19. 小休止 二 先生の憂鬱
【先生】
僕はある日、学長に呼ばれた。学長に呼ばれる部屋は、全面ガラス張り。三六〇度学園内全ての景色が見渡せるようになっている。
学長と僕は、少年時代からの知り合いで、彼の持てる資財を全てつぎ込んで、未来のために音楽の学校を作ると言った時、僕ももちろん共同出資することに迷いはなかった。自分が見てきた事を、もっと日本で広めてあげたい、それだけだったから。
ユニークな形態の校風なのは、完全に学長の趣味だけれども、教育に関しては僕の意見もかなり強いだろう。今現役でやっている人間をとにかく引っ張ろう、そして、その後継者がまた戻ってこれるようにレールを敷こう。僕の敷いたレールの上を歩いてくれた沢山の子供たちが、何かしら今音楽業界で名前を馳せ、またその名前を持って学校に協力してくれる様を見ていると、僕はやはり日本に戻って来てよかったと思う。
設立当初から変わらない、広大な緑と花に囲まれたこの学園を、この部屋から見るのが、僕は好きだった。春夏秋冬咲き乱れる花の香り、生徒の何かを真剣に練習する音の洪水。広大な公園でにぎやかにおしゃべりを楽しむ声。
その時、学長と僕にあまり言葉はない。無くても、ほぼ通じているだろう。「作って良かった。」それを二人で楽しむ。最後の集大成を、僕はここで過ごす。学長も同様だろう。
トントン・・・・と音がして、学長の秘書が入ってきた。
「学長。面会したいと不破さんがいらしています」
「通せ」
「はい・・・・」
白いシャツからのぞくシルバーネックレス、細身の黒いジーンズを大きなバックルのベルトで止めて、すらりとした彼は、普段着でもいわゆる「芸能人」らしいオーラは醸し出していた。
「どうした。珍しいじゃないか」
学長が様子を伺うように口にして、僕も、
「不破君、久しぶりだね」
と口にした。
僕は学長の横に座りなおし、彼は正面に座った。
僕と学長は交互に彼に話しかけた。彼は、「相談があって」と切り出した。
「何、どうした」
「大越先生にはもう相談したのですが・・・師事したい先生がいるんです」
「ほう。紹介しろと?」
「はい」
「コンクール、優勝してピアノやる気になったのか?」
「そうですね」
「ふん・・・・いいだろう。お前が「やる」と言ったらやらなきゃ腐るだろ」
「ありがとうございます」
「で・・・・誰に付きたいんだ?」
「敦賀蓮が付いていたらしい・・・・ロシアの天才ピアニストに」
「蓮の?」
「そうです」
「久々にアポを取るか・・・。留学するのか?」
「えぇ」
「あの時は行かなかったのにな」
学長が、にやり、と口元を片方上げて笑うと、彼も同じように不敵に笑った。
「留学の費用と学費を作ろうと思ったら、予定よりも随分と貯まりました」
「なるほど。同じ道とはいえ親のすねは嫌でもかじりたくないか」
彼は返事をする代わりにまたにやりと笑った。
「不破君、芸能界はどうするのかい?」
「残るやつは残る。消えるやつは消える。オレが数年留学していたからといって、ファンがゼロになる訳じゃない。また最初の頃のようにやるか・・・若しくはクラシック界でしか残れないか。でもそれは「結果論」であって、今はオレがやりたい事をやる事にしました。今を逃したらきっとオレは一生後悔します。生きるための仕事はもう先にしましたから。次は自分のための事をしばらく」
「そうかい。僕はもちろん賛成だけれどね」
でも、なぜその先生に付くのだろう。
父親を超えたいのだろうか。
「不破君。いいよ。留学も認めよう。じゃあ、先生に推薦状を書いてもらうといい。オレも書こう。必要なら、生活の場も提供しよう。君はこの学校で十本指だからね。やりたいようにやるといい。そして、結果を出せ」
「はい」
不破君の決心は固いようだった。学長の結果を出せ、という言葉ほど重いものは無い。けれど、十本指は必ずそれに応える人間ばかりだ。それを学長は見抜いているからこその、十本指。
不破君は、「また連絡します」と学長と僕に頭を下げた。
不破君は、ふと、視線を外に向けて、ふぅ・・・・と小さく息を吐いた。
僕も学長もちらりと彼の視線の先を追った。
僕も見慣れた人物が二人、小さく見えた。
「蓮と、最上君・・・・か」
学長がふふん、と鼻を鳴らした。
「原因はアレか?」
彼と彼女は、学長お気に入りの、噴水のある公園の奥の木陰で互いを抱えていた。彼女は泣いているのか、体調が悪いのか・・・・背中を撫で抱えている敦賀君が見える。
