【イギリスの師匠&尚】
「おい尚、もう日本に帰るなら、蓮に少しはこっちにも寄れと伝えてくれ」
「やだ。アンタが自分で言えば」
「やだ。・・・・冗談だ」
「アンタさ、来て欲しいのが言えないなんて、意外と可愛い所があるんだね」
「やっと分かったのか」
尚が、別れ際に何なんだまったく、という顔をすると、彼は言った。
「オレの元へやって来るのは、『これから』世界に飛び出したい人間だけなんだ。暇になったら遊びに来い・・・と毎回オレの生徒には卒業の言葉として言うんだが、オレの教えた生徒は皆とても優秀で、世界を飛び回るヤツにしかならないから、いつも誰も来ない。ま、それはそれでいい傾向だ」
「・・・その自信は一体どこからくるんだ・・・」
「内側から。信じるものはオレの言葉じゃないお前の中のものだと言っただろう。音楽家はどこまでも自己観察、自己との対話だ」
「・・・耳にタコ」
「タコ?師匠に向かって最もひどい言葉だ」
「日本ではよく使う言葉なんだ。耳にタコができる、何度も聞いた、という意味。タコは海にいるタコの事じゃない、指にできるマメの事を日本語でタコと言うんだ。・・・というか日本語分かるんだ?知っているなら今まで少しは使えよ・・・」
「・・・そうだ。待っていないで今度オレが日本へ行こう。たまには可愛い生徒たちの活躍する姿が見たい」
「・・・・・」
可愛いなんて本当に思っているのかこの鬼教師、と尚は心の中で思った。
「蓮やお前の愛するキョーコにも会いたい。それにお前、歌も歌うんだろう。花でも持って冷やかしにいってやる。お前が歌うヴォカリーズなら聴きたい。特別にオレが横でピアノを伴奏しよう」
「来て頂かなくて結構です、『先生』」
「ふん・・・今はもう顔も見たくないだろうがいつか急にオレに会いたくなるはずだ」
「すげえ自信」
「オレ以上に人生で全ての感情や記憶をさらけ出した相手などいないだろう。誰もオレに会いには来ないが、時々洗いざらい話がしたくなるらしい。電話は来る。オレはカウンセラーか牧師も仕事だったようだ」
「・・・・まあ、話がしたくなったらチケット送るよ」
尚は話しながら片付けていた楽譜の中から一つ手に取る。表紙に書いた彼の言葉をメモした字に、目を走らせる。
ゼロ、と数字で書いてある。
来た頃を思い出す。
「オレを信じろ、必ず世界で一流にして出してやる」、そう言い切ったこの男は、数年前も今も全く変わらない。
必ず世界で優勝させて一流にする、それがオレがお前に言うたった一つの約束だ、だから今まで学んできた事を全てゼロにしろ、オレを疑うな、というのが彼の最初で最後の条件だった。
彼は基礎を徹底する男だった。徹底的に基礎を入れて、楽譜も全て頭に叩き入れる。記憶に残る「自分」をそぎ落として落として落として落としきったとき、残っているのは楽譜に残された教えと指示と、作曲者の人生そのもの。
それでもどこかで必ず自分の声が聞こえる瞬間がある。楽譜から進んで数百年の歴史と解釈が音を教える事もあれば、その楽譜を崩したくて仕方がなくなる時もある。作曲者とは別なのだから、体が持つリズムや音の理想とは違う指示があるだろう。そうしたら譜面と対話すればいい。作曲者と会話できるようになる、とも言った。自分の声と作者の言い分が互いに納得したなら崩せばいい。それが体の奥底が求めるお前の音でリズムだ、と。そして、それが自分で自由に出来るようになった時、もう教える事は無い、好きに世界で弾けばいい、と言った。
「尚。だからオレは教える者として、完全に譜面の通りにしか弾かない。オレはお前をオレ色にしたい訳でもオレの名前を世界に轟かせたい訳でもない。オレはお前が音楽一本で世界を渡り歩く姿をみたいだけだ。いつかお前だけの音をオレに見せてくれる日まで絶対にそばにいる。約束する」、基礎ばかりが続く日々に嫌気が指してきたころ、そう言われて、珍しく静かに頷いたのを覚えている。
「あのさ」
「なんだ」
「最後に聞きたいんだけど。アンタにもさ、演奏家としての自分の音ってあるの。あえて映像見てないんだけど。アンタ天才って言われて愛好家好みの権威と格式あるコンクールにだって散々色々優勝したんだろ。なのになんでピアノ講師やってんだ」
