数十分の短いドライブ。
キョーコの下宿先に着くまで、また、二人は殆ど無言だった。
そんな先ほどの一連の事を思い出していた蓮は、次に口を開くまで相当な時間が過ぎていた。
社は、蓮の呆然とする様子を見て、一体何があったのだろうと、ただただ見つめ続けた。
「あの子を幸せにできたらと思ったんですけど・・・でも・・・社長は、オレがどんなにあの子を思っていたとしても、場合によってはオレかあの子が潰れる可能性すらあると、言いました。オレたちの努力不足だったり、世間の反応だったりが作用して・・・。だから、少なくても今までの事例を聞いてこいというのと、あと、もちろん、相手があっての事なので・・・相手の気持ちも聞かなければ、と」
「そういう事だったんだ・・・」
社は、どうにもならない蓮の呆然とした姿に、かえって色々なケースの話をした。
例え実力が互いに近くて、世間にお似合いと言われたとしても、多忙や寂しさによるすれ違いが要因にある時もあるしね、と付け加えたけれども、蓮は聞いていただろうか。
蓮は聞いているのか聞いていないのか分からなかったけれど、社は話し続けた。
「蓮、大丈夫?帰れる?」
と社が聞いて、蓮も、頷く。
「大丈夫ですよ」
その答えが殆ど役に立たなそうな位、風前の灯火のような様子だった。
「キョーコちゃんに、手を、出した?それで、拒否された?」
「いえ・・・」
「二人がどんなことになっても構わないけれど、一応マネージャーらしいことを言うと、キョーコちゃんに、まだ、子供だけは待ってね。女優として二十五までは一番の山場だから。今一番大事な時期だし」
「・・・その、心配はいらないと思います。彼女には・・・」
蓮は言葉にすらしたくない様子で、言葉を切った。
「もしかしてキョーコちゃん、彼氏ができた?好きな人がいるの?」
蓮は小さく頷いた。
蓮がキョーコとのデートのあとだというのに風前の灯火の様子なのは、そのせいなのか、と、社は漸く合点がいった。
「誰?オレまだ聞いてない」
「知りません」
「そっか。でも、おかしいなあ、そんな恋心を抱くような相手とか、仲のいい相手、ずっと見ていても、見たことが無いんだけどな。誰なんだろう?俺が入り込まない仕事の中かなあ?」
社は自分の知りうる限りのキョーコの様子を思い浮かべて首をひねった。
キョーコが最も信頼を寄せている相手はいる。
――やっぱり、蓮、なんじゃないのかなあ?言うつもりが無いだけで・・・・
社には、それしか思い浮かばなかった。
蓮が帰ると、社は社長の携帯に電話を入れた。
しかし出なかった。
夜中に社長から折り返しの電話が社に入った。
「悪いな、遅くなって」と社長が言った。
「いえ、あの、蓮とキョーコちゃんの事で少し」
「ああ」
社長は分かったように答えた。
「今日、蓮が、オレの所へ来て、芸能人の恋愛について、マネージャーたちが何をしているのか、聞きに来ました」
「そうか」
「社長、オレは蓮が誰か特定の人物と、恋愛しているようには思っていないし、蓮が大事にしているのはずっとキョーコちゃんの事だと、思っているんです。その・・・キョーコちゃんに、彼がいる話とか、聞いていますか?」
「知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない。本人に話を聞けばいい。ただし、蓮には聞かせてやるな」
「聞いても多分蓮には言わないと思います。蓮が普段誰とどんな恋愛をしても構わないとずっと思っているんですが、キョーコちゃんの事は、多分、蓮にとって、何か特別というか別格に思うので・・・」
「あの子にも言っておく。社がマネージングの為に聞くだろう、オレと同じように嘘偽りなく本当の事を話してやれ、と。他言は一切無い、というのも」
社長との電話が切れた。
社の喉がごくりと鳴った。
蓮の前で、どれだけ表情を変えずにいられるだろう。
本当の事を知っていて、どれだけ、聞いていないフリをできるだろう。
社は、社長の許可を得て、マネージング、という大義名分の下、キョーコの本心を聞く決心をした。
2019.2.21