「なるほど」
と、拍手の中一人の男性が言い、舞台へ向かって拍手を送った。
その横で蓮は耳でその声だけを聴きとって、舞台に向け拍手を送りながらほんの少しだけ右側に顔を向けた。右側には蓮の英国の「先生」、師であるミハイルが座っている。
蓮から見てミハイルの向こう側には不破尚が座っていた。
不破尚もまた、少しだけ視線を左側の声の主に向けて、蓮と目が合いそうになってそれをそらし、舞台で深く礼を繰り返すキョーコに拍手を送った。アンコールを終え、最後の舞台挨拶に何度も出入りを繰り返す。
尚が明るくなった周囲を見渡せば、招待席のあたりには日本国内の著名なピアニスト、作曲家、大学講師、国内外のピアニスト、が顔をそろえ、それぞれ拍手を繰り返している。
蓮の左横にはもちろん学長がいて、キョーコの師でもある大越氏も座っている。
学長も、右隣の「先生」同様、何か含みをもった笑みを湛えて手を叩いている。
キョーコはついに舞台袖に下がり、公演終了のアナウンスが流れた。多くの一般客が静かにロビーに向かって席を立っていく。
「レン、キョーコを紹介して欲しい」
と「先生」は静かに言った。
蓮はただ静かに微笑み、頷いた。
「ショウ、お前も一緒に来い」
と先生は反対側に向かって言った。
「いいよ、オレは・・・」
と尚は言ったけれども、さらに隣にいたローリィ宝田氏の「このあとのオレが主催のレセプション・パーティに君も参加するだろ。マネージャーに許可を取っているよ」という鶴の一声で、尚は黙った。パーティには少しだけ顔を出して、すぐに翌日の予定など適当な理由を付けて帰宅する予定だった。
「ショウ、キョーコの今日の音はどうだった」
とロビーに出た「先生」は静かに尋ねた。
「まあまあよかったんじゃないの」
と答えた。
「レンは？どう思った？」
「よかったですよ。この日本で最も大きなサイズのホールの割には緊張せずよく集中していたように思いましたけど。先生はどう思われましたか？」
「先生」は、にや、と、笑みを浮かべて、
「確かにいい音だったな。やっと聞けた。お前たちの幼馴染で教え子なんだろう。彼女はもっと伸びる余地がある。なんならオレが伸ばしてもいい。オレの元へ来る気はあるかな」
と言った。
同時に蓮と尚が、うんざり、とした顔をして「No」と強く答えた。
*******
はじめまして、と、言い、
「ミハイル先生、今日はわざわざお越しいただきありがとうございました」
とキョーコは美しい御辞儀と共に、美しい英語でそう言った。
「前々からキョーコの音を聞きたかったんだ。二人から話はたくさん聞いた。どんな音を出すのだろうとずっと聞きたいと思っていたらあっという間に賞を取った。おめでとう」
「ありがとうございます。聞いていただけて嬉しいです。今夜は楽しんでいただけましたでしょうか」
「もちろん。素晴らしかったよ。来週私もここで弾くんだ。よかったらレンとショウと来て欲しい。席は三人並びで取ってある」
「もちろんです。お席もいただきありがとうございます」
再度キョーコは深々とお辞儀をした。
壁の花になっている尚に視線を流したミハイルは、「ショウはキョーコの事をずっと心配していたし、レンはキョーコの事をずっとピアノを弾く目的だと言っていた」と言った。
キョーコはしばらくミハイルの瞳を見つめて、真意を探ろうとした。何も読み取れなかった。そして返事の代わりに少しだけ微笑むにとどめた。
「君は今夜も確かに二人のミューズだったね」
と言い、ミハイルはキョーコの手を取って手のひらに唇を置いた。
口づけその視線のまま、ミハイルはキョーコに視線を投げかける。
誘惑でもない。どんな意図も読み取れない、不思議な視線だった。
「もしよければキョーコも私の元へ来るといい。君はもっと伸びる」
キョーコは驚いた顔をして、手を離されるまでミハイルを見つめた。
遠くで壁の花だったはずの尚は、「あ！」という顔をしている。蓮は横で聞きながら、静かにほほ笑んでいる。
「行きたいですね。二人はあなたの下で花開きました。時々寄れたら個人レッスンをつけてくださいませんか」
