【英嗣 エピローグ】
英嗣と佐保が旅に出た。
三週間、世界中の美術館と有名なカフェを巡る旅だという。
店は卓也とサキに任せて、時間も昼間だけと短くした。
好きにやっていいよ、と、英嗣が卓也に言った。困ったことがあれば、英嗣の父親に電話して、と。
卓也は特に何も変える気もなかったけれども、全てを信頼して任されるというのが、とても嬉しかった。
「英嗣さんと佐保さん、やっとお許しが出て、来年結婚するんですって」
「そうでしょうね、もう、本当なら明日にでも結婚したいんじゃないんですかね」
「ふふ、形だけでも婚約はしたみたい。佐保さんの指輪、英嗣さん自ら手作りで作ったんですって~。もうなんかすごくない?さすが英嗣さんって感じ。でも、なんだっけ、約束の日が過ぎたからって言っていたけど・・・。これから三週間、二人で世界中の美術館。いいなあ・・・。既に新婚旅行より長旅」
サキはうっとりとした顔をして、卓也に告げた。
「へえ、そうなんですね」
卓也は意外とあっさりと返事をして、夢を見ているような顔をしたサキを現実に引き戻した。
「あーあ、私の恋も終わりかあ」
「え?サキさん、英嗣さんが好きだったんですか?」
「好きって言ったって最初から答えは出ているんだもの。ただ寂しいから恋らしい感情を得たかっただけ。絶対に叶いもしないけど振られない恋って恋してないのと同じだと思うでしょ?そうじゃないの。何か楽しみがあった方が仕事も楽しいじゃない。知っていて勝手に楽しんでいただけだから佐保さんから取るとか全然興味ないし。二人が一緒にいる時の英嗣さんが結局一番いいんだもん」
「へえ・・・」
「そういう卓也君だって、英嗣さん大好きすぎてここにいるくせに」
「好きですよ、でも、佐保さんが好きな英嗣さんが好きなんで」
「私と同じじゃない」
「そうですかね?」
「今日は飲みに行こう?」
「勝手に二人を祝う会と、オレたちの応援打ち上げ?失恋パーティですね」
「そうね、次の人見つけなきゃ」
「そうですね。あの、勘違いしているといけないと思うんですけど、オレは別に男が好きな訳ではないんですよ、サキさん」
「え、そうなの?男の人しか好きになれないコなんだと思ってた。ごめん。あんまり人の事って突っ込んで聞いたらいけないのかと思って」
「オレは好きになった人が好きな人、なんです。性別なんて関係ないんです」
「へえ、全世界から選べていいわね、それ」
「そうです。人、という以外に基準が無いから、かえって難しいんですよね。でも学校にいるやつら多い気がする。だって解剖学の書を読んで解剖絵描いて、人を筋肉と筋と皮で見ている人だっているんで・・・そうなると超越しちゃって人の見た目だの性別だの年齢だのなんて全然関係ないらしいです」
卓也は笑って言う。
「悩んでいるならこのあと聞くよ?でも、本当に英嗣さんと佐保さん、よかったね」
「うん、そうですね、ホント、ずっと待ってましたもんね。もう、お互いしか目に入らなくて、もう世界中のゲイジュツなんて、目に入らないんじゃないですかね?」
「そうかもね」
「オレたちだけで、三週間本当にこの店回せるんですかね」
「やるしかないでしょ。時間もメニューも絞っているし。大丈夫、何とかなるよ」
「そうですね、サキさんがそう言ってくれるならそうかも。サキさんて、時々、男らしいですよね」
「ちょっと待ってよ!私が男らしいってどういうこと?失恋したての女子にそういう事言う?」
「そういう所です。全然失恋って感じじゃない」
「傷ついた乙女の心なんて卓也君には本当に分からないんだわ。今から一から話してあげるから。よーく聞いて覚えて」
「あの、サキさん、もう飲んでませんか?」
