Daydream13

13. The Secret Garden

「最上君、どうした?」

学長の一言に、キョーコは、はっとした。音がぶれて止めてしまった演奏の言い訳など出来ずに、ピアノの蓋を閉めてごめんなさい、と一言だけ言い、深々と頭を下げて謝った。

今日は毎月定例の奨学生の面談の日。面談と共に学長に一曲聴いてもらう事になっている。学長の鋭すぎるほど鋭い耳は、聴けばすぐに練習の成果など分かってしまう。口先など効かない。

尚が未だに奨学生でいられるのも、それなりに両立しながら練習をしているのだろう。敦賀蓮も、プロになるとはいえもちろんその一人。朝早くに面談をしただろう。尚が昨日帰ってきたのも、今日面談を受ける為。

「いや・・・演奏をやめたのを責めているんじゃない。まぁ、座りなさい」

「はい・・・」

「ピアノの音がおかしかったのは分かったが・・・その弾き方は君のじゃないだろう?先月聞いたときと全く音が違うな」

「・・・・・・」

「蓮の音・・・かな。・・・・・師事するんだってな」

「はい・・・・」

「まぁ・・・蓮の音をCDで聞いたりしたんだろうが・・・不破君の音だろうと蓮の音だろうと参考程度にしないと・・・君自身の個性が無くなる。蓮嫌いだった君がすぐに蓮の音を理解して弾く事ができるんだから、君の技術は買っているんだ。あとは・・・自分のカラーを出していかないと・・・技術でコンクール優勝は出来るだろうが、結局プロでも三流に甘んじるだろうね。それでもいいならいいが。オレは君に職業にしてもらいたいんだがね・・・。ウチを相当の成績で出て・・・世に埋もれるにはもったいないだろう」

最近敦賀蓮にも言われた「自分の音」。そんなに自分の音が無いのだろうか?自分の解釈は出しているはずなのに。やはり「弾こう」と思うと・・・どうしてもクセで他人の音になるのだろうか。

「すみません・・・・」

キョーコはただただ無意味に謝った。どうしたらいいのかが、分からなかった。

「ラブミー部から・・・早く出してやりたいんだ。君が・・・蓮を選んだと聞いたときからね」

「・・・・・?」

「不破君の音しか耳に入らなかった君が・・・いい傾向だと思うんでね。来年また一つ国際コンクールが開催されるからね・・・出てみるといい。その前に日本のコンクールに一つでも二つでも出た方がいいか」

「ほ、ホントですかっ???」

大学にいる間は出られないと思っていたコンクール。まさかそんな話が急にOKを貰えるとは思わず、キョーコは思わず身を乗り出していたらしい。まぁまぁ、と学長に手で戻るように指示された。

「今まで強制的にオレが止めてきたが。出たかっただろう?」

「・・・・・・・はい。すごく・・・・」

――早くに出られて・・・約束をもっと早く果たせていれば・・・・

「不破君がさっきピアノを見せに来てね。その後の面談で・・・君をさっさとコンクールに出せと・・・直談判してきた」

「え・・・・?」

「どういう意図があるのかはわからない。彼ももう一度ピアノをやると言っているよ。仕事の合間だろうがね・・・。歌手活動とともにピアノも将来的にプロとして転向すると・・・・。そのためにはもう少し実績を積もうと言う事らしいがね。まぁミーハーな客を呼びたくないと言うのもあるらしいが・・・・。オレとしては彼が歌手活動でCDを出そうと、ピアノでCDを出そうと、どちらでコンサートをしようと・・・正直な所どちらでもいい。将来的なことを考えたら確かにピアノもやっておいた方がいいかと思って了承した」

「そう、ですか・・・・」

尚は父親のプロの姿を見てやりたくないと言っていたはずだったけれど。なぜ急に。尚は週二回のペースで、出来うる限り先生のところに通うと言ったらしい。

「キョーコちゃん、今日不破君が来てね」

先生は、コーヒーサーバーの前に立っていたキョーコに、少し言いにくそうな声で先程の学長の話と同じ事を告げた。落としたてのコーヒーを先生に渡し、ソファの向かい合いに座った。

「えぇ・・・伺ってます。なぜ急に・・・。プロの仕事の方が行き詰っているんでしょうか?それとも新たな個性の開拓の企画でも持ち上がったのかしら・・・。アイツの事だから、どこまで本気なのか・・・分からないですけど」

「・・・・・・それがねえ、僕には彼の父親が賞を取ったコンクールを目指すと・・・言い出してねぇ」

「・・・・・え?」

開いた口が塞がらないというのはこの事だろう。

――まさか、「敦賀蓮」に対抗するため・・・・?

