3. Libestraume 《愛の夢》
キョーコは蓮に腕を絡めて歩き、そのまま控え室の前まで着いた。蓮の連れという事で何ら問題なくそこまでたどり着いてしまった。キョーコは、ただ、笑顔を浮かべているだけだった。
蓮自身、キョーコを利用する事について、仕方が無いとはいえ、良心が痛まない訳では無い。
しかも初めて会ったキョーコに、「あなたが嫌い」とこんなにも強く睨まれる。
しかし仕事だと決め込んだのだろう、そうした気持ちはつゆとも見せずに、キョーコはこうして恋人としてぴったりと蓮に寄り添い、優しい微笑みを蓮に向けた。その笑顔は自分が心から好きな相手に普段向けているものなのだろう。そして、その相手を本当に好きなのだろう。
二人が控え室に着くと、先に蓮のマネージャーの社がそこにいた。
「蓮、遅い。え、あれ、それは・・・?」
社は、キョーコの胸元にかかっているネックレスを見て驚いた表情を浮かべた。蓮は、まだ話をしていなかったと思って、苦笑いが浮かべた。
「すみません。少々着替えに手間取りました。例の子・・・なんですけど」
「え?」
「キョーコちゃん、彼は社さん。オレのマネージャーをしてくれているんだよ」
蓮はキョーコに向かってそっと微笑みかけながら、社を紹介した。
「初めまして。敦賀蓮のマネージャーの社です」
社も軽く頭を下げ、柔和な表情でキョーコに挨拶をした。
キョーコは、蓮の名前以外は口にしなくていいとしか聞かされていなかったから、一瞬ちらりと蓮を見上げた。
「初めまして。蓮・・・???」
「社さん、あとで色々詳しくお話します。それから、お願いがあるんです。少し二人きりにしてくれませんか?」
「いいけど、時間になったら呼びに来るからね」
「ええ、お願いします」
社が扉を閉めたのを確認した蓮は、
「二人きりの時は普通通りに戻っていいよ」
と言いながら、キョーコに用意されている椅子に腰掛けるよう促した。
キョーコは意図が掴めずに、不思議そうな顔をした。
「オレ以外の人間がいる時だけ「京子」になってくれればいいんだ」
「分かりました」
「さっき君が持っていた楽譜、貸してくれる?しばらく譜面に篭りたいから・・・そこで待っていて」
「はい。敦賀さんの譜面のスピードは?」
「ん?気にしないでいいけど・・・一・二小節前でいい。手早く捲ってくれれば。境目は今から暗譜する」
「分かりました・・・」
蓮が譜面を見て覚えている間、キョーコも横で同様にじっと眺めていた。キョーコは今にも弾きたそうにその指がうずうずと動く。譜面を見るキョーコは、まるで譜面に恋でもするかのようにうっとりとその音符を眺めている。
音楽家としてのキョーコ自身は、音楽が心から好きなのだろう。それなのに何故ラブミー部、なぜ大好きな彼がいるにも拘らず、ラブミー部なのか。学長曰くラブミー部は愛を表現できない子の為の部なのだという。
蓮は、キョーコのそのスコアに恋する表情を見て取って、何となく話しかけてみた。
「譜面見るの、楽しい?」
「だ、だって・・・・その楽譜とても人気で、借りるのに三ヶ月待ったんですよ?ようやく今日見つけて、今日の夜はこれを弾いて楽しむ予定だったんです」
「そっか・・・・・」
「横から見ていて邪魔しちゃいました?」
「いや?楽しそうだから。オレに会ってから初めて本当に笑っただろう?」
「一人で笑っていましたか?すみません」
「いや・・・・・」
蓮は、時間があったからか曲自体は良く知っているからか、すぐにほぼ暗譜し終わり、キョーコには結局、譜面捲りの仕事はしなくて良いと言って断った。
「モー子さん以外で初めてそんなに最速で覚える人を見ました。あなたをちょっと見直しました」
「・・・ありがとう。そのモー子さんが、例の「カナエ」なんだろう?」
「はい」
「君達二人しかいないんだっけ。ラブミー部員」
「・・・・・・はい。今の所は」
「どうして君はラブミー部員なの?」
「・・・学長にそう言われたからです」
「何か相当なミスをしたわけ?」
「いえ・・・。入賞した国内のコンクールもノーミスでした。もちろん」
「入賞、だから?」
「し、失礼ですっ・・・って敦賀さんは・・・国際コンクール優勝ですから・・・私がピアノについて口を聞けるような立場ではないですねっ、すみません・・・」
「いや・・・。この世界コソコソ人の足引っ張るヤツは多いけど、正面から嫌いなんて言う人間なんていないし、それに女の子に初めて言われたよ。面白いね、君。なんか気に入ったな・・・」
蓮がそう言うとキョーコは驚いたように目を見開いて、何か言いたげにじっと蓮の目を見つめていた。
「何?」
「肩書きなんて」
「嫌いな言葉?」
「・・・いえ」
「別にいいけどね。まぁ君面白いからしばらくオレの同伴よろしくね」