「あ、バレた?ごめん、あがりのまかないカプチーノに二階のカルーアミルクをちょーっとだけ入れた」
「だと思いました。多分、ちょっと入れた、というのも嘘ですよね。すごく入れましたよね。いつもより饒舌。英嗣さんには内緒にしときます」
「ありがと。じゃあ、失恋ついでに一つ教えてあげる。私、英嗣さんと佐保さんに、私の絵を描いてもらったことがあるの。いいでしょ?」
「え?まじですか?なんで?だって英嗣さん絵は本当に時々しか描かないのに。しかも佐保さん以外の女性って。ありえない」
「高校二年の時にアルバイトを始めて・・・五年勤めた時に、感謝の気持ちを込めて何か記念の物を贈りたいから、何か欲しいものがあるかって聞かれて、二人に何か描いてほしいって頼んだの。そうしたら、快く引き受けてくれてね。描くなら私が良いよねって二人で話したみたいで、英嗣さんが鉛筆で、佐保さんが水彩で描いてくれた。一生の宝物。額に入れて飾ってある。十年目になったら英嗣さんの油彩、何か買わせてもらおうかなあ。どれぐらいするんだろ?すぐファンの子たちが買うから無くなるって言って買えたためしが無いもん」
「何それ超羨ましいです。俺も描いてほしい・・・。そういえばもうすぐオレも五年目なんですよね」
「描いてくれるんじゃない?英嗣さんだけに頼むと多分描いてくれないけど、佐保さんと二人に頼むと多分いいと思う」
「確かに」
「でしょ?」
「ですね」
卓也とサキは、笑って、店の鍵を閉めて、帰路に向かって歩き出した。
【FIN】
*****
「もしもし?」
ハルが電話に出ると、キョーコの「ハルさあん」という暗い声がして、ハルは電話越しに怪訝そうな顔をした。
「今お電話しても大丈夫ですか?」
「何かあったの?」
「お話を聞いて欲しいのですが」
「ちょ、待って。オレに電話来るの、早くない?」
「事情を知っているハルさんにしか相談できないです」
「あ~・・・。ちょっと待って。今イヤホンに切り替えたいから」
そう言ってハルは携帯をテーブルにおいて、ワイヤレスイヤホンをポケットから取り出す。片方を片耳にさして、もう片方を相手にさすように耳を指してから渡した。そしてソファにどっかり、と、座った。
人差し指で携帯電話を指したあと、唇に人差し指を当てる。「どうかした?」という顔をしている目の前に座る相手に、黙っているようにジェスチャーで伝えた。
「なに。それで。何かあったの」
「知ってますよね、今日出たの」
「ああ、アイツの報道?海外のパパラッチのやつのこと?」
「・・・」
キョーコは何も言わない。
「飛ばしだろ?」
「飛ばす?」
「憶測の記事ってこと。嘘でもアイツの名前を使ってカネになればそれでいいの」
「だって写真だってありましたよ?なんでそんなにハッキリ・・・その。言い切れるんです」
「アイツの報道の多くがそうだし。知る限りは」
「もはや海外の方になると私にはまったく事情が分かりません」
「で、記事を信じて落ち込んで、オレに電話してきたって訳?」
「いいえ」
「じゃあどうしたの」
「・・・その。『あの人』から、帰ってくるって連絡入ってないかなって」
「本人に聞けばいいじゃない。なんでオレに?」
「聞きたい、ですよ?でも、あの」
「記事が出て、報道が出て、一気に落ち込んだの?」
「だって、もう、帰ってこないんじゃないかって、帰ってきても連絡も、」
涙声で、グズっ、という音が聞こえて、
「ストップ。京子ちゃん」
ハルは京子の声を止めた。
「泣いてる?それとも酔ってるの?」
「酔ってはいません」
「泣いてはいるんだ?」
「・・・いませんよっ」
「で?」
