25. Sonate fur Klavier Nr.23 ‘Appassionata’ op.5《熱情》
蓮とキョーコがフランスに着いてすぐに、土屋女史とホテルのロビーで合流した。
蓮はすぐに撮影が入るからといって、土屋女史と共にそのホテルからすぐの撮影場所へと向う手はずになっていた。
キョーコはホテルで待機していようと思った。けれども、土屋女史がそれを許さなかった。
スタジオに着くと、蓮はスタッフに挨拶をしてまわり、最後にスタジオに足を踏み入れた。そこでは聞き覚えのある明るい声がした。「あれ・・・」と声が先に出て、キョーコが挨拶をするより先に既にその腕の中にいた。
「キョーコ!」
ぎゅう~~~~と背の高い影に強く抱きしめられて、頬に軽い唇の感触。それがレオだとしっかり確認できたのは、離してもらってからだった。
挨拶だと分かっていたけれども唇の感触に思わずキョーコは蓮を振り返った。蓮も分かっていたように、ふ、と一つ息を吐いた。
「レオさん???こ、こんにちは???飛行機同じ便だったんですか?」
「オレはキョーコと食事をした次の日に入ったんだ」
「あ、あんなに飲んだのに・・・・」
「オレは一切酔わないよ。酔わせるのが役目だからね」
「・・・・・・・・・?」
「キョーコちゃん、レオの言う事はいちいち真に受けなくていい」
「レン。今度また飲み比べをしよう。今度こそ数日かけても決着を」
「あら、レオとキョーコちゃん、面識があって?」
「イタリアで偶然会って、敦賀さんに紹介してもらいました」
「レオ、キョーコちゃんを口説いたらダメよ?蓮様のモノだから」
土屋女史が綺麗な英語でレオに話しかけると、レオさんはぷくりと可愛く頬を丸く膨らませた。
「みんなオレを何だと思ってるんだ」
「手の早いイタリア人、だろ?」
「レン!!!」
皆が笑う。
蓮は、ばさっと着ていたシャツを脱いで、薄いグレーのTシャツ一枚になった。
「蓮様、着替えはいつもの部屋でね」
「あぁ、はい」
蓮はそっとキョーコの背中を押した。
スタジオを後にして、控え室に向かう。すれ違う蓮と同じ背丈のある人たちが、にこり、とキョーコに笑いかけてくる。蓮が誰かを仕事場に連れてきたのが珍しい、といった目だった。
「誰もいないから入って。着替えはオレが最後だから」
「はい」
蓮の後について入ると、沢山の服が所狭しとハンガーにかけてあった。「Ren」と書かれたところに、蓮のサイズで今日着るべき服が順に並んでいる。その一番右端に女性用の黒のドレスが置いてあって、蓮は「君のだよ」と言った。
「え?私ですか?」
「土屋女史、君を撮りたいと言っていただろう?新しいブランド立ち上げのイメージにするようだよ?君、ホラ、黒のドレス似合っていたから、君ぐらいの年齢向けに作るんだろうね。契約はとりあえず一度撮って試してから、みたいだけど」
テーブルの上に蓮はそれを広げて置いた。
全て黒いシルクで出来ているドレス。心地よい手触り。
腰の切り替えは紐で少し絞られている。ふわりとしたスカートのすそは何枚も重なり、ピーターパンかフェアリーといったような雰囲気。キョーコは一目で気に入った。
蓮がTシャツを脱ごうとして、腕を身体の前で交差させたから、キョーコは驚いて部屋を出ようとした。すると、「今更。君も着替えればいいのに」と蓮は笑い吹いた。
そしてその数分後、黒のドレスを整えたのは、蓮だった。
「よく似合う」
「そ、そうですか・・・?」
蓮は照れもせずに、まっすぐに瞳を覗いてそう言った。照れて下を向いたキョーコの首に、そっと蓮の指が這った。すりすりすり・・・といつもの場所を撫でる。
「・・・残念だけど、今日は『オレの特権』も消してもらわないとね・・・」
「・・・・?」
「もしかしたら世界中に置かれる雑誌に載るのに・・・・オレのものだと・・・・付けて置きたいんだけどね・・・」
ぽかん、と、キョーコは蓮を見つめ、そして一瞬にして赤面した。
