19. 小休止 一 先生の憂鬱
【先生】
敦賀君がこの学校に在籍してから、初めてこの学校に来た。彼は学長のお気に入り。この学校の所属と言う形にして、入学してすぐに留学形式を取っていた。それは、学長が彼を傍に置いておきたいという気持ちの表れだったのだろう。彼の一切の学費、留学時の寮から学費までを学校側が負担していたようだ。どうして学長がそこまでするのかは僕には分からないが、敦賀君のご両親も遠いかつての僕の教え子で、まるで敦賀君は孫のような存在だったから、学長が手厚くもてなすのは、個人的な感情を交えても嬉しかった。
もちろん彼も僕の教え子ではあるけれど、教えていたのはたった一時期で、僕がイギリスにいた時、それも敦賀君が十八歳の頃、一年程の事だ。彼は今よりももっと、鋭くそれでいてしなやかな・・・若々しいというか、早弾きを得意としていて、勢いのある曲のほうが得意であったようだった。音は緻密で硬質な感じがするそれはとても丁寧な音であったけれど、今ほど感情豊かな感じではなかったと覚えている。僕は彼におまけの宿題とばかりに、早弾きとは対照的な、サティの三つのジムノペディの一番を、レッスン後のコーヒーのお供に聴かせて欲しいとよく頼んだものだ。
彼は十八歳にしては突出した才能を秘めているのはすぐに分かったし、血は争えないものだと感心をしながら、爺心を潜ませていた。 もちろん僕は彼に彼の両親の事を話した事はないし、彼も僕に聞かないから、僕と彼の両親との記憶を知っているのか知らないのかも知らない。けれど、当初出会った頃から同じ日本人の血が呼ぶのか、僕のピアノを気に入ってくれたのか、他の人間に接するよりは随分と気を許してくれていたように思う。
「敦賀君、僕ね、もうすぐ日本に帰らないといけないんだよ」
「え?」
「僕を待っている家族がね、もうそろそろ歳を考えろと、せめて最期の時期は日本にいて欲しいとね、言ってきていてね。あと何年この世界でプレイできるか分からないけれど、拠点を日本に戻そうと思って、帰ることにしたんだよ。君を最後まで見てあげられないのが何より残念なんだけれど・・・」
「そうですか・・・残念ですね。またぜひ師事したいです。日本に僕が帰った時にはもう一度、一からお願いします」
敦賀君は真剣な顔でそう言ったけれど、それ以上を口にしなかった。次のコンクールの日程は迫っていた。僕はそれを知っていて口にしたのに、彼は少しばかり眉を動かして驚いた顔をしたものの、返事はまるで平気とばかりにそっけなく、そして動揺をうまく隠していた。コンクール前にそれを言わねばならなかったのは、コンクールに入ってしまえば、一月ほど会えない。僕はその一月の間に帰国する予定だった。仕方が無かった。
敦賀君がコンクール日程に入り隔離され、僕は日本へ帰国した。その後彼は、見事に一位を獲得したと、直接僕宛に連絡をくれた。すごく嬉しかった。僕などの後を忠実に追ってくれて、教え子としては最高の教え子で、そして、そんな才能を惜しみなく本番で発揮する彼を、うらやましく思った。
それからしばらくした後、次についた師と折り合いが悪いらしいという噂を聞いた。彼は、なぜ数々の賞を貰っているにもかかわらず、同じイギリスに拘るのか、なぜ日本に帰国しないのか、なぜプロに転向しないのか、僕は不思議に思って、久しぶりに電話をかけて尋ねた。彼からの返答はただ一言「約束が果たせていないんです」と、それだけだった。
プロに転向せず、日本にも帰らず、イギリスに残ったまま何人も師を仰ぐ彼。てっきり僕は、果たせない約束というよりは、そこに大事な人でも出来たのだと思った。
数年間、彼は賞に名前を連ねる事が無かった。また心配した僕は、「そこまで折り合いの合わない師ならやめてしまいなさい」と電話をかけた。すると、
「周りにはまるで言い合っているように聞こえるみたいですね。でも互いに真剣に意見を交わしているだけ、腹を割る分信頼はしています。彼はロシア系の曲を弾く天才です。あと少しで彼の意図する地点と僕の目指す地点が重なって見えそうなんです」
と、僕や周りの心配をよそに、力強い返答が帰ってきた。望んでその師についていると分かっただけでも安心する事ができた。彼が数年賞に名前が無かったのはもちろん彼の師の意向で、数年かけて次のコンクールの為の土台を作ったのだと、あとから聞いた。
彼は、意図した約束を果たしたと、僕に電話をしてきた。そして、本当に日本に帰ってきた。生きている間に彼を日本でこの目で見ることが出来るとは思ってもいなかった。彼は僕に、「もう一度教えてください」と頭を下げ、もちろん僕も即決した。寧ろ、この数年で変わっただろう彼の音を傍で聞いていたいという欲求に素直に従ったと言えよう。教えて欲しいのは僕の方かもしれないね。