「・・・・・」
珍しく彼は何も答えなかった。
「お前のいい所は他人と他人の音に全く興味が無いところだ。音楽家は自分の中の音を知るだけで十分だからだ。でもたまには他人の音を聞いて、気づいていない自分の中を知るのも悪くは、無い」
なぜ彼が自ら表舞台で弾かないのかを、誰も知らない。
「何が聴きたい」
「・・・ん~・・・そうだな~・・・・アンタの音だろ?オーケストラをバックに、ラフマニノフのピアノ協奏曲の三番がいい。協奏曲の中で最も難解で最も情熱的な究極の音を、アンタがどんな顔をしてどう弾くのか興味あるね」
「ふん、今からオケ部にかけあうか。お前の卒業祝いに弾くのもいいだろう」
「冗談だよ。・・・・じゃあ、アンタの音でトロイメライでも弾いてくれ」
「・・・・・?」
尚の選曲に、彼は珍しそうな表情を浮かべた。
彼は弾こうとして椅子に腰掛けたあと、鍵盤を見つめながら珍しく薄い笑みを浮かべた。そして、
「オレの音、か」
と、独り言を言った。
トロイメライを弾き、そして、ラフマニノフのヴォカリーズ、それから、シューマンの幻想曲 ハ長調と、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を、彼が脳裏に描くオーケストラの音と共に弾いた。
尚は耳にしたその音を一生忘れないだろうと思った。
とても強く引かれる正確なテクニックと表現力、尚でさえも否応なしに感情が揺さぶられる音。
それなのに、今まで自分が弾いてきた同じピアノが出すのが不思議なほど純粋な音だった。空気が一瞬にして洗われる。
彼はピアノの持つ最大に至高の音を引き出す方法を知っているようだった。
普段の態度とは対極の、神の紡ぐ音に聞こえた。
協奏曲第三番を自由に弾きこなし自分の音にする技術。
彼自身のピアノの練習も、仕事のあとに生徒と同じようにし続けてきたに違いない。いや、もっとしているのだろう。人に教えてきた事を、全て自分に課して・・・。
でも彼なら言うだろう。「弾けて当然」、と。
世の中に、こんな音を出す人間が、世に出ず人知れず眠っているのかと思うと、鳥肌が立った。
彼自身の音をもう二度と聞けない、今の音は二度と聴けない、音を記録しておかなかった事を思い、初めて、誰かの音を手許に残しておきたかったと思った。
そして、はっとした。この短い時間に肌に感じた事が、音楽の全てだった事を・・・。
彼の、最後のレッスンだと、思った。
自分も、誰かが忘れたくない音を弾きたいと、思った。
「たまにはいい」
「アンタ、いつもオレに感情の抑圧は不要だと言っただろ。アンタが一番、心の中、解き放つべきなんだ。望みさえすれば世界中のどんな賞だって取れるだろうし、ラフマニノフのように作曲家になれば世界の歴史にだって名を残せる。そしてオレよりも稼げる」
「はは、そうかもな」
彼は、初めて見るいい顔で笑った。
「アンタさ、どうしてオレに一度でもアンタの音で聞かせて見せなかったんだ。そしたらオレは、」
「オレの言う事でも素直に聞いたか?」
尚は笑って「いいや」と言った。
「だろ?オレは子供達をオレの音に染めたいわけじゃない。勝つための技術を教えたい訳でもオレを尊敬して欲しい訳でもない。オレにとって音楽とはうまく弾く事じゃない。何のために音楽をするのか、それをずっと胸に聞いて生きてきた。だから今この仕事をしている。オレの元へ来る子供達にも、お前にもずっと聞いてきた。だから教えるオレの音は作曲家の音でいいんだ。・・・でも・・・そうだな・・・教え子達に会いに世界を巡るついでに・・・子供達のためになら・・・世界を巡って弾く事も、悪くない。改めて考えておく」
尚は、彼の中に眠る獅子を起こしたように思った。
「アリガトウ、ショウ」
尚が彼から初めて聞いた日本語だった。
「このトロフィーはアンタのもんだ」
「いや?それは違う。それはお前が勝ち取ったものだ。オレは、お前のような未来のある子供達のそばにいるのが好きだからこの仕事をしている。永遠に夢を見続けられる」
彼はそう言って、部屋を出て行く尚に手を振った。
2014.12月 本用書き下ろし