十四 intermission 休憩
最近蓮は、キョーコが振り返る瞬間が一番好きで、宿題を弾き終わって蓮が何も言わなくても、キョーコ自身が「可否」をもう判断している。
それでもその振り返ったあと一瞬の「敦賀さんどうですか・・・?」と言いたげな、期待と不安とが入り交ざる上目遣いがとにかく可愛い。
「一箇所だけ気になった」
楽譜を捲り戻して指をさす。少しもたれたのが気になった。キョーコもぺろり、と舌を出したから、自分でも分かっているようだった。
既に蓮の示す解釈を既に深く理解しているらしい。もともと何でも耳コピーできるぐらいだし、不破尚の音も弾きこなし、先生の音も弾けるぐらいだから・・・蓮の弾き方や解釈を覚えるのはそう苦ではないのだろう、課題の曲を次々とこなしていく。
「敦賀さん、もうすぐコンサートですけど、私のレッスンしていて大丈夫ですか?」
「うん、もう打ち合わせは済んでいるし・・・空いている時間だから。少し気分転換もしたいし」
「敦賀さんが練習しなくても大丈夫ですか?」
「また、聞いてくれる?」
「もちろん、いいですよっ?」
キョーコと蓮が木陰で新たな「約束」を交わした日。蓮はキョーコに帰りがけ寄ってもらい、音をキョーコに聞いてもらった。
不思議と落ち着いたのかは分からない。蓮の音はぶれなかった。
そしてキョーコは、「さっきはどこに問題があったんですか?」と・・・問題が指摘できない事に対して、自分の耳はまだ足りないようだと謝罪された。
ピアノを弾く時に、解釈は含ませて弾くものの、自分の感情に左右されるなんて事は今まで無かった。キョーコに会って初めて覚えた。
キョーコを手にした今、愛の夢は・・・今度は弾けるだろうか?そう思って、今度のコンサートでもアンコールで弾くと蓮が言ったら、キョーコは目を輝かせて喜んだ。
蓮がコンサート用の曲を弾き始める。「パガニーニの主題による狂詩曲」。これが自分の音色で弾けるようになった時には、既に他の国際コンクールでいくつか入賞はしていた。毎年開催されるならまだいい。数年に一回しかないコンクールもある。その中で入賞できた事は、喜ぶべき事だろう。でも、「キョーコちゃん」と約束したコンクールではなかったから日本へはまだ帰らなかった。意地でも優勝して帰ってきた事は、蓮の中のけじめみたいなものだった。
――まさか、帰ってきてすぐに会い・・・・オレの腕の中に納まるとも思わなかったけれど・・・・。
本人は蓮を本当は誰なのか気付いてないとしても、「本気でも割り切っていてもいいから、私は本気で好きになる」と言った事が、蓮にとっては単純に嬉しかった。
不破尚と同じように好きになってくれるなら、蓮はもう手放す気など無くて、音楽も恋も何もかもをキョーコに注ぎ込める自信がある。キョーコが一生懸命心の中で「心の距離を置かなければ」と考えているのが見え隠れしているから、まだあの日以来、恋人というよりはただの教え子として蓮も傍にいる。もっと・・・徐々に距離を縮めなければいけないのだろうけれど。自分の時間は限られているから、どうしても、もっと、もっと、と願ってしまう。帰ってきたばかりだから会えていたけれど。しばらく先日本でゆっくりとできる時間はそうそう多くない。
蓮が弾き終わり、身体をねじって振り返ると、キョーコはまた目を輝かせてすぐ傍にいた。
蓮が弾き終えて振り返るとき、キョーコはいつも目を輝かせているなと・・・思った。
――昔・・・・キョーコちゃんが、オレが歌うさまを純粋に喜んでくれたように・・・・。
「敦賀さん、手大きくていいなぁ・・・・」
「オレの音聴いてた?」
「聴いてましたよっ。でも、何も言うコトが無いんです。だからCDや機械のように完璧に毎回同じに指が動かせるっていいなって。職人の指ですね。それが感想です」
「最上さんの手も可愛くて好きだけどね」
そっと手を取ると、びくり、と身体が震えた。一生懸命、先生と生徒のように振舞って・・・・そういう雰囲気を出さないようにしていたのは気付いていたけれど。
「怖い?」
「え?」
「ここは防音だよ?何しても誰も気付かない」
「あの・・・・?」
「くすくす、ウソだよ。何もしないよ」
「あのっ・・・私、そーいうの・・・慣れて無くてっ。初めてだからどうしたらいいのか分からなくて・・・その・・・」
真っ赤になるキョーコは、いわゆる「彼女」というのがどういうものなのか、どうしたらいいのかが分からないと言った。
「別にそこにいてくれれば・・・。ただ気持ちが先に来ればそう言う事にもなるだろうけど。オレは君を裏切らないからね。・・・・だけど本当はね、もう来週以降世界各国に出てしまうから・・・君を完全にオレのものにしておきたいのは本音だけどね。でも全然気持ちがついてきてないだろ?」
「あの・・・」
「無理はしなくていいから。本気でオレとそうなりたくなったら言って」
「えっ・・・?」
「えっ、て何?」
「その・・・・私から言うんですか?」
「言わない限りは・・・・我慢しておくよ」
「あの・・・敦賀さんは、好きです。でも・・・」
「くすくす・・・。ありがと。おいで」
そっと近寄ったキョーコの腰に腕を回して、もう片方の腕で首を引き寄せた。蓮は、ちゅ、と唇を音を立てて吸った。唇を合わせる事はだいぶ慣れたけれど、それでも照れて離れる時に一瞬目を伏せる仕草がまた可愛かった。
「オレからはキスだけにしておくよ」
「あの・・・・どうして私なんです・・・?割り切ってそう言うコトがしたいだけなら、私じゃなくても・・・・。その・・・」
――・・・・・・・?
