27. Chanson de l’adieu 《別れの曲》
「・・・・・泣きやむ歌は歌わなくていいですから・・・少しだけ泣かせてください・・・・」
「・・・・うん・・・・。」
我慢してもキョーコの唇から小さく声が漏れる。
蓮が抱き寄せ、何度も背中を撫でてくれている。
いつか落ち着いたとき、「音」がした。
――とくり、とくり、とくり・・・・・・・
この世で一番の、至高の音。
この世で一番いい音は、とても優しく、温かい。
耳の奥に響く、蓮の腕の中の、生きている、音。
大好きだよ、と繰り返す、十五年前と変わらない、正確な、リズム。
「・・・・ふぇ・・・・」
「おやどうした・・・まだ落ち着かない?」
「・・・・・・・・ずずっ・・・」
「あーあ。ウサギ目だ」
蓮が背中を撫でて、そっと笑う。
あたたかい。安心する、腕の中。
十五年前も、とても安心した、腕の中。
*****
――教会で、コーンが聞かせてくれた歌を聴いた。
幸せだった頃を思い出して、どうしようもなく涙が出た。
あの頃はとても幸せだった。
ショータローがいて、コーンがいて、ショータローと名づけたピアノがあった。
毎日が楽しかった。
今は、蓮がいて、先生がいて、コーンと名づけたピアノがあって・・・・ショータローがいて・・・・、レオがいて、土屋女史とオーナーがいて・・・・。
――やっぱり、今も、幸せね・・・・・
蓮と一緒にいられるのは、あと数日だった。二ヶ月前の、遠足前のようなわくわく感は、いつの間にか蓮の新しい公演を見るわくわくに変わり、それも全て終わり、一緒にいるのはあと数日だと、それに気づいたとき、どうして蓮が最近今まで以上に傍にいて、夜な夜なキョーコを甘えさせたのかを、理解した。
――「今度帰ってきたあとは・・・長いよ・・・」
少なく見積もっても、一年は会えないに違いない。もう、あと数日でしばらくの間、またお別れしなくてはいけない。
――・・・・・・寂しい・・・・・。
それは、とても静かに、心に降ってきた。
一年蓮と会えないかもしれない。そう思ったら、不意に寂しくて、教会で不謹慎にも蓮に寄りそって、その手を確かめた。そっと握り返してくれた蓮は、にこり、と笑った。
そのあとで響いた歌は、コーンの歌。とても大事な、歌。寝る前に口ずさみ、学校で一人の時に口ずさみ、寂しいときに口ずさんだ。大事な石と一緒に・・・。
小さな頃の思い出が溢れ出し、ショータローと、コーンと、蓮と、自分の全てが倒錯して、気づいたら涙が溢れた。光が射し込むステンドグラスの赤・青・黄色が何重にも重なり、まるで万華鏡の中にいるようだった。
そしてその光の中、コーンの歌が静かに降ってきて、それは幻想的な世界に変わっていった。
神々しい朝陽の光の中に、まるで小さな頃のコーンが目の前に降りて来て、キョーコの前で歌ってくれているような気がして、涙は止まらなくなった。
――いつか、この教会の真ん中を、二人で歩きたい・・・・
今まで思いもしなかった「愛の夢」が一気に目の前を過ぎ去った。それはキョーコが一生懸命読んだ夢物語から、現実の事のように目の前に現れた。
それはとても優しくて幸せな光景。
――ああ、今、私はこの繋いだ手を永遠に信じていたいのだと思った・・・・。
だからキョーコは、蓮の手を強く握り締めて、神様に、懺悔とお願いをした。
――敦賀さん、嘘をついて、約束も守らずに傍にいて、ゴメンなさい
――いつかもう一度、コーンと、敦賀さんと一緒に、ここに来られますように・・・・
でも・・・。
蓮は、大人で、「割り切れる人」。別に「割り切っているなら」この先を共にするのは自分でなくてもいい。ショータローだって、好きだと言ったって、そうだった。そして蓮も、一年後、確実に、傍に戻ってくる、とは限らない。何の「約束」も無ければ確証も無い。かつてのショータローと同じ。同じ国にいない分さらにその壁は高いかもしれない。