「報道があったから、ではないんですけど・・・。ずっと、なんか、すごく寂しくなるときがあって・・・。もっと、すごく大事なことを、伝えたいと思っていたのに、甘えてばかりでずっと伝えられなくて・・・。記事を見て、やっぱり伝えておけばよかったって、思って。そうしたら、相談できると思う方がハルさんしか思い浮かばなくて」
「伝えたい事はオレじゃなくて本人に伝えればいいんじゃないの?」
「ずっと、今ならまだ引き返せる、まだ大丈夫、と」
「どういう、意味?」
「ハルさんに電話する日が来ても、今ならまだ大丈夫、まだ引き返せる、と」
「引き返せるって?」
「今ならまだお別れしても、夢だったと我慢できる、まだ、忘れられる、まだ、て」
「なに、実はもう別れるの?知らなかったけど」
グズっと言ったまま、電話口の声は話さなくなって、ハルはちらりと目の前の人物を見る。目の前の人物は、困った顔をして、首を振った。
「で?アイツがもう別れようって言って、その後にでもこの記事が出たの?」
「いいえ。なんか頭の中がごちゃごちゃして、想像だけで寂しくなってきて。海外の方の方が恋愛の相性がいいとか、私といるより楽しいとか言われて、じゃあねって言われるみたいな最悪の場面まで想像してしまって。そうしたら、後悔しか出てこなくて。電話をしてしました。仲の良いハルさんなら、何か聞いてないかなって」
「ああなんだ。そういうこと?アイツに限って京子ちゃんを寂しがらせるようなことするなんてと思ったけど。単純に、会いたい、だけなんじゃないの?だろ?」
「・・・そう、ですね」
「会いたい。寂しい。以上。それが言えない。ならそれを本人に言えばいい。オレの人生相談おしまい!素晴らしい回答じゃない?快刀乱麻とはこういうことだよね!でも珍しいね、京子ちゃんがそんな変な落ち込み方しているの。見たこと無いな」
「私も変だと思います。こんなことも初めてで・・・。でも、寂しいと、思うようになったのも、思ってもいいのだと思ったのも、ここ最近で。一人でいると色々想像してしまう時もあって」
「寂しいって。どうして。思ったことは本人に言えば?言えなくて悩んでいそうだけど。言っていいんじゃない?」
「よくわからないんです。初めての感情で。本人を前にしていてもそう思う時が増えて来て、一カ月半離れただけで、もう寂しくて、もっとそばにいたい、本当の気持ちを、言えばよかった、そんなことばかり最近考えていて。こんな事ばかり考えていて、仕事に差し障りがあったらよくないと思います。でも、止められなくなる時がありまして、そこに今日の記事が出て」
「あはは。なるほど?まだ大事なことのいくつかはアイツに伝えていないんだ?」
ハルは電話越しに大きく笑い飛ばす。キョーコに見えはしないが、その場で共にいる相手に向かってウインクをする。
「でもそれはオレじゃなくて本人が帰ってきたら伝えてあげて。やっと伝えらえそうな時が来たんだろう?それって今、すごく大事な所なんじゃないの。なんていうのかな。京子ちゃん、ずっとアイツの腕の中で丸くなって撫でられてるってアイツから聞いたけど。めちゃめちゃ甘やかされてんじゃん。思わずそれだけでいいのって聞いちゃった、オレ」
「うわっ、は、恥ずかしいですね・・・。あの、はい、でも、すごく安心して」
「脱皮でもする時がきたんじゃない。アイツにずっとあたためられていて。自分の繭から出て、また一段、美しい蝶になる時っていうか」
「え?蝶?私がですか?」
「鳥でもいいけど。美しい白鳥に変わるというか。ヒナがかえるというか。殻を割って出ようと思える時が来たんじゃない。蝶も鳥も、出る時になったら、何か合図があるんだろう。種が芽吹くみたいな。花が咲こうとするときまではじっと丸くなってるけど。時が来たら一気に花が咲き始めるみたいな。殻を割ったのは今日の記事かもしれないけど。それが今なんじゃない」
