でも、この痛みには、覚えが、ある。
手を振りほどかれるのは慣れている。
いつだって、そうだ。
いつも、自分が心から愛している人、愛して欲しい人には、必ず、手を、振りほどかれる。
きっとそんなものなのだろう。
自分は、相手に何かを期待していたのかもしれない。
一体こちらに何を期待しているの?と、その手たちはキョーコに伝えた。更には、その様子にキョーコが戸惑うだけで、勝手に人に期待しておいて、勝手に一人で何傷ついているの、と、キョーコを責めた。
いつでも思い切り手を振りほどかれた子供の頃の記憶。十代の頃の、髪が黒かった最後の記憶。
そして。
「・・・・・」
キョーコはショックで目を大きく見開いたまま、呆然としていた。
そして、耐えきれなくなって、目から、涙が零れそうで、キョーコは思わず勢いよく立ち上がり、テーブルにあったカップを持って、キッチンへ向かった。
向かいながら、零れた大粒の涙が、頬を、伝った。声が出そうなぐらいの、強い嗚咽がこみあげてくる。
――忘れていた
蓮に好きだと言われた事は、英嗣の言葉だった事。毎日心から安心してこの場所にいた事。
蓮とは、ただの「知り合い」だったこと。
人に、愛情を期待してはいけないという事。
子供の頃同居していた先の幼馴染にだって、どんなに願っても、どんなに共にいても、言われたではないか。「お前なんて」。
英嗣に「大好き」と散々伝え「好きだよ」と言われ、今英嗣になりきっている蓮にまで好きだと言われ、心を預け、全てを当たり前に受け止めてもらえる経験を蓮としてしまって、キョーコ自身の心の中も嬉しくて、その愛おしさが徐々に当たり前のようになって、優しく心が緩んでしまったのだろうと、キョーコは思った。
これは、学習、という言葉を忘れた罰だ。
あんなに学んだはずなのに。
絶対に、好きになんてならないと思ったのに、なぜ、こんなに、好きになっていたのだろう。
好きになるのは自由だし、勝手な事だ。
心が互いに通じていて、更には、それをまるで当たり前のように受け止めてもらえる事が、こんなに嬉しい事だったなんて。
嗚咽を止めようとするから、喉が細かく小さく動き、繰り返され、息が苦しい。嗚咽はさらに繰り返されながら、悲しくて、キッチンで流れる水の中に、涙が落ちて、共にどこかへ流れていった。
しばらくして、蓮が入ってくる気配がした。
蓮が、そっと、背中からキョーコを抱きしめた。
蓮の顔が、キョーコの泣いている顔に擦り寄る。
蓮の頬にも、キョーコの涙が触れた。
「泣かせて、ごめん」
蓮は心の底から絞り出すように声を出した。
まるで、傷ついているのは蓮かのように。
キョーコは、首を振った。
「どうして泣いているの?オレの何がいけなかったか、オレには分からなくて・・・教えて。そんなに金色の髪のオレが描きたかったの?それとも無理やりしたのが嫌だった?」
キョーコは首を振った。
蓮は悪くない。
「君が泣いているのに・・・一番抱きしめたい時に後ろからしか抱きしめられないなんてそんなの嫌だ」
蓮は水道を止めて、キョーコの手をタオルで拭うと、正面から抱きしめた。すっぽりと、蓮の体の中に納まってしまった。
「ごめん」
悪くないのにただただ謝られ、優しくされればされる程、佐保と、キョーコとしての立場の違いに、こんなに悲しいなんて。
キョーコの止まらない嗚咽と涙が、蓮のシャツを濡らした。
「・・・ごめんなさい。私、時々、二重人格みたいに、キョーコ、という人が、頭の中で話すことがあって・・・。少し、昔を、思い出してしまって・・・。そのキョーコが、敦賀さんという人に、ごめんなさい、お仕事中に泣いてしまうなんてお仕事失格でごめんなさい、って、ずっと、ずっと謝っています」
キョーコがそう言うと、蓮が、左右に首を振った。