不破君はじっと、無表情でその様をしばらく眺めていた。「見られているのも気づいてないんだろうな」と一人呟いた。
「安心していいぞ。あの場所はこの部屋からしか見えん。オレのお気に入りの場所だからね。すぐには教えてやらん。不破君だって知らないだろう?」
「いえ。キョーコに引っ張られて・・・オレもあの場所でメシ食わされましたよ・・・・」
「なに?教えたか。それは最上君、減点モノだな」
「学長。アイツ・・・まだラブミー部出られないんですか?」
「・・・・もう出してやってもいいんだよ。蓮を選んだ時にね・・・・。婚約・・・破棄したのか?」
「いいえ?」
「ほう・・・」
不破君は、遠くに見える二人をふいっと親指で指差して、「原因はアイツが敦賀蓮の傍にいるせいではないですが・・・・アイツがオレのすぐ傍までやってきたから・・・」
と言って、にやり、と笑った。先日のコンクールで、不破君はキョーコちゃんと競った。その事が彼の中の最後のスイッチを押したのだろう・・・。
「なるほどね。妬けないのか?」
「そうですね・・・・少しは妬けますよ。オレがアイツを女にしてやりたかったけど・・・オレも忙しくてずっとアイツの傍にいてやれなかったからお互い様でしょう」
「ふふん・・・。余裕だな」
「そんなもの無いです」
「不破君にしては・・・・珍しく弱気だ」
「アイツ・・・影響を受けたら早いですよ、単純だから。昔一度聞いて傾倒したピアニスト・・・一度気に入ったら、毎日のように弾いていました。今はきっと敦賀蓮の音を追ってる。あんなに「大嫌い」だと言っていたのが笑えるぐらいにね・・・。きっとオレの音を今一生懸命否定しようとしているでしょうね」
不破君は何もかも分かったように、また不敵に笑った。
「八割は正しい。先日見せに来た最上君の音は蓮の音が少し混じっていた」
「でしょうね」
「蓮に取られると・・・思わないのか?」
「だから、それも結果論です。キョーコがオレを選ぶのか、敦賀蓮を選ぶのか、それとも道が違えば出会う人間も増えてくる。いつかキョーコが、自分自身で選ぶのが誰なのかはオレが決める事じゃないです。キョーコの人生はキョーコのもので、アイツが自分で選び取ればいい。ただ、アイツがもしオレが必要な時は、いつでも手を差し伸べられる。半分以上家族だから」
不破君は、気持ちまでそうして結果論・・・と割り切っているのだろうか。
敦賀君とキョーコちゃんは、夕陽が傾く中、抱えあったまま、そこにいた。不破君も、もう一度その方向をちらりと視線を送り、「先程の件を宜しくお願いします」、と言って出て行った。
「学長・・・・」
「蓮が・・・偶然手に入れた、「キョーコちゃん」は・・・「ホンモノ」だったんだろう?」
「多分・・・。でも不破君は知らないのだろうね」
「それもまた、『結果論』・・・・か・・・・何の運命の輪なんだか・・・・当の本人達の知らない所でな」
「敦賀君とキョーコちゃんと不破君・・・僕は音楽を純粋に楽しんでいてくれたらそれでいいんだけどね。僕、やっぱり心配」
「ふふん・・・・・・・」
学長は、口づけ合う敦賀君とキョーコちゃんを見て、「蓮だってもう幸せになっていい歳だからな・・・我慢は十分しただろう」と、学長の立場ではなく本音で・・・まるで孫を見る目でそう言った。学長は、敦賀君をとにかく可愛がっているから、仕方が無い。
「学長・・・・覗き見はやめなさいと毎回言っているのに・・・」
「オレの特権だもんねぇ~。オレの学校だもーん」
「そんな子供みたいな事・・・。僕の学校でもあるんだけどねぇ・・・」
「オレは学長~。一番えらいもんね~」
「学長・・・・・」
・・・・・・僕の憂いの種は、増えるばかり。
こんな学長でも音楽を語らせたら右に出るものは無い。
自宅の書斎に篭り、僕は不破君の推薦状をようやく今書き上げたところだ。久々に英語を書いて間違い、三回ほど書き直した。もう妻は随分前に寝てしまった。孫が淹れてくれたお茶が濃くて眠れず・・・つい夜更かしをしてしまって、推薦状と共に最近の出来事を思い出していたが、ようやく眠くなってきた。
僕は、僕の残りの生涯をかけて育てようと思っている生徒が三人いる。
その三人の夢は、もちろん僕と同じ、「ピアニスト」。
僕の最後の夢は、その三人が、「夢を叶えてくれる事」。
・・・・さて、僕もそろそろ夢を見よう・・・・。
おやすみ、また明日・・・・。
2006.10.04