Daydream9

9. Fantasie Impromptu 《幻想即興曲》

キョーコが渡したCDを、蓮はしばらくしたある日、開けてみた。二十曲ほど入った、恋する女の子の歌。その中でも「シンデレラ」が好きだと言っていた。彼女が好きなそれは、蓮が想像していたような「王子さまと幸せに」という歌詞ではなかった。「私のガラスの靴はみんな壊れてしまったの」だの、「王子さまが見つかるのをじっと待ってなんていない」だの・・・。やはり「キョーコちゃん」とは少し違うと、少しほっとしたような、残念なような、蓮は不思議な気持ちを覚えた。

――もし彼女が「キョーコちゃん」だったら?オレは彼女であってほしい、と望んでいるのだろうか?オレは、気に入ったのだろうか、それとも彼女に落ちたのだろうか・・・

蓮は、キョーコの為に購入した「愛の夢」の楽譜を手に取った。解釈を書き込み、改めて弾いてみる。

でも、彼女の泣いた声が、震えた身体の感触が頭から離れなくて、前回同様集中出来なかった。

「この曲は一生まともに弾けないかもしれないな」、そんな事を思って、蓮は静かに楽譜とピアノを閉じた。

*****

「キョーコちゃん」とかつて会ったとき、シンデレラが大好きで、将来ガラスの靴を持ってショーちゃんが迎えに来ると言った。ショーちゃんが彼女の中の王子様で、「ショーちゃんじゃなくて、ぼくが来たらどうする?」と冗談で言ったら、「コーンがショーちゃんと同じになったらいいよ」と言って笑った。

「じゃあぼく、それになる」

「えーっ・・・コーンもそれになるの?無理だよー!!」

「どうなれば、おなじ、になるの?」

「ショーちゃんのパパがね、この間ね、んっと・・・ラフ・・・なんとかのコンクールっていうので優勝したの。ショーちゃんもね、将来それになるんだって。そうなったら世界一なんだって。だからね、コーンもそうなったら一緒!」

「うん、わかった。ぼくもそれになる」

「私もそれになるのっ。王子さまとね、おんなじぐらい王女さまも頑張らないといけないの。だからね、一緒に頑張ろうね、コーン」

「うん。がんばるよ。キョーコちゃん、じゃあそれになったら・・・またあいにくるよ」

「じゃあ私がそれになったら、私、コーンに会いに行く!!約束ね???」

「やくそく・・・・」

*****

たったそれだけの口約束。

大きくなった彼女が覚えているかどうかも分からない。彼女の「ショーちゃん」は既に世界で優勝していて、いや、そんな約束など無くても、ガラスの靴を持って彼女を迎えに行っているのかもしれない。

「コーンの声、綺麗!!」と言って歌うたびに目を輝かせていた彼女。音楽は父の後を追ってやり始めたから、最初は特に楽しいと思ってやっていた訳では無かった。

でも、「キョーコちゃん」が泣き止み、心から喜んでくれた事が、歌う事の意味を、楽しみと喜びに変えた。

声変わりをしてからは歌う事はなくなった。

けれども、彼女が一緒に頑張ろうと言ったピアノは続けた。

ラフマニノフの曲ばかりを弾いて、いつのまにかコンクールも毎年出るようになった。その出場者の中に「キョーコ」という名前は一度も無かったし、「ショー」という名前も出てきたことは無い。あの口約束を守ったのは自分だけかもしれない。

――ただ、彼女に会ってお礼を言いたい。オレに生きる目的をくれた彼女に会いたい。いつも会いに来る時は泣いていて、お別れしなければならなくて、またぼろぼろ泣いて・・・今でもよく泣いているだろうか?

そういえばあの子も自分に会うたびに泣いているなと、蓮は思った。同じ「キョーコちゃん」。シンデレラが好きで、泣いてばかりの彼女。不破は不破尚というらしい。ショーちゃん、と呼ばない事も無い。どうしても彼女が、自分の思い出の中の「キョーコちゃん」の断片的な記憶に被っていく。そして、いい迷惑だと怒る彼女の顔が目に浮かんだ。

――「ショーちゃん」のパパはオレと同じコンクールで優勝したと言っていた。日本人が一人だけ優勝した記録が残っていたはず・・・。

気にした事が無かったから、蓮もあえて名前を知ろうとも思わなかった。取材時にそう考えれば史上二人目の日本人ですね、と言われたような気もするが、興味が無くて流してしまったから、気にも留めなかった。

「学長、オレの部屋の隣の不破・・・の父親は、もしかして、オレと同じコンクールに出ていませんでしたか?」

「あぁ、お前と同じコンクールで優勝していたかな」

――・・・・・・。

「ほら」、と言って学長に手渡された資料に、不破の父親の名前が――蓮が「キョーコちゃん」と出会った頃の欄に――優勝者として載っていた。それ以降日本人で自分以外に第一位は出ていない。

ショーちゃんは不破で、不破の父親はあのコンクールで優勝。あの子はやはり「キョーコちゃん」なのだろうか?