そして、一年の間に名前が売れれば確実に、その次の一年も、またその次も・・・・と世界各国を渡り歩く。蓮の音を望んでいる国は沢山あるだろう。そして、時間が経ち、立場が変わればまた、心も変わる。
蓮が、最近、キョーコを見る目が何かが違った。とても切なく見える事さえあった。蓮も同じ気持ちでいるのだろうか。
もしそうだとしたら。蓮が、自分と同じかそれ以上に、心から愛してくれているのだとしたら。
蓮なら、もしパートナーが誰もいないなら回るはずの公演、国を、蓮なら確実にキョーコのために、一年に一公演は避けて会いに来るだろう。何度も間を見ては泣いていないか心配で、キョーコに会いに日本へ帰ってくるだろう。
――王子さまとね、おんなじぐらい王女さまも頑張らないといけないの。
キョーコは、まだ、全ての約束を、果たしていない。会う資格など、本当は無かった。そう、これは、全て夢。幸せすぎる愛の夢。
でも蓮とあの日ぶつからなければ、きっと今でも、ラブミー部の中でコンクールにも出られず、きっと、テレビで蓮が探すキョーコちゃんが、自分だと気づいたとしても、大嫌いな敦賀蓮、言い出せずに夢物語、コーンもショータローも全ての約束を諦め、忘れ、ピアニストにでもなれていればいいけれど、何も無くたった一人で一生を終えたかもしれない。
――今のままでは、蓮の傍にいる資格など到底無い。
「諦めなければ夢は夢じゃなく傍にある。オレはキョーコちゃんに会いたいんだ・・・それが、今も昔も変わらないオレの夢だよ」
ショータローに負けて蓮の腕の中で大泣きした晩、蓮がキョーコに囁いた。
――あの時にはきっともう、私が『キョーコちゃん』だと知っていたのね・・・・・。
こんなに迷うのは、約束を果たずに一緒にいるから・・・。
ピアノをもっとうまくなりたい。ただそれだけ。
そしていつか、コンクールで優勝して、探している本当のキョーコちゃんとして、『コーン』に、会いたい。
――それが、私の、夢。
――だから一度ちゃんとさよならをして、それでも望みがあるなら、もう一度、正面から出会いたい。
だから・・・・・。
******
ホテルをチェックアウトして、最後の日を過ごすべく、蓮が昔住んでいた家に、蓮が案内した。
蓮は普段使わないから、土屋女史やレオがフランスに来た時などにだけ使っているようだった。横にいたレオが、ウサギ目のキョーコを見て、とても哀しそうな顔をした。
土屋女史が蓮を責めようとしたから、キョーコが首を振り、「土屋さん、敦賀さんが小さい時に歌っていた教会で、歌を・・・・・聞いたんです。とても、とても感動して泣いてしまって・・・」
キョーコがそう言うと、土屋女史は、驚いたように目を見張り、そしてしばらく固まったまま、目だけを蓮に移してその名前を呼んだ。
キョーコたちが、互いに『分かって』いて、そして口には出さずに傍にいることを、驚いたようだった。
「蓮様・・・・」
「・・・はい」
「いえ・・・・。そう、そうなの・・・」
そして、もう一度キョーコを見た土屋女史は、そっと、目を伏せた。
「レン、あっちの部屋にあったピアノ、直しておいたよ」
「ゴメン・・・・・ありがとう」
「あのピアノ・・・・どうしてあんないいピアノ、使わないんだ?お前がイギリスで使っていたピアノと同じか・・・・いや、それ以上の代物だろう」
「・・・・ある日から、使えなくなったんだよ・・・・。開ける鍵が、無くなったんだ」
「そう・・・。・・・・鍵は、すぐ傍に、あったけどね」
「そうだね・・・すぐ傍に、答えは置いてあったんだけどね・・・」
「ねえキョーコ、君の大好きな大きなピアノが、あっちにあるよ。見に行っておいでよ」
「キョーコちゃん、行こう。ピアノの部屋」
「はい」
「レン、オレと土屋さんはオレのホテルに一緒に泊まるからごゆっくり。けどリミットは明日の夕日が落ちるまで、だからね」
「・・・気を使わせて悪い」
じゃあ、と言って背を向けたレオに土屋女史は、「何が飲みたい?」と尋ねて、「美味しい真っ赤なワイン」と答えた。そして「それは夜にしましょう」とたしなめられて、出て行った。