「そう、なんでしょうか?」
「白鳥になるにしても、蝶になるにしても、アイツに見せたいんだろうし、アイツにもっと綺麗にしてもらえばいいと思うけど。きっと喜んでそうしてくれると思うけど。どうかな」
「・・・うう。あの。はい」
「じゃあ、オレからはアイツに言っておくから。すごい可愛がれって。あと早く帰れって。あ、話もすこししておくから」
「あ!それはっ、ハルさん、」
「じゃあね、また何かあったら電話して」
キョーコが何かを言い終える前にハルは携帯電話の通話終了のマークを指で押した。耳からイヤホンを外してケースに収める。相手も外してハルに返した。
「だってさ。可愛いなあ。なんだろう、小動物みたい。一途で。実は、腕の中で撫でてるの、お前すごい好きなんだろ?」
目の前の人物は、大きく息を吐いて首を振った。
「こんなところにいないで、早く帰れば?早く記事の言い訳しに行きなよ。寂しくて会いたくて、泣きながら帰りを待っていてくれる彼女がいるなんて最高なんじゃないの。あの子が今どこにいるかは知らないけど」
「オレの部屋にいると、さっき連絡があったよ」
「何、お前の部屋からあの電話?全然最悪の事態なんて起こらない場所から?可愛いなあ」
「でも。なんでオレじゃなくてハルに電話をするのか、全然理解できない」
「はは、日本にいないと思っているからだろ。時差あるし。相手に仕事があるのに、蓮の朝の三時とか四時に何の用事もないし、会えるわけがないと分かっているのに、「さみしいですう、会いたいですう」なんて電話ができるような子じゃないだろう」
「でもなんでオレに直接言わないんだろう」
蓮は、納得がいかないというような顔をする。
ハルはおかしそうに笑う。二人の恋愛模様は、なんて穏やかなのだろう、と。敦賀蓮という存在に似合わず、なんて素直でピュアなんだろうと思うと、思わず笑いがこみあげる。ハル自身も経験から、あまりに好きすぎると、本音を言いたいのに言えないキョーコの気持ちも非常に分かるし、直接言って欲しい男の気持ちも分かるから、ハルは、再度、「早く帰れば分かるよ」と言った。
「それに髪を戻してないんだ。変じゃない?」
「そのまま、戻ればいいだろ。ぎらっぎらだね。毎度変えるの痛まないの?それ。オレは好きだけど。パパラッチされなくていいかもね。けどお前、海外のインタビュー動画見たけど。あの英語の速さたるや。流暢さがすごいよね。完全にネイティブだもん。お前の再現VTR見たさに子供向けのエイゴン(英語の番組)の視聴率と教材の売れ方が、異常だとか聞いたけど。今度ロシア語講座にも呼ばれるんだって?ロシア語なんて話せるの?お前」
「いろいろありがたいね。髪の色と名前を変えて、一応分かっていても設定を変えて。先生みたいな仕事。話せるってだけでもいいみたいで」
「声もだろ。英語教材作るか、動画上げたら?めっちゃ再生されて売れそう。オレ出来ない日本人相手役で出るからさ。その時は」
「はは、ありがとう」
「・・・話は戻るけど。そろそろ帰るか。あの泣き上戸みたいな可愛い小動物が寂しくて玄関先でご主人の帰りをけなげに待ってる姿を想像すると、なんかいたたまれない」
「そうだね、ハルの約束の方が先だったから。あとで連絡しようと思っていたんだけど」
「いいな、そういう恋愛も。羨ましい。でも言ってあるんだ。もし蓮の手からこぼれ落ちるようなことがあったら、オレのところへおいでと。もうこぼれ落ちたのかと思った」
「それは一生無いな」
「お。じゃあ今度また相談の電話が来ても、オレはいつも言い分を聞いて笑い飛ばす仕事だけすればいい訳だ」
ハルはおかしそうに笑う。
二人は残っていた飲み物を飲み、そして出口へ向かった。
2021.2.27