4. Consolations 《慰め》
キョーコにとって最悪の日だった。何もかもが最低の日だった。
敦賀蓮が壇上に上がったあと、まるで何かを探るように自分を見る目つきと好奇心の目。そしてキョーコに指を指し、「あれが・・・」と皆が言った。
今日のパーティの模様を写そうとしていた報道陣らしきカメラマンと撮影陣が目に入った。今日出す事が目的だと言っていたペンダントと自分を見比べる。そしてあれが「京子」なのだと。
すぐに学長と先生が気付いて、話しかけてはキョーコを庇った。キョーコが「仕事」だと分かっていたからだろう。先生は、可愛いねと言って、そして敦賀君は罪作りだと苦笑いした。
しばらくして敦賀蓮の挨拶が済み、ピアノの音が流れ始めて、キョーコは愕然とした。
初めて聞いた音。圧倒的な存在感があるのに澄んだとても綺麗な音。絶妙で心地いい間。これがコンクール優勝者の音。先生が「勉強になるから見たほうがいい」と言ったけれども、勉強になるどころではない。完全なる実力の違いだった。キョーコにとって蓮はたった四歳しか違わないはずなのに。
この差は何?これだけ音楽漬けで、これだけ色々な人の音を聞いてきたキョーコでも鳥肌がたった。ミーハーな周りのせいで完全なる勘違いをしていたのだと気が付いた。奏江が「音がいい」と言った理由。先生が「勉強になる」という理由。学長が「全てを許す」理由が・・・その澄んだ音の中に隠れている気がした。
――あの不遜な態度の男が、こんなに澄んだ音を出すなんて。
口だけではない確かな技術力と表現力。そんなに技術力が劣るとも思わない。その表現力が、雰囲気が、何か違う。何が彼との差なのか。それが分からない事がとても悔しくて、羨ましかった。
キョーコは途中から弾いている蓮の指先が見たかったけれども、座っていた位置からは彼の顔が見えるばかり。必要以上にしゃべるな、動くなと言われていて、うずうずと乗り出すだけだった。その様子に気付いた先生が、「見たくなっただろう?あとでビデオ貸してあげるね」とキョーコの耳元で囁いた。
ずっと蓮の音に浸っていたかったのに、キョーコ目の前に一人の男・・・・不破尚・・・が立っていた。
彼はキョーコの腕を強く引いて立たせると廊下に出た。ぐいぐいと有無を言わさない強さで引っ張り、キョーコは足をひねって躓いた。それでもすぐに立たされ連れられていく。靴も拾えなかった。裸足のまま誰もいない部屋に突き入れられた。
「お前・・・そんなカッコして・・・・何してる?」
「・・・・・・・・・」
キョーコは、必要以上に話すなという彼との約束を破る訳には行かなかった。ただ、尚の顔を見て、久々に会えて素直に喜びたかった。が、蓮の連れとして、こんなに大胆なカッコで会ってしまったことに罪悪感を覚えた。
「それ・・・・敦賀蓮のネックレス。なんでお前がしてる?」
尚はキョーコのしているネックレスを触り、胸元を見ると、「お前に谷間なんてできるんだ」と、厭味を囁いた。
「・・・・・・・・」
「へぇ・・・そこまで敦賀蓮が好き・・・ね。やっぱりあの学校の人間は全て結果主義なんだな・・・。まさかお前もそうだとは思わなかった。オレを好きだと言っていて・・・オレはお前に好きだと言ったのに。オレからアイツにすぐに乗り換えられるなんて思わなかった。キョーコ・・・オレももうお前の事は何でもない。仕事も忙しい・・・もうそんなに会う事も無いだろう。・・・長年の付き合いでここまで来たけど・・・互いに色んな人間関係があるから・・・。お前との関係はもう終わりにしてやるよ」
「ほ、他に好きな人がいるっていうこと・・・・?」
初めて口を開いた言葉がそんな言葉になるとは思わなかった。悲しくて悲しくて、キョーコの目に涙が浮かんだ。
「お前に言う事でもないだろ」
「・・・ショータローだって・・・・そうやってすぐに乗り換えたのに?私に罪悪感は無かった訳・・・・?約束、したのに・・・・・・」
声が震えて・・・最後は涙声になった。
「約束は守っていたし・・・遊びだと割り切っているだけだから。お前が約束を破ったんだろう。まさかお前から破るとは思わなかったけど。そんなに好きなら・・・敦賀蓮と仲良くな・・・」
尚はそれだけ言うと、外にいたマネージャーを連れて、バタン!と勢いよくドアを閉めて行ってしまった。
――男の人なんて嫌い。なんで皆「割り切って」とか「気に入ったら」とか・・・簡単に言うの?どうして都合が悪くなったらすぐに・・・・「軽くない」私の気持ちも「割り切って」しまえるの?私は生まれてずっと二十一年も本気だったのに。どうして引き止めてもくれない訳?どうして理由も聞いてくれないの?そんなに簡単に「さよなら」できるような相手だったの・・・・・?
