蓮は喧騒の中、その音が殆ど聞こえない程、心の中に籠って人の話を全て受け流しながら聞いていた。
ハルとキョーコが笑い合う姿も、食事をとり分ける姿も、何かを真面目に話し合う姿も、見たくないのに目の端に飛び込んだ。
「敦賀さん、サラダなら食べられますか?」
一切食べ物を口にしない蓮を見て、卓也役のユウトが声をかけた。いつも卒ない蓮が珍しくどこかぼんやりする姿を見て、ユウトは不思議に思った。誰かが蓮の為に取り分けた物が山となって蓮の目の前に置かれていた。
「あ、ごめん、ありがとう」
「お疲れですね」
「そうかな」
「そうですよ~。オレ、どれだけオレ英嗣さんの横で仕事してると思っているんです。・・・な~んて卓也なら言いそうですね。顔色が優れないというか。食べ物気を付けられているんですか?ベジタリアンとか?それとも体調?」
「いや、ベジタリアンではないけど、このサラダ美味しそうだね」
「その肉体を維持するのに一体何を食べたらそうなるんですか?」
「え?普通、だよ?」
「またまた。敦賀さんの普通はきっと特別そう」
「本当に普通なんだけど」
「この豆腐も美味しいですよ。食べませんか?」
「うん。ありがとう。ユウト君は気が利くね」
「英嗣さんと食事に行ったらと想像するとこんな感じかな、と思って」
あえてあっさりしたものを蓮にユウトは渡した。
ユウトは蓮に、にこり、と、笑った。
「そっか。そうだね、英嗣、卓也に口説かれたんだ」
「そうですよ~告白のシーンも、この豆腐よりあ~っさりと、ありがと、って言われただけです。なのにどうしてこんなに嫌な感じも悲しい感じも無いのかすごく不思議な感じでしたね。卓也を分かり切れてないのかも」
「そんな事無いんじゃない。悲しい気持ちさえしなかったって原作に書いてあった」
「ですかね~。男だろうと女の子だろうと好きになってうまくいかなかったら、落ち込むと思うんですけど。卓也は落ち込まなかったんですよ。それがすごく不思議で・・・」
「もともと諦めていたからじゃないかな。期待もしてないから見ているだけでいいみたいな感じ?」
「確かにそうかもしれませんね。ずっと言えなかったですもんね、卓也。気持ちわかります。言えないです。あまりに好きであまりに大事だと」
「そうかもしれないね。ユウト君は誰か思い当たる人がいるのかな」
蓮は珍しくユウトに興味を抱いた。ユウトは、昔ですけどね、と、少し昔の話をした。
ユウトの言葉や恋愛の話を聞いて、蓮はまた少し心の中がざらりとした。
そして同時に好きな相手に、言う事さえしないというキョーコの事を思い出した。
ふと遠くを見ると、キョーコとハルがまるで二人だけの食事の場のように話し込んでいた。
キョーコは最も端に座っていて、壁際で、薄暗く、キョーコは最早ハルの顔しか見ていない。
ただ話している、そんな事でこんなに体は拒絶する事を蓮は思う。
ハルが気持ちを伝えてあると聞いているからだろうか。
ハルは基本的に明るくしているし、軽薄な噂も聞くけれどそれは仕事用。
実のところは真面目で誠実な男だと蓮はよく知っている。実際ハルが本気で口説いたならば、キョーコは落ちてしまうかもしれない。
そこから蓮は視線をそらして、目の前のサラダのレタスを一枚端でつまんだ。サクサクと口の中でそれは消えた。レタスの味。何も味がしなかった。
「敦賀さん、マジで大丈夫ですか?その食べ方見ているだけで心配なんですけど。ホント食べない」
「はは、ありがとう。大丈夫。あまり沢山は食べないから少しずつ食べないとこの美味しい料理を食べきれない」
「そうですかあ?もう無理なら言ってくださいね、英嗣も敦賀さんもホント食べる姿って見ないですよね。もしかしてそれって俳優としてですか?確か田中徹さんもプライベートでは絶対に食べている所を見せないって聞いた事があります。仕事だからイメージを崩してはいけないって」
「そうなんだ?そんなことは無いけど。今度からそう言おうかな、さすがカッコいいよね、田中さん」
蓮はそんな事を言いながら、目の前の味のしないサラダを、黙々と食べた。
*****
蓮がサラダを目の前に格闘していた時。
キョーコはハルと直球の恋愛談義をしていた。
それは周りに聞かれても良いような質問だったけれども、殆どハルは、キョーコと話していた。周りも皆それぞれに近い人間と会話を楽しんでいた。
「どうして、ハルさんはそんなにあっさりと次へ行けるのですか?」
「どうして?うまくいかなかったのだから次に行くしかないから、それ以外にある?」
