ハルに促されるまま呼ばれたタクシーに乗り込み、金色の髪をした派手ないでたちの蓮はそのまま静かに帰宅した。
蓮は玄関の扉を開ける前に少しの息をはいた。
キョーコになにか言い訳をしなければならないのだろうかとか、部屋の中にいるキョーコはどういう顔をするだろうとか、そもそも記事が出ることを聞いていたから、キョーコが万が一何かに巻き込まれることがあってはならない、そう思うとあらかじめ帰ってくることを事前に連絡しておかなかった。
扉を開けるとキョーコの小さな靴が玄関の端の端、まるで遠慮するように置かれていた。
いろいろ考えていたのに、それを見るとふと和んでしまって、蓮は柔らかな笑みを漏らした。
静かだな、と、思う。
いつもならドアが開く音でキョーコが気づいて寄ってくる。この家の住人ではないのにこの部屋にいることに気を使っているのか、先に入った事を謝罪しながらわざわざ迎えに来る。
今日はそれが無い。
怒っているのだろうか。寂しいと言っていた。迎えに来る気もないのかもしれない。
しかしながらそんな蓮の気持ちはただの勝手な予測だった。
リビングのソファーの上でキョーコは丸くなって寝ていた。
まるでお団子のように丸くなっている。
キョーコはここで縫物をしていたようで、床に置いてあるバッグの横に、布と針と糸が置いてあった。
蓮は持っていたバッグを部屋に置きに行き、シャワーを浴びに向かった。湯船も床も濡れている。恐らくは入浴を済ませたらしい。ただそれだけで、少しだけホッとする。嫌いな男の嫌いな部屋でシャワーを浴びる人間などいないだろう。
髪を乾かして楽な格好に着替えた。
本来ならハルにだけ話したかった話、蓮には聞かれたくないような心の内や、内容をそのまま聞いていたのもまたキョーコにとってはあまり知られたくない事だろう。理性を働かせてみてもそれでも少し腹が立っていた。嫉妬や自分を頼ってほしいと思う気持ち、そして、キョーコがハルに電話をした事。キョーコが手からこぼれ落ちるのではないかという想像を一瞬でもしただけで、こんなに動揺する自分がいること。
キョーコの心も体も寄り添う瞬間を待っているのは事実だった。けれども、もっと心も体も奪って、自分の気持ちを最大限に伝えておけば、こんなに激しく動揺することも無かっただろうかと、紳士ではない自分の面が心に浮かび上がってくることもあった。まるで「紳士である敦賀蓮ではない」、素の自分が出て来ることも、そして「敦賀蓮」がどうしても浮かび上がってくることも、どこかで嫌だと思うこと。敦賀蓮はどうしても動きたくなる「自分」をたしなめるストッパー役をかっているだけだ。でもキョーコが望んでいるのかもしれないと思う理想の「敦賀蓮」を思うと、それが「自分」をたしなめる。本当は激しく奪ってしまいたい衝動を止める。
敦賀蓮と自分の狭間でいつも葛藤をすること。でももうそれも、このキョーコを待つという時間に、内側で何度も話し合った。もうほとんど融合しているから心配はしていないと思っていたのだけれど。今日のように時々「自分らしさ」が敦賀蓮に勝りそうな時には、こうして、自分を黙らせるために落ち着かせるために、蓮は少しだけ無口になった。
ソファーで横になるキョーコの傍で座り、そっとキョーコの髪に触れた。
急にあたたかな感触がしたからか、すこしの寝返りを打とうとして、薄く目を開けた。
ぼう、っと、した目が、蓮をとらえる。
驚いて、きゃあ、と、まるでオバケでも見たかのような反応で飛び起きた。
そしてソファの端に逃げた。
「あのあのあの。帰ってくるなら連絡ください。さっきまでそんな事言っていなかったのに」
キョーコはそう言ってまた体を抱え顔を隠した。
「ごめん。驚かそうと思ったわけでは無かったんだけど」
座っても?と言って蓮はキョーコの横に腰かけて、それから、改めてキョーコの手に触れた。
「冷たい。こんなところで眠っていたら風邪をひいてしまうよ」
蓮は顔と体を隠すキョーコの腕を外して両腕を解く。
そして、「抱きしめてもいい?」と聞いた。
キョーコは戸惑う顔で瞳を左右に揺らした。
「疑ってる?」
「いえ、そんなことは」
「顔に書いてある」
蓮は抱き締めようとして持っていたキョーコの両腕を体の横におろした。
それから立ち上がって、
「何かの言い訳をしに急いで帰って来たわけではないんだけど」
まだ腹立たしい気持ちがすべて消えたわけではなかった。