まるでレオのような言い草に「何を言っているんですか」と言おうと思ったのに、蓮の細めた目はとても真剣で、軽口を叩いている雰囲気ではなかった。
だから、その言葉を全て飲み込んだ。
「レン、時間だよ」
「・・・・・OK」
トントン、と扉を叩いて開けたのはレオだった。
ひょこり、と後ろから首だけ覗いたのは土屋女史だった。
「キョーコちゃん、可愛いわ。思った通り。さあメイクして差し上げるから行きましょう?思わず蓮様が見とれる素敵なモデルメイクをね」
「あ、はい」
「キョーコ、カワイ~!!」
どこか重くなった雰囲気を振り払ったのはやはり満面の笑顔のレオだった。
キョーコの首元から手を離した蓮に、レオが「手の早い日本人め」と仕返しのように、そう言った。
蓮もレオも、そしてキョーコも、撮影用の濃いメイクを施された。
『東洋人らしさ』を出すために、黒の髪のウイッグ、黒いドレス、そして、濃い紅い口紅。爪も短いながらも口紅と同じ綺麗な紅い色が乗った。こんなに濃い色をつけた事が初めてで、自分で自分に見慣れるのに少々の時間がかかった。
「ワオ、キョーコ、ライクヤンクィフェイ!!」
「ヤン???」
「楊貴妃・・・だっけ・・・?中国の美人の代名詞の人みたいだって」
「それは言いすぎです、でも変じゃないですか・・・?」
「うん・・・」
「オー。レン、テレヤサン!」
「なんでお前はそんな変な日本語だけは知っているんだ・・・」
「ふふっ・・・レオさんもカワイイ」
屈託の無いレオの笑顔は、キョーコにはどこまでも明るく見えた。初めての場所で、蓮以外に知り合いがいてくれるのは、とてもありがたかった。
撮影が始まると、怖いぐらい鋭い視線の二人に変わった。いつもの明るいレオとは百八十度違う、モデルらしい無機質な雰囲気を一瞬にして作る。蓮の視線も同様だった。
蓮とレオのペアで撮るその息の合いようは、とても言葉にしがたかった。
土屋女史もキョーコに「レオは蓮様と息が合っているでしょう?」と耳打ちをした。カメラマンも殆んど指示をしない。彼らは背を向けるタイミングも、足をやや引くタイミングも打ち合わせたように同じで、レオがやや斜めを向けば蓮は一歩後ろに引き、腕を腰に当ててバランスを取った。
シャッター音の間隔は二人にとってはリズムであり、カメラマンは指揮者と同じで、そのカメラマンのシャッター音の癖に合わせるのだと、蓮もレオも、不思議がったキョーコに交互にそう言った。そして視線の流し方も動きも互いの癖が分かっているから、単に慣れた動きがそう見えるのだと蓮は言った。
けれどもキョーコには、レオはかつて蓮が全てを話した人間でもあるし、何年も一緒に生活しただろう二人、キョーコなどが入りがたい程にそこには無言の強い信頼と、彼らの音楽家以外の「プロ」としての別の顔があるように思った。
音楽の世界だけで生きてきたキョーコには、そのリズムのとり方はさっぱり分からなかった。そして「音楽以外」でも生きている彼らをとても羨ましく思った。ショータローにだって、「プロ」としての別の顔がある。彼らは二足のワラジ、ではなくて、音楽が別の世界に生かされている。
「キョーコ?」
ぼんやりと思考に入り込んでいたキョーコにレオが声をかけた。
「あ、はいっ」
「どうした?」
「いえ・・・お二人に見とれていただけです」
「次は君の番だよ」
「はい・・・でも敦賀さんとレオさんのようには行きそうにありません」
「キョーコちゃん、蓮様にも入ってもらいましょう?どうせなら二人の写真にしたいわ。あぁ、蓮様?ハンガー一番右の服を着ていらして」
驚いて面食らった蓮に笑顔で押し通した土屋女史はさすがで、強かった。
「君とおそろい、って感じかな」
戻ってきた蓮はそう言って、シンプルな白いシャツに黒いジャケット、パンツ、黒いネクタイ姿を鏡に映した。
「パーティに出席するみたいです」
「そうだね、コレ貰って今度のパーティはペアで出よう」