「レン、キョーコは来ると言ったぞ。お前たちはNoと言ったが」
「？」
キョーコは蓮をちらりと見ると、蓮は、
「君が行きたければどうぞ」
と、日本語で言った。
「レン、英語にしてくれないか、日本語の正確なニュアンスはわからない」
「彼女が行きたいと思うなら行ったらいいよ、と、言ったんです」
「・・・それは嘘ではないようだ」
「オレは嘘は言いません」
「オレたちはしばらくの間お互い嘘だらけだったような気がするがね」
蓮は、キョーコに向かって、にこり、と、笑い、「ここはいいからもう次に行くといいよ」と言った。キョーコはまたミハイルに向かって深々とお辞儀をして、次のゲストグループに挨拶するために、次のグループに足を向けた。
「彼女は私を疑う事をしないんだな。なんというか久しぶりに澄んだ人間の目を見た」
「オレと彼の師だからですよ」
「なるほど？あの目にお前たちはミューズを見たんだな」
ミハイルは、ふ、と笑って、「私は音楽よりも世界で渡り歩く術を彼女に教えた方がいいかな」と言い、蓮が「大丈夫ですよ」と笑った。
*************
煌めくような音の洪水が終わり、キョーコは胸がいっぱいで涙を流して蓮を見た。同じホール、同じピアノとは思えなかった。これが蓮と尚が数年師事した音なのだ、そう思った。決してこの音で二人を導いた訳ではなかったけれども・・・。
キョーコは思わず席を立って拍手をした。
周りの有名なピアニストも、講師も、皆、席を立っていた。
世界がずっと待っていた音だと誰かが言い、誰かがブラボーと大声を響かせた。
尚も久しぶりに聞く師の本気の音に、ただただ呆然としていた。
蓮は、相変わらず一瞬ですべての人の心を奪う神の音だと思い、大きな拍手を送りながら、同時に圧倒された気持ちを吐き出すように、大きく息を吐いた。
終了後のロビーでは関係者が挨拶をしてミハイルを待っていた。
「キョーコ、見てくれてありがとう」と、ミハイルは言った。
「もう、もう、言葉になりません」
キョーコは目を輝かせながら興奮を素直に伝えた。
「ありがとう」
ミハイルは少しの笑みと共に言う。
「どうかな、公演の無い間、私の元に来る気になったかな」
彼はそう言って、にやりと笑う。
「いや、キョーコは、」
とキョーコが戸惑う中で尚が思わず言いかけて、それから、「やっぱりいいや」と言い小さく首を振った。
「ショウは相変わらずキョーコが心配らしい」
ふふん、と、笑うと、ミハイルは尚の肩をポンポンと二度叩いた。
尚が非常に嫌そうな顔をして、フン、と顔を背ける。
いつもならすぐに帰るのに、今、業界の有名どころの中にいても帰らないのは、それでも師を尊敬しているからだ。師の数十年ぶりの公演を開こうとする心に火をつけたのは自分だという自負があった。
蓮は穏やかにその様子を眺めながら、苦笑いを浮かべる。
「先生の公演が毎年全世界で行われてしまったら、また世界のレベルは上がってしまって、オレたちはまた一から公演技術について習いに行かなければならないかもしれませんね」
「そんなことはない。お前たちはもう卒業だ。十分教えたし、お前たちのリズムと音で十分だ。でもキョーコは今から改めて一から教えたら面白いなと思うから言っているだけだ」
「それはお断りしたいですが、彼女が何と言うか。それは彼女に任せます」
蓮はチラリとキョーコを見た。キョーコはすっかりミハイルの音にうっとりしすぎて、師事しに来いという言葉さえも神からのお告げのように聞いているようだ。蓮は苦笑いを浮かべた。
「だから嫌なんですよ」
と蓮はミハイルに言う。
「何が」
「あなたの音が、です。誰にもその音は出せないし、その音だけで誰の心も奪ってしまう」
「ふふ、何の心配だ？大丈夫だよ、キョーコはお前しか見えていない。お前もモデルだっただろう、十分顔と存在と音だけで人の心を奪うのではないのか」
ミハイルはやはり蓮の肩も、ポンポン、と、二度叩いた。
彼が肩を二度叩く時は、機嫌が良い時だ。
蓮は懐かしく思った。もう一度師事したら。どんな気持ちになるだろう。