「不破君が・・・キョーコちゃんもコンクール出るように学長に進言したんだってね。僕としては早く出て欲しかったからそれは嬉しかったんだけどねぇ」

「近々コンクールの登録してもいいと、今日学長からOKを貰いました。ラブミー部から出してもらえるとは言ってはいませんでしたけど・・・・」

「おお!そうかい。それは良かったねぇ。どのコンクールにするか、どの曲目でいくか・・・僕も久々に腕がなるねぇ。僕がコンサートで地方に行ってしまって見られないときは敦賀君もいるしね」

「はい」

「だけど、敦賀君・・・これからしばらく仕事で忙しいみたいだよ。来週の東京公演は君がラブミー部のお仕事で一緒に見に行くだろうけど・・・そこからしばらくあちこち行ってるからねぇ。見てあげられるのは僕だけになるけど」

「と、とんでもないです。先生に見ていただけるだけで、私は全然っ」

「違うよ、寂しいだろう?って事だよ」

「・・・・・・・・・?」

「おや、敦賀君と君・・・付き合ってるらしいって専ら学校中の噂だよ?みんな僕にキョーコちゃんが、『キョーコちゃん』だったんですか?って聞くんだから。僕に黙ってるなんて水臭いよねぇ。だからあんなに仲が良かったんだね。仕事抜きにしてもねぇ・・・。ラブミー部出られるかもしれないというのも頷けるな、うん」

「・・・・・・・え?」

再び口が塞がらなくて、口をつけたミルクたっぷりのコーヒーを何とか喉の奥へ流し込んだ。先生は完全に信じているような表情で嬉しそうに笑っている。

「違うの?」

「ち、違いますっ。師事するだけって・・・・」

「そうなんだ・・・」

「なんでですっ?そんな先生が・・・がっかりしなくても」

「キョーコちゃんが不破君以外でピアノ弾きながら楽しそうにしているトコなんて昨日初めて目にしたから。僕嬉しくてね」

キョーコはそんなに楽しそうに弾いたつもりは無かった。蓮がキョーコの手許を見るようにしてずっと傍にいた。普段は一人で引き続けているから、話し相手が傍にいるのは嬉しかった。

そして弾いた事がないはずなのに、途中一曲弾き終わったあとに、一音だけミスタッチを指摘されて驚いた。蓮は音の並びが妙だったからと言った。その話で盛り上がっていたから・・・余計かもしれない。

「・・・付き合ってないですよ?」

「取り繕わなくていいんだよ。キョーコちゃんはキョーコちゃんらしくあれば・・・。君は今どんな形であれ、敦賀君を気に入っているんだろう?その気持ちを・・・不破君の事を思って否定しなくてもいいんだよ。それに素のままでいれば、いつか不破君だろうと敦賀君だろうと、他の誰かだろうと・・・君を理解して心から愛してくれる人がいるから。頑なに不破君と決めたり、敦賀君だけだとか・・・考えない方がいいと思うんだけどねぇ。しかも君の周りには君が思っているよりも君を好きな人はいるよ?」

「あの・・・・?」

「ふふ。心が頑なになると音も一方通行の頑なな音になるような気がしてね。不破君の音を追う君を・・・否定する訳では無いけれど心に素直に柔軟でいた方がね、君らしい音が出てくると思うんだよね。曲の解釈なんて十人十色だろうから・・・僕の音を覚えてくれつつ、不破君の音で弾く君を否定してこなかったんだけどね。でもキョーコちゃんが課題曲以外の曲を一人楽しそうに弾く時が僕は実は一番好きでね。こっそりここで聞いているのが好きだったよ。それが君の音だと思っているしね。・・・君がラブミー部を出られるかもしれない日が来たら、言うつもりだったんだけど」

――どうして・・・私が「自分の音」を分かってない事を、それがどういうものなのか分からなくて悩んでいる事を分かったのだろう・・・。

先生の目をじっと見ていたら、ふっと優しく笑って、悩んでいたんだろう?と付け足した。

「・・・・敦賀君がね、昨日の夜「君の音を聞いた」と僕に言ったよ。そして自分自身の音に気付いてない様子だと・・・ね。昨日の夜、あのあと敦賀君と君に何があったか・・・分からないけれど、敦賀君があんなに風に少し迷った様子で話す様を見た事が無くてね。普段凛としている分僕はその事の方が驚いたんだけど・・・。僕もキョーコちゃんの音に気付いてはいたけど・・・まさか君と会って数週間の敦賀君にそれを指摘されるとは思わなくてね。つい君にも変な話をしてしまったな。ごめんよ?」