「はい・・・」
キョーコの手を引いた蓮は、用意されたソファに座り、キョーコは蓮の横に座った。
「キョーコちゃん、大丈夫だから、リラックスしてね」
土屋女史は、にこり、と笑ってキョーコにそう言い、離れる間際にもう一度手に持っていた粉をキョーコにはたいて、唇に色を重ねた。
「つ、つるがさん~~~~」
「大丈夫だよ・・・。コンセプトは君ぐらいの女性がパーティに着て行く服。オレを入れたって事はペアも狙ってるんだろう。なら、オレを普通にパートナーとして見ればいい。表情作ったっていいよ。ですよね?土屋さん」
「ええ。蓮様とキョーコちゃんがやりやすいようにやって頂戴。お試しなんだから」
「できそうにないなら自己暗示かけてごらん・・・?やってあげようか・・・?」
「はい」
「『・・・・・キョーコちゃん・・・・』」
「『・・・・・蓮・・・・?』」
「『そう、そのまま・・・・オレの目を見ていて・・・・君は、今オレの恋人で・・・・パーティ会場のソファ・・・・』」
「『・・・・・はい・・・・。』」
「『・・・・・・・・・ゆっくり足を組んでごらん・・・・?そして、右ひじは右の太もも、右手は顎に・・・』」
遠くの方で一度シャッター音がする。もう一度、そしてもう一度・・・・。徐々にそれは気にならなくなっていった。その音よりも、蓮の暗示をかけていくゆっくりした低く艶のある声が耳に心地良く感じていた。
それと共にキョーコの中の緊張は解けて無くなり、直接脳に響くその声だけに従っていたくなった。
蓮はゆっくり語り掛けながら、キョーコの身体の形を様々に変えた。シャッター音が鳴るタイミングは、その一つ一つの緩慢な動作が終わり、視線をどこかに動かした瞬間だと気付いたのは、撮り出してから少し経ってからだった。
緩慢な動きはそのリズムが上がっていく。蓮の声も少しずつ早くなってくる。シャッターの音が早くなる。完全に蓮の声に支配されたキョーコの動作も徐々に速くなっていく。シャッター音が遠くで気持ちよい間隔でするようになり、蓮も集中しているのか、上がった体温が頬のすぐそばで感じられた。キョーコが見上げて蓮の瞳を見つめる。
プロの無機質な目が、キョーコを見下ろしていた。
「『・・・・・力を抜いて視線をカメラに・・・・』」
そう言われてキョーコは完全に腕の力が抜けて、ぱたり、と腕を落とした。左手をドレスのスカートに落としたところで、キョーコの首に腕を回した蓮は、強くキョーコの身体を引いた。キョーコは勢いよくその身体にぶつかった。真っ赤な口紅の紅い色が、シャツにくっきりと付いたのを、頭の片隅の遠くの方で認識したけれどそれはどうでもよく、首から肩にかけて回された蓮の片腕の重みで身体は動かず、言われた通りそのまま視線だけをカメラに流した。
「『そう、そのまま・・・視線を残したまま身体だけ動かしていって・・・・・』」
ゆる、ゆる、と身体が動く。周りの声と音が逆にどんどん緩慢に聞こえる。シャッター音が止まらなくなっていた。
蓮は右片足をソファの上で立てて、そこに腕を乗せた。首からゆっくり降ろした左腕でキョーコの腰を引く。
一人の王がそこにいるような、尊大な雰囲気を醸し出したのを、キョーコは目で見るでもなく肌で感じた。まるでコンクールの時のような完全に集中している時と同じ鳥肌が立った。
「OK!」
そう遠くの方で声がした。そして、シャッター音が止まった。
雑多な声が沢山し始める。腰に回された手が外れたのを認識して、ぼんやりと蓮を見上げると、ぱんっ・・・と目の前で蓮が手を叩いた。
キョーコはパチパチ、と目を何度か瞬き、蓮をじっと見つめ、そして目を覚ました。暗示をかけて解けた後の、寝て起きた後のようなすっきりした感覚がした。
「覚めた?よく出来ました」
「よく、分かりませんでした。私の実力ではありません。敦賀さんの声のするままにやっただけですから」
「その集中力が初めてで出せるなら十分だよ」