「・・・ごめん、オレじゃ、佐保の、役に、立てないみたい、で・・・」
蓮はとても傷ついた声をしている。
抱きしめられているから、顔は見ていない。
でも、きっと、見たら、いてもたってもいられない位、心配して傷ついた顔をしているだろう。
佐保に拒絶されたら、英嗣は生きていられないというのに。
自分の涙のせいで、蓮も傷つけ、英嗣も傷つけた。
キョーコはそう思った。
自分の恋心とトラウマが呼び起こされて佐保ではなくキョーコが傷ついてしまったことさえも、蓮は自分を責めているようだった。
「・・・?違います、違います・・・ごめんなさい。英嗣さんは何も悪くないんです。私の頭の中が、おかしいんです。キョーコ、という人が、勝手に話をするから・・・」
キョーコは、英嗣を傷つけてしまったことを思って、体中のありったけの力で、蓮の体を抱きしめた。ごめんなさい、という気持ちと、佐保としての、大好き、という気持ちと。
「じゃあ、頭の中の彼女にも伝えて。佐保の中で起きている事なら何かおかしい事なんて何もない。君も含めて愛しているからいつでも出ておいで、と」
「・・・・・」
キョーコはまた涙が浮かんで、それを蓮のシャツが受け止めた。
「だから、話すことが出来るなら、話をしてほしいと、伝えてくれないかな」
「・・・・いつか、と、言いました」
「今の、オレでは、ダメなんだね」
「違います・・・」
「じゃあ」
「でも、話せません」
蓮は、意地っ張り、と、言ってキョーコの耳たぶを両方つまんで、両側に引っ張った。
「いたい、ですっ」
「耳を開けて、よーく聞いて。オレは、君が好き。君を愛してる。だから、安心して出ておいで」
「・・・・・・・・・」
ようやく顔を上げたキョーコが見た蓮の表情は、少し怒ったような、拗ねたような、どこか子どもっぽい表情だった。
どこかで、その顔を見たことがあると、思った。
でも、蓮の顔を見れば見る程、苦しくて、涙がまた溜まってくる。
蓮に、言いたいことは、ただ、一つだけ。
本当の佐保のように、絞り出すように伝えた。
「あの、違うんです。英嗣さん・・・お願いです。英嗣さんがその方を愛するのは構いません・・・でも、私の手も、振りほどかないで、ください・・・。あなたが、実際に、誰を、愛していて、本当は誰と、いたいと望んでいても、構わないんです。でも、私も、多分、中のキョーコも、手を、振りほどかれるのが、一番、怖い。置いて、いかれるのが、一番怖い。昔、私が、大事にしたかった人は、みんな、私の、手を振りほどいて、私を、置いて、いった、から・・・」
キョーコは、伝えるのも苦しくて、嗚咽交じりに伝えた。涙が沢山溢れて、零れ落ちた。
今できる精一杯の言葉を選んだ。キョーコも、佐保も、どちらも、伝えられる限りの最大の言葉だった
蓮は、衝動的にキョーコを抱きしめて、動かなくなった。
キョーコを体に抱きとめたまま、
「ごめん・・・」
と、また言った。
その言葉は、やはりどこか英嗣も蓮も抜けてしまったのかのようだった。どこから声が出てきたのか、誰の声なのか、分からなかった。それは、蓮の中に眠る本当の声なのかもしれないと、キョーコはあとで思った。
その時は、それを感じ取れなくて、優しい言葉をかけるために無理やり絞り出したようにキョーコには聞こえた。
「・・・英嗣さん、に、嫌われて、手を、離されてしまったら、私は、どこへ、行ったらいいでしょう」
「違う。違う。そうじゃない。嫌いなんて思ってない。君が言う所の、二重人格というの?オレの中の、もう一人が言うんだ。これ以上君に触れたら、責任が持てなくなる、って」
「え・・・?」
「待てなくなる」
「あの・・・」
もしかして、最近触らないでいたのは、そのせいなのだろうか?
