24. Rhapsodien op.79 《二つのラプソディ》
キョーコが、自分のために、泣いた。
ただ、それだけの事実を、心安らかになど受け止められる術もなく、蓮はただ、キョーコの頬をなでるしか出来なかった。
ただ、苦笑いだけが、浮かんだ。
キョーコは全て理解していたのだと。
最初はどうして、自分を選んだのかをキョーコに聞くまでも無く、キョーコに迫った。
口付けたが最後、蓮は自分を止めなかった。
キョーコがどんな気持ちで、ずっと傍にいたのかも、見ないフリをしたまま・・・。
蓮がキョーコを愛している事実に変りはなく、ただ、不破が口付けたというその唇を何度も侵して、確かめた。
「蓮、れん・・・・」
「キョーコ・・・・」
二人で呼び捨てあえる時間。
それが、この後あとどれくらいあるだろうと思って、腕の中で幸せそうに微笑みながら眠ったキョーコの、涙の跡のついた頬を、ゆるゆると撫でた。
その柔らかさを忘れないと思ってみても、忙殺の日々、キョーコが傍にいない時を思うと、どうしても会っている時は深く繰り返しその肌を確かめたくなる。
その夜、キョーコが眠る前、自分の手を探したその指が、どれだけ愛しかったか。握り返して、引き寄せた時の、安心した顔に、どれだけ救われたことか。きっと、気付いてないんだろう。
――自分が、自分であるために、君が欲しい。
単なる自分の我侭で、始まったゲーム。
それを気付いていて、受け入れ、そして愛し、許してくれていた。
キョーコは、蓮が『気づいていた』という事に気付いて、真っ青になったようだった。
キョーコが、「キョーコちゃん」だと気づく前にはもう好きになっていたことを、いつかキョーコに話せる時が来るだろうか。
こうして、キョーコの休みをいいことに呼び寄せてしまったけれど。この一ヵ月後からはキョーコは傍にいない。
キョーコも、多分、日本で先生に師事しながら、世界を目指すだろう。
そしてまた、新たな師に付くだろう。
自分がキョーコを世界に出すと約束した。
ピアニストとして、キョーコの音を世界に出してあげたいと思う。
自分だけが知っているキョーコの音に乗せたカタルシスを、他の師が先に引き出すのは我慢ならないように思った。
キョーコの本当の音を知っている。
自分が、先に全てを引き出し、キョーコの音を確立させたい、キョーコに本当の自分の音を見つけ出させてあげたい。
蓮の、キョーコへの最後の我侭が、始まった。
*****
次の日の昼。とある見慣れた花屋にいる。
花が敷き詰められた店頭と、ガラス張りの中にはピアノ。彼の家が代々使用している由緒正しきピアノだろう。
きょろきょろ、と奥の勝手口を覗いたキョーコは、「すみませーん」と声をかけながら更に奥へ行き、また戻ってきた。
「敦賀さん、レオさん、いないみたいです」
「そう?」
「じゃあ、この間の歌劇場のいつもの席で、何か見ているんだろう」
「せっかく夕飯ご一緒できると思ったんですけど」
「いいよ、どうせもうすぐ帰ってくる。そこにあるピアノを借りよう」
「え??」
どうせレオ以外の人間などこの花屋にいない。正直商売をする気は無いようだ。花や鉢植えを、ましてやピアノを盗まれても知らん・・・と思う傍ら、彼を敵に回してはこの狭い街では生活できない事を、彼らは十分知っている。しかも、街中の人間、観光客がこの石造りの町に似合わない、石造りの基礎に全面ガラス張りで出来たこの店を見ていく。
彼の店で勝手知ったる振る舞いをする自分たちに、何をするんだと声をかけるものも無い。彼らは、蓮が一昨日あの国立歌劇場で演奏をし、レオに許された人間だと気付いているからだ。
「その花を」
初老の男性が一人、入ってきて指をさした。金額が書いてあったから、蓮が挨拶をして、「売る事は出来るがラッピングは出来ない」と英語で返事をした。
すると彼は「もちろん構わない」と言った。
「敦賀さん、私、そのお花包みますね」
「うん?できるの?」
「演奏会で頂いたお花をよく持って帰るのに包みましたから」
キョーコが鼻歌混じりで、透明のラッピング用フィルムの巻かれた筒を引っ張り、縦にハサミを入れて切る。
老人が水受けから取り出したヒマワリ五本。キョーコは「レオさんならきっと許してくれます」、そう言って、もう三本ヒマワリを取り出すと、もち手処理をして、くるくるくる・・・と器用に透明フィルムに巻いた。
そして、キョーコは渡す相手が老人だというのに、ピンクと赤のリボンをダブルにかけて、嬉しそうに、「はい!」と、その老人に渡した。
「ありがとう」
にこりと笑った老人は、自分が金額を言う前に、「ヒマワリ八本分の」お金を置いて、もう一度「可愛いお嬢さん、どうもありがとう。来世でぜひ恋人に」そう英語で言って、出て行った。
