2. Liebesleid 《愛の悲しみ》
敦賀蓮は車に乗るべくキョーコの為に助手席を自ら開けた。
店の外には土屋女史の他、多くの店員が深々と頭を下げているのが見えた。敦賀蓮はそれを気にする様子も無く、横付けしていた車を走らせた。
「大丈夫ですか?挨拶もそこそこで・・・」
「あぁ、うん。またすぐ会うから。それから、着いたらオレの腕に掴まっていて。支えるから」
「・・・はい。それで・・・業界のパーティ・・・って何をするのでしょうか・・・」
「あぁ・・・。知ってくれているかもしれないけど、先日ピアノのコンクールで優勝したから、記念にパーティを開いてくれたんだ。でもオレ帰国したばかりで同伴者がいないから、君はその役」
「ど、同伴者~~~~????」
「くすくす・・・。冗談だよ。君が今持っている楽譜、オレが前に立っているのに気付かなかった程好きなんだろ?今日の御礼に弾いてあげるよ。オレはその曲を弾いたことがないから、譜面捲りしてくれないかな。ぶっつけでも大丈夫だよね?」
「もちろんですけど・・・。でも曲目なんて勝手に決めていいんですか?それにぶっつけで弾けるんですか?」
「アンコールは好きにしていいから。さっき見て軽く流れは覚えた。あとでもう少し見て弾いてみるよ」
「えぇぇっ・・・?」
キョーコは、それは羨ましい程のすごい特技だと、奏江のような暗譜力がある人間を初めて見た事に驚いて、思わず敦賀蓮を見つめた。
音楽の話をする彼はとても楽しそうに見えた。音楽は好きなのだと思う。同じ音楽に携わる者としては、そんなに嫌な人ではないのかもしれないとも思うが、それでも、それ以外はまだ受け入れられそうにもなかった。
「で・・・もう一つお願いがあるんだけど。ついでに、オレの恋人役の演技、できる?」
「できませんよっ。女優さんじゃないんですからっ」
「ふ・・・好きな人、いるんだっけ?付き合っているの?」
「・・・いいえ」
今日聞かれるのは二回目だ。キョーコの思い人と付き合っている訳ではない。互いの思いは通じている。ただ、互いの約束から今こうしているだけだ。あとは自分が上に行けばいいのだとは分かっている。でもコンクールに一切出して貰えない状況で、将来どうなるのかは分からない。いつか互いが諦めて、腐れ縁でくっつく日が来るのだろうと、そんな風に思っていた。
「今までは?」
「私には彼一人だけでいいんです。もう二十年も好きなんですから」
「へぇ。気が長いね」
「失礼ですっ。彼も私の事好きでいてくれているんですからっ。ただ、付き合っていないだけです」
「ならなお更。もう二十一だろ?お互い好きでなんで付き合わないわけ?」
「約束があるからです」
「約束だけで、付き合う訳でもなく、傍にいなくても平気なんて。いつ心変わりするか分からないのに。付き合っていて、何かしないなんていう約束ならまぁ・・・分からなくも無いけど。お互い好きだと言っているんだろう?」
「仰る事は正論ですが・・・これは私たちの「約束」なんです。でも、そういうあなただって長年海外にいて・・・・向こうに彼女置いてきて平気なんですか?」
「彼女?あぁ、オレ・・・特定の人間は作れないから。その時気に入れば付き合う、けど。オレも音楽漬けだったし、それをおしてまで会いたいと思う子はいなかったから。やっぱり長くは持たなかったな・・・」
――・・・思ったとおりの最低な男なのね・・・。
「へぇ・・・・それで、今日も私は「虫除け」なんですね」
「あぁ、さっきの話?」
「・・・・・・・・・」
「拗ねた?オレの恋人役じゃなく、恋人になる?」
「例えあなたを好きだったとして、すぐに別れる事が分かっているのに・・・ここで「ハイ」なんていう人間がいると思いますか?他の人が可哀想だと同情しているのに。あなたは、本当に人を人として見てます?好きになって付き合っています?」
