キョーコは慌ててお湯を沸かし直したり、寒いのに、もう一度部屋の空気を入れ替えたりした。
それから十五分程して、ドアのチャイムが鳴った。
ドアを開けると、先ほどと同じように金色の髪の蓮が「やあ」と言った。髪の色を戻すと言っていて、戻さなかったのだと思った。
質の良いロングコートと、黒い手袋。見ただけで良いブランド物だと分かる綺麗なデザインのサングラス。蓮のいつもの香りがふわり、とした。
部屋着姿(それでも可愛いものを選んだつもり)の自分とはまた全く異なる、まるで雑誌の中の異世界からやって来たかのようだった。普段「敦賀蓮」でもここまでの格好はしていない。もっとシンプルな格好をしている。
この小さなワンルームマンションには似つかわしくない程何かの雰囲気があって、そしていつもより大きく見えた。
そんな観察事が「やあ」と言われてから一秒、瞬き数回のうちにキョーコの頭の中をざあっとものすごい勢いで駆け抜けた。
そして蓮はかけていたサングラスを外した。目が。キョーコは改めて蓮を見て、今日の演技と同じように、驚いたまま、立ち尽くした。
「入っていい?」
「・・・」
「だめ?」
「いえ、そういう訳では、ない、の、ですが・・・」
「警戒されているね。当然だよね。こんな夜遅くに」
「あの、すみません、敦賀さん、ですよね?どっきり?どこかにカメラが・・・」
「カメラは無いよ。オレは何に見えるの?」
「・・・・・・・」
コーンに見える、と言いたい。でも蓮には、コーンの事を話してはいても、容姿については話していない。以前キスした事も話したけれども、蓮の姿をしたコーンと、とは話していない。そんな事が「バレて」しまったならば、自分の脳内が投影されたコーンが、蓮そっくりだったと話す必要まであって、恥ずかしくて困ってしまう。
「いえ、あの。どうぞ上がって下さい。寒い所わざわざ来て頂いてすみません」
「好きな子の所に行きたいと願うのは当然だろ?」
蓮は美しく、にこり、と笑い、キョーコは一瞬で何かに射貫かれて灰になりかけて、ぎくしゃくと中に招き入れた。敦賀蓮とはこんなストレートな男性だっただろうか?コーンに見えているからだろうか?
「大阪はまた何かの撮影だったんですか?」
「ああうん、ナレーションの仕事と、英会話の再現ドラマに少しゲスト出演したんだ」
「ナレーション?」
「ドキュメンタリーのね、声だけの仕事。再現ドラマは外国人役で。それで結局髪色は戻さなかった」
「それでその色なんですね、戻すと言っていたのに」
蓮はコートを玄関で脱いで、靴を脱いで上がってきた。
「これ、お土産」
蓮がテーブルの上に紙袋を置いた。
「ありがとうございます」
キョーコも沸かしたお湯で入れたお茶をカップに入れて運び、座った。
「あの」
「ん?」
「なんで、今日。変な名前で参加されたんです?飛び入りですか?」
「社長命令」
「ですよね」
キョーコはやっぱりと思ってくすくすと笑った。
「英語が話せる役者を回してくれって急遽の連絡だったらしい。英語が出来るヤツで、オレが大阪に行っていて時間もあったから丁度いいって。昨日台本がメールで送られて来た。英会話の再現ドラマも、マグノリアの名前で出てきたんだけど。もちろん、そっちは敦賀蓮の兄弟という設定でパロディ的な感じで出て来たんだけど」
「昨日!さすがです・・・。でもよく気づかれませんでしたね」
「でも君だけは入って来た段階で気づいていただろ?」
蓮はにこにこ、と、笑いかけて、キョーコは思わず目を逸らした。
「敦賀さん、だと思ったんです。お揃いのパンダのキーホルダー、これと同じの、ジーンズの外に出てましたし。あれはわざとですよね?私だけには気づかせるために」
キョーコはバッグを引き寄せて、その内側についていた同じパンダのキーホルダーを蓮に見せた。
「君にだけは気づかれないと驚いてもらえないと思って」
「・・・驚きすぎて結局敦賀さんに驚いた演技をさせられてしまって・・・久しぶりに悔しい気持ちがしました」
キョーコは、唇を突き出し可愛くない顔をした。蓮はその顔を見て笑う。