「英語お上手でしたね~」
「イタリア人の男は年寄りだろうと何だろうと口は上手いらしい・・・」
「い、いーじゃないですかっ・・・・可愛いって言ってもらってイヤな人はいません」
「英国人もそう言われ慣れている訳じゃない。レオの褒め言葉という名の軽口に、どれだけの女の子がその身を捧げたかしれないね。まあ名誉の為に行っておくと、あいつがいつも振られるんだ。誰にでも愛想が良すぎるってね。日本人もそんなに言われ慣れてないだろ?「可愛い」でいいなら毎日でも言ってあげよう」
「む、む・・・・。そういうことじゃなく~~~」
「くすくす・・・・分かってるよ。君はすぐに真に受ける。ま、それが面白いんだけどね」
「敦賀さん、私の為にピアノ、弾いてくださいっ」
「おや、ここでそれが出るんだ?」
「からかった分ですっ」
「いいよ?何がいい?」
「敦賀さんが今の気分で選んでください。ただ、敦賀さんの音が聞きたい」
「じゃあ・・・」
ブラームス「二つのラプソディ」を選んだ。重厚なオクターブの音の並びと早い旋律。
キョーコは、敦賀さんらしい音と言って傍で笑った。
今の気分。
幸せなのに苦しい。希望の果ての絶望。キョーコちゃんとキョーコ、出会いとそして別れ。何か二つの強い力に心を裂かれそうな気分。
「あの・・・」
弾き終わってキョーコの表情が見たいと振り返ったら、そのキョーコの後ろすぐ、ガラス張りの外にギャラリーが出来ていた。「レン」と名前が飛び交っていた事に気づいて、笑顔を返してごまかした。すると、今度は拍手が起きてさらに事態は大きくなってしまった。
「あ~~・・・」
「敦賀さんて・・・イタリアでも有名なんですね。デビューして間もないのに・・・」
「あぁ・・・自分がモデルやってるブランドの本場はここなんだ・・・顔だけは多分街中に貼られているポスターで・・・もしかしたらコンサートのポスターかな?」
「そうなんですか・・・・?でもどうしましょう。皆さん帰る気なんて無さそうですよ?」
諦めて蓮は数曲弾き、キョーコに「弾いて」と頼んだ。「えぇぇ~~~」と言ったものの、レオのピアノに既に「大帝レオ(キョーコいわく有名なライオンか何かの名前らしい)」と名づけて、猫でも撫でるようにすりすりと撫でた後、キョーコも、「二つのラプソディ」を弾いた。
蓮はただ驚いた。まさか即興楽譜なしで弾けるとは思っていなかった。しかも教えてないのにほぼ自分と同じ解釈音を表した。即刻耳で覚えたというのだろうか。とはいえ素人耳には同じ曲が流れた、程度だろう。
キョーコの為に向けられた拍手も、暖かかった。照れながらギャラリーに頭を下げたキョーコは、椅子に腰掛け直して振り返った。
「二つの狂詩曲。幻想的で、胸がしめつけられる切ない曲です」
「そうだね」
「なぜ選んだんです?」
「うん・・・・何となく」
「?」
「自分の、勝手な感情だよ」
「たまに敦賀さんは私の分からない事を言います」
「分からなくて、いいよ。単なる自分の、カタルシス。君は得意だけどね。たまには自分がそうしてみるのもいいだろう?」
「カタルシス・・・・?」
神妙な顔をしたキョーコは、じっと蓮を見つめた後、もう一度ピアノに向き合い、愛の夢を弾いた。
蓮の弾いてみせる音では無かった。
――これは多分彼女の音、なのだろう・・・。久しぶりに聞いた・・・・。
蓮は、ギャラリーから目を逸らすように、そっと、目を、閉じた。
「私の、カタルシスです」
「うん・・・・・弾いてくれてありがとう」
少し頬を染めたキョーコは、ピアノを拭き、鍵盤の蓋をそっと閉めた。「おしまいです」キョーコは、ギャラリーに向かってはにかんだ。
「・・・・・もっと弾いていていいのに。もっと聞きたい」
レオが帰って来て、静かにそばにいたのを、キョーコは気づいてなかった。
「あ、レオさん。こんにちは。ピアノお借りして、どうもありがとうございました」
レオは頭を下げたキョーコの横に立つと、髪に指を入れて、頬に挨拶と言って、口付けた。慣れないキョーコは、びくり、と小さく震えて固まった。
「レオ」
「おお怖い。キョーコ?店の花も、キョーコのピアノの音に喜んでる」
「あの?喜んでいるのが見えるんですか?」
「ハハ・・・キョーコ、ヤッパリカワイー」
「そうですよね。み、見えるわけ無いですよね・・・」
「いや?いい音聞かせた鉢はよく育つし、花は長持ちするよ?だからレンに直接いい音を沢山聞かせてもらうんだね。もっと綺麗に咲けるし、可愛くなれるよ」
一瞬ぽかん、としたキョーコは、その後ひどく照れて自分の後ろに隠れ、「敦賀さん」、と言って、ヘルプを求めた。