「くすくす・・・・確かに正論だね。じゃあ君には会場でフリのキスはしないでおこうか。連れとしてオレに寄り添うだけでいい。誰かに話しかけられて何か話さなければならなくなったらオレの名前を呼べばいい。知らないフリをしていて。どうせ化けた君の事分かるのなんて、学長ぐらいしかいないから。君・・・名前、キョーコだっけ?京都の京に子供の子で『京子』にしよう。そしてピアノを弾く人間。それだけでいい。オレの同伴者として、今後それで通す。オレが公式の場に出なきゃならないときは毎回それを着て土屋さんに変えてもらって」
「えっ・・・???お仕事、今日だけじゃないんですか???」
「だからオレ、特定の人間は作らないって・・・言っているじゃないか。君はオレの恋人役で同伴者。いちいち人間変えてお願いするのも面倒だから」
「本当に・・・最低ですね。一度言っておきますが、私、あなたが大嫌いです」
「くすくす・・・良かったよ。その方がやりやすい。お互いその方がいいだろ?」
「でもそうしたらハンコ、いつもらえるんです?」
「んー・・・そうだな・・・毎回押そうか。毎回の恋人の出来具合によって押すよ」
「ひ、卑怯です」
「君や土屋さんには悪いけどね・・・」
その後敦賀蓮は饒舌だった口をぱったりと閉じた。
蓮は、自分に「恋人役」をやれと言う。もし自分がぶつかって取り違われなければ、この仕事は奏江のものだったはずだ。
――モー子さんなら・・・・きっと気付いた時点で「帰る」と言うだろうなぁ・・・・。
ラブミー部を個人的な理由から利用しているのに、何故学長はこんな仕事の為にオーケーを出したのだろうか。奏江は音楽家としての敦賀蓮の演奏を見ていたはずだから、ショックで寝込んでしまうかもしれない。
奏江の事を思ったら、あの時ぶつかったのが敦賀蓮に興味が無い自分でよかったとキョーコは思った。
とりあえずでも今日の仕事をやりきれば「ハンコ」は貰える。
「敦賀さん。一体、どんな「恋人」を演じれば満足してもらえるんです?」
「ん?あぁ、ただオレにべったり寄り添っていればそれでいい」
「なんだか・・・頭悪い女みたいでイヤです」
「あんまりしゃべらないでいてくれないと困る」
「・・・・・・?」
「オレを好きな演技、できない?」
「・・・演技といっても・・・私あなたが嫌いです・・・」
「じゃあオレをその君が大好きな「彼」だとでも思えばいい」
と言われても、そんなにべったりとくっついた事など無い。
「あぁ、経験が無いのか・・・・困ったな。じゃあ少しだけ、暗示かけてあげるから。君もやるだろ?コンクール前。習っているよね?」
「習ってはいますけど・・・イヤです」
「じゃあ、演技して」
「分かりました・・・自分でかけます」
「出来るなら話は早い。毎回それでお願いする。オレが君を「キョーコちゃん」と呼んだら・・・君はオレの恋人の「京子」になる。そして、何か言われたら「蓮」と呼べばいい。いいね?」
「はい・・・」
何の為にそんな事までして自分に演じさせなければならないのかがキョーコには分からなかった。土屋女史の動揺と、敦賀蓮の事情。自分が知るところではないとはいえ、何がしたいのだろう。
「着いたよ。裏から入る。君の招待状は無いけど、オレの同伴ってことで通すから。「京子」になれる?どう?」
こんな事の為に暗示を勉強したわけじゃないけれど。
「・・・はい・・・・ちょっと待ってください・・・」
キョーコは蓮の恋人役の「京子」になるべく、初めて正面からじっと敦賀蓮を見た。キョーコは蓮に「キョーコちゃん」と呼ばれて、・・・・正直驚いて・・・・一瞬我に返った気がした。
先程までの敦賀蓮じゃない。目の色が違う。優しい色。
これが土屋女子がいう「紳士な」敦賀蓮なのだろう。
敦賀蓮も「蓮」として・・・暗示をかけているようだった。これを普段から見ていたら、確かに敦賀蓮に「オレの恋人になる?」と聞かれたら「ハイ」と言ってしまうのは分かったような気がした。
――最低で、手に負えない最悪な男・・・・。こうして操って・・・・女を見下しているに違いないのに・・・・・。
お互い嫌いなら利害関係が一致してはいる。だから自分も敦賀蓮を利用すればいいだけのこと。
自分だって敦賀蓮でハンコの点数を稼げればそれに越した事は無い。仕事として割り切れば。
「蓮・・・・」
「じゃあ行こうか。キョーコちゃん・・・・・」
最低で最悪な仕事の、合図だった。
2006.2.22