15. Crown of thorns
「こっち、こっちに視線を、あぁ・・・キョーコちゃん、首の角度はもう少し正面にね」
カメラマンがそう口にした。
キョーコは、すみません、と一言だけ口にして、言われたとおり少しだけ首を正面に返した。
「下手だな」
「あんたと違って私は慣れてないから」
「しょーがねぇな、オレがリードしてやるから。ほら・・・首はもっとこっち」
ぐり・・・と曲がりなりにも優しいとはいえない手つきで、その男はキョーコの顎を指で動かした。その行動にキョーコは少しだけ表情を崩した。
「お前が足引っ張ると長引くだろ」
「・・・・・・・・・・・」
キョーコの不満そうな顔はなお更ゆがみ、カメラマンが「不破君、しょうがないよ。彼女はまだ一般人なんだから」と口にした。
「ほれ、優しいカメラマンさんでよかったな。普通の撮影ならブチ切れて帰されてる」
「すみません・・・」
再び謝罪の言葉をカメラマンに向けると、キョーコはにこり、と今度はその感情を隠すようにして極上の笑顔を形造った。
「あぁ、さっきよりは随分いいね、もっと自信をもった表情でいいから」
リラックスさせるようなカメラマンの言葉が続く。キョーコもそれに乗せられて当初よりは幾分か「らしく」なった。
「不破君、もっとキョーコちゃんに寄ってくれない?」
「ほーい」
尚は手馴れた手つきでキョーコの腰を引き寄せて、キョーコがブラウン管上で見飽きた「不破尚」の笑顔がごく間近にあった。嫌悪感と悔しさと、懐かしさが入り混じり、涙が出そうになる。一瞬でも「懐かしい」「一番いい顔だ」と思ってしまう自分がいやだ。
「そうそう、そのまま、いいね」
一つシャッター音が鳴る度に不破尚は表情をクルクルと変え、さわやかな笑顔から自信たっぷりな表情に一瞬で変わって見せた。心の中で「よく出来るわ」と・・・半ば呆れながらも、自分はせいぜい「いいね」と言われた笑顔を崩さないのが関の山。
なぜこんな状況になったのか。端的に言えば、キョーコが不破尚に負けた、からだ。大学に進学してから初めて出してもらえた国内コンクール。そこに不破尚はいた。普通なら関係者だけの会場が、もっぱら芸能関係者と不破尚ファンで埋め尽くされていた。しかし審査員は海外で活躍するアーティストであり、「音だけ」の「厳正なる審査」をした。それでも「負けた」。毎日いやという程ピアノを弾き続けてきた自分が、仕事と半ば二足のワラジ的両立(していたのかどうなのかも甚だ分からないが)していただろう彼にあっさりと負けて、結果は二位。
それが「音楽界の天才・不破尚」の名前を更に高め、実は二位の女の子は「不破尚」の幼馴染、クラシック界の重鎮大越氏(注:先生)に長年師事し、あの「敦賀蓮」帰国後初の愛弟子だったと分かると、話題性は十分、宝田学園長のもとには連日クラッシック界のみならず、報道陣の取材申込が殺到した。宝田学園長も連日の様子に「祝賀パーティは学内で内々にやるつもりだったけどそこで応える事にするか・・・」と、芸能界に深くかかわりがある彼だけに、そう苦笑いをもらした。不破尚と敦賀蓮人気を更に高めようと踏んだのだろう。
しかし、キョーコも毎日のように追いかけられて、学園内から出ることが少なくなった。日々寮と先生のいる部屋、敦賀蓮の部屋のピアノと戯れて、そして秘密の庭・・・その往復になった。
日々の必需品は奏江となぜか土屋女史が世話をしてくれて、送ってくれていた。女史の夫が経営しているバイト先にもしばらく通えなくなっている。オーナーは無理もないからしばらくしたらおいで、と言い、休みを与えてくれていた。
そうして今はそのパーティの最中。学園内から入賞した者が四人ほど。パーティには学園内に所属している芸能人も多数駆けつける予定で、それも見所と報道陣は色めきだっていた。あわよくば将来の為に名前を売るには丁度いいだろう、と宝田学園長はまるで大したこと無いように笑い、キョーコには不破尚の名前も使えるなら使っとけ・・・とキョーコにとってはさらに腹立たしい釘を刺した。
昼間のガーデンパーティの後、小一時間の時間をはさんで、受賞者の祝賀会用コンサートが行われた。その後、先に雑誌社数社の「不破尚×最上キョーコ」の「台本どおり」の「なごやか」な対談を録音して、最後の撮影。各社交代にシャッターを切っていく。さすがに慣れないキョーコは作り笑顔の疲労の色がシャッターの合間、カメラマン交代の合間に一瞬だけ浮かぶ。