顔を見て、抱き締めたら少しは納まるかと思った。
でも、キョーコはどうしたらいいのか分からないというような顔をした。
疑われるようなことは何もしていない。
ただ、カメラの角度を利用して、ただの別れの挨拶を妙に親密なように撮られただけだ。
そんな事を帰ってきてすぐに言う気にもならなかった。
だから勢いで、妙にざらついた言葉が出てくる。
そんな自分にもまた腹がって、場所を変えるべくキッチンに向かう。
冷蔵庫を開ける。キョーコが買い置いただろう見たことがない種類のペットボトルの水を取り出す。やかんにそれを入れて湯を沸かし始めた。
シュンシュンシュン、と、水が音を立て始めて、ただ、ぼんやりその音を聞いていると、背中に触れる手の感触。それから、額が背に触れる感触。
「おかえりなさい」
「今オレがうしろを向いたら、瞬殺で羽交い絞めにして、全部着ているものを剥がしてキッチンが戦場になってしまいそうなんだけど」
「・・・」
キョーコは何も言わなかった。
「オレが本当のことを言わないから、きっと君は無意識にオレに待てをしたんだと思う」
そう言うと、すっ、と、キョーコは離れた。
「本当のことは、あまり聞きたくない、です。やっぱり、もう他の人が好きになったとか、遊びだったのに本気になられてとか、もういいよって言われる日が怖くて、怖くて、だから、だから、絶対に好きって言わないって決めたのに・・・」
そう言いながら声は涙ぐみ、
「敦賀さんに、私も本当のことを早く伝えなきゃって思っていたんですけど、やっぱり、遅かったですね」
蓮はふう、と、息をはきだして、やっとキョーコの方を振り返った。
シュンシュンと鳴るやかんの音だけが部屋に充満している。
「そうじゃない。全然違うよ。いろいろ心配させてごめん」
「・・・」
蓮は嫌がるキョーコを腕の中に入れた。
イヤだ、と、腕の中から出ようとするキョーコに、有無を言わさず離さなかった。
「ごめん。連絡すればよかったんだけど、記事が出ることが分かっていたから。君を巻き込んだらいけないと思ったんだ」
蓮はずっとキョーコの背中を撫でた。
泣きじゃくるキョーコは、
「敦賀さん・・・。私を愛して欲しい、それを言えるようになるまでこんなに時間がかかってしまいました。ずっと、言いたくて、言えなかったんです。でも、もう、間に合わなかったら、断ってください」
ぎゅう、と、キョーコは蓮を強く抱きしめた。
今度は蓮が何も言えなくなった。
自分を止められない程怒っていた感情も、すべて溶けて去り、そして、体から力が抜けていく。
「うん。ありがとう。でも、やっぱりキッチンがこのあと戦場になるのはいやかな」
蓮はようやく少し笑って言った。顔も見せられないのだろう、体にぎゅうぎゅう押し付けられているキョーコの顔の感触がする。抱きしめるキョーコの腕の力は更に増した。
「キョーコちゃん」
と蓮は呼んだ。
キョーコの体は微かに反応して、ぴくり、と、動いたのを蓮は感じた。
「オレの本当を知りたい?」
「・・・いえ、あなたの本当は、今、すべてここにありますから」
キョーコは顔を上げて、蓮の瞳を見つめる。
「いつ見ても綺麗な目、ですね・・・マグノリアさんのお仕事でも?大阪から帰って来たんですか?」
「いいや、アメリカからだよ。いろいろ面倒だからこのまま帰って来た」
「そうですか・・・」
蓮はキョーコの頬を指でそっと撫でる。
しばらく二人は見つめ合っていた。
何するでもなくただ、蓮がキョーコの顔を撫でて、キョーコはくすぐったそうにする。
ぴたりとつけられた体、開いた襟元、体の至る所にキョーコの体の柔らかな感触が押し付けられている。このままではやはりキッチンが戦場になる。
蓮が先に苦笑いを浮かべた。
「・・・ごめん。お湯、止めてもいいかな。あたたかい飲み物を、いれようと思って」
わあ、と言って、キョーコは蓮から飛びのく。
「君の世紀の告白をすぐに全身で受け止めてあげたいのだけど。ここがやっぱり後片付けが大変な戦場になりそう。できれば君の気持ちはベッドですみずみまで受け止めたいな」
キョーコはおそらく赤面して真っ赤な顔で向こうを向いているだろう。
容易に想像がつきながら、蓮はマグカップに湯を注ぐ。
ホットココアを入れた。
それを蓮が二つリビングに持っていく。
うしろから静かにキョーコがついて来るのを蓮は面白く思う。
「どうぞ」