「はぁ・・・・」
キョーコは、冴えない顔をして生返事を蓮にした。
蓮も、この後の事を考えればいささか可哀想でもなかったけれども、彼女も自分を利用すればいいだけの事だと、蓮は冷たくもそう割り切った。
しばらくすると社が戻ってきて、声を掛けた
「蓮、時間だよ」
「はい。じゃあ行こうか・・・キョーコちゃん・・・」
「はい・・・蓮・・・・」
二人は再び腕を組んだ。
彼女を連れて正面から入ると、もう会場に集まっていた人の一斉の拍手で出迎えられた。キョーコはその人数の多さに驚き、彼らから視線を逸らした。
蓮はキョーコを用意してもらっていた椅子にキョーコを座らせて壇上へ上がった。視線を流せば、会場の人間達は、蓮への視線とキョーコへの視線を行ったり来たり。そしてキョーコに着けたネックレスを指差す者が出始め、報道陣は彼女の顔とネックレスを撮り始めた。
――さて・・・・どう転ぶのかな・・・・。
蓮は横目にその風景を入れながら、感謝の言葉と挨拶を済ませて、ピアノを弾き始めた。ここからはもう蓮の脳裏には譜面と指先の感覚が流れるように頭を過ぎ去り、会場の事など気にならなかった。自分の事も何もかもを忘れ、一番の集中とリラックスができる時間だ。
本題の曲が弾き終わり、一度舞台袖に退くと、そこに真っ青な顔をするキョーコがいた。
蓮は袖にいるスタッフから拍手をもらい、それに会釈しながら、キョーコを連れた。
二人は無言で舞台横の控え室歩き、明るい場所でキョーコの表情を見て、その顔色の悪さに驚いて、蓮はすぐにキョーコを椅子に座らせた。そして自らもひざまずいて屈み、キョーコの表情を下から覗く。
「どうした?顔色が悪いな。何かキツイ酒でも飲まされた?譜面めくりは覚えたからいいのに・・・」
「あなたの次の演奏を見たら、私・・・すぐに帰ります」
「・・・・?誰かに何かネックレスについて聞かれた?聞かされた?」
「いいえ・・・」
「オレの恋人役最後までやらなければハンコは押せないよ?」
「ハンコはもういりません。もう演技できない。ただ、帰らせてください」
「分かった。送るから待っていて。もし一人で外に出たら君は針のむしろだよ」
「じゃあ終わったらすぐに帰らせてください・・・・」
「でもさすがにオレのためのパーティなのにオレがすぐに帰るわけには行かないだろうから・・・そんなすぐにとはいかないけど・・・。どうした?さっきまでのオレを嫌いと言っていた元気はどこにいった?」
「・・・敦賀さんなんて、大嫌いです。本当に嫌い。敦賀さんの演奏を、今日初めて聴きました。あなたの性格とは思えない透明で澄んでいて・・・綺麗でキラキラしているのにとても繊細な音。それは好きです」
「それはどうも。音楽には素直だね」
「音楽は・・・音は・・・ウソをつきませんから」
「・・・だから君はラブミー部なのかな・・・」
蓮がそこまで言うと、キョーコは目に大粒の涙を溜めてうつむいた。蓮がそっと頬に手をやると、振り払われた。当然だろう。
「ごめん、言い過ぎた。ラブミー部をバカにしているわけじゃない」
「違うんです、ゴメンなさい」
キョーコは蓮から視線をそらした。彼女は右足を床から浮かせ、庇うような仕草をした。少し腫れている気もする。
「ん?足どうした、腫れてる。靴は?」
「さっき転んで脱げてしまいました。面倒で脱ぎました」
そう言ったキョーコはうつむいたまま部屋の入り口の靴を指差した。
「そう・・・冷やしておいたほうがいいな。もう表に出たくなければ次は舞台袖で見ているといい」
「はい。その代わり終わったらすぐに来て下さい。帰りたいです」
キョーコは相変らず真っ青な顔でそう言うと、腫れた足を庇うように歩き、部屋を出ると無意識に「京子」になったのか、蓮の腕を自ら取った。
「大丈夫?社さん、彼女の足、よろしくお願いします」
「ん?あぁ、少し腫れているね。挫いた?」
「はい・・・」
キョーコを舞台袖に座らせた蓮は、アンコールを弾きに出た。アンコール曲の紹介と共に、「愛する彼女の為に」と一言付けて・・・・・。
ざわざわと会場がざわめき揺らめいた。そうなる事を最初から重々承知していた。
キョーコが弾きたいと望んだ曲、「愛の夢」。
愛を表現できないという彼女が弾きたいと目を輝かせて喜んで見る楽譜。何故彼女は、好きで両思いの彼がいて、ピアノの技術も日本の中ではかなりの技術があるのに、ラブミー部にいるのだろう。
蓮は、弾き始めても、キョーコの事ばかりが蓮の脳裏に浮かび、終始リラックスする事も、自分の事を忘れる事すらもできなかった。最低な仕事だな、と思った。
キョーコの真っ青な顔が、涙が気になったのか、女性に対して酷い事を言いすぎたという罪悪感からか・・・。