「おい・・・もうダメなのかよ。情けねぇな」
「大丈夫よっ・・・」
呆れた顔を作った不破尚の言葉の策略に乗せられて、負けず嫌いのキョーコは再度極上の笑顔を造って、感情を隠した。最後のカメラマンのオーケーが出たあと、尚はさらに報道陣に囲まれ、ようやくキョーコは開放された。
その隙をついて土屋女史が近づいて、キョーコちゃん、こっちに・・・と言った。
「・・・・こっちこっち。撮影も休みなしで疲れたでしょう?今度蓮様と一緒に本当にウチの服着て撮りましょう?笑顔、とっても良かったわ。でも・・・・・・もう!!この服は蓮様が選んで下ったのに・・・。彼に沢山触られてしまったわね」
少し残念そうな顔をした女史は、真っ黒なロングドレスの裾をそっと払った。女史は、誰にも告げていない蓮と自分の関係を既に気づいているのだろうか。
「蓮様のために厄払いですわ、うふふ」
女史はいたずらを考える子供のように可愛く笑って、さらにこっちこっち、と手招く。長くスリットの入ったこの真っ黒で上品なドレスを着るときは、上品に歩こうと意識しなくても歩みが小さくなる。高いヒールのせいもあるだろう。いつもなら横にどこまでも敦賀蓮がエスコートしているが、今日はいない。
「こっち、こっち」
手招く方向は、キョーコがお気に入りの場所を目指している。
「どうして、土屋さんがその噴水を知っているんです・・・・?」
「うふふ」
そこそこ、と指を差した先にいた、木に寄りかかっていた大きな黒い影の人物に気づくと、驚いて思わず、くるり、と背を向けた。
「キョ、キョーコちゃんっ・・・???ダメ、待って」
こんな時スタスタ歩けないヒールに腹が立つ。急ごうと思うのに来た時と同じ速度でゆっくりと優雅に歩いてしまう自分がイヤで、その人物の長く逞しい腕の中に納まるにはそう時間がかからなかった。
「ただいま。数ヶ月ぶりに会ったのに・・・「お帰り」ぐらい言って欲しいな・・・『キョーコちゃん』・・・?。ねぇ・・・どうしてオレがいないのにそのドレスを着てる?」
「・・・・・・・・・」
目が合わせられなくて、俯く。身体ごと自分の胸元に引き寄せて、優しく抱きとめた蓮の仕草を見た女史が、「あらまあ」と頬を紅く染めて目をぱちくりさせる。そして「またあとでね、キョーコちゃん」と、にっこり笑ってその場を後にした。
日の沈みかけているその場所は、薄暗く、誰もいない。その秘密の庭を知っているものも今はパーティの準備でそんな所には来ない。
さわさわさわ・・・・・と静かに流れ落ちる噴水の縁に腰掛けて、キョーコと視線を合わせる。蓮はそっと口を開いた。
「さっきの撮影とコンサート、陰から見てた」
「・・・・・・・・・・・」
「泣くかと思った」
「な、泣きませんっ・・・」
そう言う傍から、いろんな感情が篭った涙が溢れそうになった。顔を隠したくて、蓮にしがみつこうと、ドレスを着ているのも忘れて芝生に膝をつく。そして蓮の身体に腕を回した。ほっとする懐かしい優しい匂いがした。しばらく大きく息を吸って吐いて、昂ってしまった感情を抑える。そしてそっと一言、顔を上げずに「アイツに負けちゃいました」と口にした。
「そうだね。仕方ない」
「え?」
「別にオレは優勝しておいでとは一言も言わなかった。頑張っておいでとは言ったけれどね」
「だって」
「君が楽しく弾いてこられたならそれでいい。そうじゃないなら・・・また練習しなさい」
「・・・・え・・・?」
蓮の言いたい事が掴み取れなくて、キョーコは、きょとんとした表情を向けて、蓮を顔を見上げた。
「基礎なんて練習でいくらでも叩き込める。あとは君らしく・・・弾く事を覚えるだけだよ。たまたま最後の比較対象が不破になってしまったからね。どこか「似たもの」なら「本物」が一歩前に出るって事だろう?」
「あ、アイツの音っ・・・じゃ・・・なかったと・・・」
は言い切れない。自分では何も意識していなかった。集中することに集中して、鍵盤を前に自分の世界に浸りこんだ。気づいたら終わっていた。良かったのか悪かったのかも自分でも分からず、ただ「集中して」いた。「楽しんで」いる余裕は、一切無かった。