「そんな事、思っていたの?」
「え・・・?」
「君と付き合うことになった日「オレが割り切っていても、いなくても」と君は言ったけれど。君を好きな理由が欲しいのかな。それともどれぐらい好きなのか教えて欲しいのかな」
「・・・敦賀さんっ・・・?なんか・・・こわいです・・・・」
「答えになってないね」
「だって・・・なんで私なんてって。たまたま廊下でぶつかっただけでしょう?モー子さんにお仕事が行くはずだったでしょう?私じゃなくても、言う・・・んぅ・・・」
やっぱり、蓮の本音など何も気付いてないキョーコを引き寄せて、蓮は強引に唇を割って絡めた。
その性急さに驚いて、キョーコは身を一瞬強張らせて、そして腕で蓮の身体を離そうと試みた。
けれど蓮は離さなかった。息をしようとする間から漏れる音にキョーコが驚いて、真っ赤になって大人しくなった。何度も絡めて唇を引き寄せた。そして一度離してキョーコの身体を抱き寄せて、もう一度、絡めた。
「どうして君かって聞かれてもね、正直な所分からない。ただ君を自分のものにしたいと思った。可愛い。君が・・・他の男の腕の中で泣くのは我慢ならないと思ってね。十分な独占欲だと思うけど」
「・・・?」
「割り切ってないって分かってる?君をどれだけ好きか見せてあげたいけどね。もう、今日は帰って。君に師として優しく出来る自信がない」
「敦賀さん・・・・」
キョーコはしばらくの間、蓮の言葉に、腕の中でじっと蓮の目を覗きこんでは、何かを迷い探っていた。しばらく・・・かなり長い時間に思えたけれど、キョーコはついに「蓮」と一言だけつぶやいた。
「どうした?」
「蓮」
「なに?」
「蓮・・っ・・!」
「・・・・・どういう意味かな」
「おねがい、キョーコちゃんって・・・呼んで、早くっ・・・」
キョーコは蓮の身体に向かって叫ぶようにして口にして蓮を強く抱きしめた。
蓮が何も言わずにしばらくキョーコの背中を撫でていると、キョーコはそっと蓮の表情を伺った。
キョーコは必死に何かの感情を隠したがっていた。
どうして名前で蓮を呼んだのか・・・。いつも蓮がキョーコに使ってきた手。それを今返されるのは苦しい。
それで蓮を呼ぶのは、「最上さん」としての返事では無いだろう。割り切るために・・・仕事として・・・・必死でそういう事にしないと自分の中で全てが崩れてしまうと、そうして蓮の気持ちに応えるのだと解釈した。
蓮も、「キョーコちゃん」と呼んでしまえば・・・もう、自分が止まれないのは分かっていた。
「・・・・キョーコちゃん・・・・」
「蓮・・・がすき・・・・」
蓮は立ち上がって・・・引いたキョーコを羽交い絞めにした。蓮の腕の中でもう一度小さく、すき、と言ったキョーコの唇を塞いで閉じた。そして離した唇を首筋に這わせた。
「この赤い痕にキスする特権は、オレだけのだよね・・・?」
「っ・・・」
自分のものだと、印を付けておきたくて、蓮は強く赤い痕を吸って、少しだけ上から赤く色づけた。それだけで、どうしようもなく抱きたくなる。それを隠すようにしてひたすら口付けを繰り返して、抱きしめた。
「どうしたら君は信じる?」
「ごめんなさい・・・待って、お願い、待って・・・」
半分涙目でようやく蓮を真っ直ぐ見たキョーコは、蓮の体に腕をまわし、お願い、待って、ともう一度繰り返した。
「しばらく会えないのは分かってます・・・でも・・・」
「・・・・・分かった」
「お、怒ったんですか・・・?」
「いや・・・。君に次会えるのは・・・いつだっただろうと思ってね。その間に君がこの先の事を決めてくれればいい。それまでお預けにしておくよ。だから今夜だけはここにいて。何もしないから。出来ればキスぐらいは許して欲しいけど」
蓮はキョーコの髪に指を埋めて後頭部を撫でる。驚かせてごめん、と言うと、キョーコは首を振った。そして、話は最後まで聞いてください、と付け加えた。
「敦賀さんが・・・すき。お仕事をしている時の蓮として見ているときもすき。私はどうしたらいいんでしょう?」