「英嗣、さん?」
「オレが最近全く触らなかったの、気づいていたんだね。顔に、書いてある。オレに、触られたかった?それとも、触られたくなかった?」
キョーコは顔をまた抱きしめられている蓮の体に埋めて、首を左右に振った。その意味を蓮はどちらに捉えただろう。答えを出したくない。その問いに対する答えは、イエスであり、ノーなのだから。
「背中だけ、って約束だったっけ。でも、泣いている時だけは、いいよね」
キョーコは返事の代わりに、蓮の体をもう一度、ぎゅう、と、抱き締めた。
「佐保、中の、もう一人の子に伝えてくれるかな。一人で泣かないでって。きっと、本当は誰かに聞いてほしかったり、誰かの腕が必要なのに、いつも、一人でどこか一人になれる場所に逃げて泣こうとするから、って・・・」
キョーコは、恐らく蓮がキョーコ自身のために言っているだろう事を思って、戸惑い、嬉しくて、ただ、また、ぎゅう、と、抱き締めるだけだった。
なぜ泣く時はいつも一人で泣きたいことを知っているのだろう。まるで自分の事をよく知っているかのように言ったそれが、とても、とても、嬉しかった。
「あなたの中にいる人にも、伝えてくださいって。そのまま、あなたにも、お返しします、と」
「?」
「・・・中の人、も、多分、いつも、悩んだら、一人で解決したがるはずなんです。だから、私にも、どうか、話してください、そう言っています」
蓮は、苦笑いで「そうかな、そうだね」、と、軽く笑って返事をした。
「ありがとう。オレの事まで」
「ありがとうございます、私のために」
キョーコは蓮から離れた。
蓮は泣きはらしたキョーコの目を見て、
「冷やさないとね。明日に響いたら困るね」
と言って笑い、キョーコは、思い出したように、顔を、ぱちぱち、と、両手で軽く叩いた。
「泣いている場合では!」
「元気、出た?」
「はい。ごめんなさい。泣いてしまって」
「ごめんね?オレが何か君の嫌な事をしてしまったみたいで・・・。オレはすぐに分からないかもしれないから、そんな時は「嫌」って教えてくれると嬉しいんだけど・・・」
「英嗣さんは、私の嫌な事はしません・・・」
「じゃあ、なんで、泣いているの?」
「教えませ・・・むぐぐ」
蓮はキョーコのほっぺたを両側に引っ張って、意地っ張り、と、加えた。
「中のキョーコさんが言っています。女優の顔を引っ張らないでくださいって」
蓮は、にっこり、と、綺麗な笑顔を作った。
「触りたくなるようなやわらかい頬っぺたなのがいけないんだ」
あ、また、何か怒っていらっしゃるのですね、と、キョーコは思った。
「もう、子供みたいな事を言わないでください」
「金色の髪のオレなんて描かせてあげない」
「・・・い、いじわるです・・・描きたいのに・・・」
蓮はにっこり、と、また笑って、
「今のオレだってそんなに君は積極的には描きたがらないのに金色になったら描きたいなんて本当に佐保の中の子は男心を弄ぶ悪い女の子だ」
「・・・なに言っているんですか!!違います!!今のも描きたいですよ?黒いエプロン着けてくださいませんか?(この部屋の中で二人きりなのに直視するのが困るだけで・・・・)」
「じゃあ描いてね」
蓮はまた更ににっこり、と、笑った。
キョーコは、やられた、と、思った。
それまで泣くだけ泣いていたことは、すっかり忘れていた。
蓮は、す、と、キョーコの顔に手で触れて、涙をぬぐった。
それから、痕を付けた肩先に指を置いた。
「英嗣さんは、佐保さんに、ご心配していただいているようなことをいつでもしたいから問題なんですよ、中にいるキョーコさん」
「わ・・・・」
キョーコは今度は目の中に溜まっていた涙を零しながら赤面して、蓮の体に顔を埋めた。
「社長、という人がいいと言っても、中のキョーコさんが許可を出していないのなら、触らないよ?」
蓮はキョーコの肩先についた赤い色を、指で、そっと、撫でた。
くすぐったくて、びくり、と、キョーコの体が反応した。
「こういうこと」
蓮は触りたいと言っている。許可を得るべきなのは、佐保ではなく、中のキョーコ自身であることも。
「・・・いいですよ。でも、唇、だけ、と。それならあとで散々撮影するので、練習、と、思います、と、中のキョーコさんは言っています」
「・・・ふぅん・・・」
蓮は至極不満そうな声を出した。
「仕事、なんだ?」
「・・・なんで、怒っていらっしゃるんですか?」
「じゃあ、君からして」
「は?・・・じゃない、え?」
「佐保、もしかして、オレの事、嫌いになった?」