「でも社長が後で監督に電話するらしいよ。ハル同様友情出演で名前が出るらしいけど。話題作りと全員を驚かせるために内緒にしとけって、社長が決めた名前で参加したんだ。一瞬だし、背中と声だけだしね。よく分かったね」
「私、どれだけ敦賀さんの絵を描いたと思っているんです!体のラインだけでわかりますよ!!」
キョーコは怒ったように蓮に訴えた。
「うん。分かってくれて良かった」
蓮はにこにこ笑いながら、思い通り、と言わんばかり。キョーコは悔しかった事を思い出した。
「そうですよ。分かっていたはずなのに、私はきちんと台詞を入れて来てあって、演技もいれてきてあったのに、敦賀さんに演技させられて、悔しかったんですから」
「そう?自然だったけど」
「もう・・・しかも何です、その目」
キョーコは蓮を見て、また目を逸らした。
蓮で、そして、コーンにしか見えない。
蓮は何を言うでもなくただ少し笑うように息を吐き出しただけだ。
「オレの絵。ここでも描いてたの」
「ええ、仕上げてしまわねば、いろいろ」
「綺麗だね。まるで写真みたいだ」
「ありがとうございます。ご本人にそう言って頂ければ私の仕事は半分達成したも同然です。あとは監督と絵の先生が何とおっしゃるか」
「本当に、オレはよく見られていると思うんだよね。あ、目の色、今日の色だね」
蓮は面白そうに笑ってキョーコをチラリ、と見た。
「色をずっと入れられなくて。今、ようやく入れた所なんです」
蓮は絵を見ようと体を乗り出して、キョーコの横に腰を下ろした。背には壁に押し付けられたベッド、向かい合わせのテレビ。キョーコには一部屋があっという間に蓮と蓮の雰囲気だけで埋まってしまうように感じた。
急に近づいたから、キョーコは少しの緊張を感じて、それを悟られないためにテーブルのお茶を蓮の前へ改めて動かした。
「お茶、どうぞ。冷めてしまいますから」
「ありがとう」
ちらりとまたキョーコは蓮を見た。眼差しが優しく感じるのは何故だろう。蓮はとても穏やかな目でそう言った。
「美味しいね。きっと用意してくれたんだろう、どうもありがとう」
「いえ・・・」
キョーコは、胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。
蓮なのに、コーンに見えて、コーンに見えるのに、蓮。大好きな人が一気に押し寄せてきたような不思議な感覚。
「その目、ですよ、もう。困ります」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもありません!困るんです、その色は。ブルーとかグレーとか、海外の方の役なら色々あったでしょうにどうしてその色なんです」
「どうしてもこうしても」
「もう本当に。困ります」
キョーコは繰り返して、じっと目を見つめて、そして、そらした。
「好きな人?」
「え?」
「一生言わないと決めている人がこの目の色なの?」
「違いますよ。その目を見て思い出す人は友人です。子供の頃から今も、そしてこれからも。一生の」
「そう、そっか」
「え?」
「いや。別に。最上さんが一生言わない人がその人なのかな、と、思っただけ」
蓮は、目の前の紅茶を口に含んだ。
キョーコもそうした。
「最上さんは、その友人に、会いたい?」
「え?会いたいですよ?会えませんけど」
「もし会えたら、その人に言いたい事、ある?」
「そうですねえ、その友人は今は自由にあちこちに行く人なので、また旅の途中で寄って、とでも」
「それだけ?」
「また会いたい、でしょうか?どうかされましたか?」
キョーコは笑って言った。
蓮は外していたサングラスを手に取った。そしてキョーコにそれをかけた。キョーコには少し大きい。
「それでオレを見たら、誰に見えるの?」
「へ?ええ、敦賀さんです、ね?なぜですか?」
「ううん。じゃあ、それかけていて。そのレンズがあるとオレに見えるんだろう?」
蓮は面白そうに笑う。
「・・・?」
サングラスの向こう側の世界は濃い茶色に見える。蓮もいつもの蓮に見える。
