30. Sonate fur Klavier Nr.26 ‘ Lebewohl, ‘ op.8la ピアノソナタ第二十六番 第三楽章「再会」
「・・・・・本物っ・・・・・???」
――バタン!!!!
勢いよくドアが閉まる。入り口で立っていた「彼」は、一瞬あっけに取られ、そして、くすくすくす・・・と可笑しそうに笑った声がした。
「キョーコちゃん」
「な、なんで帰ってくるんですかっ・・・まだ半年しかっ・・・」
「レオと同じ事を言うんだな。オレの帰る場所があるから帰って来るんだよ。・・・・そろそろ・・・・開けてくれないかな?」
「お、お、お・・・お土産っ・・・レオさんが持ってきてくれるって・・・・お土産は自ら歩きません」
「・・・・・・・ヘリクツコネ子さん・・・・開けてくれませんか・・・・?」
「・・・・・・・・・・。」
――キィ・・・・・・・・・
「ただいま・・・久しぶりだね」
シフォン風の柔らかそうなキャミソールドレスを纏ったキョーコが俯き加減で出てきた。細い肩に目が行く。健康的でしなかやな肢体が、すらりと覗いている。少しだけ、大人びた表情を浮かべるキョーコに、蓮は内心驚いた。
首元で、きらり、と、『蓮のネックレス』が光った。
それが何を意味しているのか分からない蓮ではない。
真っ暗闇の中で、蓮が、そっと笑った気配がしたのをキョーコは感じ取っていた。
キョーコは、ドアノブを強く握り締めたまま、まだ俯き加減でいる。
「なんでっ・・・・・どうして・・・・・・・・会いたいと思ったときに・・・・帰って来てくれるんです・・・・・・」
「君のCDを聞いていたら会いたくなったんだ。部屋に・・・・入れてくれない?」
「イヤです・・・・」
「どうして・・・・」
「だって入れてしまったら・・・っ・・・」
強く握り締めているドアノブにあるキョーコの手に、蓮は手を触れた。その瞬間再びキョーコがドアを閉めようとしたのを、蓮のもう片方の手が玄関の端を掴んで止めて、身体を割り込ませた。
「じゃあね・・・・・割り切りに来た・・・・・それなら、いい?またすぐに出て行くから」
「ばか・・・・っ・・・・」
キョーコが泣きながら蓮に抱きついたのと、玄関のドアが閉められたのは、ほぼ同時だった。
*****
「君らしい部屋だね・・・・・・」
そう蓮が笑う。
キョーコが、「そうでしょうか。ずっと相部屋だったから・・・・物なんてないんです」と、居場所が無いように、視線を外に逸らす。
ふわりと靡く柔らかいカーテン。あまり物がなく、綺麗に整理されたリビング。ソファは無く、柔らかなカーペット。クッションを手にして蓮は床に腰を下ろした。
見渡して、また目の前のキョーコに視線を戻す。キョーコは目を逸らした。恥ずかしい、どうしてそんな気持ちになるのか。久しぶりに会う蓮に、どきどきどき・・・とまるで恋したての少女のように、キョーコの体中の血液が、とくとくと早く巡る。
「・・・・・・ちょっと失礼、お嬢さん・・・・・」
蓮がキョーコの腕を取る。びくり、と身体を震わせてキョーコが目をつぶる。そのすきに、キョーコの手をグーの形に握らせると、軽く外側にひねった。
「・・・・・っ・・・・・・・・・」
「少し痛む・・・・・・んだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ふぅ・・・と蓮はひとつ息を吐いた。男性よりも力のない女性があれだけ練習すれば、一日に少なくとも十時間は超える。キョーコの事だから、寝食以外ずっと弾いていてもおかしくない。腕に相当負担が掛かっているのは目に見えていた。
「君の弾く姿勢は綺麗なのに・・・それでも痛むのなら・・・弾きすぎだ。オレがいる間はオレが許さない限り最低限以外ピアノ禁止。少し手を休めなさい」
「えぇぇぇっ・・・・・・・」
「いい?オレは君の歳に、コンクールの賞は取っていたけど、一番目指したコンクールには出てない。急がないことだ・・・・自然に任せるべきだね・・・・」
「だって・・・・・・・!!!」
「オレだってね・・・・・早く会いたい・・・『キョーコちゃん』に・・・・」
キョーコをそっと抱きしめて、そう、吐き出した蓮の言葉に、キョーコはもう、言い訳をするのをやめた。
キョーコがそっと上を見あげると、蓮と目が合う。そっと蓮の唇がキョーコの頬に下りてくる。唇は頬を過ぎ、首もとの紅い印にたどり着く。