ふっと蓮は苦笑いを零して、キョーコの頬を指の背で撫でた
「仕方ないよ、「クセ」はそうそう治るものじゃない。それが久しぶりのコンクールとあればなお更だ」
蓮の優しい言葉と表情に、キョーコは「・・・ごめんなさい」・・・とまた謝罪の言葉を漏らした。せっかく沢山見てもらってきたのに、と思った。
今日はなんだかずっと謝罪してばっかりな気がする。パーティで祝われているはずなのに、何とも自虐的な気分に陥る。
「前後・・・傍にいてあげられなくて、ゴメン」
「お、お仕事ですからっ・・・そんなのっ・・・」
コンクール最終日の夜、何でもいいから慰めて欲しかった人物は傍におらず、情けなくて結果だけを蓮にメールで送った。蓮からは一言だけ「久しぶりの舞台お疲れ様。近々帰る」と、短い返信が来ていた。
「このあと他の用事、まだある?」
「まだいないともちろんダメです・・・今は小休憩ですから。小一時間したらまた会場に顔を出さないと」
「じゃあ・・・いいね。オレの楽屋、行って休もう」
蓮は腕を引いて立ち上がらせると、自分は縁に座ったまま、引き寄せた。そしてすりすり・・・・としばらく撫でていた紅い痕に顔を近づけると、軽く吸った。色がついたら恥ずかしいと、キョーコは蓮から離れようとした。
「・・・な、何してるんですかっ・・・」
「撮ってるときアイツに・・・・腕で抱かれて・・・ここ触られてただろ?君の顔・・・隠してたけど・・・思い切り笑顔が引きつってた。どうしてかな?」
――『ここにキスする権利はオレのだよね?』
「・・・・・それにどうして一人でこのドレスを選んだ・・・?」
――『うん、コレがいい』
「だ、だってっ・・・」
蓮の言葉がふと浮かんで・・・彼が選んだそのドレスを土屋女史に頼んで出してもらった。自分はもう不破尚とは関係が無いのだと、自分に言い聞かせたかった。それでも写真撮影のときにふとした瞬間に心の隙間に入ってくる、見慣れすぎた尚の表情と自然に首元に触れた指先に、無意識にどきり・・・と心が揺れて、そんな自分に笑顔が歪んだ。
もちろん尚に首元の斑点に口付けられたわけではないが、何か蓮との約束を破ったような・・・蓮だけに触って欲しかったと・・・自分が今は不破尚よりも敦賀蓮の方が好きなのかもしれない、と少し自覚して、どこか「ほっ」としていた。
「だって・・・?」
「に、似合うって・・・言ってくれたからっ・・・それにっ・・・敦賀さんの教え子としてはっ・・・」
しどろもどろになりながらキョーコは蓮の手をきゅっと握って、紅くなって俯いた。ドレスを着ているからといって、今日は「京子用」フルメイクはしていない。このドレスを着ているからといって「敦賀蓮が連れているキョーコちゃん」だとは誰も思わないだろう。
髪の毛はくるくる・・・と彼女が好きな巻き髪をしてもらって、キョーコらしさが残るお化粧は施してもらった。それでも土屋女史は満面の笑みで「すごく可愛いわ」と言った。尚は一言だけ「どうしてそのドレスを着てる?オレへの当てつけか?」と分かったような皮肉を垂れた。
「「似合う」の一言で着てくれるなら・・・そのドレス以外にも選ぼうか・・・?」
「いいんです、コレだけで・・・十分すぎるぐらい、いいドレス。あのっ・・・すっごく高いんでしょう・・・・?」
「そんな事はどうでもいい事だけどね。今日は不破じゃなく・・・オレの恋人として出ようって思って・・・選んでくれたって思っていい?」
「えと・・・あの・・・・おかえりなさい」
その言葉と共に、蓮のおでこに触れるか触れないかの口付けをするのが、キョーコの返事の精一杯だった。蓮は「一週間後また国外に出るんだけどね・・・」とそっと笑って、ありがとうと告げた。
「会場に帰りたいですけど・・・一緒に行ったら多分マスコミの目に留まりますよ・・・・?」
「オレの愛弟子と帰って何が悪いんだ・・・」
「・・・・・・・・」
にこり、と有無を言わさない笑顔の蓮にキョーコは何も言わず、いつものように腕を取って歩いてくれた蓮と歩いた。報道陣に囲まれた尚から、蓮に視線が動き、さらに共にいたキョーコにも移ったのは言うまでもない。