「ふ・・・そんな事で迷ってたの?どっちだっていいじゃないか。オレはオレだよ」
「そんな事ってヒドイですっ。真剣に考えているのに!!だって、だって・・・付き合うとかよく分からないです。割り切るっていうのはどういうものか分からなくて・・・。あのっだから、今夜はこのままここにいますね・・・?」
キョーコは真っ赤になって最後蓮の腰に腕を回して抱きついた。勘違いしすぎているキョーコに、蓮の気持ちを伝える術も、やはり、もう一つしか残っていなくて・・・。
「オレがどれだけ君を好きか見せてあげる。オレを受け入れて」
キョーコは蓮の手を取ると指先にちゅ、と何かの契約のように口付けた。返事の代わりだと思った。
蓮は一晩中キョーコに蓮の本音をぶつけた。キョーコはそれをベッド上の口説き文句か何かだとまた勘違いしているようだった。キョーコの本音はあまり口には出さなかったけれど、甘く高い声で呼び続けた蓮の名前に、蓮の脊髄はぞくりと反応して酔った。そして、割り切ろうと思うのに心底蓮を好きで苦しいのだと・・・見て取れて、それならそうと口に出して欲しくて、またきつく抱いた。
そうして一つ一つ誤解を解く間に夜は明けた。
重なる誤解を解く為の時間と、キョーコが蓮の身体を覚えるための時間は一夜では全然足りなかった。次に会えるのはいつだろうとまた考えて、何度も吸ったために随分と色づいた首元の赤い痕にもう一度口付けた。しあわせなけだるさの中、キョーコを腕に眠った。
目が覚めたとき、キョーコはまだ腕の中にいて、寝息をたてていた。いなくなっていなくてほっとしたのが半分。罪悪感が半分。疲れたのだろう。何もかも初めてのキョーコの事を十分に気を遣ってやれたかどうか分からない。自分の中の押し込めていた感情が雪崩れたのは確か。毎日のように会ってきたのに、もうしばらく会えないと思ったからかもしれない。もっと早くキョーコに本音を伝えておくべきだったと・・・・蓮は少しだけ後悔した。
「キョーコちゃん・・・起きて・・・?」
「・・・つるがさん・・・・?ひゃっ・・・」
触れた身体は、すこし熱があるように感じた。
「大丈夫・・・?ごめんね・・・」
上掛けで身体を隠したキョーコは真っ赤だった。
「あのっ・・・シャワー・・・貸してください・・・・」
「ん・・・・」
「敦賀さん、私・・・寝ている間に蹴ったりしませんでしたか?」
「くすくす・・・大丈夫だよ、そんな心配。君の身体の方がよほど心配。コンクールもうすぐだから・・・。体調も気遣ってあげられなかったら師として失格だよね・・・」
「あの・・・しあわせで・・・・こんな気持ち知らなかったから。知ってみるのも手だと敦賀さんは言いましたけど・・・・」
「それなら、良かったけど・・・。あぁ、この部屋の鍵とピアノの鍵渡しておくよ。いない間好きに使うといい」
サイドボードの上に置いてあったキーケースを、蓮は差し出したキョーコの手に渡した。
「・・・・・ありがとうございます・・・・。あのっ・・・流音ちゃんと一緒に帰ってくるの待ってます。弾いてあげないと・・・ピアノすぐに悪くなっちゃうからっ・・・勝手にココにおじゃましますけどっ・・・。それから・・・コンクールの前の日、電話してもいいですか・・・?」
妙に言い訳がましいキョーコは、鍵の意味をとても重いものと思っているようだ。
「くすくす・・・前の日じゃなくても・・・こっちから電話するよ。練習の成果電話越しに聞いてあげる。だからしっかり練習してね」
「はいっ、先生」
「ねぇ・・・「先生」はやめようよ・・・」
「ふふ・・・先生って呼ぼうかな・・・。先生な敦賀さんもすきです」
「帰ってくるまで身体に気をつけて待ってて。オレもすきだよ・・・。帰ってきたら・・・ずっとそばにいてね。全てを教えてあげるから」
「えぇぇ~~~っ」
蓮は柔らかくてあたたかい身体をそっと抱き寄せて、キョーコとしばらくの間お別れをした。
第一楽章 了
2006.05.07