「敦賀さん・・・のDVDを見て・・・・会いたくなってしまって・・・・・・いつも思い出さないように、甘え心なんて封印しているのにって・・・・・今、一生懸命・・・・・封印を元に戻していたんです・・・・・・なのに・・・・・・・・」
「・・・・封印したい?」
「・・・・だって・・・またすぐに雲の上の人です・・・・」
「・・・・・・・今は、ここにいる」
首筋で話していた唇がせり上がり、キョーコの唇にたどり着き、愛しげに食み始めた。
抱きしめあった身体は、いつの間にか、敷かれた柔らかなカーペットの上で一つに重なっていた。
力が抜けてしまったキョーコを見て、蓮が言った。
「寝室、入っても、いい?」
キョーコは少し戸惑い、目をそらし、ただ頷くだけだ。
蓮はキョーコを気遣い、ベッドに運んだ。
二人の体重に少しベッドの軋む音がする。
蓮はキョーコを抱きしめ、後頭部に指を通し、柔らかな髪を撫でながら、首を引き寄せる。
「会ったら・・・割り切ったキスをって・・・・・・・・・言ってたね・・・・・・」
「・・・・・・そうですね・・・・・・」
「コレが・・・・君のそれ・・・・なのかな・・・・・・・」
「敦賀さんのそれ・・・は違いますか・・・・・?・・・・・割り切るって・・・・・・すごく・・・・・どきどきして・・・・」
「・・・・・キョーコ・・・・・」
再び引き寄せた唇の中から舌を忍ばせそっと吸い上げた蓮に、キョーコの指が、蓮の肩を弱々しく掴む。シフォンドレスの肩ヒモに、蓮の指が入り込む。
「・・・・・・・・どきどきして・・・・・・?」
「・・・・・・」
「言って・・・・・・」
「・・・すごく・・・・・・・・・になってしまって・・・・・・・・おねがい・・・・・・・・・・・・い・・・・」
蓮の耳元で、蓮の耳奥だけが聞こえるだけの小さな声で、キョーコは、そっと、蓮に囁いた。囁かれたその耳元に、キョーコの唇の感触がする。
そして蓮の首筋に顔を埋めたキョーコに、
「よくできました・・・・」
そう言って、蓮はキョーコの部屋着の肩ヒモをゆっくりと下ろしながら、腕に手を這わせていく。
くすくす・・・と笑った蓮の笑い声も、また、キョーコの耳奥だけが、聞いていた。
不思議な感覚だった。急に会いに来てくれる事が嬉しくて、蓮の待てないような様子や、自分の肌がどう見えているのか急に気になるとか、きれいに見えているだろうか、とか・・・まるで普通の恋人みたい、と思う。
キョーコは、蓮に、改めて恋をし直しているような気がした。まるで対等に求め合うようで・・・。
伝えたい愛しい感覚は徐々に言葉にならなくなった。だから、キョーコは何度も蓮の唇を探した。
キョーコの無垢な瞳、無垢な唇、無垢な柔らかな肌・・・キョーコが、まるで初めての恋のように恥らうから、蓮は何度もキョーコの見せる恋の中に、溺れた。
いつか理性の無くなったキョーコの甘すぎるほど甘い声が、蓮を追い詰める。
声が我慢できず、蓮の体のリズムを体に感じすぎて、必死でシーツを手で手繰り寄せ、顔を埋めるキョーコのしぐさを見て、蓮の理性も途切れる。
二人の体の奥底からの、リズム。
繋がった部分から、全てがとろけるような、音がする。
触れ合った身体のぬくもりが愛おしくて、少しのほんとうの心が囁く言葉は切なく、身体の奥が欲する互いの熱が、その時世界の全てだった。
真っ暗闇の中で、輝く真っ白な白昼夢を、二人の目の奥が同時に見届けた。
「明日・・・・コンクールがあったら、一番いい演奏が出来そうです・・・敦賀さんのそばいると・・・優しい気持ちになれるから・・・」
「そう・・・・?」
「どきどきして・・・切なくて・・・・・愛しくて、優しい・・・・作曲家の恋愛している時の気持ち・・・・・・よく分かるから・・・・今、弾きたい・・・・・」
「今はダメ・・・・頭の中で弾いてごらん・・・・・・」
「はい・・・・・・」
「曲のイマジネーションを育てるのもいいんじゃないかな・・・・そういうのって女の子の方が得意だろう・・・?」
返事をすることなく、すぅ・・・・・と深く意識を手放したキョーコを大事に抱えた蓮もまた、「明日公演があったら・・・・きっと世界で一番いい音を出せる自信がある」と・・・思った。
恋と愛の瞬間。
深い、深い、信頼感。
この日を境に、二人のピアノの音は、また少しだけ優しく、深く、変わっていった。
2007.06.07