「引きずらないんですか?」
「勿論、付き合った後にオレがフラれた時は少しは悲しく思うよ。どうしてと思うし、何が悪かったのかなとか」
「ですよね」
「でも、それでも、もう縁が無かったと思って次に行く」
「傷ついたり・・・しないんですか」
「うーん・・・。こんな仕事だしこんな性格だからかなあ、傷つくほど深い恋をしていないのかもしれないけど・・・。うまくいくにしても別れるにしても・・・何かが等しかったからそうなったんだろう?別にオレの価値が減ったからとか相手の価値が減ったから別れるわけじゃない。何か罵られてダメ出しされて別れる事もない訳じゃないけど・・・お互い様だろう?単に何かが合う、合わない、があっただけで・・・ドラマで次のシーンに移るのと同じ」
「価値が減らない?」
「なぜ他人の言葉でオレたちの価値が減らなきゃならない?オレたちの身も価値も減らないだろ」
「そうです、ね。」
ハルの言う価値とは何だろう。
「ハルさんの仰る減らないという人の価値とはなんですか?」
「うん・・・・?そういえばなんだろう。経験、かなあ?」
「経験」
「生まれた時が真っ白のキャンバスだとすれば、経験で色を重ねていくわけだけど・・・。そのフラれたり別れたりした経験が無いオレよりは、キャンバスには何かの色は足された。それは必ず必要な色だったと思うようにしてる。完成するには、沢山の人の手を借りる必要がある。最後にもしかしたら添い遂げる程愛し合うだれかの手を借りるかもしれないし、途中でまた変わるかもしれない。最後まで何かの絵に向かってる。色は足されはしても、一度塗ってしまった色って重ねて隠す事はできても、間引く事はできない。隠せても無い時とは絶対に何かが違う」
「私の絵はどんなでしょうね。あまり綺麗な色は思い浮かびませんね」
「京子ちゃん。でもそれは美しくある必要も完璧な画である必要もないと思ってる。京子ちゃんは京子ちゃんの色でしか塗れないからいいんだよ。完璧な絵ってないんじゃない。それって多分生まれたての白いキャンバス。元々優劣なんて一切無いやつ。例え美しく白だけで塗っていったって、そこには濃淡が出る。その絵出来上がった絵に優劣はないと思うよ」
「ハルさんて、画家みたいですね」
「何言ってるの~オレは天才の役ヨ。それ位当然。それにオレ意外と絵とか見るの好きなんだよね。一人で美術館行くよ」
「お一人で?」
「一人で。京子ちゃん、今度一緒に行く?」
ハルはけらけら笑った。
キョーコは返事することなく少しだけはにかんだ。
「もしかしたら置こうとした色ではないかもしれない、キョーコちゃんが塗りたかった色ではないかもしれない。でも、京子ちゃんそのもの。美しくないはずがない。たとえ全てが真っ黒な色で塗られていたとしても。黒は全ての色を吸収するんだから、全ての経験をし尽くしたのかもしれない。その上に白を重ねてかえって目立つ絵を描くのかも」
「そう、ですね。真っ黒なキャンバスでも、それでも、いいですよね?」
「誰もが白鳥である必要もないし、黒鳥だって美しい。ん・・・でも、黒?何か、悩んでるの」
「いえ・・・そういう訳では。私のキャンバスはどんな絵が描かれているかなって思うと。やっぱりあまりいい想像しないので・・・。いつも白を黒で塗りつぶしてきたような気もしますし、白く見せたくて黒を白で塗りつぶしてきたのかも。ずっと見ないフリのグレーになっている部分もあるんじゃないかと・・・。ハルさんの思うご自身の絵はどうですか?なんというか・・・穏やかな海に順風満帆な船の絵でも描かれてそうです」
「そう見える?」
「え?はい」
「ありがとう。人の目にオレの絵がそう見えているならそれでいいよ」
「・・・・何か、実は」
「気になる?やっとオレに興味を持った?」
ハルは笑った。でもその穏やかな笑い方は普段見たことが無くて、キョーコはどきりとした。仕事上のハルとは少し違う一面を見た気がした。
「ハルさんも、色々ありますよね、すみません、他人が軽々しく順風満帆だなんて言って」
「ううん。そう見せたかったオレがいるのかも。苦労してます頑張ってますなんて顔に描いてある俳優なんて使いたくないよね」
ハルは可笑しそうに笑った。
「くすくす…ハルさん、面白いです。確かに仕事の経験は苦労ではないですから」
「自分が心の中に描く絵と、人がオレの顔の前で見るキャンバスは随分違うかもしれないね。それが大人というか仕事の成果なのかもね」
「そう、かもしれませんね」
「京子ちゃんが好きなヤツはどんな絵?」