「どうした、蓮が人の事を気にするなんて珍しい。部屋が隣だからか?」

「いえ・・・。不破自身はどうなんです?コンクール出ていないようですけど」

あぁ・・・と生返事を返した学長は、勢いよくソファに腰を下ろした。

「反抗期みたいなもんだろ。まぁピアニストとしても歌手としても相当な実力だから、特待生としては別に文句は無いよ。ピアニストとしてやるかどうかなんて本人の自由だ。実力はあるんだがなぁ。どうも本人が芸能活動の方も向いているから、止めてないだけなんだがね。高校生で国内コンクールに優勝した実力がありながら、だ。留学もするはずだったんだけどな。映像見るか?」

「・・・そうですね。オレの隣、ですから」

「ふん・・・・不破君、じゃないだろう?あの子、最上君だろう?不破君の幼馴染で婚約者。どうした、仕事で接して・・・「恋人役」やったら逆にお前が落ちたか?まぁ確かにあの子の女っぷりは良かったな」

全て見透かしたような当たらずも遠からずの相変らずの洞察力に、蓮も少し困ったような苦笑いを浮べた。

「なぜあの子が「ラブミー部」なんです?別に・・・愛を表現できていないわけじゃないと思いますし・・・実力としても相当ある。なのに今コンクールに出ていかないのがもったいないように思うんですが・・・。先生についているのも、ラブミー部だからではなく実力でしょう?さっさと世に出てプロに転向してもいいくらいです」

「早いな。もう聴いたのか、彼女の音。悪くはないだろう?・・・音に厳しいお前がそう言うのならやはり悪くはないんだろうな。けど・・・どうもまだ精神的に不安定で、な。不破君の事があるからなのか、彼が世間で浮名を流しているからなのか・・・音がその日の気分によって変わる事があってね。まぁそれ自体は直そうと思えば暗示療法でもなんでも使えばどうにでもなるんだろうがそれは最終手段。それにもう少し深く音を表現できた方がいい、というのは本音だよ。それが表現できた時、彼女はどこでも優勝するだろ。別に急がなくてもいい、というだけだよ。むやみやたらにコンクールに出て、それなりの成績しか取れなくて自分で自分の評価を下げてしまって諦めて潰されるよりは・・・彼女はもう少しゆっくりと育てたいというのがオレの本音でね」

「・・・なるほど・・・ラブミー部、というのは表向き「足りない」と見せかけて、実は学長のお気に入り、なんですね。大事にされているんですね。・・・・この間の件で、しばらくオレも彼女を見ることになったんです。彼女に頼まれました」

「ほう?最上君が教えて欲しいと、お前に言ったのか?」

「えぇ」

「それは珍しい。この間のパーティで相当お前の音、気に入ったんだな。あの子、この学校ではお前が嫌いで有名な子だぞ。そんな事堂々と言う子がいないだけだが・・・。その代わり婚約者や恋人とは公表してないが「不破尚の幼馴染」として・・・彼を好きな相手には相当な目に合っているようだ。で、お前が就く、か・・・。ふふ・・・面白い。で、お前も本気で教える気になるぐらいには音、気に入ったか?でも手は出すなよ。あの子が潰れる。お前程慣れていない」

「・・・・正直、約束はできません。オレはあの子を気に入っていますから。彼女次第です」

「蓮。お前は「キョーコちゃん」を探すんだろう?」

「えぇ・・・でも別に見つかったところで、その子と結婚するとかそういう訳では無いですから」

「分かった。お前が誰と付き合おうと結婚しようと構わないが・・・あの子は潰したくないんだ。お前はもう実績と共にどうにでもなるがあの子はこれからだ。「気に入った」だけで手を出して、あの子がさらにラブミー部に残るような事になったら、せっかくのオレが大事に育てている原石が光らなくなるだろう。分かるな?」