「敦賀さん、今日ここにいらしてたんですか・・・?」

「うん。今後のスケジュール予定を持ってきて・・・それと来週のコンサートの音を聞いて欲しいとね。で、敦賀君の音が少しぶれた事もまた驚きだったんだけどねぇ・・・・」

先生も少し苦笑いでそう言った。

――あの敦賀さんの音がぶれた・・・?

コンサート用の曲など、身体が覚える程一体何度弾いているだろう。

――まさか、昨日の・・・・私のせいだろうか・・・・。

「そしてキョーコちゃんが学長の前で心から弾けなかったと言うのもさっき学長から聞いたけどね・・・。一体何があったんだい?僕が聞ける事なら聞くけど・・・。何か敦賀君に・・・・まさか嫌な事でもされたのかい?」

「いえ、何も・・・」

「不破君が急に弾きだすと言い・・・敦賀君とキョーコちゃんが何だかおかしい。関係は無いのかい?」

「えっと・・・・」

「あるといえばありそう、と言う事かな?」

「あの、敦賀さんは全然悪く無くて・・・昨日の夜、宿題だった曲をうまく弾けなくて。敦賀さんが今日音がぶれた原因は・・・分かりませんけど・・・・」

先生はただ単に自分の身を気遣ってくれているのだと分かるからウソはつきたくなかった。けれど蓮と自分の関係を、どこまでどうやって話していいのかまだ自分自身で答えが出ていなくて、キョーコは曖昧な返事ばかりを繰り返した。

******

――おなかすいた・・・・。

時計は二時を回っていた。先生の部屋の前で大きく伸びをして、そうだ、と思い立ち、学校の裏側にキョーコは向かった。

学校の裏側には、学長の庭がある。まるでヒミツの花園のような綺麗な造園。あちこちに学長がすきそうなモニュメントが置いてあって、特に一番奥は、まさにヒミツの花園。この学校の殆どの人間が知らない。大きな噴水の周りに綺麗に芝が植えてある。ベンチは無いものの、太い木の木陰が気持ち良い。普段はそこで奏江と待ち合わせをして、食事をしたり本を読んだり楽譜を見たりする。

その一番奥に入るには少しだけ分かりにくい木の茂みの間を抜けて・・・・。

「敦賀さん・・・・」

――なんでこの人がここで寝ているの・・・・?

木陰で木に寄りかかってすぅすぅ寝ている蓮の大きな身体があった。綺麗な噴水の水音と、暖かい風が気持ちいいのは分かる。無防備な人なのかしら?

帰ってきてすぐの蓮がこの場所を見つけるのが悔しい気がした。キョーコが入れたのは高校にはいってから二年後だった。

学長もお気に入りの場所。中々教えてはくれない。もしかしたら学長から聞いたのかもしれない。教えてもらえなければ・・・多分誰も気付かないだろう。

ここに分け入る事を普通はしないし、その前に既に広大で快適な芝生と沢山のベンチが学生の憩いの場として開放されている。

――というか・・・・・。

蓮の顔を見て、昨日の夜の事が思い出されて、即座に頬が熱くなるのを覚えた。蓮が起きないうちに帰ろうと思ったのに。蓮は目を覚ました。

「最上さん・・・?」

「・・・・・・あのっ・・・・起こしちゃってゴメンなさい・・・・」

「いや・・・・気付いたら寝てた・・・・」

蓮も眠れなかったのだろうか?