それでもミスタッチはなかったから、蓮の集中力の欠如は周囲には分からなかっただろう。しかし蓮にとっては、到底納得が出来ない演奏だった。幸いにも大きな温かい拍手を貰ったものの、一方で彼女は舞台袖で、もう隠すでもなくぼろぼろ涙を零して泣いていた。周囲は、蓮の演奏に感動して泣いていると思っているのだろう。
こっそりと、キョーコにだけ聞こえる距離で、蓮はキョーコに囁いた。キョーコも、ぼそぼそと囁く。
「・・・・・どうした?」
「・・・・もう、帰りたいです」
「いいけど・・・その顔じゃ・・・」
「やっぱり控え室にいます。敦賀さんが帰れるまで待っています」
「社さんはオレについてないといけないから・・・・一人でいられる?」
「・・・・・・大丈夫です」
蓮はキョーコを控え室に置いて、会場に戻った。
学長と先生が居た。
「蓮。お前が演奏中に考え事するなんて珍しいじゃないか」
「え?」
「バレないとでも思うか?俺にはバレてる」
学長がニヤリ、と笑いながら、言ったから、蓮も仕方なさそうに苦笑いを浮かべた。
「くすくす・・・すみません・・・」
「しかも相手・・・琴南くんじゃないんだな。まぁ同じ「キョーコ」だから・・・いいのか」
学長がそう言うと、横から先生が少々困ったような表情を浮かべて蓮にだけ聞こえるように囁いた。
「敦賀君・・・「キョーコちゃん」なんだけどねぇ。さっきそこで会った不破君に連れられて行って何やら言われていてねぇ。僕が心配で見に行った時にはもうキョーコちゃん一人だったからよく分からないけど・・・」
「・・・?先生、フワって誰です?」
「キョーコちゃんの・・・二十一年来の思いの人だよ。来ているとは思っていなかったんだろう。会ってお互い驚いていたよ。まさか彼女は彼に「仕事」で来ているなんて言えなかったんだろうな。フォローしておいてあげた方が・・・」
「・・・なるほど、分かりました」
それが帰りたいという理由、あの大粒の涙の理由だろう。
「それは彼らに悪いことをしましたね。フォローしておきます。そのフワというのはどこにいるんです?」
「いや、彼もすぐに帰ったよ」
「そうですか・・・。どんな人間なんです?」
「ウチの学校の生徒で、キョーコちゃんと同い年なんだけどねぇ、ピアニストなんだけど、仕事の方では歌手をやっているんだよ。芸能活動がことの外忙しくて殆ど学校には来られていないんだよね・・・。僕のところにも最近はレコーディングとツアーで忙しいとかで、数ヶ月に一回程度でね。それでも音はプロの現場で磨かれているせいなのか、会うたびにどんどん良くなっているし、力だけは相当あるから・・・。高校生の時には既に日本で一位を取った事もある位なんだよ。学校としてはプロの、職業としての両立も認めているから仕方がないんだけれどね。確か今度君が住む部屋のすぐ隣だよ」
蓮が今度住む部屋というのは、大学の学生寮の中でも、最も設備の充実した部屋だった。戸建ての家のように個別に建てられていて、隣とも多少離れて建てられている。リビングの他に三部屋と、さらに音楽用の完全防音の部屋があり、二十四時間好きな時間に音を出して練習ができるようになっている設計のその一人が使うにはとても広い部屋は、特待生の特権だった。
数ヶ月に一度しか顔を出さない人間が、今でもその部屋に住めるという事は、特待生中の特待生の証でもある。
だから、その部屋に住んでいると言われれば、それだけで、フワという人物が相当な実力の持ち主である事は、蓮にもすぐに理解できた。
「なるほど、では待っていればいつか必ず会える訳ですね」
蓮はその場を後にして、方々の挨拶回りを済ませて、ようやくパーティがお開きになると、控え室に戻った。
キョーコは相当ショックだったのだろう。泣きつかれたのか、目を腫らしてそこで横になって眠っていた。
「蓮・・・・お前、ヒドイな・・・。何をしたんだ」
「仕方なかったんです。明日にでも二人きりになった時にお話しします」
「彼女、どうするの?」
「連れて帰りますよ。オレが抱えていくんで、車開けてください」
――仕事だと、彼ぐらいは言えば良かったのに・・・。
キョーコは真面目なのだろう、そうして嫌いな自分との「約束」も頑なに守ってくれたのだろう、蓮はそう思った。
「ん・・・・あ・・・・?」
ぼんやりと、腕に抱えられたキョーコは振動で目を覚ました。
「『キョーコちゃん』」
「・・・・・蓮・・・・・」
本当に真面目なのだろう・・・この状況下でも蓮が「条件」を突きつければ、キョーコは当初の「約束」通り、それに従ったようだった。
「大丈夫・・・?」
やはり、「蓮」としか言ってはいけないという約束をまた守ったのだろう、こくり、と首だけが頷いた。
「車まで連れて行ってあげるから・・・・そのまま目を閉じていて」
また一つこくり、と頷くと、キョーコは目を閉じた。
2006.02.22