「敦賀さん、ご帰国されていらしたんですね。初めての愛弟子さんの素晴らしいご活躍おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも彼女の実力ですよ。僕は背中を押していただけ。彼女はもっと伸びますから」
蓮は珍しく自ら報道陣の撮影を受けた。シャッターが切られて、カメラ視線に慣れた様子の敦賀蓮は気にすることも無く穏やかな笑顔を浮かべている。その場で軽くインタビューが始まり、ぜひ学園の特集を組ませてください、と・・・そこにいた尚を呼び寄せて、話題の三人の撮影が始まる。
撮影が終わり、涼しい顔をする蓮をよそに、尚の顔はほんの少し、キョーコにしか分からない程度に・・・不機嫌そうに歪んだのは言うまでもない。自分を取材していた人物が「敦賀蓮」を見るとすぐに即興のインタビューと撮影。「三人で」と今回の事に関係ない彼、しかも自分が嫌いな彼に、悔しさは更に滲んだ。コンクールには勝った。敦賀蓮との部屋はすぐ隣。けれど、その隣の一枚の壁は高く、勝ったのに負けた気分を一瞬にして味わった。それが世界コンクール優勝者の余裕かと・・・そして、「キョーコちゃん」を手に入れた余裕か?と・・・。
「さあ戻ろう。少し身体休めて」
「はい・・・先生・・・・」
「だから先生はやめようって・・・・くすくす」
「ふふっ・・・」
自分の知らないキョーコがそこにはいた。ふふ、といたずらっぽく蓮に向けて笑ったキョーコの顔は、実際の歳よりも少しだけ幼く見えて、尚に向けてきたしっかりとした彼女とは少しだけ違った。ざわざわざわ・・・・と尚は、何か自分の知らない感情が心を覆う。いらいらする。優勝したはずなのに。
「キョーコ。休みすぎるなよな」
「わ、分かってるわよっ!!!」
自分が言葉をかけてももう「うんっ!」と明るくは言わなくなった。おおかた喧嘩腰。あのキョーコはどこへ行った・・・・?と更にいらいらした気分が心を覆う。そのかけらを蓮には今向けているのかとふと思ったら、少し・・・心臓の痛みを自覚した。何の痛みだコレは・・・?と自問自答しながら、「きっとお気に入りの玩具を取り上げられた気分なんだろう」と、結論付けた。
「キョーコちゃん・・・」
楽屋に着いた蓮はキョーコにそっと言葉をかけた。
「はい?」
「・・・・・・・いや、あとで言う・・・。オレはこれからここで特別に来賓に向けてコンサートをすることになっているんだ。いつもの曲を弾くからね?」
――『愛の夢』
「これから二ヶ月は夏休みだろう?このあとの一週間はオレのそばにいて。毎日好きにピアノ弾いて・・・夜は愛の夢、オレに分けて」
「・・・この数ヶ月・・・・・外国で・・・・「割り切ったり」・・・しなかったですか?」
ちらり・・・と蓮の表情を伺って、キョーコは赤くなって俯いた。
「残念ながらね、そんな気がおこらなかった。そう言う君が・・・他の男の前で泣いたり・・・それこそ慰められていたり・・・その痕に口付ける男は?」
「だからっ私はもう泣きませんっ・・・・!!敦賀さんと約束しましたからっ。嬉し涙だけ・・・って。それに私を慰めようなんて思う男の人なんて今までいませんからっ・・・・」
「・・・・・・・・オレの部屋なら今日は許してあげる・・・泣いてもいいよ?離れていた間の話を沢山しよう。・・・・そのあとは心いくまで腕の中で「啼かす」よ?覚悟しておいて。・・・くすくす・・・」
一瞬きょとんとして、その後一気に顔を赤らめたキョーコに蓮は、ぶっ・・・と笑い吹いた。
可愛い、可愛い、と言いながら軽く口付けて、さらに笑った。
「さて・・・行って来るかな。社さんとでも一緒にいて」
「はい」
学長のサプライズで、蓮の突然のプレミアムコンサートと、尚のプレミアムコンサートは同時に行われた。会場は大いに沸きたっていたが、それをひどく複雑な気分で見つめていたキョーコがいた。
夜・・・・蓮の前でやはりキョーコはないた。散々ないて、全ての気持ちをさらけ出し、蓮の腕の中でまた子供のように眠った。
翌日明るい話題のトップニュースは、彼らと自分が取り上げられていた。自分がテレビに不破尚と写っている。敦賀蓮と写っている。そう見える。自分と彼らが写っているわけではないのが、少しだけ悔しい気がした。
・・・キョーコが更に濃厚な夢を見るのは、まだまだこれから先。
2006.07.12