16. Morning Prayer《朝の祈り》
うぅん、と吐息のような小さな寝息を立てて、シーツの波の奥へ身を寄せたキョーコは、ぐっすりと深い眠りについたまま、柔らかそうなうっすら紅色の頬をしていた。その無垢な頬に蓮は一つ口付けを落としてベッドから降りる。シャワーを浴びると、ぼんやりとしていた頭がようやく目覚めた。キッチンでコーヒーを落として口にして、さらに目を覚ます。朝の柔らかな日差しが、薄いカーテン越しに入り込んでいる。ぼんやりと小一時間ほど、時間と共に昇っていく太陽を眺めていた。しばらくして、そっとリビングを覗きこんだキョーコと目があった。
「おはようございます・・・」
「おはよう。まだ寝ていていいよ」
「大丈夫です」
蓮のシャツ一枚がまるで短いワンピースのようで、そんなぶかぶかなシャツを着て、キョーコは入りにくそうに扉に隠れたまま、蓮が声をかけるまで入ってこなかった。
「コーヒー入っているよ。ミルクは冷蔵庫にある」
「・・・ハイ・・・」
久々に蓮に会ったキョーコは、蓮と話すのをものすごく照れて恥ずかしがった。またちらり、と蓮を見てから、とてとて・・・と小さな歩みでキッチンの前に立った。きょろきょろとマグを探してコーヒーを注ぐと、ミルクをその入れたコーヒーと同じぐらい注いでいた。その光景に思わず和んだ蓮の表情には、ふっ・・・とごく自然な笑みが浮かんだ。
「み、ミルク入れないと・・・ご飯も食べてないのにっ・・・胃に悪いですよ?」
「うん、ありがと。でもそれは入れすぎだろう」
「美味しいです」
またちらり、と蓮の目を覗いた彼女は、蓮の隣にちょこんと腰掛けた。そして蓮が視線を向けると真っ赤になり、泳いだキョーコの視線は、風にふわふわとなびくカーテンに向かった。
「照れてる?」
「・・・も、ものすごく・・・。慣れていらっしゃる敦賀さんにはっ・・・・あ、当たり前の事なんでしょうけど・・・」
「朝・・・・誰かと一緒にいたことが無いんだ」
「え?」
「誰かと一緒に眠るのはあまり好きじゃない」
「・・・・・・・・・・」
「正しくは、好きじゃなかった、かな。君を抱えて寝るのは好き」
キョーコは疑いのまなざしと、また嘘ばっかり言って、というまなざしの両方を、正直に蓮に向けた。
「本当だよ。言っただろ?割り切っていたって。誰かと朝まで一緒にいた事は無い」
蓮が淡々と、当然のようにそう言うと、割り切っていた過去の蓮をキョーコは脳裏に浮かべ、俯いて目をそらした。ある意味で特別扱いだと言いたい蓮の気持ちは分かるが、それを素直には喜べず、いつかキョーコを本当に割り切るという時、そんな目で見られるのかもしれないという気持ちもする。
「割り切ってた子に、嫉妬したわけ?君以上に傍に置いた子なんていないのに」
蓮はキョーコの首と腰に腕を回して、ほっそりとした身体を腕に抱きいれる。見下ろした大きなシャツの隙間から、彼女の肌と蓮の愛した跡がいくつも見えた。
割り切ってはいないだろうキョーコに、何度割り切ってないと告げても、信じていない。何度好きだと言っても信じようとしない。男なんてそんなものだから、というある意味どこか悟ったような眼差しを、感情と感情の隙間、・・・――きっと彼女は意識してないのだろう・・・――に向けてくる。
「あんなに・・・・昨夜は可愛く甘えてくれたのにね。どうしてオレの言う事を信じないかな」
久々に会ったキョーコを、蓮は本当に可愛いと思った。会いたかったと、キョーコの言葉は少なかったけれども、そのかわり全身でそれを蓮に告げた。キョーコがどうせ泣く事が分かっていたから蓮は自分の腕の中に抱えたまま沢山話をして、やはり泣いて、慰めて、口付けて・・・・。
「こうして朝コーヒーを一緒に飲むのなんて君が初めてだと言っても信じないんだろうね」
「う、ウソばっかり・・・女の子みんなにそう言って・・・」
「信じたくないの?」
「信じられないような事ばっかり敦賀さんは言うんですから。どこまで信じていいのかよく分かりません。アイツとはもちろんこんな朝無かった、から」
「分かってる。でもダメだよ・・・・他の男の話は・・・・」
不意に尚の話を出したキョーコの唇を蓮はそっとついばんで塞いだ。きゅっと逃げるように固く目を閉じた彼女に、蓮はまたふっと吹き笑ってしまって、唇にかかった優しい息に、くすぐったそうにしたキョーコはそろりと目をあけた。