キョーコは、泣きそうになる目を何とか堪えて、もと来た廊下を戻った。ぺたぺたと裸足のまま歩き、ほったらかしてあった靴を拾って、敦賀蓮が下がる舞台袖へ入れてもらった。
敦賀蓮はアンコール前相変らずの憎まれ口をキョーコに叩いた。そして自分はラブミー部だと思い出す。敦賀蓮同様、ラブミー部をバカにしていた尚の事を思い出して泣きそうになった。すると敦賀蓮はキョーコに言い過ぎたと正直に謝り、その後はとにかく優しかった。さすがに弱った女の子ぐらいには紳士なのだろう、と思った。
そして「今日の御礼」と言った、キョーコの大好きな「愛の夢」を弾く彼の音は、今のキョーコには優しすぎて、涙が止まらなかった。
――愛を貰えると「約束」していたから頑張ってこられたのに。
――もう、ない。頑張れない。
泣いて泣いて、気が付くと敦賀蓮が抱えていて、上からそっと「目を閉じていて」と・・・先程の紳士な顔でキョーコに囁いた。今はそのウソの優しさでも・・・嬉しかった。
敦賀蓮はキョーコをずっと抱えたまま車まで連れて行った。泣いたキョーコの顔をかばうように敦賀蓮の身体側に寄せさせ、他の報道陣その他の人垣を掻き分け、車の後部座席に座らせた。社が助手席に座り、敦賀蓮が運転席につくとすぐに車を発進させた。
「キョーコちゃん・・・もう、普段どおりで大丈夫だよ」
「すみませんでした。重かったでしょう。腕と指に負担かかりませんでしたか?私のせいで大事な指に傷がついたら・・・」
「いや、これぐらい。オレは大丈夫だよ。これから社さんを置いて、オレはホテルに帰る。君も用事があるから一緒にホテルへ来て。あ、自宅住まい?」
「私は学校内の寮です・・・」
「そう。ならいいね。オレも寮なんだけど。まだオレの荷物届いてないからしばらくはホテル住まいだよ。不便だな・・・ピアノに満足に触れられない」
「それが一番の不満なんですね・・・でも今日のアンコール・・・本当に嬉しかったです。今度また弾いてください」
「感激の涙、って訳でもなかったみたいだけど・・・?」
キョーコは、表情暗く目を伏せたまま、何も言わなかった。むしろ言えなかった、が正しいだろう。
「蓮・・・・」
気付いた社がキョーコの様子をミラーで確認して、首を振って止めた。
「社さんすみません、今日弾いてくれた御礼に・・・・私からあとで敦賀さんにはお話しします」
「キョーコちゃん、また会った時はよろしくね」
心配そうにした社は、車を降りる際にそう一言だけ口にして去って行った。ホテルに着いた敦賀蓮は、再びキョーコを抱えた。
「い、いいです。歩けます。手当てしてもらったし」
「裸足でホテルに入る?もうその靴じゃ・・・歩くの無理だろう?」
「大丈夫です・・・」
「いいから。じゃあ呼ぼうか?「キョーコちゃん」・・・・?」
蓮の恋人、「京子」になるための強制的な呪文・・・。
「はい・・・・」
再びキョーコは目を閉じ、裏口から入った。エレベーターにすぐに乗ったようだった。浮遊感がして着いて・・・再び「目を開いて」と言われたときには・・・とにかく大きな部屋のソファに居た。
「なんで寝るためだけにこんなおっきな部屋・・・」
「さぁ?学長の持ってるホテルだから。ここをあてがってくれただけ。そんな事はいいから・・・。着替えてシャワー浴びて、化粧落としておいで」
「えっと・・・・あの????」
「そのドレスを預かるから。着替えないと帰れないだろう?それに「京子」はオレの公式の場だけでいい。学校内にそのまま帰られると困る」
「・・・そうですね」
「間違っても君をどうこうしようとかじゃない。変な心配は無用だよ」
そう言われて、キョーコはかっと頬が真っ赤になった気がした。大嫌いな者同士、何も無いとは思っているが、それでも異性にホテルで夜にシャワーを浴びろと言われて、はいそうですか、と言う女の子はいないと思う。
シャワーを浴びてお湯を溜めて、鏡に映った自分の化粧前の元の顔。泣きはらした目の、酷い顔だった。その顔を見ていたら、また涙が浮かび、何度も溜めたお湯で顔を勢いよくばしゃばしゃ洗った。とんとん、とドアを叩く音がして、敦賀蓮が「大丈夫?」と、声をかけた。時計を見るともう既に一時間以上もたっていた。「今出ます」、キョーコはそう告げてお湯を抜いて出た。置いてあったバスローブを羽織って出ると、敦賀蓮はベッドの上で部屋着に着替えて座っていた。そして、キョーコが今日図書館で借りた楽譜を並べて見ていたようだった。
「人の楽譜・・・勝手に見ましたね?」
「あぁ・・・ごめん預かったまま勝手に見て・・・。君が長風呂で暇だったからついね。ジャズなんて弾くの?」
「お仕事です。夜たまに土屋さんの旦那様が経営しているお店でピアノ弾くんです。」
「へぇ・・・それは随分と偶然だね。今度行くよ」