「どうでしょう?」
「何色に見えるの?金色?」
「そう、ですね。金色かもしれませんね」
「きっと、好きになる相手って、金色とかプラチナ色とか・・・自分に無いものを見て、とても光って見えるんだろうね。少なくともオレはいつもそうかも」
ハルは含みを持たせて京子に話した。
ハルにとってキョーコは金色に見えているらしい。
何と答えたら良いか分からない。
また無言になった。
「これ、食べる?サラダ。美味しそうだよ」
ハルは回って来た皿をキョーコに渡した。
「ありがとうございます!すみません取り分けて頂いて」
先輩に取り分けて貰ってしまい、キョーコは恐縮した。
「オレじゃないよ、ユウト君が分けてくれてる。回って来た」
ハルが指さした先、遠くでユウトが分けていて、蓮は周りが話す様子をどこかぼんやりとした様子で聞いているように見えた。
横のユウトに声をかけられて何か話し、また食べ物の皿が置かれていた。
蓮の前に置かれた大量の皿を見ても、あまり口を付けていないらしい。
「食べよう?」
ハルがキョーコに声をかける。
キョーコは目の前に視線を戻した。
「あ、はい!」
蓮とキョーコとの間にあるべき本来の距離は、こんなものだと思う。
この距離があったなら、最初から仕事仲間として諦めて好きにならなかったのに。
でもそうであったなら、人生ずっとショータローの為に復讐をして時間を捧げていたかもしれない。
新たに違う人を好きになっていたかもしれない。
違う人生を歩んだかもしれない・・・。
ふう、と、無意識の重たい息をキョーコが吐き出して、それをハルが見届けた。
「京子ちゃん」
「はい?」
「なんかさ、英嗣というか・・・アイツ、蓮さ、京子ちゃんに随分負担というか負荷かけてるの?」
「え?いいえ?仕事でも良くして頂いてますよ。何かありますか?」
そういう事ではないんだけれども、と、ハルは言おうとしてやめた。
ちらりとユウトと蓮の方を見た後に出た重たいため息。
今の重たい息の理由が、キョーコが向けた視線の先の人物によるものではないのか、そんな事を思っただけだ。
「なぜですか?何か?」
「いいや、蓮て事務所の先輩としていい奴なのかな~と思って。アイツとオレ同学年で多分ほぼ同期だから」
「いい奴というのが優しいとかそういう意味なら優しいですよ。厳しい時もありますけど、真剣に怒って下さるので。だから、いい人です」
ふふ、と、キョーコは笑った。
正面からそれを見たハルが、やっぱり溜息の原因は蓮か、と、思った。キョーコのそんな素の笑顔を見たことが無かったからだ。
蓮を思えばその仕事外の笑顔があまりに自然に出来てしまう、恐らくキョーコの思う相手は蓮だな、と、感じた。
キョーコは目の前のサラダのレタスを一枚さくり、と、食べた。ドレッシングのレモンの味が強くする。すっぱい、と、思って顔をしかめた。
「すっぱいよね?これ。でもおいしいね」
「はい、すっぱいです・・・!」
顔じゅうが、きゅう、とすぼまった顔をして、キョーコはハルに答えた。
「おもしろい顔」
「おいしいんですけど、変な顔になりますね」
ハルとキョーコは可笑しそうに笑った。その様子を蓮の目の端が見届けて、また深いため息をついて、その蓮の姿を見届けたユウトが更に息を吐き出したのを、ハルもキョーコも気づいていない。最早二人だけの世界に近いように見えた。
「京子ちゃん」
「はい」
「今度また食事行こう。オレ一人とだと怖ければ蓮も呼ぼう。アイツも一緒ならいいだろう?」
「聞いてみます」
「誰に?」
「お誘いするなら敦賀さんと、マネージャーさんの社さんと、あと、社長と」
「やっぱり社長が出てくるの?」
ハルは可笑しそうに笑った。
「やっぱり、って、うちの社長って何かありましたか?」
「いや。有名な社長だからさ」
「ええ、一応私の軽率な行動が会社や敦賀さんに迷惑をかけてしまうといけないので、許可頂いてみます」
「そっか、そうだね」
ハルは笑ってそれを受け入れた。
帰りがけ、ハルはキョーコに言った。
「さっきは無理やりごめん」
「いえ、別に、あの、気にしないでください」
キョーコは両手を体の前で振った。
「でも。早く言って欲しいのは本当」
「・・・ハルさん」
「うん?」
「あえて、あの時、敦賀さんがいる所で、やってくださったんですよね・・・?」
「・・・どうしてそう思うの」
「・・・本当に悪い人なら、誰もいない所でするのではないかと思いまして。ハルさんの楽屋に、私は呼ばれてもおかしくないです・・・。なのにあの部屋に呼ばれてだったので・・・」