蓮はマグカップの一つを置いてそう言った。
「ありがとう、ございます」
すっかり赤面して小さくなっているキョーコを蓮は抱き寄せて、改めて、「心配させてごめん」と言った。
「いえ・・・」
「でも、ハルに助けを求めたのはすごく嫌だったよ」
ビクリ、と、キョーコは身を固くする。
「それと、何?まだ間に合うって。オレが君を捨てる準備もしてた?」
「・・・していましたよっ。もういいよって言われる日が来ても、今ならまだ夢のような時間だった、少しの恋愛のような夢を見たのだと」
「ひどいな。オレは愛しているという言葉はもらえなかったけれど、心と体は素直に愛し合っていると思っていたんだけど」
「ごめんなさい。でも、記事が出て・・・。ずっと私は自問自答の日々だったので、どうして正直に言えなかったのだろう、早く言えばよかったと、後悔しか浮かんでこなくて・・・。会いたくて、言いたくて、予想した未来が来そうになったら本当に怖くなって、それでハルさんにお電話したんです・・・。ごめんなさい・・・」
「だから早く言えばよかったのにね?」
蓮がクスクス笑う振動がキョーコに伝わる。
「冗談。ありがとう。でもずっと、何を自問自答していたの?」
「多分、自分の弱さと向き合っていたんだと思います。敦賀さんを前にすると、敦賀さんはあまりに光が強くて、私は自分の心の弱さや闇ばかり見えて・・・。弱さ、自信がないこと、過去にたくさんの傷ついた気持ち、山のように自分の事には自信がなくて。もっと有名な女優さんやモデルさんのように仕事も美しさも完璧になろうとすればするほど自分を責めてしまう。こんな自分じゃ敦賀さんのそばにいる資格なんて無いんじゃ・・・と。だけど、こうして敦賀さんに告白してもらってお時間をいただいた間に一つだけ気づいたことがあるんです。敦賀さんを好きな気持ちは、何年も変わらなかったですし、むしろ毎年毎年どんどん増えていきました。自分は敦賀さんが好き、それしかないけど、だけど、少しは愛して欲しいって言っていいかなって、やっと、少し、思えるようになって・・・」
蓮は返事の代わりにぎゅう、と、キョーコを抱きしめて、キョーコは蓮の腕の中で抱き返した。
「うん、ありがとう。キョーコちゃん」
「・・・敦賀さんに時々そう呼ばれるとなんかくすぐったいです」
「そう?くすぐったくなるの?」
「なんかとても可愛がられているみたいで」
「うん、体がふにゃふにゃになるね。じゃあキョーコ、と、呼んだら?」
「ふぁってなります。」
「なんか体が硬くなるね、緊張する?恋人みたい?どっちがいい?」
「・・・お、おまかせ、します・・・」
「分かったよ。今は緊張しないでほしいからキョーコちゃんって呼ぼうかな。いつか、オレとの恋愛に慣れた頃、キョーコって呼ぶよ」
蓮は「キョーコちゃん」とあえて呼んで、キョーコの体から力を抜かせて、そして、やっと唇を覆った。そっと、優しく、何度も口づける。あまりに優しい唇で、今までだって散々キスをしたはずだったのに、キョーコはあっという間にまるで軟体動物のようにくったりと蓮にもたれた。
「どうしたの?」
「なんか」
「なんか?」
「・・・もっと愛されたくなってしまって、敦賀さんが好きって思う気持ちをもう止めなくてもいいんだと思うと、もう好きと言う気持ちが溢れて止まらなくて、今までとぜんぜん、違います・・・。(うわーーーん!もうだめもうだめこれ以上言葉に出来ません!)」
蓮は全面の笑顔になって、それから、もう一度唇に触れた。
「オレのかわいいお姫様?ベッドルームにいこう?ゆっくり大人の恋愛の仕方を教えるから」
「あああううう。大人の恋愛ってなんですかああああ」
「さっきしたかったオレの本当の話もしたいし、それから、オレの正式なお姫様になってくれる儀式、って言ったら、君はオレを喜んで受け入れてくれるのかな」
「うううっお姫様の儀式・・・(もうもうすべておまかせです・・・)」
「キョーコちゃん、好きだよ」
すっかり体に力が入らない真っ赤な顔をしたキョーコに蓮は再度唇を寄せた。そして蓮はへにゃへにゃしているキョーコの体をそっと抱き上げる。
「腕を首に回してくれる?」
言われるがままキョーコがそうすると、再度、ちゅ、と、キスをした。
「その方がキスしやすい」
「(うわーーーん!)」
目を回したキョーコは蓮の首元に顔を寄せて、蓮は連れて歩いた。
2021.10.01