もっともっと最初から互いに心を開いて、改めて師事できたなら。
何を問うだろう。何を習うのだろう。まだ習いたいと思う甘えたいようなその気持ち。
彼がコンクールで賞を多数取った後から長年かけて自らに問い、得てきた答えは一体何かを聞きたいと思ってしまう。聞いたところで答えないだろう。今自分が経験していることは彼も経験した事だろう。その時どう答えを出したのだろう、その答え合わせだけはそのうちしてみたい気がする。
そんな事を考えながら、まるでいつまでも親離れができない子どものような気持ちがして、蓮は少し笑う。このまま甘えていたならいつまでも答え合わせをしたくなってしまうだろう。答えのない問いに対する答えが出せるようになったから卒業になったはずなのに・・・。
「彼女を先生やショウに奪われる前に、世界に誓ってしまいたいですね」
蓮はミハイルの前ではなぜか正直にすべてを話したくなってしまう。とても珍しい事だといつも思う。隠し事など通用しないし、隠さなくてもいいような気がしてしまうらしい。それは誰もがそうだという。
「その時はオレがパーティには弾きに駆けつけよう」
ミハイルは再度、ポンポンと二度、蓮の肩を叩いた。
********
「ミハイル先生、あんなに素敵な音をお出しになられるのに、どうして今まで講師に徹していて、公演をされなかったんでしょうね？」
キョーコは部屋で素朴な疑問を蓮にぶつけた。
まだ興奮冷めやらぬ気持ちで、ミハイルが出した音を真似したいと、ピアノで同じ曲を似せるようにさらっている。
「彼の音は本当に奇跡の音だと、初めて聞いた時に思ったよ。でも彼自身の音を聞いたのは、師事してから少したって、オレが彼に心を少し開き始めた頃のことだったかな。いつもはあの音は封印していたよ」
「そうなんですね？弾き分けていたんですか？」
「確実に弾き分けていたね。作曲家の音と、自分の音を。講師である時は自分の音を封印していたようだよ。世界で権威ある名だたる賞を立て続けに取ったのに、表舞台に出る事をやめてしまった。どうして弾かなくなったのか、どうして講師をしているのか、誰も知らない」
キョーコは黙って蓮の話を聞いている。
ピアニストが表舞台で弾きたいと思わなくなる理由は一体何があったのだろう、と、思いをはせる。
「今日の公演はドキュメントとして公共放送で来年放送されるそうだよ。今、先生に密着のカメラが入っているんだって。その辺の話も初めて話すと言っていた。学長が間に入ってくれて、今回の企画が通っての日本公演だったようだよ。オレと不破を育てた天才ピアニスト、という事で、オレも不破もゲストとしてコメントを何本か撮った」
「それは放送が楽しみですね・・・！今日の公演の音は神の奇跡そのものでした・・・。あの音を記録として撮っておけるの、すごく嬉しいです。あんな音の中で何年も修行していたのですね・・・！」
キョーコはうっとり、と、公演を思い出して両手を体の前で組み、祈るようなポーズをとった。
蓮は苦笑いでキョーコのその手を解いて、ベッドルームに連れた。「？」という顔をする無防備なキョーコの頬にそっと唇を置く。わ！と、驚いて照れるキョーコは蓮の体に顔を埋めた。
「そろそろオレの元に戻ってきて」
「戻っていますよ？」
「心は師の元に行ったままな気がする」
「そんなことはありません」
「そうかな」
「そうですよ」
蓮はキョーコに口づける。
舌先を探す。いつもより感情的な蓮の唇にキョーコは笑う。
「私はどこにも行きませんよ？」
「先生のところ、行きたい？」
「そうですね、行ってみたい気がします。どんな私に出会えるのか、引き出してもらえるのか、知りたいと思ってしまいます。でも、きっと、今日見たミハイル先生はきっと敦賀さんやショータローが習った時の先生の雰囲気ともきっと違うんでしょうね。習う時は、あの感じよりもずっと恐ろしいのではないかと・・・それはそれは怖い映画監督や舞台監督の先生のように・・・」
キョーコは穏やかに笑う。少しナーバスに感じる蓮を落ちつけたくて、鼻先に口付ける。