急に蓮は英嗣の顔に戻ってキョーコを誘った。
卑怯だわ、と、思う。
蓮は、キョーコの顔のそばまで顔を寄せた。どきり、と、キョーコの心臓が縮む。
仕事を盾に。触る許可を得られる。
「大好き・・・」
いつもの、佐保の台詞と共に。
いつもの、毎日の、お別れの、キス。
それは、佐保からするものだっただろうか。
キョーコはそっと、唇を、蓮の唇に置いた。
蓮は、キョーコの唇に視線を寄せている。
それ以上私にどうしろと。
キョーコはただ固まってそれを続けた。
蓮の唇がキョーコの唇をどうしたの、と、少し押し返す。
キョーコは置いた唇でそっと蓮の唇を食む。
でも、それで、離れた。
佐保ではない、キョーコの方が、やはりそれを止めた。
「英嗣さん、こんな、私の気持ちを試すような方法を取るなんてすごく嫌です」
キョーコはそう言った。
蓮は、「そうだね、ごめん」と、言った。
まるで意味など何事もないかのような口づけ。肌の一部が触れただけ。仕事の口づけ。
「じゃあ、オレがしたいようにしていい?」
蓮の目は、何かの感情に飢えた別の人の目で、これが、英嗣の持つ、渇き切るような感情、なのだろうか。
キョーコは、「英嗣さんがしたいなら」とだけ言った。蓮はキョーコをすぐに抱き上げて、寝室に向かった。
「え」
「したいことをする」
ベッドに降ろされても、キョーコは恐怖しか感じなかった。
「こ、こわい、です、英嗣さん」
「キッチンじゃ君の背中が痛い」
キョーコはもはやどう切り返したらいいのか分からず、頭の中がいっぱいで痛い。
このままでいったら、社長や社さんが言う所の「責任が持てない」何か、に、なるのではないか。
寝室かと思ったら、ゲストルームに連れて行き、ベッドに寝かせると、蓮は、ゆっくりと、キョーコの唇を自らの唇で食み始めた。
ふっくらとしたキョーコの唇を、ただただ口づけて、そして、ふっとキョーコが息継ぎをするために吐き出したギリギリの息のために開いた唇の隙間に、舌先を入れ込んだ。
蓮はキョーコにとても情熱的に口づけた。蓮が出す口づけの甘い音だけで、キョーコの心臓は、最早止まってしまいそうな気がした。
キョーコの逃げる舌先を、蓮は捕まえにいく。捕まえると歯で引き寄せて引き出して絡めて、自分の中に誘った。
促されるまま蓮の中で、キョーコが、蓮の舌先を追う。
二人の体はいつの間にか密着するだけして、蓮の左腕はキョーコの首を支えていて、空いている蓮の右腕は、キョーコの髪をかき上げた。
さらさら、と、髪が零れていく。
何度も、何度も、髪を零す。
蓮は角度を変えてキョーコの唇を侵した。
キョーコが我慢できなくて、短い息を吐きだし、可愛い声を出した。
蓮が、もう、我慢ができなくなった。
だから、キョーコから、唇を離した。
「理性の無くなるオレ、どう?こんな感じでいいかな?」
「う、うぇぇぇ?」
キョーコの顔面がおかしな程崩壊したから、蓮が思い切り吹いた。
しばらくの間「笑ったフリをした」。
仕事にしてしまわなければ、キョーコが受け入れられない事は、蓮も分かっていた。
そしてこれ以上キョーコの内側を知ると、多分もう、全ての名目と言い訳と理由を放棄して、愛し合いたくなってしまいそうだった。
キョーコの唇に一度指で触れた。
互いの唾液で唇は濡れていた。
それを、蓮の親指が拭った。キョーコの目は、もうこれ以上開かない程開いて、視点の定まらない戸惑った目が、天井を見つめていた。
「いい?これで。それとももっと情熱的というか、乱暴な方がいいのかな。理性が無くなるって。でも、英嗣だからね。どんなに理性を失ってさえも、佐保の事ならとても大事に口づけると思ったんだけど・・・」
「・・・・わ、わかりません・・・」
「もう一回、やってみる?」
「・・・・いい、いいえ、あの、」
「いいの?嫌なの?」
「・・私には!分かりませんので!!監督に聞いてくださいっ・・・恥ずかしいです、もう」
うぁぁぁん、と言って、キョーコはベッドのシーツに顔を埋めた。
「ごめんごめん」
蓮は苦笑いで上掛けをキョーコにかけて、上からどいた。
「好きだよ。乱暴じゃない方法で、もう一度した方がいい?」
蓮は、キョーコの頬に手を置いて言った。
「・・・・」
佐保なら、うん、と言うだろう。
キョーコなら、いいえ、と言うだろう。
蓮はそう思っていた。
「・・・うん」
佐保なのだろう。
仕事なのだろう。
それを分かっていて、蓮は、再度、甘く、優しく、長い時間をかけてキョーコの唇の記憶を塗り替えた。
2019.4.6