5. Nocturne No.20 《ノクターン第二十番》
キョーコは、目が覚めて驚いた。
別に朝男の人とベッドが一緒だったのが初めてだとか、泣きつかれて寝てしまったのが不覚だった、とかではない。目覚める直前。敦賀蓮の腕がキョーコを引き寄せ抱きかかえた。
――それが嫌じゃなかった、から。
誰と取り違えたのかは分からないけれど。ただ、寒いから温かいものに手が伸びるのは人間の本能だと思うけれど。この男の腕の中で、泣いて泣いて、「抱えていてあげるから寝て」そう言われて、ずっとさすってくれた背中の手と体温に、すぐにうとうとして・・・眠ってしまった。それが嫌じゃなかった、から。
寝顔はとても普通の男の人。むしろあんなに厭味が出るとは到底思えない、穏やかで整った顔立ち。綺麗な鼻筋。キョーコを寝かしつけたあとに浴びたのだろう、固めて上げていた前髪が降り、さらさら零れてベッドに散っていた。周囲の女の子だったら、きっとありえない程「幸せ」な光景なのだろう。しかしキョーコは、どうしたらいいのか分からない。自分がどうなのか分からない。泣いた時に「アレ」無しで眠れたなんていう事が初めてだったから。これがどういう事なのかが、分からない。それが、人肌に安心したという事なのか、疲れたのか、それとも自分が軽いのか・・・。もしくは彼の心からの謝罪が見て取れて、悪気は無かったのだからここで自分が眠らなければ敦賀蓮の謝罪は終わらない、本気の優しさにほだされて、仕方なく今日の事は許してあげなければと諦めたのか・・・。
敦賀蓮の顔やプロフィールなどに興味はない。けれどもピアノの音には・・・ものすごく興味がある。今度は間近で見てみたいと、思う。
「おはよう・・・・」
腕から逃れたキョーコの動きで敦賀蓮は目を覚ました。
「おはよう、ございます・・・・。」
「・・・よく眠れた・・・?」
「はぁ・・・・」
敦賀蓮は身体を起こすとすぐにシャワーを浴びるといって出て行き、しばらくして着替えて戻ってきた。
「「何?」って顔、しているね」
「当たり前です」
「何もしていないよ?」
「分かってますよっ。そんな心配じゃなく・・・私を帰すつもりだったでしょう?なのになぜ・・・あなたの横で眠らなければならなかったんです?」
「君がオレを前に泣いたから」
「泣いた人には敦賀さんは優しいんです?それとも「割り切る」んです?それとも私は「気に入られた」んです?」
「・・・泣いた女の子に酷くする男なんていない」
「・・・一人。泣くと動けず慰めもせず困り果てて・・・ほったらかす男が昔一人いましたけど。もう、昔の事です・・・」
「・・・君が泣いてうとうとし始めた時に・・・こうね、子供を抱えている親の心境というか・・・庇護欲にかられたっていうのかな?」
何やら見た事が無い、きらきらしい笑顔で敦賀蓮はそう言った。相変らずの減らず口の敦賀蓮は、「また泣いたら抱えてあげるから」と言いながら、再びきらきらしい笑顔を向けた。
「嫌いな私を抱えて、面倒な事になったと思ったんじゃないですか?」
「面倒じゃないよ?嫌いだったら最初からこの部屋にも上げないよ。控え室で着替えてもらったって良かったんだから。君は面白いと言ったじゃないか。しばらく同伴してもらうし・・・居場所ぐらいは教えておこうと思って。校内ではオレの「お友だち」っていうの?になってもらいたいし」
「は・・・?」
――なんて勝手な。
友達というのもラブミー部のお仕事の一つなのだろうか。そもそも友達は契約してなるものなのだろうか?と疑問が浮かぶ。ある意味契約の方が深入りしないからいいってことなのか、それとも蓮に興味のない自分は適役なのか。確かに「敦賀蓮のお友達」は、大変な仕事になるに違いない。学校でまた自分の友達が減るじゃない、と思った。
「友達なんていないし最近の校内事情知らないし。オレは講師としてきた訳じゃなくさ。ただ先生に師事しに来たんだから。君も同じ先生付きだろ?ついでにキョーコちゃんも探せるし。頼むよ」