その唇に誘われるように蓮もキョーコの唇をさらう。
「男には容赦ないけど、女の子はどうかな。でも女の子はね、彼に付いた人は、多くの人がパートナーができないというジンクスを聞いた事がある。だからできたら行ってほしくない」
「どういう、意味ですか？怖すぎて男性が嫌になってしまうということですか？」
「いいや」
蓮は笑って、
「卒業をした後にね、彼の出す音以上の音を出すパートナーを探したくなってしまうらしいんだ。でもいない。そしてなかなかパートナーが決まらなくなるんだって。彼の元に付いたら、オレの音も陳腐に聞こえるかもしれないね」
「ふふ」
キョーコはまた面白そうに笑う。
「私は敦賀さんの音がとても好きですし、師事していますよ？もう先にパートナーがいる場合は、例外ではありませんか？」
「離れて彼の音に飲み込まれて、いいやと言われるのとか、忘れられるのはイヤだな」
「珍しいですね、敦賀さんがそんな風に言うなんて・・・」
「師だからね、敵わないとつい思ってしまうんだろうな。絶対音、神の紡ぐ音、と彼は言われるけれど、今日の公演を聞いて本当にそうだと思ったよ。魂のための奇跡の音だった」
蓮はキョーコを抱き寄せる。腕の中に入れる。
「不破も師の話は知っているだろうから、君がもし彼についたら、パートナーができなくなる被害にあうと思ったんだろう。でも最後まで言うのをやめたね。オレと別れるならいいと思って、止めなかったのかもね。あの人は決まったパートナーがいない。いる必要が無いのかもしれないし、意図的に作らないのかもしれない。あの音で、誰もが彼の中に神を見るのだろう。彼はあの音を出すだけで、どんな人の心も開いて虜にしてしまう」
蓮はクスクス笑いながら、彼らのミューズの肌に柔らかく唇を落とした。
「私は、敦賀さんが好きですよ？」
キョーコは蓮の髪に何度か触れて言った。蓮は返事の代わりに肌に口づけ続ける。
「あの、でも、ミハイル先生はもしかしたらすごく寂しがりなのかもしれないですね・・・」
ベッドの中で、もう肌に口づけられているのに、恋人が他の男性の話をするのはどうかと思うけれども。でも蓮は意外そうな顔をしてキョーコを見た。あの人が寂しがり屋？と。
「そう？」
「なんとなく、ですけど。決まったパートナーを作れないのかもしれませんね」
「確かに彼は男女という枠で人を見ていなかった気がする。でもそう見せて、どんな人の心も奪っていく天才なのかもしれないしね」
「ふふ。敦賀さんがそんなに警戒するなんて・・・相当な人たらしなんですね、ミハイル先生。でも決まったパートナーがいないのは、レオさんもですけど。敦賀さんの周りは寂しがり屋さんがいっぱいなのかも」
キョーコはクスクス笑いながら再度蓮の髪に触れた。
「オレも、君に会うまで決まった人はいなかったよ」
「じゃあ敦賀さんもですね？たくさんの女性に会ってもあえて割り切っていましたもんね。私に会うためだけに・・・」
キョーコは、蓮の唇を塞いで「それでもあなたの唇の感触や色々を知っている人がたくさんいるなんてなんか妬けます」と言った。
蓮は甘えるようにキョーコの首元に顔をうずめて何度も頬ずりをする。耳元に唇を寄せて、「こんなオレを見ているのは君くらいしかいない」と言った。愛してる、という蓮に、キョーコも私もと言い、甘えるような仕草をする蓮の髪を何度も撫でる。
「誰にも見せていない敦賀さんがもっと見たいです。でも、私の誰にも見せたことが無いこの肌は敦賀さんしか知りません」
とキョーコが言った。
蓮は腕の中のキョーコを見つめて、何よりも大事なキョーコの指に触れる。「もっと甘えて」と言うと、敏感なキョーコの指が蓮の指先に反応して、蓮の優しい指を、柔らかに握った。
2020.10.10
これは個人的に差し上げるために書き下しました。
アンコール第2話と第3話の間、本編の数年後くらいの時間でしょうか。
英国の先生が日本に公演に来たら楽しいな、そんな妄想からです。
オリキャラなのでミハイル先生はたのしい人です・・・すみません・・・。
楽しんでもらえればありがたいです。