「そうですね。もし本気になったら、にしておきます」

「・・・・・そうあって欲しいね」

最後に渡された不破のビデオテープを持って蓮が先生の部屋へ訪ねると、先生は人差し指を口に当てた。先生の部屋から続く隣の部屋を覗くと、キョーコがピアノを弾いていた。蓮が渡した楽譜を鼻歌交じりで楽しそうに弾く彼女は、一箇所音を飛ばして、「あ~~」と呟いた。そして、「もう~~~敦賀蓮のばかー!!!こんな難しい弾き方できない~~~!!!」と独りで叫んで、ぱたん、と楽譜を畳むと、また新しい楽譜を取り出して、置いた。

彼女が弾き出したのは先日蓮が弾いた「溜息」。この間それも持って帰ったのは蓮も覚えている。蓮の解釈が書いてある通りにさらっていき、蓮が弾いたとおりのテンポで流れていく。彼女が「甘い音」と言っていた自分の音の通りに・・・。

「キョーコちゃんね、最近こればっかり弾くんだよ。敦賀君に楽譜を借りたと言って弾くんだけどねぇ・・・びっくりしてね。こんなに女の子らしく優しく弾くなんて思わなかったから。選曲自体は今までもこういったタイプの物もこなしてはきているんだけどね、でもこれは僕の解釈じゃないんだよね。君のかい?甘いね」

先生は、ふふふ、と笑って蓮を見た。

「オレが弾いたとおりにさらっているみたいですね。オレが試しに弾いたのと同じに聴こえます。オレの音を全部聞いて真似して抜いたあかつきには、先生に追いつくのだそうです」

「ほほう・・・そんな事を言ったかね。学長のお陰でコンクールにも出られず漠然と課題曲をこなしていたからね。君という目標が出来て・・・相当楽しいんだろうな。君嫌いで有名だったんだけどなぁ」

――・・・全く・・。この学校の人間は皆口をそろえて「最上キョーコは敦賀蓮が嫌いで有名」と、オレに言う。

「いつか本当に抜かれそうですね。あぁ、これ。不破のビデオを借りてきたんです。先生から見て・・・不破の実力はどうなんです?教えていらっしゃるのでしょう?」

「勿体無いよねぇ・・・二世としても相当な実力だよ。父を凌ぐだろうに。そのテープは優勝した時のかい?彼もその時にはもう僕に就いてくれていたんだけどね。プライドが高くて・・・父親へのコンプレックスが相当あったみたいだよ。父親と同じ道が嫌できっと今の仕事に打ち込んでいるんだと思うけど、どうだろうねぇ。そっちでもトップアーティストだからね。本当に音楽の才能は相当なものだよ。見てみるといい」

 蓮はただ頷いた。

先生は、少し間を置いてから、口にした。

「キョーコちゃんの音は完全に彼譲りだし、実力も彼と同等かそれ以上のものがあるんだけどね。ずっと一緒だったからね・・・彼が目の前から居なくなってしまってから・・・目標が見つからなかったんだろう。長い事ピアノを弾く事も辞めるかどうか迷っていたよ。でもね、どうしても守りたい「約束」があるから辞められないんだと言っていたかな。どんな約束かは知らないんだけどね」

――父へのコンプレックス。

――約束。

――彼女の音は不破譲り。

――今聴こえてくるピアノの音が「オレらしい」なら、この間彼女が弾いた「愛の夢」の解釈は「不破の音」なのか・・・?

蓮は、妙に落ち着かない気分になった。

――「彼女自身」の音は、一体どんな音がするんだろう・・・・

「先生がそこまで仰るなら彼は相当な実力なんでしょうね」

「僕のあとに、と思って育ててきたんだけどねぇ。今はキョーコちゃんがいるから。僕の音を一生懸命伝授中だよ。早く僕に追いついて抜いて欲しいものだよねぇ」

「あ、オレも時々教える事になったんです。オレも追い抜くと言って・・・それであんな弾き方を始めたんでしょう。もちろんオレには時間に限りがあるので、出来る限り教えるだけですが」

「ほう・・・敦賀君にも就くか。もしかして初めての教え子かい?でも彼女が君にそう言ったなら、相当君の音、気に入ったんだろうねぇ。彼女音には相当耳が辛いよ。なんていったって不破君が基本だから・・・。でもそれは良かった。彼女、任せたよ。不破君と・・・色々あるようだからね。僕じゃ孫みたいなもんだ。同じぐらいの君の方が話せる事もあるだろう」