しかしキョーコは両手でサングラスのフレームを持ち上げて、取り、たたんでテーブルの上に置いた。
「どちらにしても、敦賀さんは敦賀さんです。ちょっといつもと違うのでどきっとしますけど」
蓮は穏やかに笑い、その瞳を見てキョーコは再び目をそらした。
「最上さんの明日の予定は?あまり女優さんが寝不足で行くのもよくないから、早いならもう帰るよ」
「いえ、今日まとめて私の場面を撮って頂いたので、明日は久しぶりにお休みなんです」
「そっか。オレはもう少しここにいていいのかな」
「え?ええ。だってまだいらしてお茶を一口飲まれただけですよ?わざわざ来てくださったのに」
「ありがとう・・・歓迎されていて嬉しい」
「来て下さって、嬉しいです。もう大阪のお仕事、終わっていらしたのかと、思っていました」
キョーコは何となくいつもと違う雰囲気の蓮を感じて正直にそう言った。
「連絡しなくてごめん。昨日しようかなと思ったけど今日の仕事が入ったから。驚かせようと思って」
キョーコは部屋の隅に行って、幾つか絵を持って来た。
「これ・・・私、敦賀さんと動物園に行った後、妖精に会いたいなって思って、いっぱい、四葉のクローバーの絵を描いたんです。敦賀さんが、四葉のクローバーを見つけたら、妖精が呼べるって言っていたから」
「そうだね、言ったね」
「これ・・・」
キョーコはカウンター向こうで蓮がコーヒーを淹れている姿の絵の中に、四葉のクローバーの絵を潜ませた先を指さした。背景の中に、花瓶の中に、壁紙のシミの中に。次の絵も、次の絵も、その次の絵も・・・隠れクローバー。仕掛けをしたら楽しいだろうと思いついて、誰に気づかれなくてもと思いながら。
「こんなに描いたら、妖精が来てくれるかなって淡い期待をしない訳じゃないんですけど。いつか四葉のクローバーを見つけようって思っています。もう冬だからまた春にでもって思っていました。今は敦賀さんが、まるで妖精のように見えますけど」
キョーコはうつむきながら少し笑う。
蓮もうつむいて少し笑う。
「オレを妖精だと言ったけれど、オレは君の方が妖精だと思うよ。敦賀蓮も、ハルでも、それから、沢山の俳優たちも・・・手に入れたくても誰も手に入れられない」
「そんな。おこがましいみたいで、すみません」
キョーコは何と言ってよいか言葉が続かなくて、ハルからもらったDVDを取り出して、「一緒に、見て頂けませんか?」と言った。
「もちろん。そのつもりで来たよ?」
「ありがとう、ございます」
キョーコはそれをデッキに入れた。そんなに大きいサイズではないテレビがついて、音楽番組に不破尚の曲が映った。
キョーコは大きく息を吐いて「本当にタイミングが悪いヤツですみません」と言った。蓮も小さく首を振る。
「不破とは、こうして一緒にテレビを見たりして、普通に暮らしていたんだろう?」
蓮はそう言った。
「そう、ですね。暮らしていたと言っても、別に家族以上の何ものでもありませんでしたけど」
「それでも羨ましく思うよ」
「へ?あんな屈辱的な時間、もう二度と嫌です」
「屈辱的だった?その時」
「その時・・・は・・・その、好きなる感情があったので、自分を疑いもしませんでしたけど・・・」
「今好きな人の事も疑わないの?」
「え?」
「その人を好きでいると、幸せ、なんだろ?」
「・・・・」
「きっと、不破を好きでいた時も、その間は、例え恋人ではなくただの家族でも、共に過ごす時間は、幸せ、だったんだろうなと思って」
蓮はキョーコの目を見つめてそういった。キョーコは見つめられている事に気づいて、思わずそらした。
「幸せとは何とも勝手なものですね、報われなくても幸せ、なんて。歌い古された歌詞みたいで」
「今のオレだね。今君と一緒にいるだけで報われなくても幸せなんだけど」
「・・・。DVD、つけますね」
「うん」
キョーコは、何と答えたらいいのか分からず、ただ、事務的に声を発した。
蓮はにこり、と笑った。
キョーコは蓮の横に座る。
キョーコの手が蓮の指に触れて、キョーコは慌てて足を抱えて座り直した。
2019.12.27