扉が閉まったと思ったら開いて、「蓮様、キョーコちゃん泣かせたらだめよ?」と一言付け加えてまた閉まった。
廊下の壁には、沢山の絵と、沢山の古い楽譜が飾られている。
「これは母さんが描いた絵。こっちは父さんが書いた楽譜」
「綺麗・・・・」
「そうだ、この飾ってあるヴァイオリンは、君にあげる。母さんの父親が持っていたヴァイオリン。それなりにいい音がしたはずだよ」
どう考えても厳重に保管をされている戸棚を開け、蓮はケースを開けた。
「い、い、い、いりませんっ、駄目ですっ、こ、こんな高いのっ・・・・!!!」
見ただけで、プロであるショータローの母親が持っていたのと同じかそれ以上の楽器だと分かった。ゼロなんていくつ付くのか分からない。弾いたら、それはいい音がするだろう。
「楽器は使われなくなったらただのガラクタと同じ。弾けるなら、趣味でいいから楽しく弾いてあげて欲しいんだ。いらなくなったらまた、誰か弾ける人にあげて欲しい。それで、いい。売りたいとは思わないから。人づてに、よくしてくれる人に渡ればそれで。オレは君に、あげたい。・・・ヴァイオリンの肩当でついたその首の赤い痕を、ずっと絶やさないで・・・・」
それは、暗に蓮のものでいて、と言ってくれていると・・・・思いあがってみたかった。
すりすりすり、と蓮はキョーコの首のヴァイオリンでついた赤い痕を親指で撫でる。その手が嬉しい。そして蓮はヴァイオリンのケースをキョーコに渡した。
「・・・・・・・はい。いつかオレにも君のヴァイオリンの音を聴かせて欲しい」
「はい・・・」
そして、ピアノの置いてある部屋に入った。レオが褒めるのも分かる、本当にいいピアノがそこにあった。蓋に触れた蓮は、懐かしそうにその上を指でなぞった。
「毎日のように、「キョーコちゃんに会いたい」「泣いてないかな」って・・・心配しながら練習してた。全然意味も分からず、世界で一番になるんだって・・・・思ってね」
「敦賀さん・・・・・」
「おいで」
呼ばれたから傍によると、体ごともちあげられて、ピアノの上に置かれてしまった。そんな行儀の悪い事など、生まれてこの方した事が無い。慌てて降りようとするキョーコの足から、蓮は靴を取り去った。
「だ、だめですっ・・・・こんないいピアノの上に~~~~」
「オレのピアノだから」
「で、でもっ・・・・」
蓮はためらうキョーコの唇を塞ぎ、穏やかに笑う。
「オレにとって、ピアノも、君も、同義語だから」
「え・・・・・・・」
「「キョーコちゃん」。このピアノに、もし名前をつけるなら、きっとそう付けていただろう」
もう、十分。
そう思って、お別れの決意を、した。
「敦賀さん・・・・」
「うん・・・?」
「私を、ちゃんと「割り切って」くださいね?」
「本気で、言ってる・・・・?」
「このあとお別れしたら、きっぱり、私のことなんて・・・・」
「いいよ、無理しなくて・・・・・君が目を逸らす時は何時も、ウソついている時だよ・・・」
「・・・・敦賀さんなんて、嫌いっ・・・・大嫌いです。割り切って・・・・」
ちっとも演技なんて出来なくて、既に涙声だった。
蓮はキョーコを抱きしめて、キョーコの名前を、息を吐き出しながら呼んだ。
「・・・・キョーコちゃん・・・・」
「・・・・蓮・・・」
「違う・・・オレが欲しいのは演技なんかじゃない・・・」
心が痛くて、キョーコは顔など上げられなかった。
「・・・・・・だからっ・・・私には、割り切れないって最初から・・・・」
「じゃあオレも割り切らない。・・・・どうして・・・オレに割り切って欲しい?」
「・・・・・・世界に、敦賀さんの探す『キョーコちゃん』は『一人』で、いいんです・・・。二人も、いりません・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「だから。お願い。いつか、敦賀さんの前に、『キョーコちゃん』が現れる前に、蓮の恋人役の「京子」はもう、「ラブミー部のお仕事」はもう、終わりにさせてください」