「学長にもまったく同じ事言われました・・・ただ学長には「手は出すな」と先に言われましたけど」

蓮が苦笑いでそう言うと、先生もまた苦笑いを浮かべた。

「まぁそうだねぇ・・・。あの子本当に素直だし、可愛いからねぇ・・・。この学校で密かに人気なのに本人は不破君しか目に入ってないから昔から全然気付いていないんだよねぇ・・・。音楽もだけど異性も不破君が基本で全てだからね。全く困ったもんだ。不破君は不破君で好きにやっているんだから」

はぁ、と溜息をついて、先生は「コーヒー淹れるけど飲むかい?」と言って立ち上がった。蓮が「やります」と言って止めて、マグカップとコーヒーメーカーの前に立つ。続いているキョーコの音を聞いていた。今度は、例のCDの中の曲らしき英語の歌を弾いて、ご機嫌に歌っていた。蓮が勧められた曲では無かった。

「学長もそんな事を言っていましたけど・・・不破・・・そんなに・・・彼女が嫌がるような内容の事で有名なんですか?」

「まぁねぇ・・・週刊誌の常連だよ。話題づくりもあるだろうからウソか本当かは正直よく分からないけど。キョーコちゃんがそれを知らない訳がない。だから余計に不安なんだろう。彼女とはしっかり付き合ってないみたいだし。なのに結婚の約束だろう?ただこの間の彼の様子からしたら、キョーコちゃんの事は大事にしているんだろう。君の同伴だと分かった時の彼の顔は、見た事が無いぐらいに怖かったよ。そんな顔するならどうして彼女をほったらかしているのかねぇ」

「・・・・・・・・・・・・」

彼女が大泣きする理由が、蓮には何となく分かったような気がした。そうして自分以外の女と名が連なる彼。彼を心底大事にしているけれども、心の中にもやもやしたものを溜め込んで来たに違いない。それがたまたまこの間の事で箍が外れてしまっただけ。泣きたくても、ずっと泣けなかったのだろう。「約束」という一言に彼女がすがり続けるのは、蓮が「キョーコちゃん」とした約束を守ったのと全く同じ。彼女の中の生きる目的が「彼」との「約束」。

――だから、「約束」が無くなったと思っただけで、全てがなくなった気がしたのだろう

――オレとした約束も守ってくれているのだろうか・・・・

――彼との「約束」など破ってしまえば楽になれるのに・・・

「あぁぁぁ~~~~~敦賀さんっ。何しているんです!!!」

隣の部屋から顔を覗かせた彼女はコーヒーを落としていた蓮に向かってそう言った。

「コーヒー淹れているだけだよ」

「見れば分かりますよっ。違いますっ!!なんでここに居るんです?」

「え・・・?」

不破尚のビデオは先生がそっと蓮のカバンの中にしまったようで、先生は何も言わずに一度ウインクをして、にっこり笑っていた。

「先生に挨拶しにね」

「ピアノ、聞きましたね・・・?」

「君の歌う声と『敦賀蓮のばか~~~!!!』も聞いたかな」

「やっ・・・歌聴いたんですか?もう~~~~~。先生しか居ないと思っていたから、いつも通り歌ってたのにっ・・・。でもごめんなさい・・・「幻想即興曲」、敦賀さんのCDも聞きました。でも敦賀さんのように弾けなくて・・・八つ当たりをしました」

「で、弾けるようになった?」

「えぇぇ??今日は呼ばれて無いじゃないですかっ」

「ダメ。いつ会ってもいいようにやっておいて。もしかしたら今日の夜、部屋に呼ぶかもしれないじゃないか」

キョーコは、むぅ、と口をへの字に曲げていた。それを見た先生が、まぁまぁ、と言って彼女に助け舟を出した。

「ふっふっ・・・敦賀君、その辺にしておいてあげなさい。即興曲は僕がさっき見たところだよ。大丈夫、しっかりできているから」

「くすくす・・・先生に免じて、許してあげるよ。じゃあこのあと弾きに来る?」

そう言うと彼女は「私この後、例のお仕事なんです。敦賀さんよかったら遊びに来ませんか?」と言った。

「うん・・・そうだね。行っていいなら」

「でも・・・敦賀さんモデルさんもしているんですよね???もし敦賀さんだって分かったら・・・お客さんびっくりしちゃうかしら?」

「じゃあ僕も一緒にいくよ。キョーコちゃんのお仕事の音、僕も聞きたい」

「えぇっ先生もいらっしゃるんですか?二重に緊張します。先生には特等席をオーナーに用意してもらわないと。そうだ、せっかくです。土屋さんにも連絡して、社さんにも来てもらいませんか?モー子さんも呼んで・・・・みんなで敦賀さんのお祝いを一緒に」