自分も眠れなかった。

学長は眠れずに音がぶれた事を今回だけは許されたけれど、続くようなら奨学生として情け無い。

「敦賀さんお昼は食べました?」

「いや・・・」

「サンドイッチ、作ってきたんです。一緒に食べませんか?」

きっと昨日の事を気にしているかもしれない。

普通に接しなければ、と思った。

「うん、ありがとう・・・」

「いえ。コーヒーはミルクたっぷりですけどね?」

「ふ・・・」

大きく伸びをした蓮の太ももの上に、伏せた「ラ・カンパネラ」の楽譜が滑り落ちた。

キョーコはそれを拾い上げて、蓮の解釈を追った。きっとこれも蓮が弾いたら優しくて透明な音が出てくるだろう。

「来週のコンサートの曲目ですか?この曲も弾くの大好きです」

「いや?次に君の「これ弾いてください」は・・・これかと思って。リストが続いたからね。弾けるなら今度聴かせて?」

「・・・え?そのためにわざわざ・・・?」

「オレの気分転換に「これ弾いてください」はいいよね。コンクールの時は課題曲の為に広く弾いてきたから、そんなにあれこれ弾くのは苦じゃない。将来的にコンサート用の練習にもなるしね。少しオレのプロとしてのバリエーションも増やしたいし・・・。一年に一回も開かない楽譜があるよりは・・・毎日色々見ている方が確かにオレのためにもいいと思う」

「ふふ、じゃあこれからも遠慮なくっ」

サンドイッチを食べ終えた蓮は、美味しかったよ、と言ってコーヒーを口にした後、なぜか真面目な顔でじっとキョーコの目を覗きこんだ。キョーコは、不意に真面目な顔で覗かれて、心が準備してなかったから・・・思わずどきりとして、目が泳いだ気がした。

「・・・・来週のコンサート用の曲、君に聴いて欲しいんだ。率直な意見が欲しい」

――今日音がぶれたから・・・?

「あのっ・・・敦賀さんっ・・・。さっき先生に・・・ちょっとだけ聞きました。音が・・・ぶれたって・・・。私の、せいですか・・・・?昨日・・・また泣いちゃったから・・・」

「・・・よく眠れなかったのは確か、だよ」

蓮の静かに目を伏せる様子を見て、キョーコも戸惑う。

「どうしてです・・・?」

――どうして、敦賀さんが眠れなくなるのだろう。追い詰めたのは私と割り切りたかったと思ったのだけれど。まさかもう、「キョーコちゃん」だと気付いているの・・・?

「そんなによく泣く子と付き合った事ないからね・・・。どうしようかって」

「む・・・・」

「ふ・・・冗談だよ。君とキスしたからだろ?多分。抱きたいなとも思ったし」

「・・・・・っ・・・・」

「くすくす・・・・真っ赤。ピアノ以外も教えて欲しくなったらまあ色々と・・・手取り足取り?」

「敦賀さんっ・・・・!!!」

蓮はきっと自分に気を遣ってわざと明るくしてくれているのだろうとは思うけれど。

でもそんな事口にしなくても・・・。

「おや・・・・・」

蓮が急にすっと首元に手をのばし、顔を近づけた。反射的に首をすくめた。

「違う、キスじゃない。」

「・・・・・・???」

「期待させた?」

そっと目を開けると、蓮はにっと笑った。キョーコの赤くなった頬をよそに、蓮はキョーコの首の左側をすっと人差し指で撫でた。

「ひゃっ・・・」

「コレ。君・・・ヴァイオリン弾くの?ヴィオラ?」

蓮はキョーコの首もとの痕を指して言っているようだった。ヴァイオリンの肩当でついた痕。まるであざの様な赤い斑点をしている。

「あ・・・・。ヴァイオリンです。今はたまにしか弾かないですけど・・・」

「そう・・・」

「アイツの母親はヴァイオリニストですから・・・。彼はピアニストに、私はヴァイオリニストにと・・・彼の両親は思っていたようです。結婚したら・・・同じような家庭にって・・・。だけど私はピアノの方が好きだったから・・・」

「ピアノ?彼だろ?」

「もう!!両方ですっ。敦賀さんなんて大嫌いですっ」

すりすり、ともう一度キョーコの斑点を撫でた蓮は、「妬けるね」と一言だけ口にした。

そしてまたキョーコの目から何かを引き出そうとしているのかどうか・・・ただじっと目を覗きこむ。

――この目を見ると・・・ダメ・・・・。

何も考えられなくなる。

蓮の手の中に落ちるような気がする。

「あの・・・・?」

「・・・・・・いや。ヴァイオリン・・・今度聴かせて。オレは弾かないから・・・」

「あ、はい・・・」

――本当は何が言いたかったの・・・・?