「・・・・・レオ」
「ふふん。自分にもお前をからかう日が来る事を待っていたんだ。いいじゃないか」
「まあ、勝手に花も売ったし、勝手にピアノも弾いたからね。にしても相変わらず耳はいい。このピアノ、年代モノなのにしっかり生きてる」
「そう?ありがとう。こうして弾いてもらえるとピアノも喜ぶよ。それはそうと。キョーコ!じーさんに花を売ってくれただろ」
「おじいさん?」
「背の低いじーさんが来ただろ?イタリアで音楽したきゃ、あのじーさんを落とすのが一番。海外のコンクールの審査委員長もやってる。さっきまでそこにいたよ。君は本当に何かの縁があるんだろう。オレに会い、じーさんにもあった。じーさんが、もし留学したきゃ自分に声かけろと言っておけと、言っていたよ。レンの音を瞬時に理解する君を見ていて興味を持ったらしい。この間の演奏会、オレのもう片方の隣の席だったんだよ」
「・・・・・・?????敦賀さん、何て言っているんです????」
「君はオレにもレオにもあの偏屈じいさんにも会ったって」
「え?偏屈?敦賀さんはあのおじいさん知っているんですか?」
「知っているだけだけどね。初めて直接顔を合わせた」
「オイ。ズルイな。自分はレンの名前は言ってない」
「オヤ、日本語理解しているんだ?」
「それぐらいなら分かる。それに、留学の話は?」
こんな所でキョーコに言う話でもなく、割愛した。早口で英語が飛び交う中、キョーコはついに参ってしまったらしい。
「敦賀さん、降参です。英語もう分かりません」
「あぁ、ゴメン。ついレオ相手だと・・・ね」
「レン、オレニモテカゲンシナイ、キョーコ」
「ふふ・・・・とっても仲良しなんですね、敦賀さんとレオさん」
「あぁ、そうだね。まったく・・・」
ふぅ~と大きな溜息をつきながら、一本のヒマワリを取り上げ、「貰う」と言った。
「オレがいるのにそんな一本ばかりではダメだね。食事行く前に待っていて。念願のキョーコの音は聞けたし、御礼に花束をキョーコの為に作るからね。間違ってもレンのためじゃない」
レオはどうして蓮がこの花を一本だけ取り上げたのかを知らない。
あの遠い昔の夏の日。
蓮がキョーコと別れる時。
わかれるのがいやで泣いたキョーコに、小さな石と共に、川辺に咲いていたヒマワリを一本だけ貰って、プレゼントした。
――彼女は、覚えているだろうか。
「キョーコちゃん、泣かないで」
「はい・・・・・・・」
蓮はあの時と同じ台詞を言ってみた。
目を伏せたキョーコは、何も言葉にできずに、目を潤ませて、ただ蓮の手を探し、そっと握った。
蓮も、強く握り返した。
*****
ローマの休日は、思ったよりも早く過ぎて行った。キョーコを連れて街中を歩くだけでも楽しかったからだろう。
もう一公演を済ませ、ローマのホテルに戻る。
部屋に飾られた沢山の花束と、ピアノのそばにはいつも一本のヒマワリ。
そして、キョーコの嬉しそうな笑顔が蓮を出迎える。蓮はその小さな身体をそっと抱きしめる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
待っていてくれる人がいる、そんなママゴトのような嬉しさが、体中を伝う。
部屋にあるピアノで、キョーコと遊び、キョーコを腕に眠る。
手に入れた喜びと、失う怖さ。
真夜中に、思い描いていた白昼夢を、見る。
キョーコと長く離れる日がくる。
今はまるで愛し合っているように思える。でも変わらないものなど何もない。キョーコが一人になって自分に問い、又は、新たな出会いから恋をして、そばにいない自分を割り切りたく思う事だってあるだろう。
だからキョーコに選択肢を、自由を渡す必要がある、と蓮の理性は思う。その理性と同じだけ、本能が反発する。自分の中の小さな子供が、「いやだ」と言った。
いつもそばにいられないのに、ずっと待っていて欲しい、愛していて欲しい、それは、誰かがキョーコに言い、そしてキョーコを深く傷つけ、崩壊した言葉だ。それを今度は自分が言うのだろうか。それを言いたくないから、手放さなければならないと思うのだろうか。
キョーコにずっとそばにいて欲しい。
でも、自分はそばにいられない。
愛している、という言葉以上が、何も見つからない。
フランスに向かう飛行機の中、横で目を瞑るキョーコのピアニストらしい繊細な指が、毛布の下を潜り、蓮の手を無意識に探し出す。
そして、きゅ、と握るその指が愛しくて苦しくて、初めてキョーコを前に、蓮は涙が零れそうになった。
――「なかないで、キョーコちゃん」
遠い昔のあの言葉は、別れたあの日、自分にも必要だった事を、蓮は思い出していた。
2007.01.07