「あぁ、ありがとう。でも土屋さんと君と君の相方が一緒か・・・オレは祝われるのか針のむしろか分からないな」

「ふふっ、大丈夫ですよ。敦賀さんが先生になってくれるので、ちゃら、なんですから」

「おや、敦賀君・・・実はキョーコちゃんに脅されて見ることにしたのかい?」

「押し倒されましたよね・・・。まったく・・・」

「倒してないです!!押し通したんです!!」

「同じようなもんだろ?くすくす・・・・」

彼女は、「もう!!」とまた怒って、蓮のコーヒーを取上げると、ぐいっと勢いよく飲み干して、「ブラックだった~~~」と顔をしかめた。

「人のを飲むからだよ。淹れてあげるのに」

「いいんです。私、敦賀さんが嫌いなんですから」

この調子で学校中で敦賀蓮が嫌い、と言い続けていたのだろうと蓮は思った。今のは本気で言っている訳ではないのは、分かるけれど。ただ、遊ばれて悔しいだけだろう。負けず嫌いと言うか意地っ張りと言うか。からかうと面白くて飽きないな、と思う。

「最上さん」

「・・・・・???え??苗字???」

何で知っているんですか?と言いたげな表情で、怒っていた顔からきょとん、とした顔に変わり、キョーコは先生に視線を移した。

「あぁ、学長に聞いたんだよ。来週、また例の仕事頼むから。今度こそ「スタンプ」押させて欲しいよね」

「・・・・・・・頑張ります」

「僕もその仕事の日、聞きに行くからね。頑張って、敦賀君。練習は出来ている?」

「えぇ・・・大丈夫ですよ。今度先生に最終チェックしてもらいに来ます」

「そうだね」

蓮がキョーコにミルクたっぷりのコーヒーを渡すと、「子ども扱い!!」とまたキョーコは怒った。

「大人はそんなに泣かないよ?」

そう口にすると、キョーコは目を伏せて大人しくなった。先生は「キョーコちゃん、クッキーが棚に入っているよ」と再び助け舟を出した。

――彼女はピアノを弾いて感情移入して・・・先生の前では泣かないのだろうか?泣く事は・・・・オレ以外の人間に知られたくないのだろうか?

――もしかしてオレを「コーン」だと覚えていて、分かっているのだろうか?だから、オレの前では素直に感情を出すのだろうか?

――不破の前では、もっともっと女の子らしく可愛らしくなるのだろうか・・・・。不破の前でも、素直に泣くのだろうか・・・。不破の腕の中でも、ああして大人しく撫でられたり共に寝たりするのだろうか・・・。

「キョーコちゃん」だからだとかではなく・・・彼女自身が「気になる」。「気に入る」とは少し違う。もし手を出すなら、距離を保ったまま付き合いたいとは思わない。別れを予定して付き合おうとは思わない。

――深く知りたい。オレを深く知って欲しい・・・。

――彼女のピアノの音も、彼女自身も・・・・・。オレのピアノの音も、オレ自身も・・・・・。

――これが恋、なのだろうか・・・・・。それとも彼女が「キョーコちゃん」だと分かってしまったが為の、オレの弱さの現われなのだろうか・・・・。

キョーコを仕事場まで送っていく車の中で、蓮は自分の気持ちを確かめようと、キョーコに誘いをかけた。

「最上さん、今日の夜、終わったらオレの部屋に来て」

「え?お仕事、夜十一時すぎますよ?」

「時間は大丈夫だよ。君の宿題の成果が聞きたいんだ」

「えぇ・・・いいですけど・・・・。」

これ以上不破を、彼女の全ての目標にしておきたくないと、教え子として以上の感情が芽生えたのは確かだった。今度は自分を、自分だけを目標にして欲しい。

完全なる独占欲だった。昔から不破の次に置かれている自分の存在。それをひっくり返したいという意地なのか、彼女の中の「キョーコちゃん」に会いたいのか。彼女自身の全てを知りたいのか。

彼女が自分以外の男の前でああして泣いたら、と想像して・・・蓮はきつく心臓が掴まれた気がした。

――・・・・割り切れなくなったのは、オレかもしれない・・・・・





2006.03.06