そんな事を言いたいような目ではなかった。「いや」と言って心を隠した。何を思っているのか、何を考えているのか・・・。

――私に優しい敦賀さん。今日ピアノを弾けなかった敦賀さん。こんな所で一人でいる敦賀さん。私に軽口を叩く敦賀さん。

キョーコは蓮の心の内を、同じように少し覗いて見たい気に駆られた。

「敦賀さん。敦賀さんも・・・あのっ・・・私がこんなことを言うのはおかしいんですけど・・・・。敦賀さん、何か悩んでいるなら・・・私でも良ければ聞きますよ?今日・・・ピアノ弾けなかったのは・・・何かあったんですか?私のせいなら・・・謝ります・・・」

「君が解決してくれるの?」

くすくす・・・と笑って、近づいた彼に、キョーコの斑点を軽く吸われた。

「今は昼間だからココにしとくよ・・・くすくす・・・」

「なっ・・・・」

「君をオレのものにしたい。・・・全てね」

「どうして・・・だって、探してる「キョーコちゃん」が・・・」

「そうだね。でも別に君に関係ないだろ?」

――心が、痛い・・・・・・・・・。

「オレは君を気に入ってるんだから。君がオレと深く関係を持ちたいと思わない限り手は出さないけど・・・。ライトキスぐらいは許して欲しいよね」

「・・・・ここは日本なんですけど・・・・」

「そうだね、くすくす・・・。でもその一箇所だけ赤いのって・・・すごくオレを誘う」

「・・・・・・・!!」

「そんな無防備でからかうと面白くて可愛いのに・・・よく今まで他の男のものにならなかったよね・・・。この学校で君を狙っているヤツなんて腐るほどいるんだろ?」

「な・・・。いませんよっ・・・。どうしたんです?」

「いいよねぇ・・・気付かないぐらい一途に思える相手がいるって・・・。他の男なんて目に入らなかっただろ?」

「もう、忘れましたっ!!!」

「オレのせい?」

「そーですっ」

そう言うと、蓮はまたふっと笑って、ゴメンね、と言った。そんな反応をされるとは思っていなかった。冗談でも返されると思っていたのに。

「君・・・ホントに、騙されやすい。今オレが・・・悪いと思ったと思っているだろ?」

「・・・・・思ってるでしょう?敦賀さん、優しいから。そうやって冗談を言って私を元気付けてくれてるって・・・・」

――コーン、だもの・・・・。

「いいんですよ?敦賀さん、本音で話してくれて。せっかく私の隠していた全てを知ってくれたから。何でも話せる間柄になりたいです。敦賀さんが・・・今何か悩んでいるなら聞きたいです。聞いてくれるだけでも、泣くだけでも・・・傍にいてくれるだけでも・・・楽になるって敦賀さんが教えてくれたんですから・・・。私が泣いた時いつも優しい敦賀さんが・・・ホントの敦賀さんだって分かってます。そうやって冗談を言って私と距離をとらなくても、いいんですよ?」

「・・・心の距離をとらなかったら・・・・オレは気に入ってる君に手を出すよ?」

「・・・・・分かってます」

「いいの?でもそれは君が望むことじゃないだろう?」

「・・・・・・・先生に・・・・素でいろと・・・・。アイツがいるから敦賀さんを好きでいてはダメとか・・・思ってはいけないと・・・・。心の思うままにいろと・・・」

「・・・・・?オレを、好きなの?」

「・・・・・・わかりません。本音を言うと・・・・好きか嫌いかと言われたら好き。そして・・・そーいう事になって・・・いいか、いやかと言われたら・・・いやじゃない。昨日キスをしたとき・・・いやじゃなかったんです。でも、すごく・・・苦しかった。だって・・・どうせいつかお別れがくる、だから本当に好きになっちゃいけないって・・・思うとすごく苦しくて・・・だから人として好きって・・・思うようにする事にしました。だから・・・」

「ふふ・・・。不破を忘れられず、オレも好きなのが・・・苦しい?それともまるで不倫をするような背徳感がするのかな?オレに悪いと思ってる・・・?」

「・・・・・・・」

「オレを利用すればいいと、言っただろ?そう思うならオレに手を出せばいい。比べればいい。男を知らずに迷っているより知った方がいいと思うけど?」

「敦賀さんは・・・割り切れるからいいですよ?私は、無理ですっ・・・。今、一生懸命ダメって思っているのにっ・・・優しくされたら、本当に本気になりますっ・・・・。昨日キスしたときに、自分を止められなくなると・・・自分で自分が怖かった。・・・っ・・・・・・もう、敦賀さんなんて、嫌いですっ・・・・。優しいけど・・・いつも私を追い詰める・・・・。私が割り切れないって・・・分かっているでしょう?恋愛でもう泣くのはいや。それならやっぱり、最初から諦めていた方がいいんです」