「それはオレを誘っているの?分かっていても、言わない方がいい。もう一度したくなる。いいの?」
ハルは殆ど唇を近づけたけれども、それをしなかった。頬に添えた指先でキョーコの唇に触れて、そしてその指を自分の唇に添えた。
驚き今度は真っ赤になってまた何も言えなくなったキョーコは俯いて、
「ハルさんは、いい人なんですね」
とだけ言った。
「そう見せているだけかもよ?」
「私は恋愛の裏も表も違いが分かりません。ハルさん、もし本当に嫌な事をするなら、敦賀さんの前でしなかったはずですし。きっと敦賀さんが止めてくれることを分かってそうしましたよね、さっき。止められるのをなぜか待っていた感じさえしました。あの・・・決してキスの経験が多い訳ではありませんけどそんな気が・・・」
キョーコは思ったことをそのまま伝えた。なぜかハルの唇は入り込まれていたのにまるで嫌な感じがしなかった。それはどうしてだろうとずっと考えていて、まるで「演技のよう」だと気づいた。何かの感情が乗っていなかった。
「やっぱり早く伝えてフラれてオレの所に来て。好き」
「どうして、私なんです?」
「好きに理由がある?愛したいから。一緒にいる時のオレは仕事中も今も結構自由にやれてる。なぜそれを初対面の京子ちゃんは引き出してくれるのだろうと思う。そんなに相性の合う、フラれてもフラれても手にしたい相手はそんなにいるもんじゃない」
ハルはキョーコの頭頂部に唇を寄せた。そしてそれだけで今日はやめておくと言った。
慣れている訳ではないキョーコはただただ俯いた。今の所どんなに愛を囁かれてもハルを好きになる事はないだろう。でも相手が自分を好きでいる事はまた別の話だ。ノーと言っても引き下がらない様子だ。隙間をこじ開けようとしてくるハルの気持ちが分からない。
「どうして口説くのか分からないっていう顔をしてる」
「・・・」
「手にしたいから。愛したいから」
「私、は、」
「知ってる。オレの事は仕事の相手として好きでも、恋愛として好きじゃない、だろ?」
「・・・」
「君が誰を好きか大体分かった。オレが予想する相手なら。それはオレが女でも言いたくもないかもね。でも・・・やっぱりそれでも言うかな。伝えなければ分からない事は沢山ある。オレは伝えたからこそこんなに京子ちゃんに意識されてる。それでいい」
「・・・・」
キョーコは何も答えず何も反応せずに、じっと見つめた。
「ハルさんなら、どうしますか?」
「はは、同じように、好きだ好きだ好きだと言い続けて、相手が落ちるまで言う」
「諦めないんですか?」
「諦めるのは、相手に恋人が出来た時と、何かあって好きではなくなった時。その時は潔く引き下がる」
「はっきりしていますね」
「うん。仕事も同じだろ。諦めたらそこで終わり」
「・・・・それはハルさんに同意します」
「だろ?仕事欲しいなと思って誰かの仕事を眺めていたって一つもやってこない。こんな仕事がしたいとまず言わなければ。できるかどうかなんてやってみなきゃわからない。それと同じ」
「そう、ですね」
キョーコはまた俯いた。
「京子ちゃん、好きだよ。考えて欲しい。他のヤツの話も結構聞いた。いい相手ばかりだ。でも。オレは関係ない。事務所がダメと言ったら、いいと言われるまで言い続ける」
ハルは改めてキョーコにそう言った。
「今度さ、京子ちゃんにオレが出てる映画のメディアあげる」
「あの?」
「うん。見て欲しい」
「ありがとう、ございます」
キョーコは少しだけはにかんで言った。
*****
お開きになってキョーコはハルと二人で蓮のそばまで来て、ハルがキョーコを蓮に託した。
ハルは珍しく蓮に何も言わずに、じゃあおつかれ、と言って背を向けた。
「お疲れさまでした」
綺麗なお辞儀でキョーコはハルに挨拶を続けた。
そして、次々と帰っていく先輩俳優たちを見送った。
「あの、まだ終電があるので。電車で帰りましょうか」
キョーコが気をつかって蓮に言った言葉は、蓮の何かの気を損ねた事に気づいた。
蓮がイエスともノーとも言わない姿だけで、キョーコは全ての答えを得た。
「送るよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん。絵、描く?明日休みだから」
「そう、です、ね・・・」
少しキョーコは答えを言い淀んだ。
何となく様子の変な蓮のそばにいたら。
墓穴を掘るのではないか、そんな気がした。
蓮は有無を言わさずに自宅までキョーコを連れた。
2019.08.02