「ゴメン、オレが・・・はっきり言わなかったから・・・・君にオレが言い出せない嫌な役を押し付けたね・・・」
「・・・・・・・」
「ウソでも言い出せなかったんだ・・・オレを割り切って、なんて・・・・。ねえ、どうして、今までオレがずっと割り切って来たのか、君は、本当に分かってる?」
「・・・・・・・・・・」
キョーコのウサギ目の目蓋に、鼻先に、頬に、蓮はそっと口付ける。
キョーコの唇を少しだけ食んで、まっすぐ目を合わせたまま、唇越しに伝えた。
「キョーコちゃん・・・さっき言ったけれど・・・・オレにとって「キョーコちゃん」とピアノは同じ意味だと・・・・。まるでピアノは「キョーコちゃん」。大事に、大事に・・・。そしてその内「キョーコちゃん」は、いつしかオレの中で唯一絶対になってしまった。いつか会えるまでは、それ以上なんていらない、いや、そこで違う子を心から好きになるなんて事があったら、ピアノ自体が弾けなくなってしまう、そんな恐怖さえあった・・・。オレにとって、キョーコちゃんは大事すぎたんだ・・・」
――私は、先生のピアノに、「コーン」って名づけているもの・・・。
――私にとって、「コーン」は、唯一絶対の、優しさの象徴だったもの・・・・。
――私だって、コーンに会いたいもの・・・・。
「敦賀さん・・・。だから、ホンモノの、キョーコちゃんは、世界に一人で、いいと、思いませんか・・・・?」
「・・・わかった。・・・望みどおり君を割り切ろう・・・。でも、オレが日本に立ち寄った時ぐらいは、相手をしてくれると、嬉しい」
「その時は、沢山、割り切ったキスを」
「うん・・・そうだね・・・限りなく愛に近い、割り切ったキスを、ね」
「他の国でも、どの国でも、今後私以外の全員を・・・割り切ってくれたらいいのにって・・・そう思います。「約束」なんて、何にもないけど・・・いつかホンモノの「キョーコちゃん」が現れるまで・・・」
「もう、女の子なんて、「キョーコちゃん」だけで沢山だよ・・・」
「ふふ・・・そうだと、嬉しい・・・」
「君が先生のピアノにつけているだろう名前も、想像つくけど・・・・ね・・・?オレが思っている名前、が付いているんだろうな・・・・。くすくす・・・・・」
「そうです、コニーですっ」
「はは、コニー・・・・ね。たしかに、「コ・・・・」だね」
「そうですっ」
おもむろにピアノの蓋を開けた蓮は、椅子に座る。
天板の上に置かれたままのキョーコは上から蓮を見下ろす形になった。
「弾いてあげるよ・・・ショパンコンクール課題曲・・・・」
――別れの曲・・・・・。
とても切ない、切ない、愛を吐露した旋律。体中に、蓮の音が直接響く。キョーコが「弾いてください」と言った曲を、何曲も、立て続けに弾く。
蓮の音が、愛が、体中にビリビリ電流のように体中を駆け巡り、響く。
最後に、あの教会の歌を弾いて、蓮はまた蓋を閉めた。
当たり前のように、蓮はキョーコの唇を塞ぎながら、ごく至近距離で会話を続けた。
「十数年ぶりにこのピアノを弾いたよ・・・・・・・このピアノも、君にあげる。良かったら使って」
「・・・・・・え・・・・・・?」
「言っただろ?使わなかったら、ただのガラクタだって。せっかくレオが命を吹き込んでくれたから、もう一度、生かしてあげて欲しいんだ。きっと、君なら本当に大事に使ってくれるだろう」
「ダ、ダメですっ・・・・」
「・・・このあと日本に帰ったら、元の不破の部屋は君に行くんだろう?あの部屋は大きなピアノでも置けるし・・・・君は部屋にピアノを持っていなかったはずだ。それに『たまたま』君と同じ名前と意味を持つピアノ。もう、君にしか、触らせたくない。いらないなら、ガラクタだからね。捨てる。もしコレを捨てたら、オレはきっと、君を割り切って、そして「キョーコちゃん」も、もう探さないだろう。そして今後二度とピアノに名前なんて付けられないだろうね」
「敦賀さん・・・・・」