キョーコの声が涙声になりうつむく。蓮は、いつものように抱えて、ゴメン、と言い、どうして諦めるの?と・・・頭上から声がした。

「もう、イヤなんです。泣くのは」

「誰もがイヤだよ?」

「敦賀さんは、私の為に泣かないから。私だけが泣く私だけが好きな恋愛はもう、イヤです。今度恋愛するなら・・・お互いが泣くぐらい好きな恋愛がしたい」

「不破が・・・泣いていないと思う?」

「え・・・・?」

「オレに取られたと・・・・思ったんだろうな・・・」

「・・・・・?」

「いや、こっちの話。だけど・・・どうして決め付ける?そういうのを先生は変えたほうがいいと言ったんだろ?心のままに・・・って・・・」

「そうですね・・・。敦賀さんをアイツと同じぐらい好きになってしまうのが・・・怖いだけです・・・」

「ふ・・・。ようやく出たね、本音。君こそ本音で話さないじゃないか」

「敦賀さんは?」

「言ってもいいけどまだ昼間だよね・・・。オレの部屋で言いたいよね。そんな事?」

「・・・・・?」

「ふふ・・・本音ね。不破との約束・・・なんて破ってしまえばいいのにっていうのは、本音だね。約束破ってしまえば楽になれるよ?・・・・回りくどい?まぁ、さっきの君の言葉を借りれば・・・好きか嫌いかと言えば好きだよ?それで・・・そう言う事になりたいかといえば、なりたい。割り切っているかといえば・・・そうでもないらしい。だから君とキスしたとき、オレも苦しかったよ。そして別れる時は君の為に心では泣くだろうね。つまりはね、好きだよ。・・・・これでいい?」

「敦賀さんが本気でも割り切っていても、いいんです。なぜ私を好きなのか、単に興味だけでも構わないんです。だけど一つだけ・・・「約束」してください。いつか私のほかに「気に入った」子ができたり・・・本気で好きな子が出来たときは、今までの子のようにしてください。昨日私と交わした約束があるからとか、師事しているから・・・なんて、関係なく。これが私の最初で最後の敦賀さん自身との「約束」・・・。私は割り切れないから。その間本気で敦賀さんを好きでいると思います・・・」

返事の変わりに強くなった腕、そして降りて来た唇は何度も何度も角度を変えてはキョーコを確かめた。昨日の心の苦しさとは違って・・・息が出来なくて苦しかった。でもその唇が表情がとても優しくて、信じられないぐらい幸せだった。キスだけで、こんなに苦しくなったり・・・幸せになったり・・・。きっと蓮に恋愛では全く勝てない気がする。

「可愛い・・・。キスも・・・何もかもオレが教える・・・」

そう言ってもう一度キョーコの首もとの痣を強く吸った蓮は、ぺろり、と最後にソコを舐めた。キョーコはくすぐったくて恥ずかしくて、また首をすくめて、蓮の身体に額をつけた。

「他の男に教えられるのなんてイヤだ・・・・」

ポツリと呟いたそれは、敦賀さんの軽口ではなく、まるで本音のように思えた。蓮がどうして自分を好きになったのかキョーコには分からない。

割り切ってばかりのひどく冷たい最低な男だと思った。最初は蓮の音に惹かれたはずだった。けれど優しくずっと傍にいてくれる事がすごく心地よくて、電車の中で抱きかかえられて、どきどきして・・・。泣いた時に黙って抱えてくれるだけで嬉しかった。「大丈夫だよ」と耳元で繰り返す蓮の穏やかな声に、信じられないぐらい安心した。まさか眠ってしまうとは思わなかった。こんなに深く心からのやさしさを受けたからかもしれない。言葉に騙されているとしても・・・それでも、もう良かった。

ピアノのためになるのだという先生の言葉を信じて、しばらくは蓮とかコーンだとかは関係なく、敦賀蓮、という一人の人間の傍にいたいと思う、今のキョーコの心のままにいてみようと思った。

――ミイラ取りがミイラになったみたい・・・。

キョーコとキョーコちゃんとの間で迷う敦賀さんを見ていようと思ったはずなのに。

――結局迷ったのは私。好きになってしまったのは、私・・・・。

心の寂しさと、ピアノを弾く楽しさと、恋の隙間と・・・全てを優しく埋めてくれる蓮の深淵に・・・キョーコは、落ちた。



2006.04.15