「それだけすぐに暗示がかけられる敦賀さんがすごいんです。暗示法も敦賀さんに習い直さないと」
「くすくす・・・君がかかりやすいんだよ・・・・」
「む・・・・」
「心が開いている証拠だろう?良い事だよ」
・・・敦賀さんだから・・・とは恥かしくて言えなかった。そして蓮のシャツに付いてしまった真っ赤な口紅と自分の唇の形に気づいて、少し照れた。
蓮がそれに気づいてシャツをちらりと見る。
「その首元は消してしまったけど・・・・オレは君のものだと・・・・世界に言えたかな・・・・」
蓮は一度だけキョーコの首元を指先で撫でて、ふ、と目を細めて笑った。蓮は、また真剣な顔をしていた。
キョーコは、気付いたらシャツの裾を掴んで、立とうとした蓮の動きを止めてしまっていた。
「どうした?」
「いえ・・・きっと、ほっとして腰が抜けているんです」
「立たせてあげましょうか?お嬢さん?」
くすくす笑った蓮はキョーコの腕を引いて立たせた。
レオが、どこから持ってきたのか花束をキョーコに渡して、「キョーコ、キョーコ」と花束ごとぎゅうぎゅうに抱きしめた。
「レ、レオさん~~~???」
「レオ」
「もう、レオ!!!あなた感情表現がストレートすぎるのですわ。キョーコちゃん、困っているでしょう」
「キョーコ、最高に良かった!!蓮に負けてなかった。キョーコ可愛い!!!」
「ありがとう、ございます」
「もう~~~レオ~~~~離れなさい~~~~!!!!」
「良いモノを良いと言っているだけなのに~~~」
「そうね。でも、キョーコちゃんは蓮様のものなの」
「オレが一番良く知ってる~~~」
キョーコが苦笑いを浮かべている間に土屋女史がレオから離した。
腕の中の花束は、少し花が落ちた。
その花束を飾ったのは、その日の五時過ぎだった。ホテルの一室に花を飾った後、仕事を終えた皆で食事をしに行った。
英語が飛び交うその会話の中で、キョーコは聞くに徹する事にして、蓮とレオの間に挟まれて、美味しいフランス料理と美味しいワインを、心行くまで集中して食した。
緊張の解けたせいか、まるでクセのないワインはするりとキョーコの胃に入り、帰りは少しだけ足元がふわふわしていた。
蓮が腕を絡ませてキョーコを支えた。蓮とキョーコは、そのままずっと寄り添って部屋まで帰った。
ピアノの置いてあるそのホテルの部屋で、蓮の弾く、次回演奏用の曲を軽く酔った頭でぼんやりと傍で聴き、終わると、キョーコはレオを真似して、ぎゅう、とその首に巻きつき、良かったです、と直接耳に伝えた。
「たまには酔わせてみるのも、いいね」
「ふふ・・・。私以外を酔わせたら怒ります」
「ふ・・・・。その唇の紅い色・・・すごいそそられるよね・・・・」
蓮は、くい、とキョーコの顎を引き、キョーコの唇の上に乗っている色を拭うように強く何度も何度も吸った。
蓮の目はやはり真剣に見えて、いつものどこか「冗談だよ」という優しい隙はなく、とても「敦賀さんもレオさんと一緒でストレートです」と、キョーコは言いたく思って、でも口には出来なかった。
そして、酔った勢いだったのか、キョーコは蓮の唇に移った赤を取り返すように、今度は自分から唇を吸いたてていた。
「愛してるよ・・・・」と、あの暗示をかけるような穏やかな声が、キョーコの耳に忍び込む。「すき・・・」と返しながら再び蓮の唇を吸う。
見るでもなく肌で感じる事ができるようになった、蓮のキョーコを包む腕は、全てが、とても優しくて、愛しい・・・。
心から愛されている。
『私のものと、世界に言ってあげたい・・・』
そんな独占欲という初めての感情も肌で感じながら、キョーコは蓮の首元に唇を這わせた。
蓮の香水のラストノートが甘くにわかにする。
目的のそこまで辿り着き、そこをぺろり、と舐める。
そしてキョーコはその肌を強く、吸い上げた。
自ら初めて「私のもの」と・・・鬱血の、真っ赤な痕を、つけた。
2007.02.19