「来なくていいです」
「くすくす・・・オレも随分と嫌われた。おいで。君の涙の理由も軽く聞いた。悪かったよ。今日の話、纏めてしようか・・・」
「な、何を・・・聞いたんです?」
「不破・・・だっけ。来ていたんだって?君の大好きな彼・・・。君をすぐ君だと分かるあたり、君達相当好きなんだな。ん?どうした・・・?」
聞きたくない名前をぽんと出されて、キョーコはまた泣いていたようだった。敦賀蓮は泣いたキョーコを手馴れた手つきで抱き寄せ、驚いて逃げようとしたキョーコを抱きとめ、離さなかった。そしてやわらかなベッドの上で、まるで小さな子供を扱うように、背中をその大きな手が往復して、さする。
「大丈夫・・・・大丈夫だよ・・・・」
まるで暗示をかけるように耳元で何度も繰り返す。この男は冷たいのか優しいのかよく分からない。普段は厭味しか言わないくせに、自分が泣けば、限りなく優しい。
「・・・もう彼とはお別れ、しました。もう、大丈夫じゃないんです」
「理由・・・話さなかったの?」
「聞いてもくれなかったです」
「話していいよ?」
尚の本音を聞いてしまったのに。そんなのは、今更。敦賀蓮が、「約束」なんて当てにならないと言ったのが思い出されて、キョーコは八つ当たりに声を荒げた。
「・・・あなたなんて大嫌い・・・約束なんて大嫌い・・・もう、男の人なんて好きにならない・・・!!」
蓮との約束。尚との約束。どちらも守ったら、自分には何も残らなかった。
そう叫んでしまったが最後、キョーコの涙は止まらなくなった。声も抑えず、蓮の腕の中で思い切り泣いた。敦賀蓮は何も言わず、言い訳もせずにキョーコの背中を撫で続け、大丈夫、大丈夫だよと・・・繰り返し言っていた気がした。
「抱えていてあげるから・・・泣くだけ泣いたほうがいい・・・」
敦賀連はそれだけを言った。
泣いて泣いて・・・・また八つ当たりに敦賀蓮をたくさん罵って、酷い言葉を口にした。それでも敦賀蓮はずっと「大丈夫だよ」と囁き続け背中を撫で続けていた。
泣きつかれて声も枯れて涙も出なくなったとき・・・・敦賀蓮はそっと口を開いた。
「オレの手元にはいま日本全国からの「キョーコちゃん」からの手紙が来てる。京子・恭子・今日子・共子・響子・・・。オレが探していると言ったがためにね。何百通と来ていて、正直どれがオレの探しているキョーコちゃんか分からない。だからね、見分ける為に君というよりラブミー部を利用させてもらった。土屋さんに預けていたオレのペンダントをつける人間が「オレが探しているキョーコちゃん」だとマスコミには言ってあったから・・・。本物が「違う」と言ってくれることを期待しているけど、見つからないかもね。しばらくはそれでもいいと思ってる。そんな事のために君を利用して悪かった。こんなに泣かせるつもりじゃなかった。土屋さんには相当恨まれるな・・・。仕事はもう無くなるかもしれない。本当に彼の事が好きだったんだね・・・・」
「どうして男の人は・・・割り切ってとか・・・・気に入ったらとか・・・・言えるんですか・・・?私はそんなの出来ないのに・・・。私はいつでも「本気」なのに・・・」
「そうしなければならない時もあるからだよ・・・。いずれ君も分かる時があるかもしれない。今はそんな事を気にしないで彼を忘れるんだね・・・」
「忘れるってどうやればいいんです・・・。敦賀さんが今まで「気に入って」付き合ってきた子たちはどうやって敦賀さんをすぐに「忘れた」んです・・・」
「さぁ・・・向こうも「割り切って」いたから・・・。お互い一定の距離保っていたし・・・」
「冷たいですね」
「・・・・そうかもしれないね。君とは正反対にいる人間だよ・・・」
敦賀蓮はそう言うと、自嘲気味に笑った吐息を吐き出した。そしてそれ以降黙ったキョーコを、ずっと優しくさすり続けた。
「辛いときは人肌だけでも楽になるから」と言い、不覚にもその体温の暖かさにうとうとし始めたキョーコにそう言った。キョーコが、バスローブのまま彼に抱きついていて、少し無防備にもはだけていた状況に「ごめんなさい」と謝ると、蓮は、「バスローブ姿で抱きつかれて・・・オレの腕の中で泣いて弱った君はすごく魅力的だけどね、生憎君はオレが嫌いだからね」と、さらりと恥ずかしい事を言いながら、そんなのも慣れた様子で、くすくす笑っているだけだった。
飛びのいたキョーコに、パジャマに着替えさせると、今度は真面目な顔で再び抱えて、「足は大丈夫?何もしないから、もう眠って」それだけ言うと、それ以降口を開く事は無かった。キョーコも、彼なりの自分への懸命な謝罪の意の表れなのだと思った。
紳士なのか、不遜なのか・・・・よく分からない。けれど、彼の腕の中はとても温かくて、泣きつかれたキョーコは、すぐにその体温と共に眠りに、落ちた。