「オレの最後のお願いだ・・・・貰って・・・・。オレのピアノで、世界を目指すと「約束」が欲しい・・・。オレはもう、君の傍に、いてあげられない・・・だから・・・せめてピアノだけでも君の傍に・・・」
「敦賀さん・・・このピアノには「蓮」って・・・・名前をつけて、いいですか?大事に、大事に・・・・使いますから・・・・。・・・・・ふ・・・っ・・・っ・・・。」
答えの代わりに蓮に唇を塞がれ、激しく絡められた。外して互いにあちこちにキスマークをつけ合う。「敦賀さんの首もとの痕も、一生消えなければいいのに・・・」キョーコがそう言って、さらに肌に着くキスマークは、互いに色をいっそう鮮やかにした。愛していると、互いの目が、心が、告げる。口には出せない。
蓮がキョーコを蓮の部屋という場所へ連れた。
整えられた部屋と家族写真。綺麗だと思う暇もなく、蓮はキョーコをベッドに沈めた。
蓮がキョーコの足先に口付け、せり上がり、ピリ・・・と痛みが走った太ももにもキスマークが着く。押し上げられたシャツ、押し上げられた下着、ピアノが揺れて、蓮の舌が、指先が、体中を這い、キョーコを奏でる。
―――とくとく、とくとく・・・・
高い音が漏れて、互いの脈打つ生きている証は、そのリズムがとても早くなる。愛しい、愛しい、音。この世で一番やさしい音楽。
今まで、何度口付け合っただろう。
何度、互いの名前を呼び合っただろう。
何度抱き合っただろう。
幾晩共に、愛していると告げあっただろう。
――寂しい、寂しい、寂しい・・・・。
再びやってきたその気持ちで、キョーコは蓮の首に腕を回して、体勢を保ち、耳元に一言だけ、告げた。
「敦賀さん・・・・『恋人役の京子』としての、最後のプレゼント、貰ってください・・・きっと、あなたの『キョーコちゃん』なら、こう言います・・・・」
「うん・・・・」
「『コーン・・・大好き・・・愛してる・・・だからまた会いに来て!約束よ?』、・・・って・・・」
蓮は、じっとキョーコを見つめて、そして、言葉にならない言葉を表すように、ほんの少しだけ首を左右に振った。
「・・・キョーコちゃん・・・ありがとう・・・」
蓮の伏せた目から、不意に一筋だけ流れ落ちた涙を、キョーコはその唇で受け止めた。
その涙の跡が愛おしくて仕方が無かった。
寂しさでどうしようもなくキョーコから涙が零れ、最後の最後まで泣いて泣いて、泣き通した。
キョーコは、その限りなく優しい腕の中で夜通し蓮に甘えて、心から愛し合い、お別れを、した。
蓮は空港で、キョーコに口付ける代わりに、キョーコの首にかかっているネックレスを手にとって、一度口付けた。
「身体に気をつけて。絶対に、無理したらだめだよ?それからね、音楽以外のことも沢山してごらん。どんな経験も音楽に役に立つから。音楽漬けだけは、ダメだよ・・・・」
「はい・・・・先生・・・・」
「はは、そうだった。オレは、君の師でもあったね・・・・。何かあったらメールして」
蓮はそっと微笑み、そう言った。
「さようなら、敦賀さん。世界でのご活躍を、祈ってます」
さようなら、という言葉は、こんなに切なかっただろうか。
涙声で、全然演技など出来なかったけれど。
「大丈夫、大丈夫だよ・・・また会おう。だから泣かないで、キョーコちゃん・・・」
蓮は最後のお別れに、一度だけ、強く、キョーコを抱きしめた。キョーコがさようならをしたのに、蓮がさようなら、と、言わなかったのは、蓮にできる最大の優しさだと、キョーコは思った。
――大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・・
飛行機の中でキョーコはずっと頭から毛布を被っていた。さびしさで流れ落ちる涙と共に、あの大事な石の中に、しばらくの間、蓮への恋を、甘えたい気持ちを、封印した。
「蓮」と名づけたピアノが元のショータローの部屋に運び込まれた時には、もう、紅葉もだいぶ進み、秋も終わりを告げていた。
第三楽章 了
2007.03.11