彼は僕のかつての心配など知る事も無く、約束というものを果たしたらあっさりと拠点を日本に移した。彼がいう約束は、その最後に賞を取ったコンクールで一位を取る事だったのだろうか。そして彼は日本でも音楽ばかりでなく、とあるブランドの専属モデルとして既に知名度はかなりあった。しかし帰るなり空港のインタビューで「キョーコちゃん」を探していると、一言触れた。その子との約束だったのだろうか。それとも、興味が無かったにわかクラッシックファンの女性ファンを牽制する為の一言だったのだろうか。
ところで僕の今の一番の教え子も、キョーコちゃんで、彼女のピアノは本当に素直で楽譜に忠実である。練習も人一倍、いや、人の十倍はしてきた。もともと持っているセンスとその努力で、技術もかなり高いレベルで持っている。けれど、音の特徴はどうしても、不破君に近かった。運指のクセが似ている。伸ばす音の長さが似ている。そんな風に細かに似ている部分を探していったらキリが無いだろう。僕は、彼女に隠れた才能が沢山ある事を知っているけれど、彼女が自らそれをあまり出そうとしないので、のんびり待つ予定だった。しかし、彼女はある日「ピアノ、続けるか迷っているんです」そう切り出した
僕はもちろん止めた。彼女がやめたいと言った理由も分からなくは無い。コンクールにだって出たかっただろうし、精神的に不安定だったのも分かっていた。けれど、その秘めたる才能を世に埋もれさせていいと思うほど、歳を取ったからとて鈍った耳になってしまった訳ではない。素直な彼女は僕の説得を受け入れて、「ちょっとした気の迷いでした、すみません」と、目を伏せた。
彼女の音が、少しだけ大人らしく、いささかの憂いを表現できるようになった頃、敦賀君が帰ってきた。
彼が帰ってきてすぐに出会い、パーティに連れられ、そして敦賀君の師事も受ける事になったと言った。
「敦賀蓮のばか~~~~~!!!こんな風になんて弾けないっ!!!」と、素直に・・・・いや、ただの八つ当たりに感情を発せられるほど、彼女と彼の距離はいつの間にか近くなっていた。
そしてそんな彼女を、準備教室とピアノ教室を挟むドアの小窓の奥に見えているだろう「キョーコちゃん」を見守る敦賀君の目は、今まで僕が見た事が無いほど、穏やかで優しかった。
だから僕は一言、「キョーコちゃんとの約束が、果たせたんだね」と口にした。彼は、苦笑いで「えぇ」と口にした。
その日の夜キョーコちゃんが呼んでくれたパーティでも、敦賀君は寄り添うようにずっとキョーコちゃんの傍にいた。キョーコちゃんのジャズを弾く音は、とても陽気で普段弾くクラシックや不破君の音とも違う、本来の彼女の面が出ていた。普段よりグラスが二杯程多くなったのは、彼女のおかげだろう。そして敦賀君は、キョーコちゃんが僕に出してくれた編曲の宿題の楽譜まで弾いていた。彼の音は、昔の早弾きの白鳥ではなく、さすがチャイコフスキーコンクールで入賞し、ロシア音楽の天才についた事があっただけの事はある、キョーコちゃんが大好きだという「白鳥の湖」、渾身の難解な編曲を、たった数分で優雅に弾きこなした。僕はもう小さかった孫達がすぐにでも傍から巣立って行きそうで、涙を堪えるので精一杯だった。
なぜ敦賀君とキョーコちゃんが昔知り合っていたのかは分からない。しかもキョーコちゃんは、敦賀君が「そう」して傍にいる事に気づいていない。それでも彼女が徐々に不破君との切ない心の傷を癒すように敦賀君の傍で笑うようになり、そして腕の中に納まった。
不破君も、敦賀君も、キョーコちゃんも、僕の大事な教え子で、誰の音も同列に扱ってきたつもりだ。けれども、敦賀君はキョーコちゃんを選び、キョーコちゃんは敦賀君を選んだ。不破君は、キョーコちゃんを大事にしているのには変わりない。そして、不破君は僕に、「ピアノでどうしてもつきたい先生がいるんです」そう告げた。それが、かの敦賀君がついていた「そりの合わない」と噂された先生だった。プライドの高い不破君が、敦賀君と同じ先生に付こうとする。その決心を思うと、僕は、何の運命の輪の間に立っているのだろうと、彼らのやり取りを傍で見ながら、鳥肌が立った。
本当にこれは一体何の運命なのだろう。
僕は、どうする事も出来ない、その運命の輪の中央で立つばかり。彼らの誰にも平等にするつもりでいる。一番傍にいる、一人の先駆者として・・・。
2006.10.01