「あの・・・アイツなんかに嫉妬したんですか・・・?」
「そうだね。慰めて」
蓮がそう言うと、キョーコはどうしよう?と困惑した後に、なでなで、と空いた手で蓮の後頭部を撫でた。蓮の唇から、再度声にならない優しい息が漏れて、キョーコにかかった。
「今日から一週間、とにかくオレの傍にいて。ずっといて。気が向いたら好きにピアノ弾いて、おなかすいたらご飯を食べてのんびり過ごそう。誰にも邪魔されず、二人だけの夏休み。ね?・・・どうせ追っかけられて、アルバイトには行けていないんだろう?」
「はい・・・」
今度は蓮がキョーコの後頭部を撫でていると、キョーコの唇からも、言葉にならない優しい息が漏れた。
*****
キョーコは尚に負けた。その後、ピアノを弾くのを少しだけ休んでいた。蓮もいない。先生はしばらくキョーコの好きにするといい、と言った。学長は「まぁまぁだな」の一言だけだった。彼らに何かの慰めを期待した訳ではないが、「ピアノを辞めるな」という皆の気持ちだけは伝わって、同部屋の奏江だけは、「あんただけ抜け駆けしようとするからよ」と憎まれ口を叩いた。
蓮が日本に帰ってきた日。パーティを後にしたあと、蓮はキョーコの気持ちなど全て分かったように最初から腕の中に抱きいれた。キョーコは、淡々と話すつもりだった。が、話しながら次第に悔しさが滲んだ。慰める優しい声が降って来て、ずっと抑えていた感情は止まらなかった。また子供のように泣いて、泣き疲れて腕の中で眠ってしまった。
夜中にふと目が覚めると、蓮はベッドサイドのランプでうつ伏せに寝そべったまま楽譜を見ていた。キョーコがそっと覗き込むと、先ほど弾いた「愛の夢」の楽譜。彼は何を思っているのだろう。暗譜などとっくにしているはず。弾いてくれた音はやはり優しかった。なぜか蓮は「この曲はオレの一番の難曲になりそうだよ」と苦笑いを漏らした。
穏やかな一週間だった。多分キョーコの人生の中で一番穏やかで優しく、そして、甘かった。何もかもを忘れて、蓮との時間を過ごした。好きに、思うままに楽譜を取り出しては弾くピアノ。弾く事がこんなに楽しかったと、久しぶりにその感情を思い出した。
そして、その感情を思い出させてくれたのが蓮で、コーンで・・・キョーコ心の中は、とても不思議で、複雑な感情でいっぱいだった。そして蓮には、好きだと、愛していると、可愛いと・・・事あるごとに囁かれ、女の子扱いを受けて、とにかく大事に大事に扱われる。
昼間はどこまでも優しい「紳士」で、優しい音でピアノを弾き、そして恋を囁く夜、不遜で尊大な「皇帝」になる。
恋に慣れた蓮に、キョーコはどうする事もできず、翻弄されたままどこまでも流れ落ちた。
夜は、誰にも見せられない、甘ったるい時間が流れた。
自分の気持ちの変化と行動に理性はどんどん置いていかれる。自分でも聞いた事がない、信じられないような甘ったるい声が、蓮の耳元で漏れた。
自分がこんなに誰かに甘えられるなんて。それがしかも尚ではなく、敦賀蓮で、そして、何より大事にしてきたコーンで・・・・・。
蓮は、何度も割り切ってないとキョーコに言った。言い訳に聞こえるような、キョーコとしてはいい訳としておきたいような・・・自分の中の複雑な気持ちは、今でもまだぐらぐらと揺れている。
考えなければならない事は沢山あった。
ピアノ、恋、自分、蓮とのこと、尚とのこと。将来。たくさんの約束。
けれど今は、今このときだけは、蓮の腕の中で甘ったるい夢を見ていてもいいかなと、少しだけ頑張った自分に、そう言い聞かせた。自分の感情を隠し、見ないフリをした・・・。
子供のように、女の子のように甘えて、しがらみも何も無い、愛されてもいい、ただの一人の女の子に、一度だけ・・・なってみたかった。
夢を現実のものにしたくて、キョーコは蓮の首に自ら腕を回した。ベッドのシーツの波の上で、優しい口付けをねだった。
「可愛い・・・」と、蓮は穏やかに艶のある声と笑顔と共に口にした。背中を這った指先は、ゆるやかに、シーツの波の中に消えた。
蓮の大きな手と長い指が今のキョーコを作り出し、そして自分の全てを優しく奏でてくれている。指先から伝わる心からの優しさは、徐々にキョーコの心を絡めとり、頑なだった心が、蓮に向かってとろけるように柔らかくほぐれていくのが分かった。
その一週間、キョーコは、今までで一番穏やかで、甘い夢を、蓮に寄り添い、見続けていた。
2006.07.26