「はぁ・・・。でもその彼女が出てきたらどうするんです?私みたいのが傍にいたら邪魔でしょう?だってそこまでして会いたいなんて、相当「本気」なんじゃないんですか?」
「あぁ・・・うーん・・・・」
敦賀蓮は苦笑いすると、初めて歯切れの悪い反応と共に、何も答えなかった。聞いてはいけない質問だったようだった。初めての動揺。黙ったと言う事は。
「その子の事がとても好きなんですね。なんだ、割り切ってとか言っている割に、しっかり恋はしていて・・・あれ・・・?」
キョーコはふと思う。
尚は「オレは約束を守った」と言った。そして、「割り切っていた」と。
「アイツも・・・割り切っていたけど・・・待っていてくれていたのかしら・・・」
「くすくす、だからね、君も大丈夫だよ。彼の所に戻って早く誤解を解いたほうがいい。もし出来なければオレが弁明するよ」
「でも、もう・・・関係を切るって言っていたんですよ?戻れないです」
「お互い「本気」だったんだろ?」
「・・・多分・・・」
キョーコに尚の今の気持ちは分からない。また振られ絶望感を味わう事になるのかもしれない。でも、真実を告げていないのに、このままお別れになるのは嫌なように思った。
「「愛の夢」、また弾いてあげるよ。元気を出して・・・」
「はい・・・ありがとうございます・・・・。あの・・・ピアノ、今度・・・・教えて下さい。それで今回の事はチャラです」
「高いよ?」
「えぇっ。私の本気も二十一年分だったんですから!高いんです!同じっ」
キョーコが口を尖らせてそう言うと、敦賀蓮は吹きだした。確かにね、と言って笑った。
彼は音楽の話をするとき・・・本当に好きなのだと思う。表情がふっと緩む。その緩んだ顔は紳士の顔とも違うし偉そうな態度とも違う。穏やかで一番いい顔だとキョーコは思う。まるで彼は音楽に恋をしているよう。こんな事ではなく、音楽家同士として、最初に会ってみたかったと思う。
「くすくす・・・・いいよ、ご学友様に免じて教えて差し上げよう。そのかわり厳しいからね。先生のように甘くない。昨日少し話を聞いたけど・・・君を可愛がりすぎだよ。孫と同じ気分なんじゃない?それじゃあ君の為にならないのに」
「む・・・甘いんじゃないです。言い方が優しいんです。わたしなんかが先生に師事出来るだけでもすごい事なんです。必死に頑張ってるんですっ。先生は敦賀さんなんかよりもずっとずっとすごいんですからっ」
「くすくす、はいはい。知っているよ。オレはただ優勝した事実があるだけ。まだまだキャリアは到底及ばない。これからそれを習いに行くんだよ。本格的にプロに転向する予定なんだ」
「そういえば、私今まで、敦賀さんの音を聞いた事が無かったんです。昨日初めて敦賀さんの演奏聞きました」
「・・・・CDあげようか?」
「く、下さいっ・・・・」
「じゃあサインでも入れてあげるよ・・・高く売れるよ?くすくす」
敦賀蓮は楽しそうに笑って言った。バッグから一枚取り出してすらすらと英語で名前を入れて手渡した。
「自分用だったから何回か聴いているけど、壊れてないよ」
「・・・昨日初めて演奏見て・・・鳥肌が立ちました。何かが違ったから。音楽をする敦賀さんはとても弾く事を楽しんでいて、羨ましかったです。私はまだ「弾かされて」いる時があるから。音符に入り込めない時があるんです。それが、入賞したのにラブミー部員の原因かもしれません。音を愛していないのが、出てしまうときがあるのかもしれない、と」
「昨日君への御礼に弾いた「愛の夢」は・・・最低の演奏だったよ。せっかく約束したのにゴメンね。だからもう一度、君の為だけに弾くから」
あれが最低の演奏?トップレベルの意地は、到底キョーコにはまだ理解の出来ない事であるし、昨日の動揺していた自分の心では、音楽など到底「聴く」事などできなかった。けれど、それでもあの時の蓮の音は、キョーコにとって十分すぎるほど優しかった。
「音があまりに優しくて・・・アイツとの事が辛くて、泣いてしまったんです。私には十分だと思いました。私の涙腺を解いてしまうぐらい・・・」
敦賀蓮は何も言わずに、小さく微笑するだけだった。
2006.02.26